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Viva La Vida/美しき生命



I

 シュテルンビルトは人口二千万を超える大都市だ。もちろん、そんな恒真式を冒頭で持ち出したところで、それが言い訳になるとは思っていない。陽は東から昇る。だからと言って、北を向いて寝ている人間が寝坊していい理由にはならないだろう。それと同じように、いくらシュテルンビルトに人が溢れているからと言って、街中で見知った顔を見ても声をかけなかった理由にはならない。当然、声をかける義務があるわけでもないけれど。

 バーナビーがこのシュテルンビルトにヒーローとして戻ったのは、真冬のクリスマスだった。それから既に三ヶ月、日に日に寒さが陽光に溶かされている。じきに春がやって来るだろう。首を両肩の間に埋め、寒さから足早に逃れていた人々も、次第に冬の緊張から解放されつつある。夕暮れ時のゴールドステージにもそんなゆるやかな流れが形成されていた。シルバーやブロンズは今頃帰宅ラッシュだろうが、ゴールドはむしろそこへ人々を送り出すステージである。

 二部ヒーローとしてワイルドタイガーが復活したのに対して、バーナビーは一部と二部をまたぐリーグフリーヒーローとして活動していた。コンビへとして活躍できる場と、自分の能力を充分に発揮できる場とが重なる地点に立つことで、バーナビーの毎日は多忙を極める。しかし、充実してもいた。重責から解放された反動による不安定で急激な浮上ではなくて、着実に組み上げられた足場の上で感じている充実だった。それはきっと、バーナビーの内に自信という名の柱を築くための足場だ。日々は慌ただしく、しかしひとつひとつ鮮明な色を輝かせて過ぎ去っていく。簡単に言えば、バーナビーは毎日を楽しんでいた。

 しかしその日ゴールドステージの人波に揺られるバーナビーは、まるで時間の隙間に迷い込んでしまったかのようだった。そびえ立つジャスティスタワーに真っ二つにされた夕陽が西の空で身を崩しており、それを遠巻きに眺める薄雲がオレンジ色の影を背負っていた。昼間、建物の影に追いやられていた冷たい風が、徐々に夜へ向け流れ始めている。バーナビーに気づいて控えめな視線を送る人もいるが、バーナビーがそれを受け取らなければそこで終わりだ。声をかけられたら微笑んで、握手をして、サインでもすればいい。やはりそこで話は終わる。感傷的な意味ではなく、単純な事実としてその日のバーナビーは一人だった。

 その時、不意に目に付いたのは甘い色をした金髪だ。足を止め、ハッと息を詰めた。十数メートル先にいる相手はそんなバーナビーに気づく様子も無い。横顔に優しい笑みを浮かべ、ゆっくりと歩いている。その手には暖色の花束が丁寧に抱えられていた。世の中には大別して花束の似合う男とそうでない男が居る、そう言ったのはネイサンだったか。しかし今視界に居る相手はそのどちらとも違って見えた。花束が自らその腕に収まっているかのようなさりげなさがある。

 バーナビーには時々、彼が輝いて見える。
 もしこれを虎徹あたりに打ち明けたら、愉快げに冗談として片づけられてしまうのだろう。だから口にしたことはない。けれど随分前から思っていることだった。彼は、自分や他人の裏を疑おうとしない。素直に感情を受け取り、ただ黙々と感じたままを相手に返そうとする。そしてその最後に、相手を目前にしていることにも臆さず、深々と感謝して見せるのだ。それは人間の最も根本的な善のようにバーナビーには思える。疑うことから始まった自分の人生とは真逆だ。だからきっと眩しいと感じているし、彼自身も光に最も近づいた時のように眩しげな顔で微笑むのだろう。

 一年前のバーナビーなら、気軽に声をかけることもできた。あいさつを交わし、二三世間話をして、これからどこへ向かうのか尋ねることができた。

 現在のバーナビーでも、彼に声をかける選択が取れないわけではなかった。話す内容はかなり変わってくるが、それでも彼はバーナビーの裏を疑わず、正面から返事をするに違いない。まるでバーナビーに間違いなど存在しなかったかのように。

 春の夕陽の色をしたシュテルンビルトで、バーナビーはキース・グッドマンを見かけた。暖色の花束を抱え、柔らかい表情とゆるやかな足取りで、さながら春を振り撒きながら歩き去っていく。けれどバーナビーは彼に声をかけなかった。ただどうしようもなくその場で立ち尽くしている。バーナビーがこの街から離れる時も、そして戻る時も、敢えてその手から取りこぼした「ひとつ」は、未だに足下に転がっていた。

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