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Viva La Vida/美しき生命



 ひやり、冷たい感触を不審に思って目を開けることで、自分がそれまで目を閉じていたことを知る。影の降りたグリーンの瞳がバーナビーの視界いっぱいに広がっていた。あ、と思わず声を上げると、それが言葉になる前に少女は立ち上がった。

「折紙さん、起きたよ!」
「良かった。今行くよ」

 バーナビーに駆け寄る二人は同じような服を身に纏っていた。低い円柱型の赤い帽子を頭に乗せ、白いシャツの上に鮮やかな刺繍の施された黒いチョッキを重ね、裾を絞る他は布を余らせているゆったりとしたズボンを履いている。

 また夢か。もう一つ一つに驚き混乱することはしない。二人の名を呼ぶことを早々に諦める。『見知らぬ人間』に突然名前を呼ばれるのは気味が悪いだろう。額に当てられていた湿った布を手に身を起こす。バーナビーが身を預けていたのはオリーブの大木の影だった。すぐ頭上にあるオリーブの葉が揺れると、乾いた熱風が喉元に迫ってくる。

「大丈夫ですか。行き倒れているところを僕たちが見つけたんです」
「見慣れない服だね。旅人さんかな?西から来たんでしょ?」
「ここの夏は……慣れないと辛いですよね」

 差し出された木椀には水がなみなみと注がれ、木の葉の影からこぼれる強い陽光をゆらゆら反射していた。遠慮せずにそれを受け取る。夢のくせに声が出せないほど喉が渇いており、冷えた水が喉を下る感覚は現実と少しも違わない爽快感があった。だからこの夢を見たくはないのだ。いかに馬鹿げた舞台に立っても現実だと錯覚してしまう。

「ありがとう。もう大丈夫です」

 幹に手を当て、ゆっくりと立ち上がる。広がる視界の先には大きな街道があり、多種多様な人間と物の往来が土壁や煉瓦に仕切られていた。見た限りでは場所や時代を特定することはできないが、往来の要衝となる中東あたりの都市ではないかと予測をつける。

「少し休んで行ったほうがいいよ。ひどい顔色だもん」
「そうですよ。ぜひ、一緒に……」
「いいえ。その必要はありません」

 イワンが続けようとした言葉を遮った。その先にある言葉とそれが示す人間をもう知っていたからだ。いかにも荒唐無稽な夢らしく、そこに現れる人々に時折見知った顔が混ざる。しかし、彼らがバーナビーに気づくことはない。まるで他人に接するようにして、必ず彼のところへ連れて行こうとする。見知らぬ悪魔よりも見知った悪魔のほうがマシだという言葉は、この夢に限っては全く逆だ。早く目覚めたい。バーナビーは休むために眠るのであって、不吉な予感に圧迫され飛び起きるために眠るわけじゃない。

「……無理にでも屋敷へお連れしたまえ。昼の間、慣れぬ者が無闇に動くのは良くない。実に良くない」

 遅かったか。しかしバーナビーはその絶妙のタイミングへ抵抗するような悪あがきはしなかった。どうせ遅かれ早かれこうなることは分かっていた。バーナビーはこの声を聞き、それを失うまではこの夢から抜け出すことはできない。

「スカイハイさん!」
「スカイハイ、ダメだよ!なんでここに居るの!?」

 強い日差しに頭を垂れる馬には色とりどりの布を重ねた鞍が取り付けられている。あれでは馬も夏バテだろう。その上に座る男の金髪の頭には布が巻きつけられ、裾が肩に垂れている。白い長衣の上に精密な刺繍の前開きのガウンを重ねて着込んでいて暑そうに見えた。しかしキースの表情は相変わらずで、涼しげにさえ見える。

「居てもおかしくはないだろう?ここは私がスルタンからお預かりしている土地だ」
「で、でも……お体に障りまするトノ……!でござるよ……!」
「折紙さんそれどういう意味?」

 キースの下へ駆け寄ったイワンとパオリンがあれこれと彼を案じる言葉を言い募る。けれどキースは彼が跨る動物と同じ耳を持っているかのようにのらりくらりと交わすだけだ。

「大丈夫さ。私は死ぬわけにはいかないから」

 あいまいな言葉でその場を無理やり丸め込み、キースは木陰のバーナビーに視線を移した。逃げることを諦め、しかし素直に動く気もしないバーナビーをキースは苦笑してみせる。まるで当てこすりのように目の前で何度も死んでみせるくせに。

「どうする?バーナビー君。また剣で決めるかい?」

 最初にキースが出てきた夢からこの夢までには、ゆるやかな連続性があった。他の見知った顔が誰もバーナビーに気づこうとしない中、キースだけは以前のドラマ仕立ての大舞台を覚えているようだ。不吉な終焉が夢と夢の垣根になっていることも、この夢の中のキースは覚えているのだろうか。

 バーナビーにはこの夢の示唆するところが全く分からない。知りたいとも思わない。ただ早く目覚めたいと願うだけだ。

「お知り合いだったんですか……!」
「じゃあやっぱり一緒に来てもらおうよ!丁度東から商隊が来たところなんだ。街も賑やかでしょ?」

 イワンとパオリンが有無も言わさず両脇を固めてきた。オリーブの木から離れるとたちまち強い陽射しに晒され、全身が白く塗りつぶされてしまったかのようだ。明暗で目元が眩む。陽光を背負い、影を胸に抱くキースも何故だか眩しげに目細めている。

 キースはイワンやパオリン、バーナビーの影になって馬を歩かせた。しばらく歩いて辿り着いたのはドーム型の屋根を持つ大きな建造物で、門扉をくぐってすぐに広がる長方形の空間を、太い柱が狭い間隔で縁取っている。気分が優れないとキースは自室に向かい、バーナビーは客間に通されていた。やることもなく、案内してくれたパオリンと取り留めの無い会話を交わし、屋敷の中を歩いて回った。念のためシュテルンビルトでの話を出してみるが、パオリンは目を瞬くだけだ。

「スカイハイはスルタンからこの街を任されてるマムルークだよ。ボクや折紙さんと一緒で、スカイハイは元々この国の人じゃない。だけど、馬も弓も槍も全部すごいから、スルタンに信頼されて、それで……」

 夢の『スカイハイ』はいつも、人々のために立ち上がり、人々の期待に答えた働きをし、人々の信頼に耳を傾け、そして人々の先頭に立って命を落とす。バーナビーはパオリンの話を真剣に聞く気を早々に失ってしまった。

 夢は古代ローマを初めとして戦場の夢が多かった。ひょっとすると過酷なヒーロー業が夢に反映しているのかもしれない。しかし、静謐な屋敷には比較的穏やかな時間が流れているように見える。ただ、広さに対してあまりに人の姿が見えず、どこか不気味でもあった。石畳を軽やかに蹴る音がする。振り返ればイワンが駆け寄ってくるところだった。

「居た居た!バーナビーさん、こちらへ」

 案内されたのは楼閣のような低い塔の上にある広い部屋だ。ガラスや木の戸が無い吹きさらしの窓からは、他に高さのある建造物も無いおかげで街を一望できる。夢に時間の感覚など求めても無駄かもしれないが、いつの間にか街の向こうに半身を沈めるのは大きな夕陽だ。赤と黒の油絵の具を乱暴に重ねたような、濃い色をした夏の夕日だった。白い土壁の家屋も、その向こうに広がる白い砂原も全部その色に塗りたくられている。不吉の海に浮かぶ孤島のような街だと思った。

「すまない、こんな時間になってしまった」

 窓際の椅子に腰掛け窓枠に肘を置きもたれかかるキースも、彼が身にまとう白い長衣も、ほのかに夕陽の影が降りている。いつでもピシリと頭の先から指先まで伸ばしている人だが今はどこか気だるげだ。そう見えるのは夕陽のせいばかりではないだろう。しかし注意して見れば、赤い光を受けたキースの瞳は重たそうな体を引きずってでも強く青く光っている。やはりここには「らしくない」キースなど存在しないのだ。敢えてキースから離れた窓枠に手をかける。

「どこか……悪いんですか」
「うん、先の戦いで深い傷を負ってしまってね」

 キースは肩から腹にかけてを軽く手のひらでなぞった。子供の失敗に呆れるように、他人事のように小さく笑ってみせる。

「もうずっとひとつの地を巡って長い争いが続いているんだ。西からは兵が絶えない」
「……今度は十字軍遠征あたり……ってわけですか」
「私自身にとっては、それが誰のものかはどうでもいいことだ。しかしその奪い合いの中で、多くの人が命を落としている。私が何もできないままにね」

 今の体では、与えられた領地の内に異変が何もないか確認して回るのが精一杯だとキースはぼやく。ここでもパトロールの最中だったというわけらしい。すごいですねと呟いたのは、本心と皮肉の半々だ。これは夢だ。つまりこれは全てバーナビーの中のキースの像に過ぎない。

「私は無力だ。いつも……シュテルンビルトでもそう感じている。ここでもそれは変わらないんだ」

 キースはゆるやかに首を横に振った。否定されることは予測していたが、バーナビーが思う以上にその言葉にはネガティブな感情が含まれている。つい視線を戻せば、弱い笑みが輝く瞳に影を加えていた。

「街の全ての人々を危険な目に遭わせたジェイクの事件も、H-01との戦闘も、私では歯が立たなかった。もしまたそれと同じくらい……それ以上の危険が守るべき誰かに迫ったら?その時も無力なら、私には何か意味があるだろうか」

 あまりに「彼らしい彼らしくなさ」に、バーナビーは眉根を寄せた。まるで本物のキースがそこに座って、バーナビーに悩みを打ち明けているかのようだ。そんなはずはないのに。キースはバーナビーにそんな姿を見せたことはない。どこか様子がおかしいと思ったことはあったが、彼が不調を抱えていたと知ったのは随分後になってのことだ。

「貴方は……どうしてここに居るんですか?意味が無いなら、どうしてそんな怪我を負ってまで戦うんですか。それが役目だからですか?」
「そうだな、やはり……助けを呼ばれているから……私にできることがある限りは、それに応えたい」

 キースは心底慈しむように夕陽から夜へ水没していく街を見下ろした。ここは全て、キース自身でさえ虚構でしかないのにと怒鳴りたい気持ちをぐっと堪える。睡眠時の脳の働きに文句を言ったってどうにもならない。

「逆に、君はどうしてここに居るんだい?」
「……僕は居たくて居るわけじゃありません」

 そうか、そうだろうね、キースはなんとも言いがたい苦笑を浮かべた。バーナビーの夢の中にバーナビーが居ることに一体何の問題があるだろう。含みのある物言いを追及しようとしたところで、二つの足音が階を上る音が響いてきた。

「スカイハイ!バーナビーさん!持ってきたよ」
「ありがとう!そしてありがとう、ドラゴンキッド!」

 イワンとパオリンだ。パオリンの手には陶磁の大皿があり、大雑把に切り分けられた赤い肉の果実が乗せられている。バーナビーがそれを凝視していると、パオリンは嬉しげに皿を突き出してきた。

「スイカです」
「商隊から買ったんだ!美味しいよ!」

 勢いのまま皿を受け取る。だがテーブルも何も無いこの空間で、この皿をどう処理していいか分からない。バーナビーが困惑している内に、イワンがそっとキースに近づいた。

「スカイハイさん、準備しますか」
「うん。ありがとう、そしてありがとう折紙君」

 怪訝な視線を送るバーナビーに気づいたキースは、ゆっくりと立ち上がりバーナビーの隣に並んだ。バーナビーの持つ皿からイワンとパオリンにスイカを分け与え、最後には自分の分も手に取る。

「不思議だね、この世界は。何故彼らは私やバーナビー君に気づかないんだろう」

 答えは簡単で、これが夢で、そういう決まりをバーナビーの脳が設けたからだ。
 子供のような褒美に片や嬉しげ、片や照れ気味に二人が去るのを見届けて、キースは窓の向こうを振り返った。しゃくり、スイカに口を付けている。その果肉と同じ色の太陽が傾くのに従って、遥か遠方に見える砂浜は赤味のある黄金で輝いていた。

「綺麗だ」
「そうでしょうか……」

 濃淡様々な赤が乱暴なコントラストを作る日没手前の夕空は、不吉な予感を冷凍した一枚の絵のようだ。バーナビーから大切なものを奪う時、記憶の色は大抵ああいう色をしている。

「綺麗だよ。生きていることはいつでも美しい」

 しゃくり、キースはまたスイカに口を付けた。唇の端から伝う果汁を手の甲で拭い取り、子供のように笑う。けれどバーナビーの表情に気づいたのだろう。それは不思議そうな顔に変わった。

「バーナビー君?」
「……それは、死んでいることは醜いということですか?」

 キースはスイカを持った手を窓枠に置く。答えを慎重に選んでいるらしい。目を伏せ、少し沈黙を置いてから口が開かれる。

「いや、生きていることより、もっと美しくなってしまうんだろうね」

 夢だと分かっていて、その中の登場人物たちと会話を成立させようとする行為はどこまで行っても不毛だ。それは結局自分との対話でしかない。しかしこの夢には色があり、味があり、感触があり、バーナビーの知らないはずの答えを持っている。
 バーナビーが何か返す前にキースは食べかけのスイカをバーナビーの持つ大皿に戻した。

「後は食べてしまってくれ。私はもう結構だ」
「こんなに要りませんよ」
「遠慮は無用!そして不要さ!」

 人の話を全く聞かないまま、キースは部屋の隅にある水瓶の蓋を取る。長衣の袖をたくし上げ、木椀で手を洗い、口元を濯ぎ、夕陽に目を細める。屋根が作る影が色濃くキースを塗り潰していて静謐な絵画を描いている。もううんざりだ。どうしてこんなに美しいと感じるんだろう。それはバーナビーがこの夢から目覚めたいと思っているからなのだろうか?目覚めるためには、たったひとつの条件を消化しなければならない。

 再び階を上る軽快な足音が響いてきた。イワンとパオリンを筆頭に、両手に様々な食事や食器、布や装飾を抱えた人々が楼閣に上がりこんでくる。そしてテキパキと何も無い円形の空間を飾り立て始めた。バーナビーの手の皿も素早く取り上げられ片付けられる。ぽかんと口を開けるバーナビーをキースが愉快げに笑った。

「宴だよ。客人は歓迎するのが倣いだ」
「何を……呑気な……」
「できることが少ない時は、無理に抗ったりはしないさ」
「それは嘘だ」

 突然の嘘つき呼ばわりが心外だったのか、キースは目を丸くしてバーナビーを凝視している。しかしバーナビーは口を閉じることができなかった。夢の中だという免罪符を手の中に抱えているせいかもしれない。ただの登場人物でしかないはずのキースに,バーナビーは確かに苛立っていた。

「何の義理も使命も無いのに、無理に抗うからそんな傷を負うんです」
「これは抗ったわけじゃない」
「じゃあ一体何だって言うんですか!」
「望まれたことだ」

 キースに言い募るバーナビーは一応客人の扱いだ。この静かな屋敷のどこに居たのか、多くの使用人たちが不安げな視線を寄せている。キースは彼らを安心させるように笑みを浮かべた。バーナビーの肩に軽く触れ、使用人が用意した背の低い椅子を手で示す。

「座りたまえ、バーナビー君。これは君のための席だ。楽しんでくれ」
「楽しめません。貴方と居ると」
「そうか……そうだね」

 キースの表情は曇ったが、バーナビーは決して間違ったことを言ったつもりはない。毎晩のように夢に現れ、悪夢を残していくだなんて。ひょっとして一年前の自分の行いに復讐でもされているのだろうか。こんな夢もうたくさんだ。ひとまず楼閣から出ようと歩き出す。

「スカイハイ……!」

 階に足をかけたところでパオリンが悲鳴じみた声を上げた。反射で振り返るとキースが苦しげに身を屈めている。立ち竦むバーナビーの隣を黒い影が横切った。ハッと息を呑む。手を伸ばしたが遅い。黒い布を全身に纏った影は木椀をパオリンに恭しく捧げた。それがキースの口元へ運ばれ――

 駄目だ、は声にならなかった。バーナビーの胸中だけで大きく響く。

 胸のあたりを押さえて尚苦しみ始めるキースを前にバーナビーは後退する。パオリンが真っ青な顔でキースを介抱するも、悶絶するキースにその声は届いていないようだ。あいつ、イワンが険しい顔で窓枠に足をかける。その視線の先には黒い布で身を包む人間の影があるのだろう。パオリンが悲痛な声で彼の名を呼ぶ。日没の礼拝を知らせる唱和が、古ぼけた釣鐘を力任せに鳴らした余韻のように、わんわんと響いていた。

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