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人生の香辛料・人生の甘味料



人生の香辛料

 バーナビーは実のところ、彼についての大半を予測できていた。

 窓一面に広がるのは、美景を金で買うといういかにも世俗の垢にまみれた例えでいくらでも形容できそうなシュテルンビルトの夜景だ。街明かりがあまりに強いせいで、宵闇のテーブルには常に淡い紫のクロスがかけられており、星などほとんど見えない。きっとそれは空を自由に飛べる誰かにしたって変わらないことだ。どうだろう、彼の目になら綺麗な星空が見えているかもしれないけれど。

 ともかく、壁の一面がガラス窓という構造上、明かりを消すだけでバーナビーの部屋はシュテルンビルトの夜景を映し出す劇場に早変わりだ。ほのかな街明かりを頼りに気に入りのワインを取り出し、グラスを小さなテーブルに一つ、二つ並べた。既に夜景の縮図で満たされているグラスを見下ろし小さく微笑む。まだ栓は開けない。時計を確認すれば、日付が変わる30分前。リクライニングチェアに腰掛け背をその斜面に預ける。そろそろだな。

 人の行動予測は昔から得意だ。必要に迫られて自然に身についてしまったと言うほうが正確か。事物や人物から欠けた情報を補うのは、いつも仮定と推測による試行だ。その対象の情報を得ていれば得ているほどそれはより容易に、より確実になる。彼はその中でも殊更に行動予測の容易い部類に属していた。さながら一定のルーティンを堅持する機械だ――いや、「だった」と表現しよう。希望的観測を含んで。

 彼は夜間パトロールを毎晩の己の責務としている。ヒーローという職務の性質上、その開始時刻には当然ばらつきが生ずるが、三時間というスパンはおおよそ変動することはない。夜間にまで長引く大事件も番組収録も無い今日は、恐らく21時にはポセイドンライン社を出発し、きっかり三時間各層をくまなく見回ることだろう。その行動にはポイント勘定は関与せず、市民の安全を守ること以外の目的は介在していない。けれど今日はそこにひとつだけ、小さくてひどくくだらない目的が付け足されているはずだ。バーナビーの行動予測に狂いが無ければ、の話だが。

 淡い紫のレースに覆われた夜のテーブルと、煌びやかな夜景を載せた銀盆の二千万人都市とが、不意に白線で切り分けられる。咄嗟に身を起こした。立ち上がり、窓に歩み寄る。白い線を目で追えば、空中を軽やかに翻る銀の匙――スカイハイに行き着く。夜の空気をかき混ぜてバーナビーの部屋までぐんと近づいてきた。速度が少し落ちる。片手を挙げると、切れの良い敬礼が返された。

 彼がバーナビーの目線で滞空していたのはほんの一瞬だ。急速に高度を落とし瞬く間に夜景のスクリーンからフェードアウトしてしまった。きっと残りの時間は治安の悪いブロンズの再確認に費やされるのだろう。挙げた手を堪えられない笑みで見つめる。浮き立つ心を抱えているが、それをまるで子供だと批判する冷静な自分に気恥ずかしい思いを抱えてもいる、我ながらおかしな笑みだ。ゆっくりと椅子に戻り、空のグラスをひとつ手に取る。残ったグラスにそれを合わせた。チン、涼やかな音が響く。

「乾杯、なんて」

 以前の数回は完全な偶然だった。壁の一面のまるごとに皓々と光を湛えている部屋は、夜の海の中では北極星よりも目立っていたに違いない。バーナビーが彼に気づいた時、彼もバーナビーに気づいていた。元々彼は目が良い上にスーツの補助もある。バーナビーが片手を挙げると、数百メートルは挟んでいるはずの彼も敬礼を返してくれた。だが飽くまでそれは無作為に起きたタイミングの一致であって、バーナビーにとっても彼にとっても愉快な偶然が一瞬で消費されたに過ぎない。

『実は……結構楽しみにしてるんですよ。貴方のパトロールと出くわすこと』

 しかしそう言えば、偶然がほぼ100%の確率で必然に変わることをバーナビーは知っていた。彼はまず、バーナビーの言葉を正確に吟味するために目を瞬き、その意味の示す好意に笑みを浮かべ、全身で喜びを表現した。バーナビーの言葉に義理や打算で返事をするという選択はこの人には存在しない。つまり彼はバーナビーの言葉に嘘偽りなく喜び、それを必然にすることを厭わなかった。

 ワインに手を伸ばそうとして、やめた。もう既に軽い酔いでも抱えているような気分だ。妙な満足感を少しも逃がさぬよう目を閉じ、まだ子供のようなことを考えている自分に小さく苦笑する。このまま眠りに落ちてしまうのも悪くない。バーナビーの高揚に静寂のブランケットが被せられる。自分の呼吸の音だけを聞きながらゆるゆると眠りに意識を明け渡そうとしたところで――インターフォンが心臓を無遠慮に突いた。

 顔をしかめて立ち上がる。確認した時計では日付はとうに変わっていた。せっかく良い気分を抱えていたのに横槍を投げ入れられた気分だ。虎徹ならエントランスのパスを知っているので直接ドアまでやって来る。会社やOBCの連絡ならPDAが鳴る。その他に考えられるとすれば人違い、もしくは性質の悪い大衆紙の記者か――後者なら顔を覚えておくべきだろう。後日事業部を通して抗議をしなければ。しかし、映し出された画面を睨み付けた瞬間にその眼力を維持できなくなってしまった。

「……スカイハイさん?」

 そわそわと視線をさまよわせていた彼は、バーナビーの怪訝げな声を聞くなり画面に飛びついた。スピーカーからは彼らしくない、歯切れの悪い謝罪が流れてくる。夜間の突然の訪問を詫びるばかりで、肝心の用件に触れる様子が無い。それをただただ怪訝のままに見つめる。彼の起床が早朝である話は何度か耳にした。司法局の規定する睡眠時間から逆算すれば、彼は直接帰宅する以外の行動を取らないはずだ。

『入れては……もらえないだろうか?もちろん、君がよければ、だが。もちろん』

 反射で開錠のスイッチを押してしまった。画面がパッと立ち消えてしまう。これはとんだ失策だ。彼がエレベーターでこの階に到達する前に、これまでの行動予測に修正と調整を加えなければならない。口元に指を当てゆっくりと玄関まで歩を進める。

 一歩、彼がパトロールの最中に僕の部屋の前を通過する、ここまでは予測の通りだ。
 二歩、その後何らかの差し迫った事情が発生し助けを求めに来ている?
 だが、その場合彼がまず取るべき行動はこれじゃないはず。
 三歩、逆に僕に不測の事態が迫っている?しかもそれはエントランスでは話せない内容だ。
 いや、僕たちにはPDAも携帯もある。緊急かつ内密な連絡ならこちらを使うはず。
 四歩、しかも彼は緊急性を訴えず僕に入る許可を求めた。
 五歩、ならば彼個人が僕に話したいことがある、と考えるのが妥当だろうか。
 六歩、更にそれには僕と直接に顔を合わせる必要がある。こんな夜中に。

 七歩目は空白、八歩目でとある可能性に行き当たり、九歩目でそれを否定しようとして確たる論を築けず、十歩目でドアに辿り着いてしまった。仮定と推測において厄介な敵は、感情がもたらす願望と期待だ。しかも困ったことに今日のバーナビーはそれを否定する気が全く起きない。

 間を置かずにドアベルが鳴る。バーナビーはわざとらしく表情を引き締めた。ほんの数センチ、互いの表情がかろうじて確認できる程度でドアを開ける。

「こんばんは、そしてこんばんは。バーナビー君」

 笑みはいつもの快晴ではなく眉尻を下げた弱いものだ。さらに依然として突然の訪問に謝罪の言葉を厭わない。きっと黙ったきりのバーナビーを見て、これを歓迎されていない訪問であると判断したために違いない。

「日を改めても構わないんだ……本当に、何と言えばいいだろうか……私も自分の行動に驚いていて……ううん……」

 なるほどこれは、彼にとってもイレギュラーな事態らしい。一度思い当たった仮定がますます補強されていく。言葉に詰まった彼に「ご用件は」と促してみた。一見するとそっけないその態度は彼をすっかり焦らせているようだ。しばらく唸っていた彼は今日に限って重そうな口をやっと開く。

「うん……急で長い坂道があったとしよう」
「……は?」
「その道のりは実に困難になる。そうだろう?しかしその先にひとつ、そしてひとつ目指すものがあれば苦しい道も全て美しい汗に変わってしまう。うん、素晴らしい!実に素晴らしい!」
「……つまり?」

 眉根が寄ったのは、彼の言動を不快に思ったわけでも不可解に思ったわけでもない。笑みをこらえるのに苦心しているからだ。本当に面白い人だな、この人。

「つまり……その坂の上に居るのが君だ」

 それから思っているよりずっとルーティンになんて縛られていない人だ。できるだけ早く古い予測を修正してしまなわければならない。

 そうでなければバーナビーはきっと、愉快のあまりに死んでしまう。

「突然の訪問の理由には……やはり、ならないだろうか、やはり。すまない、そして……」
「ひとつ間違ってます」
「えっ」
「間違っているって言ってるんですよ。僕は坂道の上には居ません」
「……つまり?」

 ブルーの瞳が吟味のために瞼に覆われるのを、今日は待たない。 ドアを少し広げた。風の魔術師として名を馳せるはずの彼のあまりに愚鈍な反応を、他人事ながら心配しつつ思い切りその腕を引く。バランスを崩し部屋に足を踏み込んだ彼を腕の中に収め、ジャケット越しにその背の筋に触れた。すっかり硬直してしまっているのでついには噴き出してしまい、謝罪と弁解のつもりで何度か軽く背を叩いた。両腕を掴んで距離を取って向き合えば、薄暗い部屋の中で今やっと彼の瞳は瞬いている。

 少し考えた。けれど躊躇わぬことにして、額と鼻の頭に一度ずつキスをする。

「僕は坂の下で、貴方が落ちてくるのを待っているので」

 何か言おうとしたかもしれない。彼の表情は動きかけているように見えた。けれどその確認の未練を切り捨て、閉じてしまったドアを再び開き、彼を押し出して即座に閉じる。カチャリ、オートロックが何食わぬ顔で己の責務を全うする。その勤勉さにおいては、彼の昨日までの夜間パトロールに等しい。

 ドアベルは鳴らない。きっと彼は混乱の最中にいる。しかし最終的にバーナビーが彼を押し出してしまったことを尊重するだろう。バーナビーの言動に理解が追いつくのはいつ頃だろうか。その後は何を思うだろう、さすがにそこまでは予測できないな。

 堪えられず喉が震える。足取りも軽い。滑るようにテーブルの傍に戻り、ワインの栓を抜く。ぽん、小さな歓声がボトルの細い口から漏れた。グラスの中の夜景が機嫌良くワインに浸かる。チン、二度目の乾杯だ。

 バーナビーは実のところ、彼についての大半を予測できていた。
 けれどそれは全てではないから、明日が手の内に落ちてくることが愉快で愉快で仕方ない。

(2013-02-03)

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