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検査。朝、なし。昼、豆腐ハンバーグ。夜、けんちん汁。
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「義勇さんって、字まで綺麗なんだなあ」
思わず感嘆の呟きが漏れてしまった。癖が無くノートの罫線にピッタリ沿ったお手本みたいな「大人」の字だ。罫線の上で元気に踊る炭治郎の字と比べるとその差は歴然としている。義勇に近づくためには書道まで必要なのか。思わず唸ってしまった。義勇は凄い。義勇のおかげで、今まで思ってもなかったことにすら頑張ろうという意欲が湧く。
「でも、これだけか……いや、これだけなんて言っちゃだめだよな。せっかく書いてくれたんだから。義勇さんらしいって感じもするし」
明日会ったらそれとなくもう少し書いてほしいと伝えてみよう。嫌がってなさそうだったら。ああ、俺は毎日欲張りになってくみたいだなあ。
義勇は始め、「交換日記」というものがピンとこなかったらしい。炭治郎の日記を読むだけだったので、困惑する匂いを感じつつどうしても諦めきれず何か書いてほしいと懇願した。その甲斐があったことを実感し、義勇の流麗な字を眺めては頬が緩めるという繰り返しをやめることができない。この「交換日記」の発案者である善逸には感謝してもしきれない。
義勇に猶予をもらったので、その間に炭治郎はなんとしても自分に興味を持ってもらわなければならなかった。しかし具体的な策は何一つ浮かばない。うんうん頭を抱えていると善逸があれこれ様々な提案をしてくれたが、悪いと思いつつ全て却下していた。何せ相手は六年も長く炭治郎より生きて様々な体験をしている。きっと炭治郎がどんな小細工を使ったって退屈なだけだろう。だってあれだけ面と向かってきっぱりと「興味がない」なんて言われた。せっかく考えた案を全て蹴られる形になった善逸は当然面白くなかったようで、最後に言い放ったのだ──もー、そんなにわがまま言うなら俺は知らないからな!おカタイ炭治郎は交換日記ぐらいで充分だよ!!
善逸が落とした雷は見事に炭治郎を打ち抜いた。咄嗟には口でうまく伝えられないことも、文章なら時間をかけて考えられる。炭治郎は自他ともに認める筆まめだ。友人たちにも炭治郎の手紙は面白いとよく褒められる。これなら少しは義勇も楽しんでくれるのではないか。しかも「交換」日記だ。うまくいけば義勇のことをもっと知ることができる。
初めて日記を渡した日の義勇の、なんとも言えない表情を思い出してまた頬が緩んでしまう。炭治郎を巻き込んだことに引け目を感じさせてしまっていることは分かっている。そして炭治郎は絶対にそれを否定し続けなければならない。余計な真似をして義勇と自分の命を危険に晒したのは炭治郎自身なのだから、義勇にそんなふうに考えてほしくないと真心から思う。でもあの日から少しだけ義勇の態度が柔らかくなった気がしていて、このままだとこの辺りのことがうやむやになってしまいそうで怖い。義勇の引け目に付け込んでいるような、自分が悪くなってしまった感じがする。
「義勇さん、検査だったみたいだ。大丈夫だったかな。悪くなってないといいけど。でも、入院してる間は……戦わなくてもいいんだよな」
これも悪い考えだろうか。目の当たりにした人ならざる者の血肉の腐ったような匂いが鼻の奥に蘇り顔をしかめる。この匂いは以前にも嗅いだから知っている。人からは決してしない異臭。ずっと何の匂いか分からなかったが、今やっと答えに辿り着いた。義勇はずっと戦ってきたのだろうか。これからも戦っていくのだろうか?あんなにも唐突に、理不尽に何もかもを奪い去っていく「何か」と。
「いや、違う違う。今は日記書かないと。ええっと……けんちん汁かあ、あったまりそうだな。義勇さん、いつも窓開けてるから風邪を引かないか心配なんだよなあ。それも書いたほうがいいかなあ」
古式ゆかしい煉獄家の屋敷には古くから使われている道具がいくつもあって、炭治郎が使わせてもらっている小さな文机もそのひとつだ。その上に開いたノートから目を離して、傍らの布団に目をやる。
「禰豆子はどう思う?」
答えはない。豊かな黒髪は褪せることなく艶やかで、頬や耳はほんのり紅色に色づき、胸元は呼吸で確かに上下している。生きている。だが答えはない。禰豆子はもう二年、もうすぐ三年こうして眠り込んだままだ。栄養は点滴で、身の回りの世話は煉獄家の人が手伝ってくれている。定期的に軍病院からしのぶがやってきて診察を受けているから、人並み以上に健康体なのは保証済みだ。実のところしのぶとは義勇と出会う前からの知り合いだった。
奇病だと言われた。治す手立ては探し続けるけれど、このまま病院にいても快方に向かうか分からないと。それを聞いた鱗滝は禰豆子ごと炭治郎を自分の道場に招き入れてくれた。杏寿郎もまた同じくだ。幸せだと思う。多くの縁ある人が炭治郎たちを助けてくれる。俺は幸せ者だ。そう思っていないと。
「竈門少年」
はっとして振り返ると、部屋の戸口に優しい笑みを浮かべた杏寿郎が立っている。眉が少し下がっていて、申し訳なさそうな表情だった。
「返事がなかったので開けたが、邪魔をしただろうか?」
「……いえ!」
きっと、掬われたと思う。沈み込んでいく気持ちを。笑顔でどうしましたかと答えると、杏寿郎は表情を変えないまま部屋に入ってきた。炭治郎のすぐ傍までやってきて腰を下ろす。
「妹は変わりないようだな」
「はい!俺たち兄弟は皆丈夫なのが取り柄なので!」
「うむ、良いことだ。体躯に恵まれるということは実は得難い幸運だ。益々鍛錬してその長所を伸ばすといい!」
「はい!」
にこり、杏寿郎の笑みが満足そうなものに変わったので、炭治郎もつられて笑みになった。髪にも目にも心にも燃え盛る炎が宿るような人だ。暗いところを遍く照らそうとするのは太陽のようでもある。なるのならこんな大人になりたいと常々思う。
「君に話さなければならないことがあって来た。君が遭遇した「もの」に関することだ」
「はい」
杏寿郎の気配が凛と澄んだ匂いに変わったので炭治郎も姿勢を正してそれを見上げた。
「既に言われているだろうが、君はその「もの」について知ることができない。俺からも詳しくは話せない。その意味が分かるな?」
「はい」
しのぶにも同じようなことを言われたが、その意味について正しく理解できているつもりだ。ほんの一年足らずの予科生の生活の中でも、それを肌で学ぶ機会が度々あった。軍には機密というものが山ほどある。そして、階級や所属によって知ることのできる情報は全く違う。「これ」は一介の予科生が本来知っていてはならないことなのだ。それは同時に、仮に口外するようなことがあれば何かしらの処分があるという示唆を含んでいる。
「本来ならばここで話は終わりだが……少し事情が変わった。君には明日、午前中学校を休んでもらう」
「学校を……?」
「言っていなかったが、俺は第二特別機動隊という部隊に兼務で所属している。その指令長官が君との面会を望んでいる」
「えっ!?ええ……!?指令、長官……!?」
とんでもない上官だ。まさに雲の上の人。衝撃はそれだけでなく、多忙を極める杏寿郎が兼務をしているだなんてとても信じられない。しかしそれについてはすぐに、事実が逆である可能性に気が付いた。兼務をしていたからこその多忙だと言われれば腑に落ちる。
「驚いているな?」
「は、はい……」
「更に驚かせて悪いが、冨岡もその隊の所属だ。つまり俺たちは同僚だな」
「えーっ!?」
禰豆子も飛び起きるんじゃないかというくらいの大声を出してしまった。煉獄家は広いのでご近所迷惑ということにはならないだろうが、それでも夜半に上げてしまった大声に慌てて自分の口を手で塞いだ。杏寿郎はそれを愉快そうに見下ろしている。
「何で言ってくれなかったんですか!?」
思わず言い募ってはたと気づく。この話の流れで言うと、それもきっと機密に触れることだったに違いない。申し訳なさそうな笑みを再び浮かべている杏寿郎に自分の短慮を反省する。しかし、それにしても。知り合いだと言うぐらいは許されないのか。ダメなのか。義勇さんも全然そんな素振り見せてなかったしなあ。
「理由のひとつは君の想像の通りではあるが。もうひとつ、君が冨岡と初めて会った時、俺の知り合いだと知っていたらどう思った。きっと扉を開ける前から好印象を持ったはずだ」
その言葉に自分と正反対の杏寿郎の思慮深さが窺えて炭治郎は益々己を恥じた。確かに鱗滝の弟子というだけで既に悪い感情は持てないでいた。そこに杏寿郎の同僚という情報が加われば、出会う前から信頼を預けていたかもしれない──今になって言えば、どっちにしたって義勇に対する気持ちが変わっていたとはとても思えないが。
「それに」
「まだあるんですか!?」
「ああ!尋ねられなかった!!」
どこを見ているか分からない強い眼力を持つ笑顔にやや押されて納得しかけるが、いやいやと内心首を振る。なんとなくそれが一番の理由な気がした。炭治郎に何かしらの勘が働いて、顔見知りではないんですかと尋ねていたらこの人はうんと答えたのではないだろうか。多分、義勇のほうも同じく。
「杏寿郎さん……」
「そういうことだ!では、明日は頼むぞ!俺が付き添うから君は大船に乗った気でいるといい!」
「ちょ」
「では俺は戻る!書き仕事が残っているからな!」
「あっ」
止める間もない。たちまち賑やかだった部屋に静寂が戻り、炭治郎は複雑な表情で閉まった戸を見つめるしかなかった。だが、間を置くと杏寿郎のお茶目さが愉快に思えてきて結局笑ってしまう。
「杏寿郎さんは凄い人だなあ、本当に。それにいつも強くて、明るくて。俺は本当にあんな人になりたいよ。そしたら義勇さんも、俺に興味を持ってくれるかなあ」
なあ、禰豆子。機嫌よく声をかけたが、やはり返事はない。脳裏では二年前の禰豆子がくすくす笑っている。最近、お兄ちゃんはそればっかり。想像の中の禰豆子に炭治郎は苦笑を返す。
「禰豆子は今、どこにいるんだ」
撫でる頬はあたたかく柔らかい。むに、と優しくつまんでやるが、やめてよお、お兄ちゃん急にどうしたの、なんて言いながら起きる気配はない。
「兄ちゃんの近くにいるか、ちゃんと。……それとも、皆の近くにいるのか」
答えはない。ふっと息が漏れた。全部独り言にしかならないから笑うほかにない。禰豆子の頬から指を離して文机に向き直った。鉛筆を手に取る。
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俺には妹がいて、
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書いて、続きが思いつかなくて消しゴムで消し去った。
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左腕はまだ固定が必要。手首の関節だけ動かす。
朝、ししゃも。昼、蒸し鶏。夜、カレー。
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「炭治郎だね」
「はっ!」
「楽にしていいよ。無理を言ったのはこちらだから。杏寿郎もすまないね」
「お館様のためとあらば、このくらいのこと」
初めて入った軍本部の建物は広大で複雑に入り組んでいた。第二特別機動隊の司令部は更にその最奥にあるらしく、もう一度一人でここまで辿り着けと言われたら無理だなと思う。副官だという美しい女性に導かれて執務室に入ってすぐ、「お館様」はゆっくりと立ち上がって木目調の机の前に出た。「お館様」が第二特別機動隊における司令長官の通称だというのは杏寿郎から聞いていた。大昔、軍外の組織だった頃の名残だという。
「わざわざ足を運んでくれてありがとう。予科生は忙しいだろう?」
「とんでもない、です」
肩までの黒い長髪に、軍人とは思えない優しい笑み。左目のあたりに赤みを帯びて筋立った腫れのような痣がある。もしかしたら左目は見えていないかもしれない。過去の任務での負傷だろうか。しかし強さや厳しさという匂いは嗅がなかった。ただ慈しむような優しい匂いで鼻腔が満たされる。向かい合う人に自然と染み入るような、透き通る美しさのある不思議な人だと思った。炭治郎なりに気を張って待機の姿勢を取っているつもりだが、その声が何故だか心地良く頭がふわふわとしてくる。つい先ほどまでピークを迎えていた緊張がたちまち解けてしまう。
「まずは謝らなければならないかな。炭治郎、巻き込んですまなかった」
「い、いいえ、そんな……」
「それから礼を言おう。義勇を救ってくれてありがとう」
まるでほどよい温度の湯に浸かっているような心地よさに謙遜すら曖昧になりかけたが、それだけは頷くわけにいかなくて背筋に力を込めた。大きく首を振る。
「救ってくれたのは義勇さんです!俺は、何も。むしろ足手まといで」
「敵に動きを止められた冨岡の危地を救ったと聞いています!我が義弟ながら鼻が高い!」
炭治郎の後ろに控えてくれている杏寿郎の過大な評価に縮こまるが、やはり嬉しくもある。思わず頬が熱くなるのを感じた。「お館様」はそんな炭治郎に呆れるでもなく、優しい微笑みで包んでいる。
「君が出会ったものを私たちは『鬼』と呼んでいてね」
「鬼……」
「この第二特別機動隊は通称、鬼殺隊と呼ばれている。鬼を、殺すと書く」
その言葉から、炭治郎は己の想像が恐らくほぼ正しいことを悟った。義勇や杏寿郎はいつも「鬼」と戦っている。義勇のひどい怪我もその任務中に負ったものなのだ。
「すまないが今言えるのはこれだけなんだ」
「はい。俺も予科生とはいえ軍人の端くれです。下級の者が知ってはいけないこともあると分かっています」
どうしても信じてほしくて、信用されないことにより義勇や杏寿郎、しのぶに迷惑がかかることが心配で言い募ってしまった。だが言ってから生意気な口ぶりだっただろうかと後悔する。幸いなのは「お館様」から不快を感じる匂いが全くしないことだった。ずっと変わらずに優しい匂いで部屋を満たしている。まるで海のように。
「ありがとう。さすが左近次が選んだだけはある」
「さこんじ」
思わず聞き返してしまった。強く、思慮深く、知識と経験に満ちた老人である鱗滝を自然に名で呼び、まるで違和感を覚えさせない。「お館様」という名がまさに正しくこの雲上人を言い表していると実感する。
「そうだった、炭治郎にはもうひとつお詫びしなければならなかった」
「えっ」
そのようなことをぼんやり考えていたために、そんな人から突然詫びなどと言い出されて混乱してしまう。詫びたいことがあるのは炭治郎のほうだ。義勇の入院が伸びたのは炭治郎のせいだと言っても過言ではないのだから。実のところ今日はそれを責められるのだとばかり思っていたというのに。しかし、「お館様」は優しい笑みのまま炭治郎のすぐ近くまで歩み寄ってわずかに身を屈める。目を合わせることで誠実を示そうとしているのだと分かった。
「実は義勇の婚姻を勧めたのは私なんだ」
目の前にあるわずかに瞳を驚きで凝視した。間近で見るとわずかに色が違っていることに気づく。左目が少しだけ白っぽく透き通っている。
「私から頼むと義勇は逆らえないだろうけれど、左近次は義勇の父代わりだからね」
突然のことで驚いたろう、ごめんね。君を何度も巻き込んでしまうね。私たちは。流れるような言葉が砂に零された水のように心に染みる。言葉を理解するのではなく、心が勝手に「お館様」の真心を受け取ってしまう。あたたかな布団に包まれているような心地よさの中、炭治郎はなんとか口を開いた。
「あの、謝らないでください。俺は感謝しています。義勇さんと出会えたことに。心から」
「お館様」の謝罪を受け入れるわけにはいかない。この人の言葉が無ければ義勇に出会えなかったと言うなら、炭治郎は尽きない感謝を伝えなければならない。炭治郎の言葉に、「お館様」は心底嬉しげに目を細めた。
「炭治郎。人はね、何かどうしてもひとつ、あるいはそれ以上、譲れぬもののあるほうが強く在れるんだ」
その言葉は炭治郎にも理解できるものだ。炭治郎もきっとそうだ。失った家族のため、禰豆子のためがなければきっと今のようには立っていられない。幸運にも杏寿郎に認められ士官学校に入った以上は、士官になって第一師団を目指し、家族を奪った「もの」を突き止める気でいた。そのためにがむしゃらに頑張ってきた。今、その目標が大きく変わりつつあるが。
「婚姻という形でなくてもいい。何かきっかけにさえなれば何でもいい。今の義勇には助け合う誰かが必要だと私は考えている」
義勇は大人だ。機能回復と鍛錬に打ち込む姿、鬼と戦う姿をこの目で見た。強い人だと分かっている。だがひどく優しい。そしてそれを外に出さないようにして生きている。それが少し寂しい人だ。炭治郎にはそれが香ってくるから、もっともっと義勇の傍に近づきたいと思う。知りたいと思う。一日でも長く留めておきたい。消えてしまわないように、触れて、確かめておきたい。明日失ってしまうとしたら恐ろしいから。
「俺は……まだまだ未熟です。でも、なってみせます。義勇さんを助けられるような、」
「炭治郎」
「お館様」の声は変わらず穏やかで優しいものだったが、名前を呼ばれただけで言葉を続けることができなくなった。聞き分けの悪い子供を咎めるように人差し指が唇に当てられる。
「どうか、私が言ったことを忘れないでくれるかい」
「は、はい……」
まるで頭から吊られていた糸がぷっつり切れたようにカクンと頷いていた。
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晴れたので少し走った。診察の時間に遅れた。体力が落ちている。
朝、パン。昼、野菜の天ぷら。夜、しょうが焼き。ヨーグルト抜き。
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軍病院は大規模で、軍関係者の家族や周辺住民にも開放されているためか、一階のロビーには憩いのために設けられたスペースが多い。今はもう閉店している売店の前もベンチやソファが並べられていて、壁際には様々なメーカーの自販機が並ぶ。勢い良く駆け出したはずなのに、今はとぼとぼと歩いてそのスペースまで辿り着いていた。何故自分がこんなことをしているのか自分でも分からない。売店が閉まっているということは面会時間も終わりが近い。義勇と話せる貴重な時間だというのに。はあ、思わず重いため息が出る。
「……あれっ」
しかも、辿り着いた自販機では目当ての汁粉が売り切れているではないか。手ぶらで帰るのはさすがに気まずい。せめて他の何かあたたかいものを──自販機の間で視線を泳がせていると、誰も居ないと思っていた場所に人影があることに気が付く。全く「人の匂い」がしなかったので気が付かなかった。
同い年ほどの少年に見えた。癖のない艶のある短髪が丁寧に整えられていてどこか品を感じさせる。しかしその顔色はひどく青い。ソファに沈み込んで力なく項垂れているようだった。
「君、大丈夫か?」
思わず近寄って声をかけると、少年は億劫そうに顔を上げる。顔は真っ青なのに、猫の目のような瞳の力はギラギラと強い。
「うるさい。放っておけ」
「でも、顔が真っ青だ」
「迎えが来る。俺が待っているのはお前じゃない。去れ」
「でも……」
はあ、心底鬱陶しそうなため息が吐き出されて怯んだが、やはり少年は辛そうに見えて放っておけない。おろおろとその肩に手をかけようとすると、痛いくらいの力で手首が掴まれた。
「だから、」
少年が怒りのままに大口を開けたが、その先の言葉が続かずに止まった。何かを探るような目がじろじろと炭治郎の頭から爪先を往復するので困惑するしかない。
「な、なんだ。どうしたんだ」
「お前。傷が多いな」
「えっ」
「丁度いい。少しもらっていく」
もらうって一体何を。そう聞く前に、何かあたたかいものが足の先から背を走って首筋のあたりから抜けていく感覚がした。妙な感覚だったが、特に体に異変は感じない。対する少年は顔色にほんの少し血色が戻っていた。
「一体、今……」
「忘れろ」
先ほどまで力なく項垂れていたことが嘘のように、軽々と少年はソファから立ち上がる。炭治郎には最早微塵の興味もない様子でスタスタと歩き去る。炭治郎としては具合が悪そうなところを助けたかっただけだから、追いかける理由も思い当たらず呆然と見送るしかない。廊下の角に消える直前、少年は不意に足を止めた。くるりと振り返ってつまらなそうな目で炭治郎を見る。
「貸しを作ったと思われるのは癪だからひとつ教えてやる。ここにはもう来るな」
「……え?」
「間抜けがどれだけ考えても無駄だ。俺の言うことに従っておけ。後悔したくないなら」
「分からないことには従えない。君は一体『何』なんだ?」
炭治郎の言葉に、少年は片眉を上げた。じっと睨むように炭治郎を見つめていたが、その問いに答える気はないのか身を翻す。
「もうひとつだけ教えてやる。大切な存在から片時も離れるな。俺はお前のような間抜けではないから、そうしない」
少年の姿が今度こそ廊下の向こうに消えた。言葉の意味を掴みかねて後を追ったが、曲がった先には人影は一つも無かった。面会終了を告げる放送が流れ始める。何故だか心がざわついた。
正体不明の焦燥に追い立てられるように玄関口のロビーに戻ったが、義勇の姿がない。ソファには丁寧に畳まれたオーバーコートだけが置かれている。外来受付は既に閉まっていて義勇の行方を聞き出せる人の姿は無さそうだった。面会を終えて名残惜しげに去っていく人々の間を小走りですり抜ける。悪い予感に心臓が跳ねて苦しい。エレベータを待つ時間すら惜しくて階段を駆け上がった。義勇の病室は角部屋で、階段からだとナースステーションの前を通らない。しまったと思うが、声をかけに戻る心の余裕は最早残されていなかった。義勇の病室が近づく度に「あの匂い」がする。血と肉と脂とを腐らせて混ぜ合わせたようなひどい匂い。
「義勇さ、」
『開けるな』
ドアに手をかけたが、それを引く前に声をかけられて思わず手が止まってしまった。義勇だ。義勇がドアのすぐ向こうに居てドアを押さえている。
「義勇さん!開けます!」
『開けるな、と言ってる』
声はいつもの抑えた調子だが、怒気が滲んでいるように聞こえた。ドア越しでは義勇の微かな匂いは嗅ぎ取れない。「あの匂い」が強くて尚更だ。無理だと思った。その言葉だけは聞くことはできない。
「嫌です!」
思い切りドアをスライドさせ、よろめく義勇の体を抱き込んで身を伏せる。その真上を間一髪、何か白いものが鋭く過ぎ去っていった。部屋中にはその白い帯状のものが張り巡らされている。包帯だろうか。部屋の隅から強い匂いがしていて、それから庇うように義勇を抱き締める。
「もう何もできないのは嫌です!!」
間近の義勇から嗅いだことのない匂いがした。鼻の奥がツンと痛むような強い匂いだ。いつも怒っている人からする匂い。顔を上げようとしたが、義勇の片膝が容赦なく鳩尾に入って呻く。身体を弾き飛ばされ義勇が逆にその上に雪崩れてくる。元居た場所には包帯が鋭く突き刺さる。
「笑わせるな!」
左腕を使わずに腹筋だけで身を起こした義勇は、右手に握る鞘に入ったままの刀で迫り来る包帯を弾く。手を休めないまま身を起こし、炭治郎を跨ぐようにして中腰になった。庇っているというより、余計なことをしないように押さえつけられている。
「何かできるつもりか!鬼のことを何も知らないお前が!思い上がりも甚だしい!弱い者が己の力量を知らないことより厄介なことはない!」
包帯を弾く義勇は防戦一方だ。また足手まといになったのか。だったらあの時、ドアを開けずに去れば良かったのか。少年の言うように。全てが終わった後に失ったことだけを知っていれば賢いのだろうか?そんなことを繰り返して生きていかなければならないのか。
「なんでいつも、いつも……!俺のいないところで……!」
床に這うような呻きが零れた。腹が捩れるような自分への怒りと後悔に情けなく涙が滲む。すると、ツンと鼻を刺す義勇の怒りの匂いが少し薄れた。それを疑問に思う間もなく厳しい色をした声が降る。
「そんなに何かしたいなら手を出せ」
え、と声を上げそうになったが、早くしろと怒鳴られて慌てて右手を伸ばす。そこにトンと鞘を当てられた。瞬時に意図を察して慌ててその鞘を握り込む。ずらりと刃が鞘を走る音が手の平に響く。それを認識した時には、頭上から義勇は消えていた。
ぐあ、とあっけないほど小さな呻きを聞いて目を上げれば、数メートル先に包帯でぐるぐると巻かれた人ならざる者の頸がボトリと落ちた。見る間に鬼の頸も体も灰塵のように崩れ去っていき、胸がムカムカするような異臭が次第に薄れていく。
ズッと右手の鞘に刃が納まる感覚があり、鬼から更に目線を上げる。いつも静かな瞳が今は真冬の湖面のように冷たく冴えていた。ガチンと重たい音で鍔が鳴った後、重たくなった鞘が引き抜かれそのままポカリと頭を叩かれる。痛くはない。表情と合わないほんの軽い力だ。
「俺を勝手に殺すな、奪われるな、お前の頭の中で」
電灯の壊された薄暗い部屋で、半開きのドアの光を受けた義勇の顔を見つめ、炭治郎はただ全身で義勇の言葉を聞いた。
「俺は、そうはならない」
体が動かない。義勇を見つめる以外のことを全て忘れてしまったかのようだった。義勇から怪訝そうな匂いがして、何か返さなければと身じろぐ。だが少し動くと涙が滲んできて困った。結局涙を零さないために義勇を見つめるしかない。
「なんだ」
「すみません。怒ってる姿もあんまり、綺麗で」
ぱっと義勇の怒った匂いが霧散して、分厚いまつ毛に縁取られた瞳が見開く。なんだか髪の毛さえ驚きで逆立っているように見えて、申し訳ないと思いつつやっと気が抜けた。身体が動くようになったのはいいが、ボロリと涙が流れていくのを抑えられない。義勇はそんな炭治郎を戸惑う匂いで見つめている。少し幼く見えるその表情をよく見たくて立ち上がった。泣きながら笑っているような、きっと今の炭治郎の表情は奇妙なものだろう。
と、その時。義勇の首筋にひたりと細い指が触れた。
「麻酔に筋肉弛緩剤、開発中の神経毒のサンプルもありますがどれがお好みですか?」
義勇がびくりと肩を震わせて身を反らすと、その後ろに忍び寄っていたしのぶの優しい微笑みと目が合った。表情は本当に慈しみに満ちて見えるのに、匂いは鼻にツンと沁みて痺れそうなほどだ。怒っている。先ほどの義勇以上に。
「邪魔してごめんなさいね。でも大丈夫、続きは病床でできますから。人体に影響を及ぼさない胡蝶しのぶスペシャルブレンドですよ」
「あの、鬼が出て」
「ええ、そのようですね。軍病院において絶対にあってはならない事態に巻き込んだこと、お詫びします」
大丈夫ですよ、後始末はこちらで手配しますから。怪我がないか見ましょうね。言葉は優しいのだ本当に。嘘の匂いもしないから真心からの言葉だと分かる。しかし、怒りの匂いは全く薄れない。
「あれ、でもおかしいですね?私を呼んでくださればすぐに済んだ話なんですけれど……冨岡さんは本当に天然ドジっ子ですから目が離せませんね。しっかり捕まえていないと」
にこり、しのぶは炭治郎に小首を傾げて一層微笑みを深めた。
「ね、炭治郎君」
やや下方に向かったその視線を辿っていくと、まず自分の両手が目に入った。次にその両手にしっかりと握り込まれた刀を握ったままの義勇の右手。
「あ、うわっ!すみません!!」
日曜日、病院を訪れるとナースステーションでしのぶに呼び止められた。炭治郎を待っていたらしい。中に招き入れてもらって看護師たちの休憩用だろう小さなテーブルで向かい合う。
あの後、追い出されるように病院から放り出されてしまい、一日軍部の捜査が入るとのことで義勇に会えなかった。その間に義勇の病室がナースステーションの真正面に変更されたことを教えてもらう。鬼にめちゃくちゃにされてしまったあの部屋に戻ることは確かに難しいだろうな、と納得する。後処理にも片付け、調査、セキュリティ強化と色々あって頭が痛いです、としのぶがすっかり疲弊した様子なので心配になった。
「もどかしいです。何か俺もできればいいんですが、何の力も無くて」
「そう卑下することはないですよ。炭治郎君は充分助けになっています」
優しい微笑みにきょとんと目を丸めると、しのぶは義勇から聴取した事の顛末を語ってくれた。義勇は一人残ったロビーで殺気に満ちた視線を感じることに気が付いた。相手の正体を知ろうと病室まで一人で戻り、鬼と交戦することになったらしい。動かない左腕で刀を抜くためにドアに背を預けていたところ、炭治郎が踏み込んだのだ。どうやらあの時の「開けるな」は「今は」が頭に付いていたようだ。炭治郎は思わず頭を抱えてしまった。
「やっぱり俺は義勇さんの足を引っ張っていたんですね……」
「でも、君が戸を開けたおかげで私は異変を知ることができた」
炭治郎が大声を上げてドアを開け、そこから飛び出した「何か」を見かけた看護師が居て、すぐにしのぶに連絡が回ったということらしい。しのぶも第二特別機動隊の兼務者だとそれだけは教えてもらっている。きっとしのぶも鬼を殺すことのできる人だ。
「炭治郎君。月並みですが、どんな人でも一人では生きられないんです。それを忘れては、忘れさせてはだめですよ」
その言葉は炭治郎の心の深いところに落ちる。一人であれこれ考え込むと悪いことばかり考える。自分を追い詰めてしまう。でも炭治郎を支えてくれる色々な人と話して、触れることで炭治郎の萎れた心には水が注がれて前を向ける。義勇も同じだろうか。義勇にも炭治郎が水を注げているのだろうか。
「君が君のまま冨岡さんに関心を持ち続けることが、きっとあの人を助けていると思います」
いい傾向だと私は思いますよ、まるで快方の患者に病状を伝えるようにしのぶは言った。だが炭治郎としては納得しきれない。炭治郎が炭治郎のまま、義勇を知りたくて知ろうとする。それはつまり今までと全く変わらない。
「そんなことで、いいんでしょうか」
「ええ、きっと」
「でもそれだと、俺ばかり嬉しいような……」
俺はもっと頑張らないといけないんじゃ、でも何をどう頑張ったら、縋りつく患者のような炭治郎をしのぶはふふっと心底愉快そうに笑った。全く真剣に取り合った様子がないので途方に暮れた気持ちになる。
「嬉しいなら何よりじゃないですか。さて、ここから本題ですが」
「本題?」
「炭治郎君、冨岡さんはもう成人した立派な大人なんですよ。知ってました?」
「えっ、そ、そうですね……?」
「それが、午前の診察をすっぽかしまして。これが果たして大人のやることなんでしょうかねえ」
炭治郎君、しっかり捕まえておいてくださいね。優しい笑顔の裏にある鼻が痺れるような匂いに頬を引きつらせて頷く。慌てて立ち上がり、正面だという病室へ向かう。義勇さん、またうっかり遠くまで走りに行っちゃったんですか。またヨーグルト抜かれちゃいますよ。
「義勇さん、俺です。入りまーす……」
ドアをスライドした先には誰も居なかった。角部屋と全く同じ間取りだが、ほんの少し狭いかもしれない。義勇の匂いを辿ってベッドまで歩み寄り、サイドボードの日記を見つける。一行、二行の日記に手がかりはないだろうけれど、なんとなくパラパラとめくる。
「ふ、」
相変わらずの流麗な字を見つめ、思わず頬を緩めて笑ってしまった。嬉しいと思う。愉快だと思う。好ましいと思う。愛しいと思う。そうだ、と唐突に気が付いた。「お館様」は義勇を「助ける」誰かが必要だ、とは言わなかった。
俺はどうあっても、この人と「夫婦」になりたい。助け、助られる、そうやって長い人生を隣り合って歩んでいきたい。義勇さんと助け合う誰かに俺はなりたい。
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病室に監視をつけられた。
朝、塩鮭。昼、にゅうめん。夜、酢豚。
好物は鮭大根だ。最近食べてない。
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