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Viva La Vida/美しき生命



 バーナビーはふと、窓辺に立って朝の晴天に浮かぶシュテルンビルトを一望した。ビルの窓や鉄骨などがちかちかと朝陽を反射している。陳腐な表現を敢えて探そうとすれば、清々しいだとかそういう形容詞が使われる一日の始まりなのだろう。窓に薄く映る自分の輪郭を確かめるように眺め、踵を返した。朝食を摂るためにカフェへ向かおうとする。その時、腕のPDAが静かな部屋をコール音で満たした。

『バニー!起きてるか!』
「ええ。事件ですね?」
『ああ、大事件だ……って、大丈夫か?』

 切迫した様子の虎徹だったが、PDAの粗い画面越しにもバーナビーの表情に異変を感じたようだ。一旦緊張を脇に置こうとしているので平気ですと押し通す。

「トランスポーターはもう向かってるんですか」
『いや、ヒーロースーツは無しだ』
「……どういうことですか?」

 出動のために歩き出していた足が止まった。虎徹はわずかに言い淀む素振りだ。もちろん、それを維持するわけにいかないことは当人が一番分かっている。落ち着いて聞けよ、と前置きを置く虎徹の表情には既に落ち着きが失われているように見えた。

『……スカイハイの意識が無いらしい。それも三日も前から』

 脳内に高速で構築されつつあったいくつかの行動パターンが全て一瞬で霧散する。まるでそのたった一言のインプットでバーナビーというシステムが全て停止してしまったかのようだ。息を吸い込む。リブートはほぼ機械的に行われた。そのせいで心が全く追いついていかない。

「そんな……はずありません。そんな素振りは全然……」

 夢は夢だと言い聞かせていた。それを裏付けるように、キースはベンチに座って安らかな寝息を立てていたはずだろう――細い声とはいえ、少女が涙声を荒げてもなかなか目覚めようとはせず、出動にもトレーニングセンターにも一週間は顔を出していない状況を無視すればの話だが。

『最近、スカイハイと会ってたのか?』
「ええ、まあ、たまたま……」

 あいまいな返事になったが、事の重大さに気を取られてのことなのか、虎徹はさして気に留めていないようだ。渋い表情に更に焦りの色を重ねた。飛び起きたためだろう、髪や服装に少し乱れがあることに気がつく。

『詳しいことは俺にも聞かされてねえんだけど……とにかく病院へ行こうって話になってる。お前も行くだろ?』

 この前のイベントのとこ分かるか、と念を押される。もちろん否定するはずもない。しかし出動のために軽やかに動いていた足の裏にまるで鉛でも仕込まれたかのようだった。

 プラスチックタイルの廊下には靴音がやけに響く。しかしバーナビーも虎徹もそれに構うことなく足を動かしていた。途中で合流してからずっと、互いにほとんど無言だ。エレベーターが最上階に向け口を開く。ホールを抜けた先の廊下に見慣れた顔が集まっていた。

「やっと来たわね……アナタたちで最後よ」
「で、どうなんだアイツは!」
「どうもこうも、私たちにもよく分からないわよ。とにかく今は会えないの一点張り」
「原因不明だそうだ。持病が無いのは勿論だけど外傷も無い、今は検査中だとよ」

 落ち着きの無く指先を摺り合わせているネイサンの言葉をアントニオが継いだ。そのすぐ真横のベンチでは見るからに意気消沈したカリーナとパオリンが並んで座っている。イワンはどうしたのだろうかと思っていると、HERO TVのジャンパーを羽織った男が廊下の向こうから歩み寄ってきた。

「ポセイドンラインの方に話を聞いてきました」
「聞けたのか!」
「ダメで元々のつもりだったんですが、向こうも相当動揺してますね。結構詳しく聞けました」

 アントニオに答えた後、HERO TVの番組スタッフは元のイワンの姿に戻った。その場に居る全員の視線を受けて、慎重に息を吸い込んでいる。

「一週間前……トレーニングセンターで見かけなくなったあたりから様子がおかしかったらしいんです。とにかく眠くて仕方ないと。所構わず眠ってしまうので仕事も控えさせていたって言ってました」

 イワンの話に拠れば、ポセイドンラインではキースに徹底した健康管理をスカイハイの責務として課しており、毎朝のバイタルチェックもその一環であるらしい。キースはデビューしてから一度もその日課を欠かしたことが無かった。ところが三日前、キースは現れなかった。

「連絡をしたところ、繋がらなかった。だからおかしいと思って家を訪ねたらもう……」
「意識が無かったって?」
「……はい。ベッドで横になったまま声をかけても全然目覚めなかったって」

 容態に特別な異変も無く、今のところ身体的に異常があるわけではない。ただ意識だけが無い。不可解な事態にその場の面々は一様に顔をしかめた。原因が分かっても何もできないかもしれない。だが、原因自体が分からないのではその判断すらできない。

「……なんで今日なんだろう」

 困惑が言葉を奪う沈黙に、パオリンが呟きで波紋を作った。続きを促す視線が彼女に集う。

「だって、一週間前にはスカイハイもうおかしかったんだよね」

 パオリンの言葉にはどこか憤りのようなものも混じっているように聞こえた。その対象は恐らくパオリン自身だ。何もできなかった自分を悔いているのだろう。隣に座っているカリーナもそうよと声を上げる。

「大体おかしいよ、最後にトレーニングルームで会った時は本当に、何もおかしいとこなんて無かった!なのに、こんな急に……信じらんない……!」
「そう言えばバニーもスカイハイに会ってたんだよな?何もおかしいところは無かったのか?」
「ええ……そう、だと思います」
「思いますって……」
「何かおかしかったって思えばなんでもそう思えてくるの!だってあんなに元気だったのよ!」

 カリーナが虎徹に勝手に答えてくれたが、バーナビー自身にも自分の言葉が不安定な軽薄さを持っているように思われた。実感が無い。これも夢ならいいと願っているせいかもしれない。いつものように、目覚めればいつもの日常が、紙切れ一枚だけが欠落した日常がまた始まるならいい――小さく首を横に振る。

「……ひとまず、落ち着きましょう。今はまだ検査中です。きっとそれで原因が分かるはずですから、それまでは各自連絡を待つことにしましょう」

 まるで口が勝手に動いているかのようだ。集う誰もが悔しそうにうつむく。それよりも良い案が出ないことを理解しているからだろう。バーナビー自身も傍観者のように自分の言葉を聞き、納得させられている。

「……それもそうね。私たちがここであーだこーだ言っても仕方ないわ」
「まったくその通りよ」

 ネイサンの悔しげな言葉に相槌を打ったのは、ヒーローの誰の声でもなかった。尖った声の発生源は少し離れたところにあり、集ったヒーロー全員の視線が聞き慣れたその声に注がれる。

「アニエス!」
「言っておくけど、ここで待ってたって仕方ないわ。面会謝絶なの。何か異変があればすぐに私に連絡が来ることになってるから、それまで待機よ、待機」

 カメラマンを背後に従えていない彼女の姿を見ることは稀だ。普段から鋭い眼光を絶やさない瞳が今日は一層研ぎ澄まされている。はあ、これ見よがしのため息を吐き出してアニエスは髪の毛先ごと首を振った。

「大体、このことはポセイドンラインに極秘事項として通達されてたのよ」
「人の口にドアは作れないモンよ」

 アニエスはネイサンに勢いをつけて視線を送ったが、ネイサンも軽口とは正反対の表情を返している。ヒーローへの知らせが遅れたのは、ポセイドンラインにそもそもこの事態を知らせる気が無かったからで、それでもこうしてここに集うことができたのはネイサンがどこからかその情報を入手したため、ということらしい。それ以上の追及は無意味と判断したのだろう、アニエスの視線は今度はイワンに向かった。こちらも動じる素振りは無い。

「それに、勝手に潜入捜査だなんてカメラの無いところでやってくれるじゃない?」
「それは……!どうしても落ち着かなくて!それに僕たちは仲間でっ、」
「タイガー&バーナビーが復帰して面白くなってきたと思ったらこれだもの。頭が痛いわ……もし事件が起こってもスカイハイのことはできるだけ伏せていくわよ。盛り上がらないから」
「そんな言い方!」

 カリーナが立ち上がったので、アニエスはその正面に指を突きつけた。その勢いに押されカリーナはわずかに身を引いている。言葉を遮られ不服げなイワンにもその指先が向かう。

「市民が貴女たちに求めてる物はなんだと思うの?すぐ騒ぎを起こして動揺を誘うヒーローかしら?」
「それは……」
「分かったら待機よ、くれぐれもコールに気づかないなんてこと無いようにしてちょうだい」

 くるり、音がしそうな勢いでアニエスは踵を返した。長い髪がセットされた形を維持したまま翻る。ヒールが床を蹴る音が早いテンポで遠くなっていく中、怒りの矛先を収められないカリーナがどさりとベンチに戻った。その頭を虎徹がぽんぽん、と軽く叩く。

「何よ……っ!」
「あいつは視聴率のことしか考えてない女だけど、一利くらいはあるかもな。自分が倒れたからって市民放っとかれちゃスカイハイもアレだろ?」

 お前学校あるだろうし、お前も色々あるだろ、虎徹はカリーナとパオリンの頭を片手ずつで軽く撫でた。パオリンはその言葉にひとまずの納得を見たようだが、素直でないカリーナは虎徹の手を弾き、その勢いで立ち上がった。しかしすぐにたった今の自分の行動を悔いるように顔を歪める。

「アレじゃ分かんないわよ……バカ……!」

 バタバタと駆け去ろうとして、しかしやはりキースのことが気になるのか、一度振り返ってからホールへと消えていった。態度では虎徹の言葉に従ったのだろう。

「気になるが、俺たちも解散といくか……これが事件ならスカイハイのために何かできることもあるんだろうがな……」
「そうね……早く目を覚ましてくれるといいけど……前触れも無く原因も分からないっていうのが不気味だわ……」

 逆に頭では分かっていても体は動かない様子のパオリンを、イワンが立つように促している。バーナビーと虎徹も、ここでこのまま突っ立っているわけにはいかない。ロイズに断りも入れずに駆けつけてしまったが、そろそろ出社の時間だ。遅刻は免れない。

「僕たちもひとまずは出社しましょう、虎徹さん」
「おう……」

 往路よりも歩くスピードが落ちるのは仕方がないところだろう。エレベーターを降りたところで他の仲間と別れ、人で賑わうエントランスを横切る。喧騒の中沈黙を噛み砕いているバーナビーと虎徹は、人波の中では浮葉のようだ。

「お前さ、」

 虎徹が何かを言いかけたのでその横顔に視線を送ろうとしていたが、それより先に目に引くものがあった。ベンチに座り身を縮め、うずくまる少女の周りをパジャマ姿の少年たちが取り囲んでいる。どう見ても少女を心配して集まっているようには見えず、皆険しい表情だ。数歩近づいて「死神」という単語を拾ったが、バーナビーが近づいていることに気づくと少年たちはすぐにその場から逃げ去ってしまった。折れそうなほど細い背中が震えている。

「わたし」

 バーナビーが近づくと、ブラウンの細い髪の毛を振り乱して、少女は青白い面を上げる。涙の溜まった瞳を見開き、よろよろと立ち上がった。救いを求めるようにバーナビーに指を伸ばし、その先がバーナビーに触れたかと思えば、すぐに離れていく。

「わたし、死神じゃない」

 駆け去る少女を追うこともできず立ち尽くすバーナビーに、虎徹が追いついてきた。不審げに声をかけられるが答えることもできない。本当は気づいている。何かがおかしい。そしてその異常の原因を、バーナビーは薄々気づいている。しかし必死で見ない振りを貫いていて、それが正常な判断を狂わせている。

「虎徹さん、僕は……」
「お……おいおい、本当に大丈夫か?」

 頭痛を堪えるように額に手を当てた。極力夢を見るのを避けたくて、最近満足に眠ることもできないでいる。

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