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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



『天国はきっと毎日晴れていて、あたたかくて、優しいところだよ』

 そう言ったのは誰だったか。先輩も、同期も、後輩も大抵が皆死んだからもう分からない。ただ、いつも言うことがふわふわしている奴だった気はしている。

『だってそうでないと、浮かばれない。行ってしまった人が浮かばれないから』

 お前も今はそういうところに行けたのか。お前も皆も、姉さんも、  も──

 ぱん、と頬を張られたような衝撃を受けた気がして義勇は目を見開いた。咄嗟に起き上がり、内臓が軋むような痛みに呻く。動くな、戻れ。落ち着いた低い声は鱗滝のものだった。既視感のある状況に思わず日時が分かるものを探したが、病室にそれらしきものはなく、分かったのは時刻くらいだ。だが日時が分かったところで何だと言うのか。目覚めたのが一日後だろうが三日後だろうが、失ったものが回帰するわけでもない。大人しく頭を枕に沈めた。

「どのくらいかかりますか」

 自分でも驚くほど声がひび割れていた。唇が渇いている。随分眠りこけていたらしい。ここ数年ではほとんど大きな怪我を負わなくなったと思っていた矢先の失敗だ。新米の隊士の代わりに鬼を引き受けた際に攻撃をさばききれなかった。なんとか利き腕だけを庇えたのは不幸中の幸いだ。傷が癒えればまた戦える。

「義勇、しばらくお前は任務に就かせない。お館様に話は通した。お館様も同じお心だった」

 しかし、その考えを読むような鱗滝の言葉に眉根が寄った。「お館様」は軍部の第二特別機動隊、通称鬼殺隊の司令長官だ。時代がかった呼び名だが、鬼殺隊が軍外にあった時代の名残だと聞いている。鱗滝もかつては鬼殺隊の一員だったが、退役してから後、老兵は消え去るのみと軍部と関りを持つことを極力避けていたはずだった。それがいきなり司令長官への直談判などと聞いて、さすがに驚かずにはいられない。

「分からないか」

 義勇の表情にも匂いにも混乱が渦巻いていたに違いない。鱗滝にそう問われ素直に頷きを返した。この程度の怪我ならこれまでにも何度もあった。鬼殺隊は国民を余計に混乱させぬよう、秘密裏に人ならざるものと戦わなければならない。死と隣り合わせであることは当然で、力ある者こそ前線に居なければ未来ある者たちの命がひとつ、またひとつと失われてしまう。

「少なくとも傷が癒えるまでは戦えないだろう。受け入れろ」
「……はい」

 腑には落ちていなかったが、上司と恩師の命令を受けた以上は軍人として逆らうわけにはいかないだろう。今回の怪我によって義勇の技量が疑われ、懲罰の対象にでもなったのかもしれない。それならそれで仕方がない話だ。一日も早く回復し、更なる鍛錬を行う必要がある。

「義勇」

 眠りに舞い戻ろうとした義勇を鱗滝が押し留めた。お前が庇った隊士は助かったそうだ、そう言い残して鱗滝は病室を出て行く。看護師を呼びに行ったのだろう。目を閉じると長く深いため息が出た。

「義勇さんと呼ばせてください義勇さん!お願いします!お願いします!!」

 もう呼んでいるようなものだと思うが……。

 秋が深まり病室の窓から紅葉が望めるようになった頃、突然鱗滝から持ち上がったのがこの眼前に必死の形相で迫ってくる少年との「結婚」話だ。初めは鱗滝の頭がどうにかなってしまったのではないかと本気で心配していたが、いつの間にかこうして顔合わせまで済ませてしまっている。

 この炭治郎という少年は、妹と二人で孤児となったところを鱗滝に拾われ、その後鱗滝のツテで煉獄家の養子に入ったらしい。鱗滝はこの少年のことを「優しすぎる子」だと言っていた。幸か不幸か己の家族が人ならざる者に奪われたことを知らないから、知らないでいられる道に進んだほうがいいと思っているとも。

 大きくて丸い瞳が眼前にあった。澄んでいるな、と思う。近づいてきて分かったが瞳には赤みが差し、磨く前の原石のような不可思議な色で光っている。それでいて小さな鼻や口元には愛嬌があり、額に大きく広がる痣を補って余りある。緊張していると馬鹿正直に言っていた。だから義勇の言葉も頭に入ってこないと。そんな調子だから本人は気づいていないのかもしれないが、勢い余った炭治郎の両手は義勇の右手を握り込んでいた。少年らしい高い体温の、柔らかく少し湿った手のひら。生きているからこその温度。鱗滝の見立て通りきっとこの少年は素直なのだろう、ほんの数分で義勇はそれを悟った。

 素直で健気だ。最初は腰を抜かすほど動揺していたというのに。見ず知らずで六歳も上の男と見合い話が持ち上がり、更には無愛想で口も回らない相手をいよいよ目の当たりにする──緊張と恐れで足が竦むのは想像に難くない。きっと煉獄家側でなんとかこの話をうまく持って行かなければならない事情でもあるのだ。

 煉獄家の長子である杏寿郎は鬼殺隊隊員でありながら第一師団で中隊長も兼務している。身寄りや家柄のある者、他に秀でた知見や技術を持つ者は対外的な役職として別の隊を兼務していることは珍しくないが、その中でも更に多忙を極める男だ。歳の離れた弟はまだ幼いと聞いているので杏寿郎の補佐として育てられているのかもしれない。そこまでで推測がぴたりと止まる。そんな男が義勇と婚姻したとして果たして何の利があるというのか。

「……とにかく。分かったから、静かにしろ」
「はい!」

 いつ看護師が飛んできてもおかしくないくらいの大声で返事を返される。呆れつつどうしたものかと考えていると、ふと炭治郎が義勇をじっと見つめていることに気が付いた。瞳の中にも手のひらに感じるような熱が籠っているような気がする。緊張し過ぎて知恵熱でも出たのか。むしろこちらから看護師を呼んでやるべきだろうか。ナースコールに手を伸ばしたいが自由になる手が無い。

「俺は鼻が利くんです」

 唐突の言葉に面食らう。鱗滝も鼻の利く男だ。隊員内にも五感が人の何倍も強い者が複数いる。想像の難しい話ではなかったが、話の脈はまったく見えてこない。

「貴方の匂いは、不思議です」

 匂いが不思議、とは。鱗滝にもそのようなことを言われたことはない。特に今は鍛錬ひとつさえできない状態だから、いつも纏わせている汗と血の匂いもしないだろう。それともよっぽど染みついているだろうか。腰を抜かされるほどに。自分では自分がどんな匂いをさせているかなど分からない。

「どこかで嗅いだことがあるような気がする。でも思い出せないんです。微かで、静かなのに、柔らかくて優しくて。それから、少し寂しい。鈴蘭みたいな匂いがします」

 炭治郎の言葉は、どこかうわ言のようで曖昧だ。少なくとも恐れられてはいないように聞こえるが、何と返していいかもさっぱり分からず手のひらを包み込まれたまま硬直している。しばしの沈黙。それから炭治郎がまた美しい角度で頭を下げた。手がパッと離れていく。

「また来ます!失礼します!」

 走り去るほどの勢いだったが、ここがどこだか一応は覚えていたのかドアを閉じる音は静かで丁寧だった。義勇は数分ほど放心していたが、ふと肌寒さをを感じて右手を伸ばして窓を閉ざす。紅葉を撫でるように己の右手が眼前を滑っていった。

「……鈴蘭?」

 試しに右手を鼻に近づけてみたが何の匂いもしない。ぬくもりだけがそこに残っている。

 炭治郎と毎日のように顔を合わせるのが当たり前になって早一か月。秋もそろそろ終わりの頃だ。美しい紅葉も風が吹く度に宙に舞っては地にはらはらと零れていく。

 再三要求してきた退院の許可がとうとう出ることになった。左腕はまだ完治していないので固定されたままだが、左脚は右脚とほとんど変わらないくらい動かせている。左腕を治すだけならわざわざ病室を占領する必要もない。主治軍医兼同僚には「医者には不良患者をベッドに縛り付ける権限を与えるべきだと思いません?」と同意を求められたが、全くそうは思わないので聞かなかったことにした。数年前の怪我で、退院許可の前に病院から出て鍛錬を始めたことをまだ根に持っているようだった。

「終わったらすぐに向かいますから!絶対に待っててくださいね!」
「予科生も暇じゃないだろう。別にわざわざ……」
「絶対ですよ!」

 いつの間にか主治医とも看護師とも親交を深めていた炭治郎は義勇より早くに退院の日を知っているくらいだった。この調子で、絶対に自分が付き添うと言って聞かず、鱗滝には炭治郎が来るなら任せようと突き放され、主治医も炭治郎が迎えに来るものとして最後の検診の日程を決めてしまい、義勇に他の道は残されなかった。これが人徳の差と言うのなら、残酷なほどの隔たりが義勇と炭治郎との間にはありそうだった。心外だ。

「俺が持ちます!毎日鍛えてますから!なんでも頼ってください!」

 義勇が何かを言う前にさっさと炭治郎は義勇のスポーツバッグを肩にかけた。仕方なく義勇は刀を収めた肩掛けだけを持って後に続く。お世話になりました、と行き交う様々な人びとと笑みを交わしていく様は、まるで炭治郎が患者だったかのようだ。

「遅くなっちゃいましたね……すみません」

 生ぬるい空気で満ちた病院の自動ドアをくぐると、ひやりと冷たい風が頬を撫でた。士官学校を終えた炭治郎が病室に転がり込んできたのは既に七時近くだったので、晩秋の陽はすっかり沈みきっている。

 夜になるといつも心がざわつく。こうしてのうのうと歩いている間にも誰かの命があっけなく奪われているのかもしれない。義勇の弱さのせいでまた人が死ぬのだ。それもただの人から死ぬのではなく──

「義勇さん」

 姿勢正しく前を歩いていた炭治郎がふと振り返って微笑む。ひとつの角もない柔らかい声だ。返事の代わりにじっと見下ろすと、何故か照れたように目線が下がる。二三、何かをためらうような間が空いて、炭治郎はまた口を開いた。

「足は大丈夫ですか?」
「ああ、もういい」
「よかったです。じゃあ……その、少し急げますか?風邪を引いてしまったら良くないですから」
「分かった」

 ひとつ、深く息を吸って何をするのかと思えば、左手が伸びて義勇の右手をぐっと握り込んだ。思いのほか強い力でぐいと引かれて、少しだけ歩幅が大きくなる。義勇の怪我を慮っているのか歩む速さはほとんど変わらないが、炭治郎の肩には不自然に力が入っているように見える。耳が赤いので寒いのかもしれない。しかし、それにしてはやたらに手のひらが熱い。炭治郎のほうこそ風邪を引いたのではないだろうか。

 遠い過去にもこうして、引っ張るように手を繋いだことがよくあった。競うように走ったり軽口を叩きあったりしながら野山を鍛錬のために駆け回り、あっちだこっちだと手を引きあって罠を避けた。他にも仲間は居たが、一番近くに居た。無二の友だったと思う。生まれた時から共にいる家族のようだと錯覚する時すらあった。兄貴分ぶって浮かべられた仕方なさそうな笑みを振り返り、その名を嬉々として呼んだ。

「義勇さん!」

 着きましたよ、屈託のない炭治郎の笑顔にはっと我に返る。一体自分は何を考えていたのか。ひどく気分が重い。ああ、義勇が溜息のような返事をひとつ返すと、炭治郎の笑顔が少し陰った。無理させてしまいましたか、と問われて首を横に振る。いくら体が鈍っていても、これくらいの運動で音を上げては鬼殺隊は務まらない。

 この時間に都心に戻る電車に人影はまばらだ。炭治郎はまだ義勇を疲れさせたと思っているのか、いつものおしゃべりが鳴りを潜めていた。電車がレールを踏む音だけが響く。炭治郎はピンと背筋を伸ばして座っていて、窓の外に流れるまばらな光をじっと眺めている。ただ左手だけが義勇の右手を掴んだままだった。匂いから義勇の気分の重たさを察したのかもしれない。「優しすぎる」という鱗滝の言葉は、本当に的を射ている。

 死ぬのだいつも、義勇のそばにいる優しい人は。

 三十分ほど電車に揺られ、住宅街にある最寄り駅に電車が滑り込んだ。さすがに立ち上がったところで手が離れ、そのまま改札を抜けた。もう駅舎に掲げられた時計は八時を過ぎている。炭治郎は明日も学校だろう。

「どっちですか?義勇さんのお家」
「ここまででいい」
「ここまで来たら同じですよ。駅に近いって言ってましたよね?」

 炭治郎の笑みとしばし睨みあったが、ここで押し問答をしている内にも時は過ぎる。義勇が諦めて歩き出すと炭治郎が軽快な足音で後に続いた。義勇の横顔を見たり逸らしたりしつつ炭治郎は黙って歩いていたが、十数歩過ぎたところでおずおずと口を開いた。義勇さん、たった一ヶ月で何度も何度も呼ばれてきた名が呼ばれる。

「俺は、少しは……義勇さんの中で好ましい人間でしょうか」

 炭治郎の顔を見下ろした。緊張しているのか頬が紅潮していた。瞳が街灯ごときの白々しい光でもきらきらと赫く光っている。純粋に、綺麗だと思った。

「正直に言うと、興味がない」

 綺麗な原石も、優しい笑みも、柔らかに呼ばれる名も、手のひらの温もりも、義勇には最早縁遠いものだ。今更そんなものを欲したりしないし、気遣われる必要はない。硬直している炭治郎に心が痛まないでもなかったが、士官学校の学生は訓練に明け暮れて忙しいものだと聞いている。わざわざ無駄な時間を費やすことはない。

「復帰したら俺も忙しくなる。もう来なくてもいい」

 路線沿いに流れる川に面して建つボロアパートの自宅に丁度到着したところだった。給金は充分すぎる程支給されているが、ほとんど任務に出ているか軍の施設で鍛錬しているかなので、物置を選ぶのに手間をかけるのも面倒で適当に決めた。ただ今回のように謹慎になることを全く考えていなかったのは失敗だと思っている。施設に顔を出せないので鱗滝の世話になるほかない。

「助かった」

 炭治郎の肩にかかるバッグに右手を伸ばしたが、炭治郎が身を捩ってそれを躱した。一体何が起きたのかと思わず目を瞬く。炭治郎の顔は伏せられていて何を考えているか全く分らない。

「嫌です」
「おい……」
「もうしないけど、ほんの少しだけど。確かに寂しい匂いがしてたんです」

 炭治郎が顔を上げた。今にも泣きだしてしまいそうなしかめ面だ。何故そんな顔をするのか、何を言っているのか、思考のピントがぼけたまま定まらない。ただ焦燥のようなものが背を走っていく。このまま炭治郎の話を聞いていてはいけないと心の奥の何かが警鐘を鳴らしている。

「また来ます!暇がないなら、ほんのわずかな間でもいいんです!俺はまだ義勇さんのことを知り、」
「迷惑だ」

 咄嗟に口に出ていた。義勇自身も意図していない言葉だったが、炭治郎が言葉を止めて息を短く吸ったので言葉を繋げることにした。これ以上何かを言わせる気はない。

「悪いが、もう来ないでくれ」

 再び硬直してしまった炭治郎の肩からスポーツバッグを抜き取った。今度は炭治郎も特に抵抗しなかった。気をつけて帰れと声をかけると、悔しそうに口を引き結び、それでも深々と礼をして踵を返して行った。また、いつかのように長く深いため息が出る。

 カン、カンと音が響く錆びた階段を上ってアパートの二階から来た道をふと見下ろした。炭治郎がとぼとぼと遠ざかっていく背が見える。さすがにもう来ないだろう。己の口から出た言葉を思い返せば当然のことだ。

 スポーツバッグのポケットから鍵を取り出し、安っぽいドアノブに重い鍵を差し込んで回す。ぎいいと蝶番がやかましく鳴いた。

 そこで動けたのは、経験が勘を働かせたとしか言えない。鋭く刺さろうとする攻撃を躱して部屋に滑り込む。上体を腹筋で起こして刀袋を食み、刀を引き抜いたところで右肩に膝が乗った。人間のものではない不気味なほどの青白さ。

「ヒヒッ……待ってたぜぇ……お前が一人になるのを」

 ぎょろりと飛び出た目と不気味に長い舌。着ているものこそパーカーとジーンズだが、飛び出た肩甲骨と長い指が爬虫類を連想させる。

「隠れるだけが能の鬼か」

 義勇に怪我を負わせた鬼はそれなりの強さだった。弦のような血鬼術を操り、絡め取った隊員を盾にしつつ地面から壁から攻撃を仕掛けてくるので頸を斬るのにやや手間取った。この鬼を取り逃したのはその時だ。強い鬼の影に隠れ、身を隠す血気術を駆使して獲物を掠め取っていくことで人を喰ってきた卑怯な鬼だ。隠れ蓑が破れ始めたと知りさっさと逃げて消息が追えなくなっていた。

「お前ぇ……自分の立場が分かってねえのかぁ」
「お前ほどじゃない」

 この鬼の血気術も厄介ではあるが、攻撃をする際には姿を現さなくてはならないようだった。そのまま隠れてさえいれば逃げ果せられたかもしれないというのに、わざわざ斬られに来てくれるというのならこれ以上に有難いことはない。恐らく弱っている今なら食えるとでも侮っている。

 左腕の痛みを押し殺して左肩を支点にし、無理やり上体を捻って鬼のバランスを崩す。その隙に肘で鞘を押さえて剣を抜き、鬼の背から削ぐように頸を跳ねようとする。しかしさすがに重心が安定せずわずかに切っ先が届かなかった。薄暗い部屋を血で汚しながら鬼が後退する。今度こそ身を起こして構えを取った。六畳の部屋なら全て間合いだ。畳をどんと踏み込んだところで間延びした音が部屋に響き渡った。

 ピンポーン、ピンポーン

 戦場で体中の産毛が逆立つほどの寒気を感じるのは久々のことだった。卑怯な鬼がそんな義勇の反応を見逃すはずもない。にやりと牙を見せて笑い、姿を暗闇に溶かしてしまう。

「義勇さん……?」

 ぎい、古い蝶番がやかましく鳴る。そうだった、炭治郎はそういう男だ。真面目で優しく丁寧なようでいて頑固で恐れを知らない。ノックを無視して何も無かったことにしてやるつもりだったのに、躊躇いつつも病室のドアをスライドさせてきた。

「来るな!」

 義勇の言葉を一応聞く耳はあるらしく、炭治郎はドアを一度閉じた。その戸を天井に張り付いている鬼の舌が突き破る。うわっ、と切羽詰まった悲鳴が聞こえるが、怪我をした様子はない。そのままドアを開けていれば確実に舌に貫かれていただろう。

「義勇さん!?」

 しかし炭治郎はここで危険を察して立ち去るような男ではないのもまた厄介だった。ドアを開け放ち、天井の鬼をすぐに見つけてうわあ、とまた悲鳴を上げた。にたりと笑った鬼が動く前に畳を蹴って炭治郎ごとドアの外に飛び出した。鉄格子に背をぶつけた炭治郎が息を詰める。

「っぐ、……!」
「義勇さん!」

 右腕に巻き付いてきた舌がぎりぎりと引き絞られる。捩じ切ろうとでもしているのか。炭治郎を庇う際に鉄格子にぶつけた左腕は、先ほどの無理のせいもあって痺れるような痛みが肩から頭に伝わってきている。とても動かせそうにない。炭治郎を少しでも覆い隠してやるくらいしか役に立たない。ここで腕を持って行かれたら戦えない。炭治郎が次の標的になるだろう。それだけは避けなければならない。体中に呼吸を巡らせ右腕の筋肉に凝縮する。

「義勇さん、義勇さん!」
「じっと、してろ……」
「できるわけないでしょう!!退いてください!お願いです!義勇さん!」

 このっ、と炭治郎は義勇の襟元を掴み、思い切り額を義勇の頭にぶつけてきた。そのあまりの硬さに不覚にも体の力が抜けた。鬼の舌の力が強くなり引きずられる。手から刀が抜け──それを炭治郎が拾った。

「その人を、離せ!」

 舌を断ち切られた鬼がぎゅあぎゃあと喚きながら部屋の中に逃げ込んでいく。揺れる頭を振ってなんとか正気を保ち、唾液と血の絡んだ気色悪い鬼の舌を振りほどく。刀を振り下ろした姿勢のまま肩で息をしている炭治郎の両手から刀を抜き取り、また闇に溶けようとする鬼が完全に消える前にその頸を薙いだ。血を払うが鞘が遠くて納められない。無様な戦いぶりだ。左肩から腕の先まで燃えるように熱く、炭治郎の頭突きのせいもあって頭が煮立っているようだった。なんとか振り返り、ゆっくりと炭治郎の元へ戻った。まだ刃を振り下ろした姿勢のままだったが、戻った義勇を見てくしゃりとその顔を歪める。ふらりと揺れた体を上背の低い炭治郎がなんとか受け止めた。ぎゅっと回された両腕に力が込められる。腕が痛む。だが温かい。

「死ぬ、かと思いました」

 声も体も震えていた。義勇が不甲斐ないせいで恐ろしい思いをさせたのだ。すまない、頭を下げたかったが身も起こせそうにない。却って炭治郎に体重を預ける形になり、ずるずるとその場に座り込んだ。

「義勇さんが、義勇さんも、行ってしまうかと」

 よかった、よかった。壊れたように繰り返しながら、炭治郎は泣いているようだった。頭にぼたぼたと雫が零れる感触がある。ぎゅうぎゅうとまた強い力で遠慮なく抱きしめられて腕が猛烈に痛い。だが遠く浅いところで今にも失われそうな意識の中、新鮮だなと考えていた。任務で命を落とす覚悟ならいつでもできているが、死ぬのが怖いなどと思わなくなって久しいことに気が付いた。それをこんなに恐れるのを見るのは、恐れられるのは新鮮だ。俺もそうだった。錆兎が死ぬのは怖かった。真菰、あたたかくて優しいところかもしれないが、たまには雨も降るみたいだ。

「治ったら、義勇さん。俺と、絶対に映画に行ってください、義勇さん。お願いします、義勇さん」

 なんで?そう思ったところで義勇の意識は途切れた。

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