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毎日、鍛錬に費やしている。任務以外の持てる時間、厠へ行く時間すら惜しんで毎日毎時鍛錬を繰り返す。近道が無いことがはっきり分かった。いくらやってもやりすぎということは無いんだ。もし今夜任務の指令が来て、そこで上弦の鬼と居合せたら。今の炭治郎では手も足も出ない。きっと命を奪われる。でも今は命を失うことよりずっと、あの気持ちを味わうほうが怖い。胸をごっそり抉られたかのような痛み、苦しみ。抉られたところから血を噴き出すように悲しみと怒りが溢れてなかなか塞がらなかった。今だって無理やり穴を閉ざしているだけだから、少し気を抜くとだらだらと血が漏れ出る。いつか治る日が来るかも分からない傷だ。炭治郎は守るもののために絶対に死ねないが、あの時の気持ちをまた味わうくらいなら死んだほうがマシだとさえ思ってしまいそうになる。守りたい。今度こそ絶対に。一人としてあんな風に死なせたくない。煉獄さんだって死なせたくなかった。死なせてはいけなかった。
呼吸で回復するおかげで眠る時間は短くて済むが、流石に一睡もしないわけにはいかない。炭治郎は強くなりたいのであって体を壊したいわけではないから、適切に体を休めないといけない。仮に無理してしのぶさんに見つかったら物凄い気迫と匂いで見つめられてしまうし。あんなに怖い笑顔はこの世にない。だから眠る。全集中の呼吸にピタリと寄り添って意識を沈める。できるだけ短い眠りで済むように。夢も見ない深い眠り。
けれど体力が戻り、以前より更に増すことができるようになってきてから、意識を深く深く沈めた先で立ち上がることができるようになった。体は確かに眠っているのに、意識だけ糸を切った凧のように身軽になる不思議な感覚だ。これは夢だ。妙な言い回しだけれど、炭治郎は「夢も見ない深い眠りの中で目覚めて、夢を見ている」。夢では多くの場合、自分ではどうにもできない奇想天外なことが起こったりするが、炭治郎の夢で炭治郎の体は自由だった。今自分ができることは何でもできる。これまでの戦い、任務の記憶を引っ張り出してきて好きに眺めたり正したりできる。但し、今の自分にできないことは一切できない。鍛錬の上で最高の環境だった。
その夢を見るようになってからは夢の中でも鍛錬を続けた。独りひたすらに打ち込んで、打ち込んで、打ち込んで、いつだったかふと独りでないことに気が付いた。暗闇の中刀を振る傍ら、刀身をゆらゆらと照らす炎。その向こうに人が背筋正しく座っている。炭治郎の戦いに残る甘さを少しも見逃さぬよう、瞬きひとつせず炉に放られた赤銅の瞳がこちらを見ている。
「れ」
煉獄さん。声をかけようとして、やめた。これは炭治郎の夢だ。駆け寄って縋りついたって意味はない。煉獄さんはもう居ない。もう二度とあの頼りがいのある広い背中に守ってもらうことはできない。ぐっと表情を引き締めて深く頭を下げた。すぐ起き上がってまた刀を振る。
煉獄さん、すみません。少しだけ貴方の姿を借ります。俺がいつも心を燃やしていられるように。弱い自分を一瞬でも許さないでいられるように。貴方に恥じない俺であれるように。踏み込みを一層深くして、昨日なんとか斬った鬼の頸をより速く飛ばす。目端から流れる涙を袖で乱暴に拭った。俺はどうしてこう、すぐに泣いてしまうんだろう。
夢の中の煉獄さんは決して動くことはない。ただじっと炭治郎の鍛錬を見つめていて、次第にそれは当然のこととして炭治郎の意識の景色に馴染んだ。言葉を交わすことは無いが、心の中で炭治郎は煉獄さんに語りかける。煉獄さん、この前の任務ではここが悪かったようです。俺はここを直したい。この力を伸ばせばもっと戦えたはず。誰かに語りかけるというのは、自分の戦いを見直す上で大きな助けになった。煉獄さん、煉獄さん。俺は貴方のように強くなる。貴方のようにより多くの人を守りたい。
鍛錬と任務、二つだけになった毎日が続いた。「夢の底の夢」すら見られなくなるような深い傷を負ったこともあったが、たくさんの人に助けられてなんとか生き延びた。炎にゆらゆら刀身を光らせながら剣を振るう。ただ黙々と。刀身と同じく炎に揺れる瞳に励まされ、奮い立たせてもらいながら。
けれどある日、初めて腕が上がらない日があった。体の一部になって今は重みすら感じないはずの刀が重い。心だけがただ焦る。鍛錬はどれだけしたって足りない。時は立ち止まって寄り添ってくれないものなのに。慌てて顔を上げると、やはりそこには煉獄さんが居て口元に笑みを残した強い目でこちらを見ている。自分の情けなさが鮮明になり顔が歪む。
「煉獄さん」
夢の中で声を上げて呼びかけたのは、呼びかけてしまったのは初めてだった。何の反応も返らないだろう、そう思っていたが、煉獄さんはひとつ瞬きをした。ハッと息を呑む。一瞬、夢の中に居てもらっているだけに過ぎないことを忘れた。
「俺は、あの時、決断できなかった」
禰豆子に救われたから、あの時、何を選ぶのが良かったのか分からない。でもきっと正しくなかった。禰豆子が決断しなければ禰豆子も里の人も皆失っていたかもしれない。煉獄さんならあの時きっと迷わなかった。次に同じようなことになったら俺は。
ぐっと柄を握り込むと刀がチリと鳴く。けれど切っ先は動かない。煉獄さん、煉獄さん。俺は迷いたくない。迷っている間にまた誰かを失いたくない。なのに。
「答えよう。君が心から望むのなら」
風に煽られるように炎が揺らいだ。まるで本当に煉獄さんが居るかのような力強い声。そこでやっと思い出した。この炎は、煉獄さんが灯してくれた火。その姿は炭治郎が目指し続ける記憶。
「いいえ」
煉獄さん、貴方がもし死なずに済んだなら。俺はきっと答えを待った。貴方の技や心を惜しみなく教わったはず。
「いいえ、煉獄さん」
溢れ出る涙を拭う。まだまだ弱い自分の心を恥じ、それを捨て去るために煉獄さんを見つめる。その穏やかながら厳しい瞳を。
「自分で考えます。自分で、考え続けます。貴方のように」
炎から目を離し体の向きを変えた。ああああ、吠えながら刀を振り上げる。皆で力を合わせて、なんとか上弦の鬼を二体倒せた。でも本当にギリギリの死闘だ。里には大きな被害が出た。まだまだ強く、まだまだ速く、まだまだ心を熱く燃やさなければならない。貴方からもらった火を、俺は決して絶やさない。
久々になってしまったな。
夢の底で「目覚め」て、炭治郎はまずそう思った。今までで一番長く昏々と眠り続けてしまったから。ここに立つ時いつも手にしていた刀が無い。もう握ることが無いからだろうか。「右半分」の視界の中でゆらゆら炎が燃える。その正面に腰を据えた。その先には煉獄さんが座っている。あの日、あの朝と同じように。
「煉獄さん」
するりと名が喉から滑り出た。どうしてもその名を呼びたかった。今まであらゆる苦しい戦いの中でいつも心を支えてくれた名前だから。
「煉獄さん」
俺、貴方のように立派ではなかった。色んな人に迷惑や心配をかけてしまって、今も心が苦しい。守れないものの方がずっと多くて、貴方を失った時と同じように胸が張り裂けそうに痛い。
「煉獄さん」
でも、終わりました。全部終わりました。終えることができました。長くて辛い戦いを。頭がひとりでに下がる。涙がぽたぽたと暗闇の中に吸い込まれていった。ありがとうございます。ありがとうございました。貴方が居たから俺は。煉獄さん、煉獄さん、煉獄さん。
「竈門少年」
いつかぶりに聞いた声。ハッと顔を上げると、瞳に溜まった涙がぼろぼろと頬を滑っていく。煉獄さんは笑っている。いつもは厳しく炭治郎の太刀筋を見極める瞳が優しい。穏やかな橙がゆらゆら穏やかに揺れて光る。
「これからは、穏やかに、健やかに眠れ」
幼い子供みたいな満面の笑み。これは炭治郎の夢だ。この炎は煉獄さんが渡してくれた火。その姿は炭治郎の記憶。だけどもしかしたらどこからか、見守ってくれていたんじゃないかとも思う。無惨に引きずり込まれそうになった背を頭を力強く押してくれた手。
「はい」
炭治郎も笑みを返した。きっともう炭治郎は夢の底で目覚めることは無い。目覚めても煉獄さんはもう居ない。でも炭治郎の心にはずっと煉獄さんに灯された火があって、時に烈しく、時にあたたかく燃え続けるだろう。