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Viva La Vida/美しき生命



 鼻を突く匂いに眉根を寄せた。明るい陽光は砂埃と何かの燃える煙とに乱反射して濁っている。喧騒が胸元まで奔流のように押し寄せていた。空気に人の怒号と熱気が満ちている。身を乗り出して気づいた。バーナビーが今居る場所は低い塔の上だ。老若男女が入り乱れる広場を見下ろしている。大衆を掻き分け、前車で引かれてきた大砲の砲身の上に軽やかに舞い上がる影を見つけた。強い風がひとつ吹き、空気を濁す全ての塵芥が一瞬だけ掃き清められる。

「諸君!第二の跳ね橋が落ちたぞ!」

 急ごしらえなのだろう、いびつな比率で青と赤の二色に染め抜かれた旗を男は掲げる。黒い帽子に甘い色をしたブロンド。ブルーの瞳は爛々と陽光を反射している。頬は満ちた熱気につられて紅潮しているように見えた。くたびれた褐色のジャケットも、灰色にくすんだスカーフも、褪せた色のジレーも、よれた黒のズボンも、決して彼の精彩を欠くことに成功していない。

「人は罪なくして王たりえない!」

 大声を張り上げたわけでもないのに彼の声はよく通る。さながら歴史がその瞬間を抜き出すことを、予め決定していたかのように。そしてそういう一瞬こそ後世で一枚の絵となるわけだ――けれどこれはもちろんただの夢だ。首を横に振って馬鹿な考えを振り切る。僕は彼を、額縁から引っ張り出すためにここに居る。

「記章の誇りを忘れてはならない!自由はすでに我々の手にある!」

 彼は帽子に刺している木の葉に軽く触れた。民衆の熱狂は最高潮へ達し、不意にぽっかりと生じた静寂が瞬く間に嵐の中へ帰していく。彼らは口々に文字にならない声を上げて跳ね橋の向こうへと足を踏み入れた。大砲上の人を見失ってしまう一瞬前に、彼は確かに顔を上げ、バーナビーに微笑みかけた。弾かれるように塔の縁から手を離し、身を翻す。白い靄の中には他に七つの塔が視認でき、人々が雪崩れ込む広場を取り囲んでいる。銃撃の音が絶え間なく弾けていた。

「バスティーユか……」

 他の塔や城壁には兵士たちが詰めているが、バーナビーの居る塔だけには兵士の影がない。そのため、この塔には民衆も関心を払っていないようだった。まるで透明人間にでもなった気分だ。これを幸いに螺旋階段を駆け下りる。壁から各階へ伸びている廊下に目を遣りながら、転がり落ちるように地上に近づいた時、耳が話し声を拾い咄嗟に体を壁に沿わせる。

「この塔は封鎖されているようだ。君たちは急ぎ他の塔を。軟禁された名士の姫君がどこかに居るはずだ。ここは私一人で構わない」

 ウィ、いくつかの野太い返事がして荒っぽい足音が遠ざかっていく。近づいて来るのは軽快な足音一つだけだ。ピン、とピアノ線を弾くような音がした。ドアにかけられた閂を、普通の人間には為し得ない方法で真っ二つにした音に違いない。ギイ、重いドアをそっと押す音が石造りの壁を反響する。

「……いませんよ、そんなもの」

 薄暗い塔内に滑り込んだキースは、その瞬間に浴びせられた言葉に目を丸くしているようだ。もしくはバーナビーの突然の出現に、更には肩を壁に強く押し付けられたことに驚いているのかもしれない。

「人々の勝手な妄想とは裏腹に、バスティーユに収監されていたのはたったの七人だ。それも精神を病んだ者や文書偽造の犯罪者……政治犯は一人も居なかった」

 高いところに採光の窓があり、喧騒と陽光をまるで他人事のように垂れ流している。舞う埃がちらちらと陽光を反射し、世界を隔てる薄いカーテンのようだ。バーナビーは陽光の中に有り、キースは影の中にある。バーナビーを見据えるブルーだけがやはり光を灯していた。

「どうして降りてきてしまったんだい。ここは危険だ、ここは。市民たちは興奮しきっている。それを一目見れば……」

 言い淀み、バーナビーが肩にかけている手にキースは軽く触れた。すぐにはその指すところが分からずその視線を追い、自分の姿を見下ろす。腰にはサーベルが下がっており、仕立ての良い真紅のジャケットに意匠の凝ったシャツ、白いキュロットにブーツ、軍帽の下ではご丁寧に髪がリボンで括られている。ようやくキースの言わんとするところを察する。これではまるでこの牢獄を守護する長官だ。

「見つかれば、僕は息の根が止まるほどの大人気ってわけですか」
「参った、そして参った。この夢に限っていつもの服じゃないとは……」

 キースの言葉にハッとする。相変わらず突飛な舞台や状況はもちろん、着ている服など尚更どうでもいいことだ。それにしたって皮肉である。バーナビーはキースを光の中心点にした絵の一枚になりに来たわけじゃないのに。

「これはただの夢じゃない。現実と何らかの繋がりがある可能性がある」
「分かっているとも。何より君がそうだ、何より。この前の夢ではファイヤー君とブルーローズ君が出てきたし……その前は折紙君にドラゴンキッド……それから……」
「そうではなくて!貴方は今、大変なことになっているんです!命の危機が迫っているかもしれないんですよ!」
「その通りだ。市民たちを少しでも落ち着かせなければ……犠牲はより大きなものになってしまうだろう。モタモタしていれば私自身の身も危うい。急ごう」
「だから……っ、とにかく早く目覚めろと言ってるんだ!」
「もう少しだけ待ってくれるかい?」

 肩を掴む力を強くすると、キースはやんわりとその手を遠ざけた。まだ充分に主張を終えていないバーナビーが渋々キースの言葉を待ってやっているのを、申し訳なさそうな苦笑で見つめている。

「誰かが呼んでいるんだ」

 論理的な、順序立てた説明が必要だ。バーナビーは知っていた。彼が整理された情報の中でしか絶対に納得しないことを。納得が無いままにその場を動くことが絶対に無いことを。しかしその言葉を聞いたバーナビーは咄嗟に誰が、と怒鳴っていた。キースは笑みに苦味をもう一匙加える。

「……分からないから探すんだろう?」
「待ってください!話はまだ終わってませんよ!」
「では先に用事を済ませてしまってもいいかな?塔のお姫様を助け出さなければ」
「さっきも言ったはずだ!そんなものはいません!」

 螺旋階段を軽快な足音で上り始めるキースに追い縋った。バーナビーの言葉を聞き流していたキースが、ふと足を止め逆光を背負い振り返る。何故だか少し愉快げな笑みがそこにあった。

「だが君が言ったんじゃないか。『この塔の上に美しい姫でも居れば――』」

 この塔の上に美しい姫でも居れば、もう少し穏便に事が運んだかもしれないがね。

 途中から別の誰かの声が重なった。その誰かは、歴史が昔から好きだと言った。もし自分がそれを作る人間ならばどれだけ面白いだろうか、そう言って幼く孤独なバーナビーを歴史に掘った小さな横穴へと度々連れて行ってくれた。この「もしも遊び」の累積はバーナビーの激情をほんの一時休ませ、やがてそれを誰かと共有する愉快を教えてくれた。

「最近見ている夢は、どれもこれも君が私に話してくれた歴史の話ばかりだ」

 キースとバーナビーの共通する話題と言えば、それは当然ヒーローとして経た事件についてが最も多い。互いにそれを持ち出すことに抵抗は無く、むしろ面白いとさえ感じていた。しかしそれだけで終わっては単なる意見交換に過ぎない。「友人」ならどんな話をするだろう――そうやって思い悩むのも、今にして思えば楽しかった。キースにとってもそうだったのだろうか。僕はあの人が残した物を残すべきか捨てるべきか、未だに決めることができていないけれど。

「だから君だけはいつも、シュテルンビルトのバーナビー君なのかもしれない。巻き込んでしまってすまない、そしてすまない」

 でも今の君は私の頭の中の君で……キースは何事かぶつぶつ呟きつつ体を正面に戻している。再び階段を駆け上がろうとしているので、慌ててその手を掴む。

「すまないと思うなら僕の話を聞いてください。僕は貴方を救いたい」
「――救いたい?」

 救いたい……キースはバーナビーの言葉を小さな声で何度か反芻した。それから心底不思議そうな顔でバーナビーを再び振り返る。

「私はもう君の友人ではないのに?」

 バーナビーは思わず息を止めた。時間も止めた。目を見開いてキースを凝視した。それをどう受け止めたのか、キースはバーナビーが時間を取り戻すよりも早く慌てた様子で口を開いた。

「ああ、いや、失礼なことを言ったかもしれない。すまない。そしてすまない。ヒーローとして救える者を救いたいと思うのは当然のことだ」

 許してくれるかい、何も言わないバーナビーの手をキースは申し訳なさそうな笑みで引き上げ、放す。そしてゆっくりと階段に足をかけ始めた。バーナビーも仕方なくそれを追う。

「バーナビー君。無論私だって命は大事だ。それに私は死ぬわけにはいかないからね。死ぬわけには」
「……何故ですか?」
「私が死ぬということは、スカイハイも一緒に死んでしまうということだろう?」

 カツン、カツン、キースの履いている古い革靴とは違って、バーナビーが石段を蹴るごとに硬い音が響き渡った。螺旋の壁面から横に伸びる廊下にキースは目もくれない。恐らく最上階を目指しているのだ。窓の有無によって、バーナビーの視界の中でキースは影と日向を往来する。

「しかし……大事な物を全て捨てて一人で歩いていくには、生きるということはあまりに寂しすぎると思わないかい?」

 日陰のキースが言う。咄嗟に頷くことができなかった。確かに一人は寂しいかもしれない。しかし一人が寂しい理由は、元々持っていた物を全て取り落として、残ったものが自分だけだからだろう。

「だから彼らも力を合わせて闘っている。一人を生かすより、皆で生きたいと思っているんだ」

 日向のキースはそう言って、足を止めた。螺旋階段はまだ続くが、これより上に行けば塔の上に出るだけだ。彼は横に伸びる短い廊下へ足を伸ばし、覗き窓の覆いを上げることすらせず鉄扉のつがいを風で切断してみせる。扉はパイ生地のようにパタリと地に倒れた。敷地はさほど広くないが、半球状の石造りの天井は高く、採光窓も大きい。そうして独房を見渡し――ギクリと硬直する。簡素な家具に囲まれた中央のベッドに黒く小さな影が腰掛けていた。

「駄目ですスカイハイさん!」

 また反応が遅れてしまった。躊躇わずに少女へ近づくキースを止めようとするが、あと数センチ指先が届かない。また繰り返してしまうのかと顔を歪めたが、キースは何事も無い様子で帽子を取り、胸に当て礼をして、ベッドの傍に膝をついた。

「アイシャ、君だったのか」

 深く被っているフードをキースがそっと上げる。しかし既に涙に塗れた彼女の顔は、すぐにまた彼女自身の両手で隠されてしまった。そのまましきりに首を振っている。

「君がずっと、私を呼んでいたんだね」
「ちがう……ちがうの、わたし……呼んでなんかない。アレクもメイもジュドも、呼んでなんかないの……!わたし、ほんとに死神なんかじゃない……!」

 唐突に出てきた名前は恐らく彼女の友人たちのものだろう。この夢とキースの昏睡に関りがあるとすれば、その鍵は彼女が握っている。その推測を信じてバーナビーは眠りに落ちた。しかし彼女の主張によれば、この夢は彼女の故意の上には無いらしい。そもそもこれは誰の夢なのだろう。誰にとってもきっと悪夢でしかないこの夢は、一体どうして毎晩毎晩バーナビーの元を訪れるのか。

「ただ死神から逃げてただけなのに、どうして……」
「死神から……逃げていた?」

 思わず声を上げると、アイシャはハッとバーナビーに目を合わせ、ただでさえ小さな体を更に小さくした。以前の夢で敵意を隠さずに彼女を追いかけたことに怯えているのかもしれない。

「そうさ、君は死神じゃない。君はアイシャだろう?」

 何を言っても徒に少女を怯えさせるだけのような気がして逡巡していると、キースがその沈黙に柔らかい声を滑り込ませた。確かに死神とは怖そうだ、恐ろしかっただろう、アイシャの手を取ってその目を覗き込む。正直者には安心を、嘘つきには罪悪を、ひねくれ者には焦燥を与えるスカイブルーだ。

「わたし……」
「うん」
「わたし、こわいの……死にたくない、死にたくないの……!」

 嗚咽に喉を引きつらせ、苦しそうに声を詰まらせながらアイシャはキースに抱きついた。その背をキースは優しく撫でている。それからいつかも見たように軽々と抱き上げて、幼児をあやすようにその場を何歩か行き来する。

「君の病気は、君の体が大きくなるのに合わせてゆっくり回復していく病気なんだ。私の勝手な希望じゃない。お医者さんがそう言っていたんだ」
「知ってるわ!でも!でもそれじゃ……ゆっくりじゃきっと間に合わない!」
「不安かい?じゃあ体が強くなるまで、ここを強くして待っていようじゃないか」
「……ここ?」

 左側の背中をトントンとノックされたアイシャが、不思議そうな顔を起こした。すっかり赤くなってしまった瞳でキースを凝視している。ここだよ、今度は正面からキースは彼女の左胸を指で示した。

「君が何かを考える時は頭を使うだろう。でも驚いた時や嬉しい時、恐ろしい時や期待でいっぱいの時、一番にここが動くと思わないかい?考えは頭にあっても、心はきっとここにあるんだ」
「つまり……それは、どういう意味ですか」

 思わず声を上げたバーナビーをキースは嬉しそうに振り返った。だから心が強いってことは心臓も強いってことだろう、いたずらっぽい笑みに思わず脱力する。アイシャも涙を湛えた瞳をきょとんと丸めていた。キースはその表情をやはり嬉しげに覗き込んでいる。

「逃げずに、立ち止まってみてはどうだろうか。逃げずにね。案外、話してみると死神も気のいい人……いや、神?だろうか……ともかく、友人になれるかもしれないよ」
「でも、」
「もしまた逃げたくなったら、死神が君にひどいことをしようとするなら、私を呼んでくれ。必ず駆けつけてこうして……助けてみせるさ、必ず。こうしてね」

 キースはもう一度アイシャをぎゅっと抱きしめた。大丈夫、何度も彼女にそう言い聞かせている。アイシャも彼の肩口に頬を摺り寄せた。

「ごめんなさい……キース」
「せっかく塔のお姫様を救い出したのに、そんな言葉しかくれないのかい?」
「……ありがとう、スカイハイ」
「どういたしまして、そしてどういたしまして!」

 キースの満面の笑みを見ることができただろうか、アイシャの姿は瞬く間に透過されていき、ついには採光窓から降り注ぐ昼の陽光に溶けてしまった。抱きしめていた腕をキースがそっと降ろす。知らず内にひとつ息をついていた。

「これで終わった……んでしょうか」
「さあどうだろう。全ては夢のできごとだ」
「どちらにせよ目覚めてみる必要があるということですね。もういいでしょう。起きてください」

 子供とはいえヒーローの重大機密が漏洩してしまったじゃないですか、大体貴方は僕の話を少し聞くべきだ、小言をいくつか連ねていたがふと口を閉じる。キースが何か言いたげにバーナビーを見つめているのに気づいたからだ。

「……何か?」
「私も目覚めようとは思うが……どうやって?」

 呆れたような笑みでキースは両手を開いて首を傾げてみせた。それからその話は終わりとばかりに、思案するように口元に手を当てる。参ったなお姫様が消えてしまった、暢気な呟きに言葉が出ない。どうやって――バーナビーは今までの経験上、ひとつしか解答を知らない。

「来たぞ!ワイルドタイガーだ!無事かスカイハイ!」

 バタン、倒れた鉄扉を荒々しく踏みつける音が大きい。聞き慣れた声に反射で振り返ってしまう。しかしそこにはいつもの親しげな表情はなく、抜かれた剣の切っ先はバーナビーに向かっていた。

「コソコソ抜け出して何してるかと思えば……抜け駆けはナシっつったろ!」
「ワイルド君……!」
「ヤバくなったらさっさと逃げて俺たちを呼べってのも言ったはずだぜ」

 虎徹のくたびれたジャケットは褪せた緑色だ。市民軍に協力した退役兵というところか。隙なくバーナビーに注意を払いながらスカイハイへの元へ歩み寄っている。彼が動く度に剣が陽光を反射してきらきらと光った。

「スカイハイがわざわざ追っかけたってことは、よっぽど大物だな?」
「ワイルド君違うんだ、彼は……」
「悪いけどな、詳しい話聞いてる場合じゃねえんだ。コイツらを早く落とさねえと……下でもどんどん仲間が死んでる」

 来る、その判断は間違いではなかった。バーナビーが一瞬前に居た場所には剣が突き出されていた。もしそのままその場に残っていれば、バーナビーの心臓を正しく貫いていたことだろう。

「虎徹さん……!」
「……なんで俺の名前知ってんの。俺ってそんなに有名人?」

 軽口を叩いてはいるが、目は少しも笑っていない。思えば、バーナビーが未熟さ故に虎徹を敵視してしまったことはあっても、その逆は今まで一度も無かったのだ。第二撃をなんとか躱しそれを痛感する。第三、第四、虎徹の手に容赦は無い。

「バーナビー君!駄目だ!彼は『外の』彼じゃない!剣を抜くんだ!」
「でも、」
「そうそう。サン・キュロットだからって……甘く見ない方がいいぜ?」
「早く!」
「でも、僕には、」

 都合良く武器もある。詳細はよく分からないが虎徹はハンドレッドパワーを発動していない。もしその両方を活用すれば、勝機は明らかにバーナビーにあるだろう。しかし虎徹の持つ敵意をそのまま返してしまうことに強い抵抗があった。ロートルで効率も能率も悪い。けれど彼は常に人のために動いている。

「君が抜かないのなら私が抜く!」

 ついに体まで動かなくなったバーナビーをキースは押しのけ、虎徹の剣戟を己の剣で受け止めた。それを呆然と見つめているのはバーナビーだけではない。一瞬目を丸めた虎徹は、しかし尚バーナビーに迫ろうとしてキースに阻止されている。

「スカイハイ!?お前どーしちゃったんだよ!」
「君こそどうかしている。夢の中の君とはいえ、相棒だろう!」
「はあ?お前どしたの?どっかで頭でも打ったのか?」
「お願いだ、剣を引いてくれ!」
「お前が引いたら俺もとっくにそうしてるよ!」

 ガチン、ガチンと重い音を立てて二振りの剣が噛み合う。激しい打ち合いは時間が長引くにつれキースの優勢に傾きつつあった。どちらも容赦は無い。このままでは必ず一方は深手を負う。更に悪ければ――

「うわっ、」

 後退を強いられていた虎徹が、床に倒れていた鉄扉に足を取られよろける。キースがそれに気づいたのはその一瞬後のようだった。既に剣が振り下ろされようとしている。足が勝手に床を蹴っていた。

「あ……」

 言葉とも言えない弱々しい一音が自分のものだと気づくのに数時間をかけたような気分だ。虎徹の代わりに剣を受け止める、反射神経はそのためだけに総動員されたはずだった。しかしこの腕に伝わる鈍い感触は、伝わってくる生ぬるい温度は何だろう。脳が理解を拒んでいる。

「よかった。きみが、」

 カーンカーンカーン……――何時を告げるどの時計塔の鐘だ。やけに大きな音である。脳内の蔵書を紐解けば記載が見つかりそうだが、今は全ての機能が麻痺してしまっていた。人々の喝采が鐘の音に交じる。この部屋はこんなに静かなのに。カツン、ブーツが小さな音を立てた。知らず後退している。心がそこにあるなら、そこが止まってしまえば心はどうなるのだろう。

「きみが、しななくて、よかった」

 空気を多く含んだかすれた声を発するキースは、確かに笑みを浮かべていた。

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