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Prelude
「フーン、フフ、フーンー……ん?」
シャワーの水がタイルへぶつかり、勢いをつけて排水溝へ飛び込んでいく音の隙間から、音楽が生まれている。キースは目を瞬いて髪を洗う手を止めた。結露し曇った鏡が、泡まじりの金髪を持つ男の間抜け面をぼんやりと映している。ふふ、誰も居ないのは分かっているのだが、つい照れ笑いを漏らしてしまった。
ジョギングから帰ってのシャワーだ。体の芯にまるでガスライトが灯っているような気分だが、陽がやっと昇りきったばかりの冬の朝の七時に油断は禁物だ。万一にも風邪を引かぬよう用心深くタオルで髪の水分を拭き取る。朝食の準備のためにキッチンに入ると、同居人のソウルメイトがそれを待ち構えていた。
「やあジョンおはよう!そしておはようジョン!昨日はよく眠れたかい?見たまえ、素晴らしい朝だ!」
ジョンを起こさぬよう閉じていたカーテンを思い切り引き開ける。薄暗いリビングがたちまち光の宴会場に早変わりだ。キースたちもその御相伴に預かって朝食に就くべきだろう。晴天の日というものは、感覚的にはもちろん気分が良いし、体験的にも事件の発生率が少し下がる。うん、笑顔で大きく頷くと、それに答えるようにジョンがひとつ吼えた。
「フーフー、フーフフーン……あれ?」
キッチンに入りパンを火にかけ、ブレッドを切り分けたものをオーブンに放りミルクを取り出す、その動作にも音楽が生じている。キースを一途に見上げてエサを待つジョンに苦笑を返した。何とも言えない気恥ずかしさに任せて彼に一足先の朝食を譲る。
「一体この曲は何だっただろうか……どうにも頭から離れない、どうにも。君、分かるかい?」
朝食に夢中の薄情なソウルメイトは考える素振りすら見せてくれない。肩を竦めてミルクに一度口を付け、暖まったパンに卵を落とした。じゅう、と卵だけがキースに返事を寄越してくれる。
「何の曲かは分からないが、うっかり踊りだしたくなるリズムだ」
好みの焼き上がりまでにはほとんど時間がかからない。プレートに移した卵に満足し深く頷き、そこにブレッドも一緒に乗せる。作り置きのサラダと共にダイニングテーブルへ軽やかに足を踏み出した。おっといけない、とミルクを取りに踊るようにターンする。
「そう言えば彼は……眠る前にホットミルクを一杯飲むと言っていたな」
一日のできごとが眠りに埋没してしまわないように紅茶を一杯飲んで、日記を書き、それから眠る。そのキースの日課は『彼』にとっては奇妙に聞こえたらしい。カフェインと覚醒の因果関係を滔々と語る声が脳裏に鮮明に蘇って思わず笑う。
「でも、それが私の習慣だ」
別に僕も批判する気はありませんけど。……貴方ってやっぱり少し傲慢と言うか強情と言うか……詐欺ですよ。その見た目で。
キースが思わず先日の会話を口の中だけで小さくなぞると、呆れたようなため息と共に脳内のバーナビーが首を横に振る。キースが眉尻を下げて笑うことしかできなくなると、そうして初めて彼は口元に愉快げな色を滲ませてキースを覗き込むのだ。意地の悪いやり方だが、その実眼鏡のレンズの向こうにあるグリーンは優しい色をしている。
『でも、まあ……それを知っていて、僕はここに居るわけですからね』
気分の上昇と共に再び浮き上がっていた名前の思い出せない音楽が、ふと止まった。光で満ちたダイニングテーブルに腰掛け、少々行儀の悪い習慣を遂行するべくサニーサイドアップのプレートを持ち上げたまま、キースの動きも止まる。色鮮やかなオレンジを白く薄い膜で覆った一つ目が静かにそれを見つめ返している。
「どうして君は――」
会話には続きがあった。記憶をなぞるようにしてその日の自分の言葉をなぞろうとして、囁きは中途半端に途切れてしまった。しかし記憶の再現VTRはそのまま鮮明な映像を脳内に提供している。
『……困ったな、分からないですか』
光の中に浮かぶ顔は呆れた表情でも愉快げな笑みでもない。あまり彼が浮かべることのないような、言葉通りに困ったような笑顔だ。それはキースの言葉に対する彼の素直な感想なのだろう。なんてことだ、今やっとあの表情と言葉の意味に気づくだなんて。
「……よし」
一度プレートをテーブルに戻した。既にこぼれたミルクを嘆いていても仕方がない。手元が狂うことは誰にでもある。重要なことは、いかに迅速にその事態に対処するかだ。