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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



「『あの日』より先に進めてやりたい」

 長い沈黙の後、水滴を静かな湖面にぽたりと落とすように鱗滝はそう言った。師だからだろうか、どこか同僚の冨岡義勇の姿を思い起こさせた。

 何かの式典で一度か二度見かけたことがあるくらいで、鱗滝とほとんど面識は無い。しかし父よりも祖父の代に関りが深かったような鬼殺隊の大先輩で、元柱の育手となればどうしても敬意を払うべき対象としてその名は知れる。その当人たっての望み、余程道理を無視した頼みでない限り若輩者から退けようという気にはならない。加えて、それなりの家格を持つ煉獄家では複雑な事情を持つ者や門下で教えを乞う者を一時的に保護したり面倒を見てやることがよくある。今は柱の一員となっている小芭内や蜜璃もかつてはこの家で面倒を見た。元柱の眼鏡に適うのであればどうしようもない問題児ということも無いだろう。

 珍しい頼みではない。難しい願いでもない。しかし、その本意が自分の心に響くかどうかだけは知っておきたかった。その少年の詳しい事情は何も聞かないから、それだけを教えてほしいと請うて返ってきた答えが一滴の言葉だ。

「夏が、冬が、何が来ようともまるで気が付かない。そういう子供をもう見たくはない」

 鱗滝の言葉は、杏寿郎がこれまで鬼殺隊で関わった様々な人の姿を頭に過らせる。そして最後には、こちらに背を向けて不貞寝する父の姿を何故だか思い描かせた。柱は鬼殺隊の頂点だ。しかしそこまで技を極め力を持ったとしても、できることは腹立たしい程少ない。無力。その言葉が頭に浮かばない日は無い。それでも何か、僅かでも、誰かのためにしてやることがあるはず。そんな自分の情熱をどれだけ信じていられるか。鬼より厄介な敵はいつも自分の弱さだ。

 引き受けましょう、その場で返事をすると鱗滝は深く頭を下げた。

 その後、父からもおざなりながら了承を取ることができた。蜜璃の時のように反対されるかと思ったが、鬼殺隊に関りのある者でないことが良かったのかもしれない。千寿郎にも事情を話し、古い時代は茶室だったという離れを少年が妹と共に住めるよう整え、迎え入れる準備はすっかり済んでいたが、初めて少年と対面した時に杏寿郎はそう告げなかった。「力量を見てからにする」という態で、少年の意志を問うておくことにしたのだ。

 初めて少年──炭治郎と顔を合わせたのは、都心から離れた閑静な場所に構えられた鱗滝の道場だった。敷地に足を踏み入れるなり、道着を着た少年が緊張した面持ちで飛び出してきた。頬を紅潮させた満面の笑みだ。

「煉獄杏寿郎さんでしょうか!?」
「いかにも!」
「はじめまして!竈門炭治郎です!よろしくお願いします!」

 ガバリと勢い良く頭が下がったかと思えば、鱗滝さあん、いらっしゃいましたあ、山びこが返りそうな大声が上がる。正直に言うと、一目見た時は拍子抜けした。礼儀正しく明るい何の変哲もない健やかな少年にしか見えない。

 にこやかに道場へ通されたので早速打ち込み稽古をさせてみることにした。さすがに鱗滝がよく鍛えていて、未熟ながら筋はいい。悪いところも教えれば次第に良くなる。勘が良く素直だ。この話が無くともこちらから継子として声をかけたいくらいだ。

 二時間休みなく打たせ続けても嫌な顔ひとつ見せることなく必死に食らいついて来た。内心感心しつつ、最後の一撃を受けるだけでなく弾く。そろそろ限界だったらしい集中を崩され、炭治郎はどすんと尻もちをついた。呆然とするその顔に木刀を突きつける。

「君はなぜ俺のところへ来る」

 呼吸を荒く弾ませながら、炭治郎は探るように杏寿郎を見上げた。質問の意図を掴みあぐねているのか、答えに迷っているのか。

「鱗滝さんが行けと言うからか」
「いいえ」
「だが、君は鱗滝さんが好きだろう」
「……はい」

 否定は早かったが、肯定には間があった。それが仮初でないこの少年の決意と覚悟を感じさせる。鱗滝とそりが合わずに、だとか生半可な理由ではないはずだ。少年のひたむきな剣先がどこに向かっているか。それを知らずには行きたいところへ導いてやれない。

「では、何がしたくて心を決めた」

 顎の先から落ちた汗が胸元に落ちているが、炭治郎はそれを拭うこともせずじっと杏寿郎を見ている。乾いた口を潤すために唾を飲み、とうとう口が開いた。

「俺を思ってくれる人が悲しむように生きたくないんです」

 季節は夏だ。山裾にある鱗滝の道場に他の人の気配は全く無かったが、蝉の音が大雨のように降り注いでいた。心に浮かんだものをそのまま落としていくように、おぼつかない緩やかさで炭治郎は言葉を繋いだ。

「家族を悲しませたくない。これ以上」

 言って、きゅっと唇が噛み締められたのは涙を堪えるためだろう。声が少し震えていた。大きく息を吸って、眉根に力が入ってまた口が開く。

「毎日元気で、笑って、強くて、立派で、幸せで……」

 それから先は何も続く言葉が無かった。再び唇を結んだ炭治郎は力なく俯く。堪えるように力の入った肩を杏寿郎はただ見下ろした。その肩に触れる優しさはきっと、この少年を却って傷つけると分かった。この少年も求めている。無力に抗うための火を。

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