「起きたか!」
脳波を感知するとかどうとか、以前斎藤の説明を受けた記憶がある。ともかく飛び起きるバーナビーに衝撃を与えることなく、カプセルはその口を開いていた。目覚めたばかりの視界に虎徹の顔だけが飛び込んできて、夢と現実の狭間で当惑する。そうだ、あれは夢だ。現実ではない。努めて深呼吸を繰り返す。
「もう起きないかと思ったぜ……!」
虎徹の話によれば、カプセルに入って半日は経過しているとのことだった。その間に一度出動要請もあったが、バーナビーはぴくりとも動かなかったという。わずかに痛む頭に手を添える。喉がひりひりと渇いていた。
「出動の時はさすがに出動したけど……当然ノーカンだよな!何しろお前もスカイハイも居ないんじゃ……」
「スカイハイさんは……」
何かに追い立てるように言葉を連ねていた虎徹がぴたりと言葉を止める。しばしの沈黙を挟み何の連絡も無いことを早口で告げられた。進展が無いことを報告しづらく思ったのだろう。現にバーナビーは落胆を隠すことができないでいる。
「どうだったんだ?夢……」
「分かりません、僕は……何もできなかった。その上……」
自分の両手を呆然と見下ろした。その鈍い衝撃も重みも温度も鮮明に思い描くことができる。今までも何度となく苛立ってきたが、あの夢のリアリティを改めて忌々しく思った。
「とりあえず病院行ってみるか。何か状況が変わってるかもしんないし」
バーナビーの肩を労わるように叩く虎徹の表情をじっと見つめる。そこにはひとかけらの敵意も存在せず、いつもの親しげな笑みが浮かんでいるだけだ。
「虎徹さん、」
「っん?」
「……いえ、なんでもないんです。急ぎましょう」
これが現実であることに心から安堵する。今日までに見た夢はどの夢も全て等しく悪夢だ。夢が美しいものに使われる言葉なら、この現実こそが夢だ。なのにどうして、あの人は目覚めないままなのか。
しかし面会時間をとうに過ぎ去った病院で、なんとかキースの容態に変化が無いということだけを聞き出した時、バーナビーは安心してもいた。夢のバーナビーの行動が現実のキースに影響する可能性を恐れていたのだ。
「『各自連絡を待つことにしましょう』……一体誰の言葉だったかしら」
背にかかった声に驚きはしなかった。けれど続くであろう批難が易々と想像できたために、バーナビーも虎徹もついのろのろとした動きになった。果たして振り返った先には眉根を寄せたアニエスが立っている。
「貴方たちを呼んだ覚えはないわよ」
「……でも貴女にはポセイドンラインから何らかの連絡があった。そうですね」
アニエスの柳眉がぴくりと跳ね上がった。うげ、虎徹の小さな呟きを隠し果せるには病院の廊下はあまりに静か過ぎる。特にキースの居るこのフロアは。
「ファイヤーエンブレムといい何をどこから嗅ぎつけてくるのよアンタたちは……」
うんざりと言いたげに髪をかき上げたアニエスは、これみよがしに深いため息を吐き出した。それから億劫そうに言葉をこちらに投げて寄越す。
「私が今日ここに呼ばれたのは『これから』について話すためよ」
「これから……?」
「彼の状態に変化は無いわよ。でも、この状況が長く続けばどうなるかしら」
「どうなるって……そりゃ、良くないよな」
「何が?」
「何がって……長い間寝たきりじゃ体弱っちまうし……」
「言いにくいのは分かりますが遠回りしないでください。ポセイドンラインは彼との契約を解消し新しいヒーローを立てることも視野に入れている。そんなところですか」
HERO TVに出演するヒーローたちの使命は市民の生命と安全を守ることだ。しかし職務はそれだけには留まらない。多大な開発費や維持費を賄いそれ以上の利益を弾き出す、所属企業とスポンサーの広告塔でなければならない。荒っぽく言ってしまえば、今のスカイハイの状況はポセイドンラインとそのスポンサーにとって損失を生み出す存在でしかないのだ。
「ポセイドンラインの総意ではないわ……今はほとんどがその提案に反対しているそうよ。けど、あと一週間も回復の見込みが無ければそれも覆るでしょうね」
「そんなことってあるかよ!スカイハイは俺たちと一緒に全力でこの街を守ってきたヒーロだぞ!」
「分かってるわ」
「何が分かってるだ!お前らは視聴率が取れればそれでいいかもしれねえけど、」
「分かってるって言ってるでしょ!」
人の居ない廊下にアニエスの怒声が反響する。バーナビーも虎徹も大人しく口を閉ざした。虎徹などは姿勢まで正している。そんな虎徹をアニエスは鋭い視線で串刺しにした。
「私が。そんなこと。させないわ。絶対に」
様々な事件は、ランキングとポイントを競うライバルでしかなかったヒーローたちを結束させた。そしてその絆の中には当然、その司令塔たるアニエスも含まれている。アニエス、と虎徹が小さく笑みを漏らした。
「彼にはまだまだ働いてもらわないといけないの。ここ数回の視聴率のひどさったらないんだから」
今日は貴方のせいでもあるのよ、びしりと指を突きつけられてつい両手を挙げる。フン、ひとつ鼻を鳴らしてアニエスが目の前を横断して行った。香水の匂いとヒールが床を蹴る音が次第に遠くなっていく。
「ったく……アイツも素直じゃないねぇ」
「状況は動いていないどころか……更に悪化しているようだ」
呆れた笑みでアニエスを見送っていた虎徹は、バーナビーの言葉に表情を引き締めた。ううん、ひとつ唸って足を踏み出す。何の動きも無い以上、このフロアに留まり続けることはできない。エレベーターホールへ向けてゆっくりと歩き出す。
「夢とはやっぱり関係無かったのか?」
「分かりません……もう一度眠ってみればいいんでしょうか……」
あれはバーナビーの夢なのだから、バーナビーが決心した以上何かできることがあるはずだと思っていた。けれど結末はやはり同じだ。両手に目を遣ればあの感触が難なく再現される。眠ればまたあんなことを繰り返すのだろうか。そう考えれば考えるほど眠りは益々遠ざかっていく。
一階へと到着し、全体的に照明の絞られた薄暗い廊下を抜ける。中央ロビーも受付時間外ともなれば人影は無く、昼間の賑やかさが嘘のようだ。その静寂に呑まれ、バーナビーも虎徹もあまり建設的な意見を重ねることはできなかった。
「バーナビーさん!」
実際にはあまり大きな声ではなかっただろう。しかしひっそりと静まり返ったロビーに対しては充分過ぎる声量だった。息を切らして駆け寄って来たのはレナと呼ばれた看護師だ。キースの居るフロアにバーナビーたちが居ることを偶然耳にしたらしい。
「良かった、お会いできて!アイシャが目を覚ましたんです!」
バーナビーは虎徹と顔を見合わせた。ほぼ同じタイミングで身を乗り出す。
「持ち直したんだな!」
「ええ」
「会えます?」
「少しだけなら……あの子、目覚めてからずっと貴方の名前を呼んでいるみたいで……」
一も二も無く駆けつけた病室では、様々な計器や医者、看護師たちの中心点にアイシャが横たわっている。部外者が当然歓迎されるわけもない状況だが、タイガー&バーナビーの知名度で押し勝つことができた。何よりアイシャはバーナビーの名を呼んでいる。
「アイシャ?僕だ。バーナビーだ」
覗き込むアイシャの顔色は、以前目にした時よりも白い。だがそれでも確かに目を開きバーナビーを捉えている。彼女がわずかに身じろぐと呼吸器のマスクが白く濁った。しかし声を出すところまでは力が及ばないらしく、苦しそうな咳を吐き出している。これはいけない、まだ何か言おうとしているアイシャを止めようとして手を取ったところで、その瞳がいつものブラウンと違う色を宿していることに気が付いた。
――バーナビー、本当にきてくれたの?
あまりに鮮明に聞こえた声に、文字通り耳を疑う。彼女は話そうとして咳き込むという悪循環を繰り返しており、意味の取れる言葉を発していないことは間違いないはずだった。
――よかった、あなたにもお礼を言うのをわすれていたから。
「わーもういいから!無理しちゃダメだって!どうする?こりゃ話を聞くどころじゃないぜ。何を言ってるかも分かんねーし……」
虎徹は慌てふためいて両手を上下させ、バーナビーを少女から隔離しようとしている。虎徹にはアイシャの声が聞こえていないのだ。
「いえ、大丈夫です」
「だ、大丈夫って……いやどう見ても大丈夫じゃねーって!そりゃお前は大丈夫だろうけどな!」
――ねえ、キースはいつおみまいに来てくれる?
試しにアイシャから手を離してみる。しかしそれでも彼女の声は鮮明に脳裏に響いた。やはり夢と現実の間にある扉の鍵は彼女が握っている。彼女自身も気づかないまま。バーナビーは首を横に振った。ひとまず虎徹の言う通り、声を発そうとする動作を止めさせなければならない。
「アイシャ、僕はヒーロー失格だった。あの時、僕は君の手を取るべきだったのに」
――少し遅れたけど、約束する。あの人は……必ず僕が助ける。
かなり体力を消耗してしまっているのだろうアイシャはあまり表情が変わらないが、瞳の中にはバーナビーの言葉の意味を掴みかねている色があるようだ。時間をかけてキースの状況の大概を理解したのだろう、また何かを言おうとして苦しんでいる。もうひとつ首を横に振って、アイシャの胸元に軽く触れた。バーナビーの推測通りなら、夢の彼の言葉は彼女の中にも残っているだろう。
――お礼はその時で構いませんから。
アイシャが小さく頷いたように見えたが、いい加減にしろと医者たちに病室を叩き出されたために確かめることができなかった。虎徹が不審げな表情でバーナビーの顔を覗っている。
僕も怖かったんだ、誰かが死ぬことも誰かと生きることも。
でももう逃げるのはやめだ。今度は立ち止まって踵を返そう。