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Viva La Vida/美しき生命



「お客さん?」

 今度は比較的すぐに自分の状況を把握することができた。アポロンメディア本社を出てすぐに飛び乗ったタクシーの中だ。ミラー越しの運転手の視線は不審げである。それもそうだろう、バーナビーが突然大声を上げたので驚いたに違いない。深く息を吐き出してゆるく首を振った。まただ。親しげな顔をして近づいてくる悪夢だなんて、性質が悪いにも程度がある。

「すみません……少し、眠っていて。寝ぼけて驚かせてしまいましたね」

 なんとか笑みを作る。タクシーは丁度目的地の病院に辿り着いたところだった。未だに訝るような表情の運転手に多めの運賃を押し付け、つい先日くぐったばかりの門を足早にくぐった。

 ここに居ることを確信しているわけではない。ただ思い当たる可能性のひとつでしかない。そもそも、この行動には明確な理由が見つからなかった。もし彼がここに居たとして、一体どうする。なんて言う気なんだ、僕は。とにかく悪い夢を払拭したいだけかもしれない。思いがけずあの日の事情を知って、今更謝りたいような気分になっているのかもしれない。

 うろうろとさまようことはせず、目的地を一つ決めていた。もしそこに誰も居なければもう家に戻るつもりだったのだ。しかし木の下のベンチは風景画ではなく、人物画だった。どのステージにも等しく流れ込む夕陽はその絵にも赤い絵の具を足している。ベンチに座るフライトジャケットの男は人の気配に顔を上げる素振りすら見せない。腕を組んで静かに眠っている。穏やかな表情が遠回しに揺り起こされることを拒否しているかのようだ。

 ベンチから数メートル離れたまま立ち尽くしていると、左手に何かが触れた。とっさに手を浮かせて振り返る。だがそこには何も無く、視線を更に下方へ落とす動きが必要だった。ブラウンの長髪の少女だ。夕陽の中にあっても不健康そうな血色は隠せていない。夢が頭をよぎった。反射で数歩後退してしまう。

「……アイシャ?」
「バーナビーは、キースとともだちなんでしょう?」

 思わず顔をしかめた。虎徹の時は身構えることができたが、大して面識もない少女に言われる言葉だとは予想もしていなかったのだ。しかし考えてみれば、並んで寝入ってしまったところを少女は見ているのだった。

「キースを助けて……!わたしのことはいいからって、言って……!わたし、そんなつもりじゃなかったの!」

 少女の細い、力の無い手のひらがバーナビーの腕へ懸命に伸びる。振り払うことはもちろんできない。しかし何故だかその手を取ることもバーナビーにはできなかった。幼い少女の言葉には客観性がまるで含まれておらず、何を訴えたいのか汲み取ることができない。バーナビーの反応が無いことに少女は明らかにうろたえる。ついにはまた泣き出してしまいそうだ。

「ねてるとき、かってにさわってしまってごめんなさい、でもわたし、キースを助けたいの……!」

 目覚めた時に彼女が謝罪していたのはこのことだったのだろうか。しかしそれだけにしてはいかにも深刻げだ。キースを助けたいと少女は言う。しかし、春の夕陽の中で穏やかに眠る彼に一体どんな危機が迫っていると言うのだろうか。あまりにのどかな茜色と少女の必死な剣幕は奇妙なほど分離していた。わけの分からない焦燥が胸元にじわりと広がる。

「頼む相手を間違っています」
「バーナビー……!」

 キースは無事だ。夕暮れのベンチで平穏無事に居眠りができるくらいなのだ。きっとポセイドンラインに何らかの事情があったのだろう。逃げるように少女の手を振り切る。じゃあどうしてあそこに居たの、少女の声にも足を止めない。たまたまうたた寝してしまったところに、キースが居ただけだ。他意はない。夢でも同じことを聞かれたが、それは少女が知るはずも無いことだ。

「アイシャ……?私は……また眠っていたのか……最近すぐに眠ってしまうんだ。どこでもすぐに」

 追い縋る柔らかい声に歩みを速めた。最後には小走りになって何を喋っているのかも次第に拾えなくなっていく。

「夢見がいいのかもしれないな」

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