「禰豆子!」
白い息を吐きながら家の裏手にある小さな倉庫に出る。小麦粉の袋に手をかけたところで、慌てた様子で兄が駆けてきた。ああ、やっぱり見つかっちゃった、と思う。
「呼んでくれれば俺がやったのに」
「お兄ちゃんは配達があるじゃない」
さすがに25キロの小麦粉は一人じゃ無理かもしれないけれど、父が病気がちになってからは10キロの小麦粉を仕入れるようになっていた。それぐらいの重さなら六太のほうが重いくらいだから、大げさだよと苦笑して息を吐く。
「みんなで、できることをできることだけやろうって言ったのはお兄ちゃんでしょ?」
禰豆子の言葉に兄は困ったように笑った。禰豆子には敵わないなあ、と言う優しい口調が父によく似ていて好きだと思うし、少し寂しいとも思う。禰豆子も兄と同じ表情になって小首を傾げる。
「でも俺は、禰豆子に一番に頼ってほしいんだよ」
「どうして?」
「禰豆子はがんばり屋だから、心配なんだ」
思わずきょとんと兄を凝視してしまう。何を言っているんだろう、と心から思った。がんばり屋はお兄ちゃんでしょ、思わず漏れた呟きは禰豆子自身の思う以上に呆れの濃い声になった。はは、ありがとう、褒めたわけじゃないのに兄は照れたように笑う。
「俺はがんばり屋って言うよりも、頑張ることしかできないだけだから。でも禰豆子は心だけじゃなくて頭でも色んなことを分かろうとする。それが少し心配だなあって思うよ」
何言ってるの?お兄ちゃん。
禰豆子はやっぱりそう思う。父が入退院を繰り返すようになった時、兄弟の誰もが毎日不安の中を泳いで暮らしていた。でも、母と兄はそれを感じさせないようにいつも笑顔だった。大丈夫、大丈夫だよ。父の代わりになって撫でてくれる兄の手の温かさがみんなを安心させた。父がとうとう息を引き取った時も、一緒に悲しんだのはほんの短い間だった。すぐに兄は慰める側に回ってしまった。そうしなければならないことをいつも兄は分かってしまう。兄だって不安で、悲しくて、寂しくて、父や母に縋りついて泣きたかったと思う。でもそれを見たらきっと禰豆子たちは胸が痛みで張り裂けてしまうかもしれないから、そうしないでいてくれる。心配だよ、お兄ちゃんこそ。
だけど、それをきっと禰豆子は口にしてはいけないのだ。もしかするとそれが兄の頑張りを傷つけてしまうことかもしれないから。ほ、と隠れて小さいため息を吐く。白い息がまた滲んだ。
「あのね、お兄ちゃん。心配は嬉しいけど、横取りはだめだよ」
「横取り?」
「うん」
不思議そうな顔を傾ける兄に目を合わせて禰豆子も首を傾げる。倉庫は冬の気温で冷え切っているけれど、いつも皆に頼られる兄を一瞬独り占めできるこの時間は嬉しい。ほんの小さい時以来かもしれないと大げさに思う。
「辛い時や悲しい時にね、自分にできることがあるって分かると安心するよね。それはお兄ちゃんだけじゃないよ。だから、その気持ちを横取りしないで」
兄はぽかんと禰豆子を見つめた。それからぐっと眉根に力を込めて妙な顔をする。瞳が潤んでいた。頼りになるしっかり者だけれど、情にもろくて感動屋なのだ。そういうところが大好きだと思う。ふふ、と笑みを零すと、兄も眉根を寄せたまま、ははと笑った。白い息が華やかに流れていく。
「そうか」
「うん」
「禰豆子にはやっぱり敵わないよ。じゃあ、これだけ」
「うん、気を付けて!」
ぱんと小麦粉の袋をひとつ叩いて、兄は体を翻した。
「行ってくる。店を頼むよ!」
満面の笑みで大きく手を振り手を振り、兄が駆け去っていく。いつか、誰か居てくれたらいいな。ふとそう思った。禰豆子たちが妹弟である限り、きっと兄は人一倍頑張ることをやめられないけれど、横に並んでたまに寄りかからせてくれるような人がいつか、兄に。
でも今はそんな人はまだいない。だから兄が居ない時は長女の禰豆子が兄の代わりに家族を助けるのだ。そう思っていた。
「ろくた、ろくた」
頭に怪我をしているのか熱い。でも流れてくる血を冷たいと感じる。目が痛くて前が見えない。抱えているはずの弟は、いくら名を呼んでも何も答えなかった。動きもしない。抱え込む手が血でぐっしょり濡れている。多分、六太の血だった。
今日は町内会の会合があるとか言って、近所の三郎さんが売れ残りのパンを全部買っていってくれて、早めの店じまいをすることになった。母はお金の勘定をして、弟妹たちは店の片付け、禰豆子は夕飯の準備をしていた。
悲鳴を聞いた。でも映画やドラマみたいに尾を引くものではなかった。低く、短く、濁った悲鳴を耳が拾って、最初はなんだかよく分からなかった。肉じゃがの火を止めるかどうか迷ったくらいだった。居間に出ると、よたよたと一番小さな弟が歩いてきて慌てて抱き止めた。いたい、いたい、か細い声でそれだけ言った。
弟を抱えて飛び出した店の中は血みどろだった。まだ居たのかあ、いい店だなあ、ニタニタ笑う男の口からは牙のような歯が見えた。人間とは思えない青白い肌。手には腕。人の腕だけ。誰かの腕。
うああ、思い切り叫んで六太を抱えたままスチールラックに手をかけた。キャスターを転がして押し出す。油断していたのか、それに押し潰された男が怒声を上げた。駆け出して逃げようとするところを抑え込まれようとする。暴れて抵抗して何度も逃れたけれど体中が痛くてどうしようもなくなった。それからよく覚えていない。六太を抱えて体を丸めていた。
男はどうなったんだろう。家族は。お母さんは、竹雄は、花子は、茂は。いつの間にか体に感じていた圧が消えている。声もしない。静かだ。朦朧とする意識の中で、誰かが近くに寄ってきた気配がする。六太を必死に抱き込んだけれどこちらを傷つける素振りがない。背に手が触れるだけだ。その優しい力に、兄かもしれないと思った。
「ろく、たを……」
私はいいから、六太を早く。腕を上げたいのにもう動かない。背から手が離れて六太に触れているようなのに、抱き上げてくれる様子が無かった。それがもどかしい。お願い、お兄ちゃん。返事がないの。早くしないと、お父さんみたいに。血で濁った目に涙が滲んでくるのが分かった。
「わたし……なにも、なにも……みんなに、……ために、お、にいちゃ、みたい、に」
お兄ちゃんは頼むって言ってくれたのに。お兄ちゃんのために私が助けなきゃいけなかった。守らないといけなかった。でも何もできなかった。呑気に肉じゃがを温めていた。せめて、六太を。六太だけは。
「もう、いい」
兄の声ではない。意識はどんどん薄れていくのにそれだけははっきり分かった。懸命に目を開けようとするけれど手で覆われてしまって真っ暗闇になる。
「この先も地獄しかない」
不思議と、その言葉が靄にまかれた頭の中にするりと滑り込んでいた。そして、この人が六太を抱き上げないわけを悟ってしまった。暗闇の中で目を閉ざす。涙がぼろりと両目から零れた。体の力が抜ける。意識がいよいよ遠い。体が抱き上げられたような感覚だけをなんとか拾う。本当は抱き上げてほしいのは禰豆子では無かった。でももう、いいかな。ぐったりとその腕に体を預ける。この先に何もないなら、頑張ってもしょうがないのかな。
「ごめん」
消えそうなくらい小さな声が頭の上に落ちてきて、思わず目が少し開いた。同じ人だ。同じ声。川がせせらぐような静かで低い声。なのに先ほどと声の色が少し違う。
「行くな、許されても」
ぎゅっと体が包まれた。体が熱い。痛みを感じない代わりに熱いのかもしれない。でもその腕の力に不思議と安心した。
「頑張れ」
そうだった。私は、お兄ちゃん似のがんばり屋だから。この先なにがあっても私はここに、留まらなければならないんだ。それを思い出して、意識がテレビが消えたみたいにプツリと閉じた。
だからね、お兄ちゃん。私は居るよ。いつも、お兄ちゃんの一番近くにいる。頼まれた家のことちゃんとできなかったから、せめてお兄ちゃんを助けていたいから。なにがあっても留まっている。義勇さん、面白い人だね。お兄ちゃんの隣を歩いてくれたら素敵だね。私も早く話したいな。
それからね。早く目覚めて、あの時の人にお礼が言いたいよ。あなたが謝らなくていいんですって言ってあげたい。