文字数: 153,679

天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 杏寿郎の剣技は力強さ、早さ、苛烈さ全てが炎を連想させる。炎が竜のように身を捩らせて辺りを舐め尽くし、更なる獲物を求め勢いよく噴き上がる。何もかも灰塵に変えてしまうようなその勢いが恐しい。だがそれでいて、古くから伝わる技を寸分狂いなく繰り出そうとする姿には美しさもある。暗がりの中明暗の境界を揺らがせる火炎が怖いほど魅力的に映るのに似ている。

 先手を取ったのは杏寿郎だった。大きな踏み込みと共に上段を狙う、「不知火」だ。あまりの勢いに炎が尾を引いているように見える。炭治郎は膝の上に置いた汗の滲んだ拳を尚強く握り込んだ。きっと隣に座る千寿郎も固唾を呑んでいる。

 確実に入った、そう見えたはずなのに義勇は「不知火」を何の苦も無さげに躱していた。そしてその動きがそのまま技になっている。川の流れに身を預けるように身を捩らせ、回転しながら相手の甘いところを打つ。鱗滝に炭治郎も教わった「流流舞い」だ。しかしその精度は炭治郎のものと到底比べ物にならない。

 怪我を抱えながら刀を振るう姿は何度か見たが、全力の義勇の技を見るのはこれが初めてだ。杏寿郎の剣を炎にするなら、義勇の剣は水だろう。ある時は小川のように静かに、ある時は怒涛の如く力強く、変幻自在の緩急で相手を押し流してしまう。振るう木刀がまるで体の一部のようで、人と技とが途切れない。決められた線をなぞるような滑らかな技の流れがやはりとても美しい。

 ガガガ、木刀同士がぶつかり合って出たとは思えない鈍い音が立て続き、杏寿郎は義勇の攻撃を全て弾いたようだ。なんとかそれを判断したが、どんな攻防があったかまではまるで見えなかった。どちらの動きも早すぎて、きょろきょろ動かす目に痛みが出てくる。最後には目を回してしまいそうだ。

 次に動いたのは義勇だ。カン、カンと浅い突きをいくつか繰り出し、ここぞというところに最速の突きを放つ「雫波紋突き」。杏寿郎はそれを正面から迎え撃つことにしたようだ。腕を大きく振り薙ぐ「炎虎」が鈍い音で義勇の技を退ける。押し負け、一歩後退した義勇を杏寿郎は見逃さなかった。充満した炎熱がこちらにまで伝わってきそうな気迫。荒々しい踏み込みと共に下段から掬い上げ相手を抉る「煉獄」だ。これはついに勝負がついた──身を乗り出した炭治郎はそのままの姿勢で固まった。炎を掻き分け、波一つ立たない水面が広がる。そんな幻を見た気がする。義勇の技が杏寿郎の奥義を悉く退けたのだろう。だがどんな動きがあったのかさっぱり分からない。ただだらりと木刀を下段で構える義勇の姿しかそこには残っていない。二人の距離が開いた。

「どうだ調子は」
「……戦いながら調整するしかない」
「これで本調子ではないということか!恐ろしい男だな!」
「よく言う」

 煉獄家の小さな道場に杏寿郎の伸びやかな笑いが響いて、炭治郎と千寿郎はやっと体の力を抜いた。どちらも息を止めていたらしく、同じタイミングで深いため息が出る。

「素晴らしい技だった。また頼む」

 なんとも言えない苦い顔をしている義勇に杏寿郎は一礼した。それに義勇も無言で礼を返している。今日から鬼殺隊に復帰をする義勇に肩慣らしをしていかないかと声をかけたのは、任務明けで帰宅したばかりの杏寿郎だ。詰所で休んでいるとは言うが、一切疲労を感じさせない姿に毎度ながら驚いてしまう。そして今日はその杏寿郎と対等に渡り合う義勇を見て驚きも二倍だ。

「お二人は、よくこうして打ち合うんでしょうか……?」
「いや、これが初めてだな!前々から誘ってはいたが、冨岡はあまり人と打ちたがらない。念願叶って嬉しく思うぞ!」

 千寿郎が杏寿郎の答えに目を丸めている。きっと二人が息を合わせて技を出し合っているように思ったのだろう。しかしそう見えた理由は二人の力が拮抗しているからだ。炭治郎は千寿郎に輪をかけて新しい事実に気が付き驚愕した。つまり義勇と支え合える、助け合える人に求められる強さは杏寿郎の腕前ぐらいということなのでは……。

「炭治郎」
「ハイッ!」

 打ちひしがれて床に手を付きそうになっていたところ、名前を呼ばれたので慌てて顔を上げる。義勇は手に持つ木刀を杏寿郎に引き取ってもらっているところだった。慌てて駆け寄って炭治郎がそれを引き受ける。

「行ってくる」

 いつも通りの静かな表情と声。何でもないことのように吐かれた言葉を真正面から受け止め、頭が突然空になった。理由は自分にもよく分からない。鈴蘭に似た微かで優しい大好きな匂いだけを確かに感じた。黒い線がくっきり引かれた睫毛がパタリ、と一往復する。困らせている。瞼の動きでそれを悟ってハッと我に返った。

「あっ、はい、ええっと、行ってらっしゃい!」
「行ってらっしゃい、お気をつけて」

 千寿郎がすぐに後に続いて頭を下げた。炭治郎の言葉を待ってくれていたのかもしれない。もし気を遣わせていたなら恥ずかしい。幸いにも、様子の明らかにおかしい炭治郎を探るために義勇は立ち止まらなかった。ちらりと一度だけ視線を向けてはきたけれど、道場に礼をして音もなく去っていく。

「さて!」

 口元に笑みを浮かべその背を見送った杏寿郎が仕切り直しの一声を上げたが、炭治郎と千寿郎は追いついていけなかった。二人して思いっきり息を吸い、思いっきりそれを吐き出して体から力を抜く。へたり込みそうになるのをなんとか堪えた。

「どうした?」
「息ができなくなるかと思いました」
「わかるよ。俺もただ圧倒されてた」

 空気が固形になったと錯覚するような気迫だった。下手に動いて肌を擦れば血が噴き出るのではと本気で疑った。あの高みに至ることができるのかと自問して──できる、と断言するのはかなり勇気が要る。

「そんなことでどうする。敵はお前たちが強いか弱いかなど見ないぞ」

 呆れたように眉を下げ首を傾ける杏寿郎に、千寿郎と共に居住まいを正した。はい、神妙な顔で返事をする。しかし咎める口調であっても杏寿郎の声も匂いも優しい。

「とは言え、いきなり冨岡を目指すこともない。日々の鍛錬に形を求めることは驕りだ」

 杏寿郎は弟たちの道や剣の軌道を正す時、決して声を大きくしない。炭治郎や千寿郎の心や頭にしっかり染み入るように静かに、穏やかに話そうとする。体に覚えさせることと道理で覚えさせることを明確に分けているのだと思う。

「愚直に積み重ねた者だけが、その技の中に鍛錬の成果を知ることができる。俺もまだ道半ばだが、そういうことだと信じている」

 そしてそんな杏寿郎を心から尊敬し、だからこそ百年かかっても辿り着けないんじゃないかと不安になる炭治郎の心に必ず火を灯してくれる。はい!声を合わせて大きな返事をした弟たちに杏寿郎は満面の笑みを浮かべて応えた。

「では、今の二人の鍛錬の成果は俺が知ろう」

 太陽のような明るい微笑みは厳しい鍛錬の始まりを合図するものである。繰り返すが、杏寿郎は任務明けだ。炭治郎も千寿郎も三時間のかかり稽古ですっかりヘトヘトに疲れ切ったが、杏寿郎には少しも疲れの色は見えない。ワハハ、笑い声にも活気が満ち満ちている。

「まだまだだな!今日から一層励むことだ!」

 言葉も無い。返す言葉が無いのは勿論、有ったととしても疲れ切って何も言えない。いや、逆かもしれない。これぐらいですっかり疲れ切るような実力なので返す言葉が無いのか?とりあえず水だ。真冬なのに道着が汗でびしょ濡れだった。風邪を引かないようにタオルで汗を拭い、水分を取って杏寿郎の元へと戻った。最後に柔軟と瞑想をしたら杏寿郎の指導は終わりだ。

「もっと教えてやりたいところだが、職務を放棄するわけにもいかない。残念だが今日はこれまで」

 ありがとうございました、忙しい中時間を作ってくれたことに感謝しつつ千寿郎と共に深々と頭を下げる。しかし体勢が悪かったか二人して腹の虫が鳴ってしまった。そろそろ昼時だからな、と杏寿郎が愉快げに笑ってくれたことが幸か不幸か。せっかく意を決してこの道場へ足を運んだのに。

「片付けを急いで済ませて昼に──」
「杏寿郎さん」

 多忙な杏寿郎の次はいつになるか分からない。背筋を伸ばし改まって名を呼ぶと、杏寿郎は笑みを一瞬で静めて口を閉ざした。上げかけていた腰を落として聞く姿勢を整えてくれる。その懐の大きさに感謝を深めつつ、決意を固めるために一度深呼吸をする。一月の道場に満ちる空気は冷たい。稽古の熱気もたちまち冷めてしまったようだ。けれどそれが却ってやかましく動く心臓を落ち着けてくれる気もする。

「第二特別機動隊に入るには、どうしたらいいんでしょうか」

 ピリ、少しでも動けば血が噴き出そうな固形の緊張。先ほど義勇との打ち合いで感じた気迫だ。だがここで怯めば先へ通してもらえないことが感覚で分かる。炭治郎は決して杏寿郎の目から視線を逸らさなかった。

「君の覚悟が如何ほどか聞きたい。答えるかはそれから決める」

 数秒だったのか、数分だったのか。第一関門は抜けることができたらしい。太陽をそのまま封じ込めた燃える瞳に圧し負けぬよう拳に力を入れ、自分の心に一番近い言葉を探り当てようとする。

「俺の目標は……杏寿郎さんです。杏寿郎さんのように心も技も強くなって、第一師団に入る。そしてあの日、俺の家族が何故死ななければならなかったのかを突き止める。そう思ってきました」

 初めて杏寿郎と顔合わせした日、何がしたくて煉獄家に入るのか問われ、情けなく俯いたことをずっと悔いていた。だからこれは煉獄家に世話になった一年間で自分なりに見つけた「望むこと」だ。愚直に自分にできることを繰り返せた者だけが自分の成果の形を知ることができる、そう戒められたばかりはあるけれど。やっぱり憧れを捨てることはできないし、その憧れを原動力に自分を奮い立たせてきた。杏寿郎は何も言わない。ただ笑みで炭治郎の言葉の行方を見守っている。

「だけど、今はただ知りたいんです」

 憧れる人の影の先にくらい触れられるようになったら、「何故」を見つけようと決めていた。炭治郎にとって、家族より大切なものは何も無い。家族ほど尊く、眩しく、愛しいものは無い。それだけ大切な、何ものにも代え難い宝物が残酷に奪われたからには、必ず重大な理由があるはずだと信じていた。

 鬼は人を食う。人を食うのは、飢えるから。もし「何故」など無いとしたら。あの日、あの時、あそこに居たことだけが理由で、炭治郎が何よりも大切に思う家族は、ひとりひとりの尊さも痛みも苦しみも見出されることなく、ただ理不尽に奪われたのかもしれない。深く暗い沼を独り覗き込むような絶望で眩暈がして、体が震えるほどの怒りを感じた。

 それでもあの日のように俯かなかったのは、何より禰豆子が居てくれるからだ。その禰豆子を助けてやれる何かを掴めるかもしれない。禰豆子が目覚めてくれれば、家族みんなにしてやれなかったことを何もかもやってやれる。そのためなら炭治郎は何度でも奮い立つことができる。

 そして、もうひとつ今、心を確かに占める人がいる。失った家族の明るくてあたたかい記憶を遠くから眺める炭治郎に寄り添う鈴蘭みたいな匂い。

「あの日、何が起きたか。どうしたら失わないでいられたのか知りたい」
「知ってどうする」

 何を知っても、何をやっても、家族が戻ることは無い。あの日家族を奪った鬼を斬ったのは義勇のはずだ。仇討ちもできそうにない。杏寿郎が尋ねているのはそういうことだろう。

 答えは決まっていたが、自分で思う以上に言葉が出てこない。これを言ったら、もう戻れない。振り返ればすぐに笑みを返してくれた家族から遠くなるような気がして怖い。昨日のことのように思い出せる様々な記憶が薄れていくのではとためらう。

 忙しいはずの杏寿郎は急かす言葉、表情ひとつすら見せずに炭治郎をじっと眺めている。言わなければ、言わなければ──焦りだけを募らせている炭治郎の背に手が触れた感覚があった。

「前へ」

 押し出されるようにぽろりと言葉が出て、それを追うように涙が零れる。

「前へ進みます」

 ほんの一瞬、もしかすると汗に濡れた道着を風が撫でただけかもしれない。それでも「分かっているよ」と言ってもらえた気がした。炭治郎が大切に大切に昨日までの記憶を守ってきたことも、そこにこれからは明日が加わっていくということも、全て分かっているよ、大丈夫だよ、と。

「……鱗滝さんから君の話を聞いた時、俺は敢えて詳しい話を聞かなかった。君自身を見て判断したいと思ったからだ」

 炭治郎の答えを吟味するように黙っていた杏寿郎は、静かに口火を切った。厳しい気配は今は無く、瞳の灯は穏やかに燃えている。

「だから俺は俺なりに、あの御仁が君のために俺に願ったことは何だったか、真摯に考えてきたつもりだ」

 ふと、悟る。初めて顔を合わせた時のことを今語る理由はきっと、炭治郎のこの決意を杏寿郎が待っていたからではないか。杏寿郎は力強く逞しい人だが、幼く無力な炭治郎を決して踏みにじることはない。いつも炭治郎が炭治郎のままでいられるように尽力してくれる。

「きっとあの人は君がその道を選ばないことを半分は望んでいたが、残りの半分は進まざるを得なくなると予感していたんじゃないか、と俺は思う」

 炭治郎が何を望んでも一番よい道で叶うよう、そう鱗滝は考えて杏寿郎と引き合わせてくれたのかもしれない。厳しいながら炭治郎や禰豆子を優しく包む春の雨のような鱗滝の匂いが思い返された。鼻の奥がつんと痛む。杏寿郎は炭治郎の情けない泣き顔に眉を下げ、膝を進めて近づいてきた。剣だこだらけの分厚い手が肩に優しく触れる。

「君の背に俺が手を添えよう。前へ進め。足を止めるな」

 背にまた手が触れた。振り返るとそこには涙をポロポロ零す千寿郎が居て、先程の手の感触も千寿郎だったのかもしれないと思った。炭治郎は何より大切な家族を失ったけれど、今ここには新たに大切な人たちがいて、炭治郎を心から想い支えてくれている。恩知らずなことに、今それをやっと心から理解できた気がした。

「ありがとうございます。ありがとうございます、杏寿郎さん、千寿郎さん、本当にありがとうございます……」

 とうとう堪え切れなくなって身を伏せた炭治郎の腹の虫が盛大になる。もう泣くな、腹がますます減るぞ。今度こそ昼にしよう、杏寿郎が明るく笑い飛ばして肩を叩くので炭治郎も泣き顔をくしゃりと崩して笑みを返した。

 ノートの前で頬杖をついている。いつもなら伝えたいことが留まらずシャープペンシルが追いつかないくらいなのに、今日はその軸を手に取ってもいない。ページの隅に走り書きされた、それでも大人っぽい綺麗な字を眺めて、指でなぞり──

「ああぁー……」

 そして情けなく声を上げて頭を抱える。これを何度も繰り返している。一つ決意を新たにしたところで、また別のところで一つ気がかりが生まれる。まさに人生は空模様だ。せめて何か分からないだろうかと鼻先を文字に近づけてみる。紙の匂い、ボールペンのインクの匂い、きっと書く時に手が触れたのだろう幽かな残り香。思わず目を閉じ、ペンを手に取り姿勢良くノートに向かうひとの姿を夢想し、ハッとそれを掻き消してノートから離れた。うわああ……また呻く。

 文机から離れて身を逸らし、畳に手をついて禰豆子を見下ろした。禰豆子、どう思う。いつものように語りかけようとして言葉に詰まる。いや、こればっかりは禰豆子も相談されても困るはず。もしくは自分で考えないとだめだよ、と呆れられるかも。だけど禰豆子、こんなこと誰に相談すればいいんだ。

 ──にゃあ

「わっ」

 障子がいつの間にか細く開いており、冬の夜の冷たい空気と共に三毛猫が円らな瞳でこちらを見ていた。前脚で敷居をたしたし叩きながら障子を押し広げようとしているので、膝で這い寄り部屋に迎え入れてやる。とたとた部屋に入ってその場をぐるりと回った猫は、障子を再び閉ざしてあぐらを掻いた炭治郎の膝に音もなく飛び乗る。

「びっくりしたなあ!全然気づかなかった」

 どこかの飼い猫なのだろう。変わった柄の札をぶら下げた首輪をしている。飼い主の趣味なのか背中には鞄のようなものを背負っていて可愛らしい。まだらな毛色の頭を撫でてやると、ピンと立てた耳を少しだけ下げて大人しくしている。

「お前、どこから来たんだ?」

 スンと鼻を動かしても何を考えているかまでは分からなかった。ただ伴っている匂いに覚えがある。鼻に指を当てて思い出してみる。珍しい匂い。身近ではまず嗅がない生き物の匂い。人とは少し違うけれど、気品あって清らかな。

「珠世さんと愈史郎さん!」

 にゃあ、返事をするように三毛猫が鳴いた。鞄を見せるように身を伏せたのでためらいつつも開けてみる。中には手紙とガーゼ、プラスチックの丸いケース、試験管のような小さなガラス容器が二つ収めてあった。手紙によると、ガラス容器は血を採るための細工がされてあり、肌に軽く押さえつけると小さな針が出て血を吸い上げるらしい。丸いケースは塗り薬で、ガーゼを当てて血が止まるのを待って塗るようにとのことだった。

 思わず胸元に手を当てた。どくどくと血が早く流れている。ふうう、肺を空にするまで息を吐き、禰豆子の枕元まで膝を進める。

「禰豆子、痛かったらごめんな。珠世さんたちにお前のことを調べてもらうから」

 手紙の丁寧な指示を何度も確認しつつ血を採り終え、薬を塗り終えたところで体の緊張を解いた。ふうう、もう一度大きく息を吐く。取り外していた鞄に容器を納め、猫の背に戻してやろうとしてやめた。立ち上がり、壁にかけてあるオーバーコートを引っ張る。

「すまない。案内を頼めないか」

 猫はコートを着込む炭治郎を窺うようにうろつきながら見上げていたが、炭治郎の意思の固さを悟ったらしく、最後にひとつにゃあと鳴いた。ありがとうと答えてその身を抱え玄関まで走る。誰かと行き会ったら何と言えばいいか自信が無かったが、幸い誰とも擦れ違わずに外へ出た。休みの間は早めに夕飯を食べるのでその後走りに出たりすることもある。怪しまれていないことを祈りたい。

 門の外へ出るなり、猫は身を捩って炭治郎の腕の中から飛び出した。そのしなやかな背を追って走る。静かな住宅街から駅の周辺にまで出て、正月気分が未だ残る賑わいを避けるように薄暗い路地裏へと飛び込んだ。

「馬鹿かお前は」

 そして罵倒を真正面から浴びた。腕を組み仁王立ちで炭治郎を睨みつけているのは愈史郎だ。猫が跳び上がってその肩に乗り、愈史郎は慣れた様子でそれを腕で支えた。

「俺は馬鹿が嫌いだが、その中でもお前が一番嫌いな馬鹿だ。珠世様に害なす」

 すぐに愈史郎の言葉を理解できないでいるのを表情から読み取ったらしく、愈史郎は苛々と息を吐く。ひとまず一歩近寄ろうとしたが、不意に背中に何かがぶつかった。

「うわっ」

 慌てて振り向こうとして、それより先に長髪の男がべしゃりと路地裏に転がってきた。助け起こしてやりたいが酒の匂いがあまりに強くてすぐに近寄れない。どうやら千鳥足で道に入ってきて炭治郎にぶつかってしまったようだ。

「やっちゃん飲みすぎでしょお、何も無いところで転ばないでよ!」
「ハハハ、いつまで経っても半人前だなあ」
「うるせえ!」

 真っ赤な顔をした男が喚きながらヨタヨタ起き上がって振り向く。間違いなくこちらを見ているように見えるのだが、まるで炭治郎など居ないかのように後ろからやってきた連れの男女と会話している。愈史郎にぐいと腕を引かれ傍らのビルに背をつけると、男たちは酒に浮かれた笑い声を上げながら歩き去っていく。

「今は俺の力で俺たちの姿を『隠している』。お前の敵は鬼だけかもしれないが、俺にとっては人も鬼も皆珠世様から遠ざけるべき敵だ」

 猫の目のように瞳孔の細い目が鋭く炭治郎を貫いている。ただの酔っ払いに見られたくらいなら、揉め事くらいにはなっても大した問題にはならない。愈史郎が心配しているのは炭治郎と繋がる鬼殺隊の人びとのことだろう。愈史郎たちは鬼ではないし、人を害する存在でもないが、人でもない。炭治郎は鬼殺隊のこともまだよく知らないから、愈史郎たちがどう扱われるかは分からない。一介の予科生でしかない炭治郎が信頼できると保証して、どれほど信用されるだろうか。

「すみません。俺があまりに軽率でした」
「お前が浅慮なのはとうに分かってる。さっさと寄越して立ち去れ」

 愈史郎は炭治郎の言葉が言い終わらぬうちに焦れたように手を差し出してくる。ついその手をまじまじ見つめてしまう。炭治郎よりずっと長く生きているというけれど、指が細くて長い白い手は炭治郎と同じくらいの少年のものにしか見えない。

「何だ?早く出せ」
「愈史郎さんは珠世さんが好きなんですよね」

 善逸ならきっと音を聞いただろうと思うくらい一気に愈史郎が茹で上がった。瞳孔が線のように細くなり、「お前、また」と言ったきり口がパクパク開閉するだけで声が出ていない。

「大切な存在から片時も離れないと言ってました」
「そうだ!そして俺は今一刻も早く珠世様の元へ帰りたい!それが何なんだ!いい加減にしろ!」

 噛みつかんばかりの勢いだ。愈史郎には突然叩かれたり突き出されたり色々とすげなく扱われてきたが、きっと照れ隠しなのだろうと分かってきた。愈史郎から炭治郎を痛めつけて喜ぶような底意地の悪い匂いは一切しない。ただただ珠世への強い思いがそうさせるに違いない。

「愈史郎さんなら分かってくれるんじゃないかと思って……」
「何の話だ!?」
「近くに居れば居るほど、物をうまく考えられなくなりませんか?何か、とてつもなくおかしなことを、大切な人に嫌われたり傷つけたりすることを、うっかりしてしまいそうで怖いんです。そういう時は愈史郎さんには無いですか?教えてほしいんです、とても困っていて」

 怒りに満ちていた真っ赤な顔が、炭治郎が言葉を繋げる度に鎮まっていき、最後には嫌そうな顔に変わり、結局怒った顔へ戻っていった。苛立つ匂いがぴりぴり鼻を刺激する。

「お前まさかそんなことを聞くためにここに来たのか……」
「えっ!?いいえ、ただ。ただ……任せきりにできなかったんです。禰豆子の血ですから」

 結果的に珠世や愈史郎を危険に晒してしまったことは本当に申し訳なく思っている。信じると決めたからには全てを委ねるべきだった。二人からは嘘のない誠実な匂いがしたのは間違いない。ただ、二人に触れたのはほんの短い時間だったのだ。もしかしたら禰豆子の命を預けることになるかもしれないこの血を、どうしても簡単に手放せない。炭治郎が何より大切に思うものを、同じように大切にしてくれるかどうかを確信したかった。

「すみません」

 炭治郎の言葉を愈史郎は眉を吊り上げたしかめ面で受け止めていたが、やがてフイと首を逆方向へ向けてしまった。炭治郎からは愈史郎の後頭部しか見えない。

「俺じゃ参考にならない」

 苛立つ匂いが薄れて、何かを悔いる寂しい匂いが混じる。顔色が気になって回り込もうとしたが、それより先に愈史郎の顔が炭治郎へ向き直るほうが早かった。眉は下がっているが、それでもまだ苦い顔だ。

「……預かる」

 白い手のひらがまた前に出される。突き放すようでいて炭治郎の不安を聞き入れてくれる。そのぶっきらぼうな優しさが有難かった。お願いします、頭を深く下げて小さな鞄を託すと、すぐさま愈史郎は体を翻して歩き出す。

「杞憂だよ。想うことは、何もできないのと同じだ」

 問い返す間もなく愈史郎の姿は匂いすら残さず路地裏の暗がりに消えてしまった。

 艶のあるシャープペンシルの軸を親指の腹で撫でる。病室の窓を背に影がかかる瞳の色によく似た深い青。少し軸を回転させれば、真横の窓から入る爽やかな朝の日差しを反射し銀色のクリップが光る。

「まあた見てるよ」

 心底呆れた声と匂い。隣の席に善逸が座ったことにまるで気づいていなかった。早朝操練を無事に終えたらしい。早朝操練は始業前に始まり、その日の目標を達成した者から教室へ入ることを許され、始業までに終わらなかった者は放課後に居残りとなり地獄のしごきを受ける。四月はほとんどの者が居残りする羽目になっていたが、今はよっぽど厳しい鍛錬を課された日でもない限り殆どの者が余裕を持って座学に参加している。中には伊之助のように時間ギリギリまで教官に打ちかかっていく型破りも居るが。

 夏前、俺には無理だよおとべそべそ泣いていた善逸も今ではケロッとした顔だ。いやあ、素振り五百回は本当にキツイよなあ、なんて言いながら腕をぶらぶら揺らす姿にも余裕を感じる。

「ほんっとに炭治郎は好きだよなあ、ギユウさんがさ」

 頬杖をついた手のひらで頬を押し潰した善逸の呆れ顔は愉快に歪んでいる。それを笑ったはずなのにうまく笑えず、ろくに返す言葉も浮かばず、炭治郎はただ眉を下げてひとつ頷いた。うん。

「え……?なに、その反応。調子でも悪いの?」
「いや、大丈夫」

 義勇さんが好き。義勇さんと助け合って共に生きていきたい。それは何の偽りもない炭治郎の気持ちだ。すれ違う人をいちいち引き留めてそれを叫び伝えて回りたいような、幸せで薄暗いところのない明るい気持ち。家族でもない、偶然に出会った誰かを大切に想う気持ちがこんなに幸せで胸を躍らすなんて──確かにそう思っていた。今だってそう思う。善逸は間違っていない。

「じゃあ、なに。ケンカ?」
「そんなんじゃないよ。ただ、ううん、そうだなあ。大切にしなきゃなって、考えてたんだ」
「くっ……」

 ケンカと言うと少し違うものの、炭治郎にとって大事件はあったけれど、それもなんとか落ち着いてくれた。杏寿郎が屋敷を出ていく義勇を見たと聞いた時は体中の血が凍るかと思ったから、義勇を引き留めることができて本当に良かった。微笑んだが、善逸の様子がおかしい。顔を苦しげに歪めてバタリと机に伏せてしまった。

「善逸?」
「置いてかれてる感じが辛いよお……炭治郎一人で行くなよ俺たち親友だろお?な?」
「う、うん。そうだけどどうしたんだ?大丈夫か」
「大丈夫なわけないだろ!気が狂いそうだっての!あんだけ一緒にゴールしようねって言っただろ!!」
「えっと……」

 泣き顔の善逸が机の上を這って炭治郎の両腕に縋ってくるのだが、一体何の話だろうか。そんな約束を交わした覚えはないし、そもそもゴールって何のゴールだ。よく分からないけど善逸を置いてったりなんかしないよ、と懸命に宥めているとなんとか落ち着いたらしい。絶対だぞ、絶対だからな、念を押されて思わず頷く。善逸が苦しい時に助けないわけがないから、まあ約束を違えることなど無いだろう。もうちょっと落ち着いたところで詳しい話を聞き直すことにする。

「そう言えば、炭治郎はギユウさんに何あげたんだ?」
「え?」
「クリスマスプレゼント。あげたんだろ?」

 ずびずび、鼻をすすりつつも善逸は雑談に戻るところまで持ち直したらしい。匂いからは単純な好奇心の匂いがする。明日の天気を気にするくらいの気軽さだ。しかし炭治郎にとっては全く予想外の問いだったので固まってしまう。

「俺が、義勇さんに……?」
「え!?ひょっとして何もあげてないとか言うなよ!?」

 ひょっとしなくてもあげてないし、あげるという発想にすら至らなかった。義勇がプレゼントをくれると言ってくれたので、それをワクワク待っていた。

「ウッソだろ!?クリスマスだぞ!?夜景の見える高級レストランとか行ってプロポーズの指輪とか渡せばいいじゃん!分かんないけどさあ!!もらうだけもらうってオコチャマじゃないんだから!」

 善逸が怒涛のように責め立てながら炭治郎の肩を揺さぶっているが、衝撃が大きすぎてほとんど頭に入ってこない。愕然としていた。

「た、炭治郎?ごめん、言い過ぎたかな俺……」

 放心する炭治郎に気付いたのか、立ち上がって両肩を掴んでいた善逸が慌てて後退しこちらを恐る恐る覗き込んでくる。友を心配させるのは忍びない。安心させてやりたいが、どうしても余裕を捻出できない。急にずっしり重くなった気がする頭がぐらりと傾き、額に手を当ててそれをなんとか支える。

「いや、善逸は悪くない。その通りだよ」
「え!?嘘ヤダ、俺炭治郎のこんな音聞いたことないよ!?ごめん、ごめんって!」

 衝撃だった。もちろん、善逸の言う通り、父や母からもらうプレゼントと同じようにただもらうことを楽しみにしていた自分の子供っぽさに呆れてもいる。だがそれ以上に、「義勇に何かをあげる」という気持ちにすらなかったことが恐ろしい。腹の奥底に懸命に沈めようとしている気持ちが醜く滲み出しているような気がする。

「しょ、しょうがないよ、炭治郎も初めてのことだもんな。次があるよ大丈夫だから!そうだ!誕生日とかどう?ギユウさんの誕生日いつ?」
「二月……」
「近い!良かったー!そこで挽回すればいいんだよ!」

 バシバシと肩を叩かれて苦笑する。そうだ、義勇のために何ができるか、喜んでもらえる物は何か考えなければ。もらうだけなんて良くない。善逸の言うところのオコチャマだ。分かってはいる。

 手元の交換日記のたった二行の走り書きを指でそっとなぞった。

—————————
しばらく忙しくするので詰所に泊まる。
出ては行かない。      少し時間をくれ
—————————

 また義勇が黙って出ていくことを心配する炭治郎を安心させる、律義な伝言だ。任務が片付くまで待っておけということなのだろう。けれど年明けに復帰を果たしてからほとんど顔を合わせていない。夜に同じ部屋で眠ることすらない。ひょっとして、気付かれたんじゃないだろうか。炭治郎は嘘がつけないと善逸は言う。だったらなんとか押さえ込んで無かったことにしたはずの、あの晩生まれた気持ちもうっかり漏れ出ているんじゃないだろうか。

 想うことは何もできないのと同じ。愈史郎はそう言った。だけど本当だろうか。それを信じてしまっていいのか。いつか油断した時にこの気持ちが暴れ出したらどうなるんだろう。恐ろしくて不安でたまらない。

 禰豆子の十五歳の誕生日。しのぶの最後の検診を終え、義勇はとうとう三角巾が外れた。夕飯は禰豆子の誕生祝いに急遽義勇の快気祝いが加わり、好物だという鮭大根が追加された。ほくほく唇を緩めて食べる姿に炭治郎も嬉しくなった。千寿郎も一緒になって過ごした楽しい時間はあっという間だ。義勇の復帰は年が明けてすぐだと聞いた。それを思うとますます名残惜しかったが、時を止める術などない。

 そうやって複雑な気持ちを抱えてはいたけれど、寝支度を済ませた義勇が部屋に入ってくるとどうしても嬉しい気持ちが勝つ。跳ねるように立ち上がり、義勇用の布団を押し入れから下ろそうとして、普段とは違う匂いに気付き首を傾げた。鼻を動かしつつ禰豆子の枕元に腰かけた義勇に続く。

「何か……いい匂いがするような。花……みたいな」
「隠し事はできそうにないな、お前には」
「すみません……?」

 不服そうな声だったけれど目元は柔らかく匂いも優しい。四日前の事件から引っ張り戻してから、義勇の表情が少し柔らかくなった気がする。正面から見ていると体が固くなり頭が真っ白になって何もできなくなるので、炭治郎はそっと目を伏せた。その目線の先に、小さな紙袋が差し出される。

「これは……」
「禰豆子に」
「え!?」

 驚きで飛び上がり、反射で受け取ってしまった紙袋を覗き込む。シンプルながら可愛らしいデザインの紙袋の中からリボンのかかったビニールの包装が覗いている。

「プレゼントですか!?」

 慌てる炭治郎を愉快な匂いで取り巻いて、義勇は深くひとつ頷いた。わあ、思わず声が漏れる。

「ありがとうございます……!」

 起き上がれない。学校にも行けない。あんなにたくさん囲まれていた友だちにも会えなくなった禰豆子。けれど確かにここに居て、誕生日を迎えたことを認めた人がここに居る。それが形になって紙袋に入っているみたいだ。あまりに嬉しくて涙ぐんでしまい慌てて拭う。俺が喜んでどうするんだ。これは禰豆子へのプレゼントだぞ。

「俺が開けてもいいでしょうか?」

 頷きで了承をもらえたので、禰豆子に声をかけつつ紙袋からビニールの包装を取り出した。リボンを解いてチューブのようなものを取り出してみる。

「薬……?じゃないですね、ハンドクリームって書いてあります。うわあ、すごいぞ!いい匂いだなあ」

 蓋を開けてもいないのに花畑の中に居るような華やかな匂いが鼻腔に広がった。見た目もカラフルでオシャレだ。きっと禰豆子も気に入るに違いない。大人っぽい服や髪型をやってみたいとぼやいていたことを鮮明に思い出して、また胸がいっぱいになってしまった。禰豆子の枕元にほら、と近づけてやる。

「胡蝶が」

 匂いに違いがあるようで、三つのチューブの説明書きをそれぞれ読んでやったところで、義勇がぽつりと呟いた。言葉を止めて隣に座る義勇を見上げれば、穏やかに禰豆子を見つめていた。

「匂いには覚醒作用があると」

 静かに言って、義勇は禰豆子の枕元に指を伸ばし、一つのチューブを取り上げた。穏やかな蒼い目が炭治郎へ向く。

「俺が塗ってやってもいいだろうか」

 ただその目を見つめ何も言葉を返さない炭治郎を、答えに窮していると思ったのだろう。そうしてやりたい、と懇願するように言葉が加わる。ただただ人らしい言葉を全く失っただけの炭治郎は、なんとか頷きだけを返して答えた。

 義勇はパチ、とチューブの蓋を開き封を取った。禰豆子の右手を布団から探り当て、丁寧に持ち上げたその甲にクリームを押し出す。そしてぎこちない手つきで手を包み、クリームを引き伸ばしてやっている。

「いい匂いですね」
「ああ」

 何故だか邪魔をしてはいけない気がして、声を潜めて囁くと義勇も低い声で答えた。右手を布団に戻し、左手も同じようにクリームを塗る。ぎゅっと両手で左手を握り込んだ義勇はそれをまた布団に戻した。目が炭治郎へと戻ってくる。

「禰豆子は気に入っただろうか」

 その子供みたいな素朴な匂いのする問いかけに、喉がきゅっと絞られてしまった。くっ、と喉を鳴らし、熱くなる目元を拭いつつなんとか謝る。すみません。義勇が怪訝そうに首を傾げるので手を振って安心させようとする。

「なんでだろう、なんだか胸がいっぱいになって」

 言葉を発する度、部屋に満ちた優しい花の香りが鼻に触れる。義勇の真心に直接包まれているみたいだ。

「ありがとうございます、義勇さん。本当に」
「礼を言われるようなことじゃない。俺は、ただ」

 感動する炭治郎に義勇はすっかり困っているようだった。何かを言いかけて言葉が止まる。滲み出る涙を指で拭い拭い、じっと言葉を待つ。

「ただ……」

 繰り返された言葉は掠れていて、途方に暮れた響きがする。何か障りがあって言葉に詰まっているというより、次に繋がる言葉を見つけられないでいるように見えた。呆けたように固まる義勇の困った匂いが濃くなってきたので、炭治郎は意を決して体を義勇へと向けた。さりさり、畳みが静かに鳴る。

「あの」

 正座した両膝の上に拳を置き、改まって背筋を正す。義勇も話が変わることを悟って、体をやや炭治郎のほうへ向けた。ふう、苦しく吐き出す息が熱い。花の香りを思い切り吸い込んだ。

「今日も俺、一緒に寝たいです」

 言った後で、あれ?と思ったがもう戻れない。こんなことを言うつもりだったっけ。本当はもう少し改まって、禰豆子への優しさへの感謝だとか、日頃の想いだとかを伝えたかったはずだ。一体何を言ったんだ、俺は。頭の中で自分の言った言葉を繰り返した途端、膝の先に火がついて頭のてっぺんまでたちまち燃え上がった。

「ええっと、昨日、俺がいると眠くなるって言ってましたよね、義勇さん。だから、その、よく眠れると思うし」

 いや、だからそうじゃなくて。俺は何を弁解しているんだ。全く自分の思う通りに口が動かない。眉根に皺一本寄せて不思議そうな顔をしていた義勇は、じっくり炭治郎の慌てぶりの眺めた後で首を傾げた。

「熱くならないか?」
「えっ!?」
「あつがりだろ」
「ああー!ああ、はい、いえいえ大丈夫です!今日は昨日より寒かったですよね!?だから」

 何かとんでもない勘違いをしてしまったような。もう自分が何を考えているかさえ把握できない。眉を開き、義勇は尚炭治郎をじっと見下ろしていた。何を考えているか全く分からない顔だ。ひょっとして怒らせたのだろうか、真っ赤だった顔が青くなっていく気がする。そんな炭治郎を振り切るように義勇はすっくとその場に立ち上がった。とうとう部屋を出ていくつもりだろうか。

 立ち上がった義勇は、すたすた禰豆子の足元へと周り、押し入れの義勇用の布団から枕を取り上げ、きゅっと炭治郎の布団を踏み、ぼさりと炭治郎の枕の横に落とした。毛布を重ねた綿布団を捲り上げ、もぞもぞその中に潜り込む。

「おやすみ」

 ちらり、炭治郎を見上げた義勇はいつもの涼しい顔であいさつして、さっさと瞳を閉じてしまった。分厚い睫毛が白い頬に影を落とす。

 どれくらいだろうか。禰豆子の枕元に座ったままツンと尖った鼻先を呆然と見ていた。寝るつもりでストーブの火は落としてあるから、次第に暖気が冷えてきて、油の切れた機械のようにぎこちなく自分の布団に近づく。

 すぐ目下にある長い睫毛の先をじっと眺める。義勇の家まで無理やりついて行って初めて鬼と出くわし、駆け付けたしのぶたちと共に病院へ戻り、ベッドの上でその体を抱えて水を飲ませたことが突然、ぱっと頭に閃いた。胸がドンと跳ねて驚く。慌てて目を逸らし、布団の端にそろそろと身を忍び入れる。

「おやすみ、なさい……」

 隣にいると、先程義勇が手に取ったクリームの匂いが強くなった。匂いには覚醒作用がある。このままじゃ眠れないかもしれない。昨晩もなかなか寝付けなかったのに。自分のものでない熱が伝わり、痺れるような甘さに変わる。体中が心臓になったように、どくり、どくり、布団に鼓動が跳ね返り苦しい。すぐ隣にある寝顔を我慢できずに盗み見た。

 義勇の持つものはあるだけ、何もかも、何が何でも欲しい。もらうだけ全てもらい尽くしてしまいたい。

 そう強く願うことをどんなに心を鎮めようとしてもやめられない。そんな自分が恐ろしくなって義勇に背を向けて眠った。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。