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Viva La Vida/美しき生命



「……っ!」

 声を上げる寸前だった。息を大きく吸い込んだままの姿勢で硬直する。まず目に入ったのは春の陽光だ。それを惜しみなく浴びる緑の木々と、先程まで賑やかだった無人のベンチ。そしてそれを一枚の絵にする窓枠。そこまで来ると、さすがに自分の状況が掴めてきた。ここは粉塵の舞う太古のイタリア半島でもなんでもなく、シュテルンビルトのシュテルンメダイユ地区ウエストシルバーの小さな病院、その廊下だ。全ては夢だったのだ。時計を確認すると、イベントが終わって三十分も経っていない。ワイルドタイガーは未だに子供たちに踏破されている最中だろうか。こんなところでうたた寝とは、こうなると裏切り者の名を甘んじて受け入れなければなるまい。急速な覚醒に目の奥の辺りでじりじりした軽い頭痛が燻る。首元に脂汗をかいているようだった。はあ、深いため息を吐き出し脱力する。みっともなく名前を呼ばなくてよかった。

「何であんな夢……を、」

 体の力を抜いたことで左肩のあたりに妙な重みがあることに気づき、何気なく目をやって再び硬直してしまった。甘い色をした金髪を肩に押し付け、白いシャツの男がバーナビーに体重を預けている。腕を組んだ全身が規則正しく上下する動きが直に伝わった。眠っているらしい。妙にリアルな悪夢が目の奥で点滅する。動揺し、壁に預けていた身を浮かせると手元に何かが落ちた。青色のフライトジャケットだ。どうやら隣で眠る男がバーナビーにかけていたものらしい。ますます動揺する。まず起こすべきアクションを完璧に見失っていた。これが事件ならヒーロー失格ものだ。柔らかいクセを持った金色から逃れるべく視線を彷徨わせ、右肩の先に目を遣ってまたぎょっとさせられる。いつからそこに居たのだろう、か細い少女が大きな目を見開いてバーナビーを凝視していた。明るいブラウンの瞳はバーナビーが何か声を上げる前にぐらりと揺れ、表情がくしゃりと歪んだ。木の枝よりも細そうな指の隙間から止める間もなく大粒の涙をボロボロと零している――いよいよ、バーナビーの退路は絶たれた。

「ごめんなさい……、ごめんなさい、わたし……!」

 細い糸のようなブラウンの長髪が、首を振る少女に合わせて揺れる。バーナビーには何故突然にこの少女が泣き出してしまったのか全く分からなかった。ただ呆然と水滴が重力に従う様を眺めていることしかできない。このまま永遠に硬直していなければならない気さえし始めた頃、左肩の重みがふっと消え体が浮くような錯覚を覚えた。

「……アイシャ、泣いているのかい?」

 記憶にある声、夢で見た声、そして今ここで耳に入ってくる声。それらに一インチの違いも無いのは、当然のことなのに妙な感覚だった。バーナビーが振り返るより先にキースはアイシャと呼ばれた少女の前にしゃがみ込んだ。

「すまない、君のところへ行こうと思っていたのに眠っていたようだ。寂しかったかな」

 少女は喉を引きつらせながら嗚咽を堪えるのに精一杯で、まともな言葉を返せる状態ではないらしい。ただキースの言葉に対して首を横に振っている。キースはその頭を優しく撫で、柔らかく微笑んだ。

「言っただろう?君に何かあったら、私が駆けつけると。そして絶対に助ける、絶対にね」

 泣き止む気配の無い少女にわずかに眉尻を下げたキースは、ひとまず病室に戻ろうと七、八歳ほどであろう少女軽々とを抱き上げた。それから初めて、呆けるバーナビーと視線を合わせる。バーナビーに微笑むようで、その後ろにある何かを懐かしむような、不思議な表情だ。

「すまない。肩を借りてしまったようだ」

 少しの沈黙を挟み、ジャケットを返してもらうよ、とバーナビーの手元からジャケットを持ち上げ、キースはゆっくりと歩き出した。少女を優しく、柔らかく宥める声が次第に遠くなる。しかしバーナビーはしばらく立ち上がることもできなかった。眠っていたはずなのにひどく疲れている。ため息を吐きながら頭を抱えた。

 ひどい夢ばかりだな、僕は。

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