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Viva La Vida/美しき生命



「バニー!?」

 追い縋る虎徹の声に耳を貸さずに病室を出た。春の光がたっぷりと満たされた廊下に飛び出し、辺りを見回し自身の現在地を掴もうとする。その肩を少し強めに虎徹が掴んだ。しかしそれでも尚足を止めない。

「お前、突然どうしたんだ?間違えたって何を!?わけ分かんねーぞ、寝ぼけてんのか!」
「起きてます。いえ、目が覚めたんです」
「はあ?」
「あの女の子……アイシャを探さなきゃ……」

 安っぽい推理小説のように、手がかりはしつこいくらいにバーナビーの眼前に突き出されていた。いつまでもそれに気づこうとしない愚鈍な探偵に読者はさぞ苛立ちを覚えたことだろう。院内の案内プレートを見つける。現在地が示すのは一般病棟の3階だ。小児病棟は南端に位置している。それを歩みを止めずに横目で確認した。

「女の子?アイシャ?なに、どゆこと?」
「僕なら彼を……スカイハイさんを助けられるかもしれない」
「やっぱりお前、何か知ってるんだな?」

 声のトーンが少し変わった。初めて虎徹を振り返ると、そこには遠慮なくバーナビーを探る視線が待ち構えている。思うに、虎徹は優しすぎるのだ。何かには勘付いていたのだろうが、バーナビーのことを思って今まで口に出せなかったのだろう。そしてそれはきっと正しい判断だ。自分の手で確信を掘り当てなければ納得することができないのは、バーナビーの自覚する長所であり短所だ。

「虎徹さん、僕を待っていてくれたことに感謝します。でも話せば長くなりそうで……」
「分かった分かった。今は人探し、そうだな?」

 アイシャは恐らくこの病院の入院患者であり、まだ幼い少女だ。小児病棟へ行けば間違いなく消息を掴めるに違いない。そうだ、気づいてしまえばこんなに簡単なことだというのに。大きく一歩を踏み出す。意に迷う時も、決する時も、それが振り下ろされる床はいつも同じ音で足を受け止める。

「あっ……待ってください!」

 小児病棟に向かう途中、いつか春日のベンチを絵画にしていた額縁がずらりと並ぶ廊下に再び出くわした。更にはその画廊に見覚えのある後姿を発見する。静かな廊下に響くバーナビーの声に、咄嗟に振り返った看護師はあからさまにうろたえてみせた。駆け寄ると、写真のデータは消しますからなどと見当違いの釈明を繰り出している。

「アイシャという少女を探しています。恐らくこの病院の患者だ。ブラウンの長髪で……瞳も恐らく同じ……」

 バーナビーは言葉を続けることができなかった。看護師が目を見開いてバーナビーを凝視し、そのまま硬直してしまったからだ。思わず怪訝に眉根が寄る。一歩足を踏み出し彼女の顔を覗き込む。

「……あの?すみませんが、急いでいるんです。何か知りませんか?」
「貴方の夢にもあの子が出てきたの……?」

 ハッと看護師が口元に手を当てた。おい、虎徹の声に振り返り、ひとつ頷いて目を交し合う。看護師にその先を催促するが、彼女の口は思った以上に重いようだった。ついには視線すら合わなくなったので、粘り強くそれを追いかける。

「人命に関ることなんです。追認という形にはなりますが必ず司法局の許可も得ます。貴女の行いが人を救うことはあっても、貴女の責が問われることは絶対に無い。僕の名に誓って約束します」

 黙ったまま苦い顔でバーナビーを見つめていた看護師は、とうとう逃れようのないことを悟ったらしい。おずおずと口を動かし始めた。

「……責任なんてどうでもいいんです。ただあの子のことを他の子と区別してしまう自分を許せないだけ」

 悪い偶然が重なっただけだと思うのだけど、彼女はそうやって前置きを置いた。アイシャは小児科に勤務する彼女の担当する患者の一人だ。生まれつき心臓に異常があり、物心もつかないうちから大手術を繰り返してきた。入退院を繰り返し、家よりも病院にいる時間が長かったアイシャは、医者や看護師たちにすっかり打ち解け、入院患者の友人も多く居たという。

「でもある時、仲良くしていたはずの子の一人がアイシャを避け始めて。最初はケンカだろうと思って、仲裁に入ろうとしたのよ。でもその子、ひどく怯えて……夢にアイシャが出て、自分の……命を奪った、と言うんです」

 それも一度ではなかった。またその一人だけの話でもなかった。アイシャと仲良くしていた患者たち、また医者や看護師の数人も同じような夢を見たのだ。話している彼女自身も実際に体験したことがあった。

「アイシャが懐いていたグッドマンさんも最近、彼女の夢を見ると言っていたんです。それも毎日。その彼が今……実は、ここに意識不明で入院してるらしいの。元気そのものみたいな人だったのに……」

 最初にその夢を見た者から端を発する集団ヒステリー。もし何か科学的な説明を必要とするならば、そうやって片付けることもできる。彼女も現代医療に係わる人間として、現実と夢の関連を否定したがっているようだった。けれど科学的であれ非科学的であれ、それはきっと唯一の手がかりなのだ。

「彼女に会いたいんです。そのグッドマンさんの現状に、彼女は何らかの関わりがある可能性がある」
「でもこれはあくまで夢の、偶然の話で……!」
「レナ何してるの!」

 後方から鋭い声がかかった。看護師――レナの同僚らしい。振り返ったバーナビーに一瞬驚きの焦点を合わせようとしたが、余裕が無いのかすぐにレナに視線を移した。

「ごめん、今ちょっと……」
「アイシャが発作を起こしたわ!あんたも早く!」

 さすがと言うべきか、レナの表情が瞬く間に引き締まる。ごめんなさい、一言だけ断ると彼女は同僚に続いて駆け出した。再び虎徹と目を合わせそれを追う。しかし狭い病室で応急処置を行っている間も、やがてICUに運ばれていく間も、バーナビーたちにできたのは邪魔にならぬよう病室の外で待機しているくらいのものだ。病と闘える能力を持つヒーローはHERO TVには登場しない。

「持ち直すといいけどな……。あんなにちっさい子供が、生きるとか死ぬとかそんなとこ彷徨ってんのに、俺たちはひとつも手を貸してやれねえんだもんな。本当、やりきれねえよ」

 元々血縁でも何でもない以上、病状や経過が知らされるようなことはない。しかし少女の容態が良くないことは一見して分かる。ハンチングを指先でいじりながら、小さな円を描くように落ち着き無くステップを踏む虎徹をぼんやり見つめる。

「それだけじゃないんです……彼女が唯一の手がかりだったんだ……もっと早くに僕が動いていれば……」
「まさかお前も夢にあの子が出てきて、それでスカイハイがー……って思ってんのか?」

 ベンチに座り込みうつむくバーナビーに虎徹が歩み寄ってくる。電灯がうっすらとその姿に影をつけていた。ICUの付近には窓が無い。春の昼下がりであることを忘れそうな、蛍光灯の冷たい光だけが光源だ。黙り込んでいるバーナビーに呆れたのだろう、業を煮やした様子で虎徹が隣に腰を下ろす。

「ほら」
「……最近、僕の夢に毎晩スカイハイさんが出てきていました。本当に滑稽な……でも妙にリアルな夢で、いつもいつもその舞台は変わっているのに、その夢の終わりは必ず一緒なんです」

 突拍子も無く滑稽だが、歴史という時間軸だけには妙に質感のある夢だった。そしてそのリアリティーはキースを頂点にしている。人々の期待を一心に背負い、美しい人物画を描く彼はしかし、いつもその命と引き換えに夢へと幕を降ろす。死、その言葉の重みに虎徹も顔をしかめる。

「毎晩それかあ……そりゃあ……なんつーか……寝不足にもなるな」
「さっき眠っていた時もまた同じ夢で……でも彼が死んでしまった後、彼女が出てきた。彼女はこう言っていました。『わたし、死神じゃない』と」

 虎徹はバーナビーの話を脳内で整理しているようだった。バーナビーが目覚めてから得た情報は、虎徹にとっては全て新しいものだ。しばし吟味の沈黙を挟んで、遠慮がちにバーナビーを覗き込んでくる。

「たまたま印象に残ってたとか、そういうのは?」
「そうかもしれません。その言葉は、僕が倒れる前に見た彼女が言ったものとまるで同じだ……でも彼女は明らかに何かを知っている素振りだった」

 彼女はバーナビーをキースの友人として認識し、その上で彼を救ってほしいと言った。しかしその場に居た彼はただ春の陽光の中でうたた寝をしていただけだ。どこで何からキースを救うのか。バーナビーは彼女にそれを尋ねなかった。

「致命的なミスだ……!他に考えられる手立ては存在しないのに……!」
「……もし本当に夢に全部の原因があるってんなら、解決も夢の中でできちゃったり……はしねえのかな」

 腿に拳を振り下ろすバーナビーの肩をなだめるように叩きながら、何気ない様子で虎徹が呟く。バーナビーは思わず立ち上がった。見下ろす虎徹はきょとんと目を丸めている。またも制止に耳を貸さず足を踏み出した。薄暗い廊下を抜け、画廊をくぐり、病院を出て、街道でタクシーを拾い、本社へ辿り着く。ヒーロー事業部でロイズに無理を訴えたあたりで虎徹もバーナビーが何をしようとしているのか悟ったようだった。なんとかロイズを首肯させ辿り着いた最後の目的地は酸素カプセルだ。事情を全く知らない斎藤が怪訝げな顔でバーナビーたちの挙動を見つめている。

「お前病院でも一時間も寝てなかったんだぞ。絶対ぐっすり眠れると思うぜ」

 カプセルの側面に手を当て、虎徹はバーナビーを苦笑で覗き込んでいる。それにバーナビーも苦笑で答える。できれば良い夢と共にぐっすり眠って目覚めたいものだが。

「お呼びがかかるまでは、絶対ここに居るからな。ヨソ行ったりしねーからさ」
「……サボりですか?ただでさえロイズさんを怒らせてるのに。せめて貴方は……」
「あーもー!待ってるから帰ってこいっつってんの!」

 一瞬、虎徹が何を言っているのか本気で理解できなかった。ただそれだけだというのに理不尽にも軽く頭を小突かれる。キースの昏睡の原因が夢にあるなら、バーナビーも同じ状態になる可能性は充分にある。虎徹はそう言いたいのだ。苦笑はただの笑みに変わってしまった。

「何か掴んで目覚めます。必ず」
「斎藤さんとお前の悪口でも言いながら待ってるよ」

 あんまりのんびりしてたら叩き起こすからな、虎徹の声が遮断される。酸素の濃縮された沈黙の中で目を閉じる。虎徹の言うように睡眠不足はかなり累積しているはずなのだが、眠ろうとしてみると却って眠気が遠のくように思えた。苛立ちを噛み砕きながら取り留めない意識の奔流に身を任せる。

 ふと、笑みの画が浮かんだ。光の粒子をビーズのように繋いで作ったかのような笑顔だ。バーナビーはそれを愉快な気持ちで眺めている。これはいつの記憶だろう。少なくともこの一年のことじゃないな。バーナビーが何かを言う、すると彼は光を取りこぼすように笑う。好奇心と興味とが瞳の中でブルーに染め抜かれている。確かに現実に起こったできごとのはずなのに、その記憶にはまるで音が無かった。

 一体、どんな話をしてあんなに楽しげに笑わせることができていたんだろう、僕は。

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