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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 さて、この冒頭に登場するのは一人の名も無き──ということになっている軍人男性だ。かつて少しだけ登場したが、今後は恐らく登場する予定はない。簡単に彼のことを紹介するなら、何の変哲もない軍人である。変哲の塊のような隊に所属し、他の多くの隊と違って真剣の帯刀を許され、奇怪で壮絶な経験をたらふく喰わされもう二度とおかわりしたくないと心底思っているが、己の評価をまとめると変哲のない軍人に落ち着いてしまうし、今日の休暇が終わればまた苦しい思いをして任務にあたることが決まっている。ごく一般的な第二特別機動隊の隊員だ。

 他の隊に配属されたことが一度も無いので他のことは分からないが、鬼殺隊というのは基本的に報われない仕事だ。任務の内容は徹底的に国民の目から隠されるので、まず感謝をされることがない。軍部内でも情報を秘匿されているから、何をやっているのか分からない不気味な隊扱いされて様々な都市伝説をまことしやかに噂される。同僚の軍人たちからも色物のように見られがちということだ。別にそれは構わない。軍人男性にも戦う理由があって、己の仕事を誇って生きているから気にしない。

 しかしそうは言ってもたまに少しくらいは報われたい。そういう時、お手軽に報われたような気持ちにさせてくれるものとして、軍人男性は不純な動機で映画を見る。ジャンルはもっぱらアクション物、ハッピーエンドが確約されているものだ。主人公に感情移入して手に汗を握り、大団円に良かった良かったと満足して明日からまた頑張る。それがここ数年の楽しみになっていた。不純な動機と言ったってかわいいものだろう。少なくとも、二つ隣の席で映画を全く見ずに隣に座る青年の顔ばかり見ている少年よりは純粋に映画を楽しんでいるはずだから、誰にも責められるいわれはない。

 その映画は封が切られてもう一か月も経っていて、そこそこ話題にはなっているけれど大流行というほどもなく、今日の新作ラッシュに押し負けたのか人の入りはまばらだった。休暇の度に見に来てすっかり見飽きたCMを避けるために上映ギリギリに最後列の席に着き、ひとつ空席を挟んで隣に座る少年に見覚えがあることに気が付いた。そしてその更に隣に見覚えがありすぎる顔を見つける。なんなんだこの偶然は、すごく気まずい。しかしひとつ席が空いているおかげで向こうはこちらに気づいた様子も無いし、映画が始まればそちらに熱中するだろう。エンドロールの最中に静かに立ち去れば顔を合わせることもあるまい。少年にとって自分が映画館で再会したい顔であるとはとても思えなかった。

 しかし、この見通しはやや甘かった。

 最初は良かった。幼い娘を抱えた国の特殊機関で働く女性が別れた元旦那を巻き込みながらテロリストと戦う、というような家族の愛情を入り交ぜた王道のアクション映画だが、飽きさせない展開や映像が続いていて楽しめた。隣の少年も楽しめているだろうか──そんなことを考えてしまったのが運の尽きである。

 前述の通り、少年は映画のスクリーンを最早全く見ていなかった。スクリーンに青白く照らされた青年の顔をじっと見つめている。何故なんだ。記憶の限り、この二人に書類上の接点はあっても顔を見合わせる機会は無かったはずだ。ひょっとして少年の優れた嗅覚のせいだろうか──そう思っているところで、少年の左手が膝の上から少し離れたり、戻されたりを繰り返している事に気が付いた。ひょっとして声をかけようとしているのだろうか。それはせめて映画が終わってからのほうが。しかしそこではたと気が付く。座席の間に置かれているプレートは二人分の飲み物とひとつのポップコーンを乗せてあった。あれ、知り合いなのか?

 少年は一度正面に顔を戻したがやはりスクリーンを見ておらず、緊張した面持ちを俯かせている。そして思い切り息を吸い、そっと左手を伸ばし──膝の上に置かれている青年の手の甲に重ねた。スクリーンをいつもの無表情でじっと見上げていた青年が瞬きをして視線を落とす。そして一切表情を変えないまま、手をくるりと裏返し、ぎゅっと少年の指の隙間から指を出して握った。顔がスクリーンに戻る。

 少年は背筋をピンと伸ばし、かわいそうなほど音もなく動揺している。しかし軍人男性は誰かに俺も憐れんでほしいと思った。一体何を見せられているのか。軍人男性もこの上なく動揺しているし、せっかくの映画に最早集中できない。というかなんでそこで映画に集中できるんだ。柱だからなのか。

 しかし少年はともかく、軍人男性は覗き見の傍観者に過ぎないのだ。千八百円も払ったのは映画を見るためであって、人の私生活に首を突っ込むためではない。見なかったことにしようと映画に意識を集中する。しようとしていた。

 しばらくして、ふっと息の漏れるような気配がして思わず目を横に流してしまう。青年が少年を見下ろしていた。表情はほとんど変わらないが少し緩んでいるように見える。

 映画より面白いのか。

 周囲に聞こえないようなほんの小さな囁き声のあと、相変わらず軍人男性に後頭部を見せている少年の額に口を付けたようだった。そしてまた何事も無かったようにスクリーンに戻って行く。

 映画館ではお静かにしてほしいし、うっかり目が合ったりしなくて良かったと心底思った。今日ばかりは存在感が薄いという同僚たちのいじりを喜んで受け入れよう。そして少年の心中を察して哀れにも思う。きっとあれじゃあ、映画が終わっても映画の話で盛り上がれないだろう。少年がこの映画を見返し、母親が娘への愛情を示すために額にキスをする感動のシーンを真似ただけだと気づくのはいつの日やらだ。

 軍人男性は思う。まあ、映画の楽しみ方は人それぞれだ。人それぞれで、報われるものがあれば作った人もまた報われるんじゃないか?投げやりな気持ちで思う。どうせ俺は一人で見に来てますよ、だなんて微塵も思っていない。本当に。

 偶然、こんな残され方があるかよという場面に立ち会ってしまった二人だった。その二人が苦しみにのたうち回っても生きて、何か報われたものがあるなら、軍人男性の仕事にもきっと意味はあるのだ。今日の映画の記憶はすっかり歯抜けになってしまったが、まあ明日からの仕事もそこそこ、頑張れるだろう。

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