文字数: 73,568

Viva La Vida/美しき生命



 ひとつ呼吸をすると、甘く湿ったような空気が肺いっぱいに取り込まれた。少しだけ夜の気配を残した涼やかな風がでたらめに駆け回り、バーナビーの髪を掻き撫ぜる。東の空の果てでは眠る前に落ちたばかりの太陽が顔を覗かせていた。女神を象ったタワーや高層ビルの輪郭を黄金の線がなぞり、朝の影絵を描いている。風景から察するに、バーナビーが今立っている屋上はウエストゴールドのどこかの高層ビルということになろうか。

「今度は……シュテルンビルトか……?」

 18世紀からかなりの時間を飛躍していることになる。そう考えて苦笑した。今までバーナビーもキースもたったの一度だって現代のシュテルンビルトを出たことはないのだ。これは全て夢なのだから。むしろもっとも身近な舞台が選ばれたはずなのだが、妙な違和感が胸のあたりをざわついている。思わず襟元から胸元の辺りを手で触れた。

「いつもの服だ……前の夢で困ったからか、もしくはここがシュテルンビルトだからか」

 いつものジャケット、シャツ、ズボンにブーツ。バーナビーの中には既に完成間際の推測があり、後はそのプディングが冷えるのを待つだけだ。敢えて考えを口に出すのは、その確認作業に過ぎない。

「なんだ……?何か音が……」

 朝の静寂に包まれているはずの世界に、微かに音楽があることに気づく。風音が聞き覚えのある曲を途切れ途切れに伝え、その音量は次第に大きくなっているように思えた。そこでやっと、バーナビーは違和感の正体に気がついた。シュテルンビルトにしては静か過ぎるのだ。早朝の高層ビルの屋上だからでは片付かない程に、人の気配を感じることができない。曲を記憶の譜面と照らし合わせようと、屋上の縁にある低い塀に手を当て身を乗り出す。そこに必ずあるはずの車や人の動きがまるで見えない。それだけで全く違う街を見下ろしているかのようだ。

「バーナビー君」

 突然、すぐ間近に人の気配が生じてさすがに驚く。聞こえた声に従って目を上げると、バーナビーの立つビルの上空にヒーロースーツのスカイハイが浮かんでいた。水彩で描かれたようなパステルカラーの陽光を柔らかく弾くその白い姿を随分久しいものに感じる。彼のHERO TVからの不在は、現実の時間にしてみれば一週間程度のことだが。

「スカイハイさん!今度こそ僕の話を……!」
「私は、どうすればいいだろうか」

 今まで一度も聞いたことのない、暗く沈んだ途方に暮れた声だった。思わず言葉を止めてしまう。風が吹き、また一段と音楽の音量が上がった。スカイハイのスーツの裾がバタバタとはためくその隙間にフルートの音が混じる。

「これは……『朝の野を歩けば』?」
「毎度死んでしまう君を守れて嬉しかった」

 何かの歌曲集に収録されていた曲名をなんとか記憶から掬い上げた。しかしスカイハイはバーナビーの言葉などまるで耳に入っていないようだ。放っておけば私の夢は君を失ってしまう、続いた言葉にバーナビーは益々言葉を失うほかにない。

「ここはシュテルンビルトだ。とうとう私は守るべき街に辿り着いた、私の守るべき街へ!ついにここへ帰ってきたんだ!」

 オペラのように大げさに芝居がかった風情でスカイハイは両手を広げた。風音も男声の独唱も耳障りなほど大きくなっていく。風で乱れて流れる髪の毛を片手で掻き上げた。

「……けれどここには誰もいない。誰の声も聞こえない」
「一体……一体!何を言ってるんですか!貴方は……!」
「誰も助けを求めていないんだ!」
「スカイハイさん!」
「誰も助けを必要としていない世界で、一体……私にどんな意味があるだろう」

 スカイハイのマスクには明確に「目」をデザインしたパーツが無い。顔は確かにバーナビーと向き合い、声もバーナビーの耳に届いている。けれど、果たしてその視界の中に自分は居るのだろうか、バーナビーには確信が無かった。

「私が飛ぶ意味はあるのだろうか」

 ひゅ、自分の息を止める音がやたら大きい。バーナビーの周囲は今や騒音が取り囲んでいるのに。耳を塞ぎたくなるような音楽の中、対照的に静かな印象を残してスカイハイはその浮力を失った。反射で腕を伸ばすが、やはり届かない。

「クソッ……!」

 躊躇いは無かった。塀に足をかけ、能力を発動させてそれを思い切り蹴って落下する。ビルの側面を蹴りながら、先に落下するスカイハイに迫った。

「貴方一体……なんなんですか!突然何を言い出すかと思えば!ジェットパックが故障したんですか!?能力が使えないんですか!」

 Kling!Kling!一体どこから聞こえているのか、頭が割れそうな音量で高らかに鐘の音が歌われる。スカイハイは重力に抵抗する素振りがまるでない。バーナビーの声が届いた様子すら見せない。それがとにかく悔しく――寂しい。

「なんとか言ってください!これは夢なんです!きっとなんとでもなります!ジェットパックを動かしてください!ついでにこの曲も止めて頂けますか!」

 手を思い切り伸ばす。今度こそ間に合わせる気しかなかった。体に沿うようにしてなんの動きも見せていなかったその腕を強く掴む。手繰り寄せるようにもう片方の腕も掴んだ。空気抵抗が大きい。どうせならヒーロースーツであれば良かった。ハンドレッドパワーのおかげで視力には問題ないが、眼鏡はどこかへ飛んでしまっている。ちゃりちゃりと首もとのネックレスが躍る。目を開けるのも口を動かすのも一苦労だ。

「僕が見えませんか!」

 いくら高層ビルとは言え、ほんの数十秒のはずなのにやたらと長い時間をかけているように感じる。夢だからこそなのか、空気抵抗が加味されているのか、最早冷静に考えることができない。階層を作るゴールドのプレートを横切ったようだった。階層を跨ぐ「タワー」と名のつくビルだったのか。

「追いかけてきたんです!謝りたくて!僕は間違ってしまった!」

 何の反応も無いことがもどかしく、スカイハイの銀色のマスクに手を伸ばした。小さく声が漏れたので気を失っているというわけでは無いらしい。

「意味ならあります!」

 勘だけを頼りに手探りで触れていると、幸いにもすぐにそのマスクを引き抜くことができた。丸く、小さく縮められたブルーの瞳を覗き込む。マスクを勢い良く放り捨てた。良かった、ちゃんと瞳の中には僕がいる。

「無ければ困ります!僕は気づいたんだ!もう一度、」

 ブロンズまでは根を下ろしていないのだろう、地上が近い。時間が無いのに声が詰まってしまった。もう一度僕と友人になってください、何もかもを振り切るように叫ぶ。

「僕は貴方と一緒に生きて行きたいんだ!」

 キースの頭を庇うように抱き寄せた。能力がある限りは多少の衝撃には耐え得るはずだ。夢の外であれ中であれ、一度決めたことを曲げるわけにはいかない。あんな夢の終わりはもうごめんだ。

 衝撃を覚悟した瞬間、その決死の気分とはまるで裏腹に腕をとんとんと叩かれた。そうかと思えば全身にずんと重たい重力がかかり、物理法則を遡っていく。

「なんだか」

 キースの頭を抱えていたはずが、今は振り落とされないようにその首にしがみ付いている格好だ。呟いたキースと珍しく目が合わない。いつどんな時でも相手の目を見て話す人なのに。見えない天蓋を突き破るように朝の陽光の中に浮き上がる。いつの間にか音楽も、暴風も止まっていた。言葉も感情も全て取り落としてしまったバーナビーにキースはゆっくりと視線を戻す。少しだけ恥ずかしげな表情だ。

「……愛の告白みたいだったよ」
「は!?」

 バーナビーが反射で大声を上げると、驚いたらしいキースはまたも眼を丸めた。しかし何度か瞬きを繰り返すうちにそれは柔らかく朝のパステルカラーに解けていき、昼の色まで持ち始める。簡単に言えば、バーナビーにはやはり彼が輝いて見えるのだ。特に、その笑顔が。

「……あの」
「い、いや……はは……すまない……ふふ……」
「悪いと思うなら笑うのをやめてもらえますか」

 からかわれているような気分がして気に入らないが、その苦言は本心から乖離している。それを知ってか知らずか、キースにはバーナビーの要求を聞き入れる気が全く無いようだ。バーナビーが顔をしかめても気が済むまで笑い続けている。

「そうか……これは、夢なんだね」
「だから何度もそう言ってるでしょう」
「少し惜しいと思って、少しね」
「安心してください。起きてみればそれが杞憂だと分かりますから」

 やっと笑みを止め、きょとんと不思議そうな表情を浮かべるキースにため息を吐き出してみせる。目覚めた時になんと声をかけてやるのが一番効果的な仕返しになるか、今から考えておかねばなるまい。

「ここには誰もいないけれど……美しい青空だ。まるで気づかなかったな、まるで」

 ふう、ひとつ深呼吸をして、身を起こそうとしている朝の陽にキースは目をやった。それから、眩しげな笑顔のままバーナビーに視線を戻す。

「君が来てくれたから、美しく見えるのかもしれないな」

 朝の陽光を浴びて淡く輝くシュテルンビルトを慈しむスカイハイの画は、さぞ美しい一枚の絵に違いない。けれどキースの能力にしがみつき彼と抱き締めあい、彼のすぐ隣で同じものを見ているバーナビーには確認しようもないことだ。

「……貴方も」
「え?」
「それじゃ愛の告白だ」

 我慢できずにひとつ笑みを漏らすと、キースもまた光を惜しみなく取りこぼした。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。