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午後は野外演習でした。本科の先輩方の指揮に従って俺たちは「駒」になって動きます。小隊に分かれて命令を受けるんですが、俺が隊長に任命されて少し大変でした。いつも話しているから義勇さんも知っている通り、善逸も伊之助もあまり人の話を聞くほうじゃないから。でも、いざという時には言葉がなくても頼ることのできるかけがえのない同期です。先輩の奇襲作戦は、二人の活躍のおかげで成功したようなものだと思います。獣みたいに速くて動きの読めない伊之助と、気を失ったフリで敵軍を引き付けて油断させて、雷みたいに友軍の退路を拓く善逸。本当にすごかった。俺は二人の友であることが誇らしい。俺も頑張らないと。今日は時間が無くて話せなかったのが残念です。明日詳しく話します。
たくさん駆けて、汗をかいたので北風が気持ち良いくらいでした。でも病室だときっと寒いですよね。義勇さんが風邪を引かないだろうかと少し心配になりました。空気の入れ替えはほどほどに。けんちん汁、あったまりそうで丁度いいですね。
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「これは……?」
「日記だ」
回診に病室を訪れていたしのぶが、触診を終えたところで義勇のベッドのサイドボードに手を置いた。その下にあるのは何の変哲もない水色の薄い大学ノートだ。問われたので答えただけなのに、しのぶは己の唇のあたりに戸惑うように指を触れ、怪訝そうに義勇を見下ろした。
「……日記、ですか。冨岡さんが?」
「いや、炭治郎のだ」
何が言いたいんだとは思ったものの、深く追究せずにただ事実のみを伸べる。根拠のない推測や私情は差し挟まない、上官に望まれた事実のみを伸べるのが軍人に求められる素養と言うものだ。それが同僚であるしのぶにまで適用されるべきことなのかは分からないが、求められる軍人像というものは、口下手な義勇にとっては都合がいい。義勇の素直な白状に、しのぶの怪訝そうな表情はますます深くなった。目が丸まり、炭治郎君の、と小首を傾げている。
「それが何故ここに」
「一日おきに勝手に置いていく」
炭治郎は相変わらず、軍病院にトンボ返りになった義勇の病室に連日通ってきていた。すっかり陽が落ちて窓の外が暗くなった頃に病室に滑り込んで、面会時間が終わる放送を聞き名残惜しそうに去っていく。ほとんど炭治郎が話しているし、その話には善逸や伊之助といった名がよく出るので友人がいないというわけでもない。卑下でなく事実として、義勇自身に何か面白味があるとは到底思えない。何が楽しくてこんなに足繁く通えるのか知りたい。
「それ冨岡さんも書け、と言われませんでした……?」
「何故知ってる」
んぐっ、としのぶが何かを押さえつけるような妙な声を上げ、かと思えば空咳を始めた。見れば、口元を押さえて顔を逸らしている。医者のくせに風邪でも引いたのだろうか。
「……大丈夫か」
「いえ、なんでも。失礼しました。それで、書いてあげてるんですか?ちゃんと」
「それが落とし前だと言うなら、仕方がない」
ともかく、最早日課と化しつつある炭治郎の訪問に加わったのがこのノートだ。どれだけ訓練に疲れ切っていても炭治郎はこの病室にやってきて、必ず一日おきにノートを置いていく。義勇さんも良ければ何か書いてください、と言われたものの、人の日記に何かを書き込むのも気が引ける。そもそも病室の生活にそう代わり映えがあるわけもなく、検査やリハビリの内容と病院食の献立を一行二行記録している。本来は読むのさえ憚られるくらいだが、炭治郎自身がぜひとも読んでほしいというので一応欠かさず中身を検めてはいた。炭治郎は紙の上でも多弁だ。おまけに義勇のただの記録にも毎度欠かさず何かしらの言及がついている。何か思い出すなと思えば、小学生の頃に毎日提出させられていた日記だった。
「律儀なことですねえ」
しのぶの呆れたような言葉を心外に思って眉根を寄せる。全ては義勇の責任だとしても、元はしのぶの言葉から始まったことだ。
「義勇さん!」
いつもはキリリと意志の強さを表すような眉が今は下がり、眉根に憂いの深い皺が刻まれていた。赫い瞳には涙の膜が張り、身を乗り出した勢いでほろりと決壊する。ひとしずくが義勇の頬で跳ねた。ぬるい。
「あら、丁度良かったですね。冨岡さん気が付きました?」
そんな調子で炭治郎に視界を塞がれていたため、しのぶの声が聞こえたことに混乱した。てっきりボロアパートの部屋の前から動いていないのだと思い込んでいたのだ。しかし、すぐに己が病床にしっかりと沈められていることを認識し、どうやら軍病院に戻されたのだとなんとか理解する。傷によるものなのか熱があるようだ。頭が働かない。炭治郎の頭の向こうからこちらを覗き込んでいるしのぶをぼんやりと見上げた。
「水臭いですねえ。そんなにそのベッドがお気に入りでしたら、言ってくだされば同隊のよしみでいくらでも退院を伸ばしたんですけど」
「し、しのぶさん……」
しのぶの表情も声もまるで慈母のように優しいが、言葉に仕込まれた毒があまりにも多い。炭治郎も思わず泣き顔を困り顔に変えておろおろと身を起こしている。そういう意味では少し救われた。ここまであからさまな皮肉を言われて喜べるわけもないが、この素直で優しすぎる少年を泣かせておくのは、大抵の人間は躊躇するものだろう。
「炭治郎君に感謝してくださいね。事を大きくしないよう私にまず連絡をくれたのは彼ですから」
炭治郎君は本当に賢い子ですね。言って、しのぶは炭治郎の両肩に触れた。話が自分に降りかかったことに驚いた炭治郎がわたわたと涙を拭っている。霞がかかったように熱に暈ける頭でも、次第に事の重さが思い出された。予期せぬ戦闘に巻き込み、鬼の存在をまざまざと目の当たりにさせてしまった。それどころか、炭治郎の行動が無ければ二人とも共倒れに死んでいたかもしれない危地に晒した。
「怪我、は」
「無いです!俺は、全然……義勇さんに比べたら……」
「背中の打撲だけですね。軽傷ですよ」
廊下の鉄格子に押し付けて鬼から庇った時のものだろう。目を閉じて深く息を吐く。安堵もあるが、自分の未熟への落胆が大きい。
「あの時、何故、戻ってきた」
乾いた喉と舌で絞り出した言葉に、しかし炭治郎はいつものようにすぐに言葉を返してこない。重い瞼をなんとか押し上げてじっと炭治郎を見上げた。珍しく炭治郎の目が泳いでよそを向いている。思わず怪訝に眉根を寄せると、炭治郎の目がちらりとこちらに動いた。義勇の表情からか匂いからか、とにかく話さないことにはこの沈黙が破れないことを悟ったらしく、観念してぼそぼそ話し始める。
義勇さんと別れて帰っていたんですけど、でもどうしても諦めきれなくて。足が全然前に進まなくて。その時、ふっと寂しい匂いが遠くからして、もしかしたら義勇さんじゃないかと思うと居ても立ってもいられなくって……
「寂しい匂い」とやらを義勇はさせたつもりはない。よその誰かのものを炭治郎が誤って嗅ぎ分けた可能性は十分にある。しかし一方で、あの時確かに義勇はとぼとぼとアパートを後にする炭治郎の背を見送っていた。この鼻の利く少年が何かの気配を感じ取ったとしても不思議はないのだ。
つまり総合すると。九割五分は確実に義勇が悪い話のように思えた。
「巻き込んだ」
「ち、違います!それは絶対違います。俺が勝手に戻りたくて戻ってきただけだったんだから」
思わずもうひとつため息を吐いて呟くと、炭治郎は慌てた様子で身を乗り出した。きっと炭治郎はこうなることを怖れて言い渋っていたのだろうと思うと、六つも年下の少年に気を遣わせている事態にますます気が重くなる。違います、違いますから義勇さん、シーツを握り込んで言い募る青い顔の炭治郎に、一人気を沈ませていく義勇。終わりの見えない混迷に割り入ったのはのんびりとした高い声だ。
「そうですねえ、予科生とはいえ民間人に毛が生えたようなものですからね。巻き込んだとなればこれは由々しきことですよ。何かお詫びをしたほうがいいんじゃないですか?」
「えっ!?そんな、俺は」
「……分かった」
「ええっ!?いや、本当に大丈夫ですから俺は!」
「どうすればいい」
後から知ったが、その時義勇は39度近い発熱をしていたらしい。少なくとも平常通りの判断を下すことのできない状況だったため、しのぶの言葉が非常にもっともらしく聞こえたのだった。さすがにかわいそうになってきましたね、としのぶが水差しに手を伸ばしてグラスに水を注いだ。
「炭治郎君、体を起こしてあげてくれますか?」
「あ、はい」
炭治郎が緊張した面持ちで失礼しますと腕を伸ばしてくる。首の後ろから背後に右腕が回り、思うより強い力で上半身が浮かされる。情けないことに力が入らず、炭治郎の腕に頭をぐったり預けるしかない。しのぶから炭治郎に渡ったグラスが口に寄せられたので、少しずつ水を飲み込んだ。炭治郎はやはり体温の高い男だ。どくどくと早い鼓動の音が耳元に触れている。少し落ち着いて熱気の混じる息を吐いた。もういい、と見上げる。
「炭治郎?」
心配げでありながら何かにひどく困惑しきったような妙な表情だった。グラスは口から離れたが、炭治郎の腕はいつまでも離れない。目線も微妙に逸らされている。もう一度名を呼ぼうとしたところで炭治郎がおずおずと口を開いた。
「あの……教えてください。俺は、迷惑ですか。義勇さんにとって。本当の本当に、迷惑ですか」
カタンとグラスがサイドボードに置かれる硬い音。炭治郎の表情も同じように硬い。いつもは明るい笑顔に飾られている顔が今は緊張で引き締められていた。炎を秘めた炭のように、赫みがかった瞳の奥に強い光がちらついている。
「迷惑と言われたらもうここへは来ません」
きっぱりと炭治郎は言った。しかし、抱き込まれた右腕のあたりにぎゅっと力が入る。まるで言葉とは裏腹に逃がすまいとでも言いたげだ。逸らすことを許されていない気がしてじっと見上げている瞳も、ほんのわずかに揺れているように見えた。その決意が炭治郎の本意でないことがじわりじわりと伝わってくる。義勇のためだけを思って吐かれた言葉だとさすがに分かった。
何がこの少年をここまで駆り立てるのかよく分からない。よっぽど複雑な家庭事情があるのだろうか。さっさと破談になったほうがこいつのためだと思ってきたが、拒み続けることが却って炭治郎の立場を危うくしているのかもしれない──そんなふうにもっともらしいことを考えながらも、胸に浮かぶのは炭治郎の涙のあたたかさだった。よかった、よかったとみっともなく震える涙声。
「ありがとうございます」
重い沈黙に唐突に終わりが来て、炭治郎の真剣な表情が笑みに緩んだ。礼を言われる意味が分からず眉根が寄る。すると炭治郎は申し訳なさそうに己の鼻に指を添えた。迷ってくれましたよね、と言われて何も言えず固まるしかない。
「もし、義勇さんが俺のために何かしてくれるなら、時間がほしいです。俺のことをもっと知ってもらう時間が」
優しい笑みだった。いつも炭治郎は似たような表情を浮かべているはずだが、何故だかその表情には居心地悪くさせられる。義勇は目を伏せ、話を手っ取り早く終わらせるために、分かったとひとつ頷いたのだった。
「炭治郎君はいい子ですね。冨岡さんには勿体ないくらい」
思い返しては気を落としている義勇をしのぶはくすりと笑う。そのからかうような言葉に義勇はただ憮然と心外を抱え込むしかない。義勇から望んだ話でもないし、そんなことは初めて会った日から分かっていた。だからこそなるべく無関心を貫いてきたつもりだ。炭治郎にとって望ましい話であるはずもないのだから、すげなく扱っていれば勝手に離れていくと思っていた。
「あいつは人の話を聞かない」
「傍から見るとどちらもどちらで、ですけどねえ」
思わずしのぶを凝視するが、ニコリと感情の読めない笑みを返されるだけに終わってしまった。義勇の視線から逃れる意図があるのかどうか知らないが、手元のバインダーを起こして何かを書き付け始めている。しのぶも杏寿郎と同じく兼務によって多忙を極める身だ。さっさと次の患者の元へ移ればいいものを、一向にその気配がない。義勇はまだ口を開くことを望まれているらしい。正直もう何もかも無視して狸寝入りを決め込んでしまいたい気分だ。しかし、さすがに今回の無様な怪我には引け目があった。義勇が戦えないことによって、他の隊員たちが確実にその負担を引き受けることになる。
「……俺が悪いことは分かってる。知らなくてもいいことを知らせた」
炭治郎は妹以外の家族を鬼に奪われたのだと鱗滝から聞いていた。そしてそれは炭治郎の居ない間に起こったことで、炭治郎はそれが人ならざる者の仕業であることを知らないでいる。鱗滝は敢えて鬼のことを告げず、炭治郎を煉獄家に送り出した。そこにこそあの優しい少年に明るい未来があると信じたからだろう。士官になれば鬼殺隊の存在を知る可能性はあるが、表向きには諜報が主な任務という扱いになっており、その活動は機密として触れることを許されない。
「気になりますか?彼がどこまで聞いたか」
バインダーから顔を上げたしのぶの顔に浮かぶのはやはり笑みだ。窓から入る初冬の日差しを受けて額が白い。一見優しい表情を浮かべていても、紫が滲む黒目がちの大きな瞳は常に何かを見定めようと静かな色を努めて保っている。義勇は意識を強く引かれたことを隠せずに顔を上げた自分を後悔した。そこから義勇の中の何を読まれるか分からない。
「……知ってるのか」
「いいえ、全く。すみません、聞き方が悪かったですね。ただの興味の質問でして」
わざとじゃなくか。そう聞きたい気もしたが結局黙り込む。憮然と目を逸らす義勇をしのぶはまた笑った。煉獄さんが付き添ってお館様と直接話した、とだけ聞いています。愉快そうに続ける。
「私たちの存在はひた隠しにされますが、それは日陰者であることを意味しません」
しのぶは一歩義勇のベッドに近づいた。睫毛の影が映り込み、水晶のような紫色が一段濃くなる。表情は変わらないが、何故か責められているように感じた。
「それはもちろん、冨岡さんも分かっていますよね」
鬼殺隊の存在がひた隠しにされるのは、軍部内で様々行き交う噂のように後ろめたい事情があるからでは決してない。その存在が世に出れば民間人の混乱を呼ぶのが明白だからだ。だから誰の目にも留まらぬように夜を駆け、鬼を見つけ、その頸を確実に刎ねていく必要がある。それは義勇にももちろん分かっている。己の未熟を恥じることはあっても、鬼殺隊に属する自分を貶めたことなど一度もない。
「だが、それでも。決して天道を歩いているわけじゃない」
しのぶの表情から笑顔がすっと消えた。たちまち冷たくなった表情が義勇を見つめる。だがそちらのほうが「らしい」表情だと思う。苛烈な激情を苦しく押し殺して生きている。しのぶだけではなく、鬼殺隊の隊員の大抵が同じだ。義勇自身も含めて。
「地獄の道だ」
しばし睨み合うように両者とも動かなかった。だがピピピと院内用のPHSが鳴ったのをきっかけに、しのぶから呆れたようなため息がひとつ落ちた。たちまち部屋の空気が緩む。
「容赦がないですねえ。修羅道くらいに留めてくれればいいのに」
しのぶは義勇の返事を待たずにPHSの表示を確認し、バインダーを片手に白衣を翻して背を向けた。そのまま出ていくかと思ったが、あ、と一声上げて足を止める。笑顔が振り返ってきた。
「書いてあげてくださいね。日記」
パタリ、静かにドアが閉ざされる。ちらりと目をやると、表紙の端が少しよれた大学ノートにも冬の日差しが降りていた。
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今日は班に分かれての作戦立案演習がありました。歴史上の戦いから、自分たちならどういう作戦を立てるかを考えて、来週発表します。難しい課題ですがやりがいがあります。でも、少しだけ情けないことを書いてもいいでしょうか。善逸や伊之助の他に、一緒の班になったカナヲと玄弥のことです。カナヲは幼年組で、座学も体術もいつもすごい成績です。皆が一目置くような優等生です。なのに、全然話しません。どう思う、どうしたい、色々聞いたのですが全く答えがありません。でもそれはいいんです、ちゃんと時間をかけて話していこうと思うから。ただ善逸がすぐカナヲに向かって関係ない話を始めるので困りました。それでなかなかまとまらず、玄弥が勝手にどこかへ行こうとして、それを止める内に言い合いになってしまって。俺のことが初めから気に入らなかった、と言われてしまいました。ケンカ別れです。でも、このままにはしたくないので明日また話します。
ほほの怪我はその時にできたものです。恥ずかしくて言えませんでした。ごめんなさい。でも、心配する匂いが嬉しかったです。ごめんなさい。
今は安静が必要なんだと思います。無理しないでくださいね。カレー、羨ましいです。俺たちはみんな食堂のカレーが好きなので。
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「これは……炭治郎の、か。忘れ物か?」
丸椅子に腰かけてすぐ、鱗滝はその秀でた嗅覚でサイドボードの大学ノートに気が付いたようだった。しのぶにしたものと同じ説明をなぞっていくと、次第に鱗滝の首が傾げられていく。天狗面から顔色は窺えないのだが、どことなく困惑しているように見える。
「何か」
「儂の時でももう少しは……いや、いい」
言いかけてやめられると余計に気になるものだが、義勇にはそれをなんとか聞き出すような話術の持ち合わせがない。鱗滝が「いい」というからには大した話ではないのだろうとさっさと諦める。
「仲良くやれているようで良かった」
「先生の頼みなので」
じっと鱗滝を見つめるが、天狗面の鼻先がわずかに明後日を向いている。義勇には話術がない。しかし鱗滝の鼻は炭治郎と同じく感情までも嗅ぎ分けるので、未だに事の仔細を語らない鱗滝への不満を瞳に込めて押し黙る。鱗滝は思慮深く、経験と知識に満ちた義勇の尊敬すべき師だ。思いつきで炭治郎との婚姻などという突飛な話を持ち出すはずがない。必ず何か理由があるはずだが、元より寡黙な鱗滝はこの件について黙秘とも言うべき口の堅さを貫いている。
「先生は炭治郎のことを『優しすぎる』と言いました」
「何か」に自分の大切なものを成す術もなく奪われることの重さは、その「何か」によって変わるわけではない。だが鬼には理由がない。空腹を満たすためだけに人を喰う。自分にとって仇になる鬼を見つけ出して頸を落としたとして、きっと何も分からない。何も終わらない。もう二度と自分のような思いをする人間を作らないよう夜を駆ける他は何もできない。
「あいつは……知るべきじゃなかった」
「それは、知られたくなかった、という意味か」
違う、と咄嗟に思ったが、口を開こうとして何が違うのか分からず言葉が出なかった。呆然と鱗滝を見つめたが、天狗面からではやはり表情が分からない。ふと先日の炭治郎との会話が思い返された。
「あの、お願いがあるんですが」
それまで楽しげに士官学校でのことを話していた炭治郎がふと言葉を止めた。緊張した面持ちで姿勢を正しているので大人しく言葉を待つ。炭治郎の瞳はその日も炭火のようにあたたかい熱を灯して輝いていた。じっとそれを眺めていると特徴的な耳飾りの付く耳が次第に赤くなっていく。体温が高いせいか暑がりなのだと聞いた。こういうことが度々あるので、暖房が入り始めた病室は炭治郎にとっては暑いのかもしれない。
「少し、手に触れたい、です」
珍しく沈黙が続いたので何かと思えば。炭治郎はすぐに手に触れる癖を持っているのだから、今更にも程がある申し出だ。固定していない右手を差し出してやると、炭治郎はますます緊張した面持ちで立ち上がった。失礼します、と隣に聞こえるのではと危惧するほどの大声で言い、ぎこちなくベッドの端に腰を下ろした。手が触れる。やはり、炭治郎の手は熱く湿っている。
「怪我の様子が見たいです。めくってもいいでしょうか!?」
手に触れられることは最早何とも思わなくなっていたが、こちらは少し意外の申し出だった。しかし炭治郎の赫い瞳があまりに真剣で、特に拒む理由が思い当たらなかったこともあり結局は頷いた。スウェットの袖がこわごわとした手つきで上げられて腕が露わになる。右手に治療が必要な怪我は無いが、鬼の舌に絡め取られていた青黒い痣が薄く残っている。炭治郎はそれを痛ましそうに見つめ、そっと手のひらで撫でた。痛みはもうほとんどないけれど、撫でる動きに馴染みがなくぴくりと腕が震えた。
「嫌ですか?」
「何がしたいか分からない」
素直な感想だったが、炭治郎はそれに対して困ったような笑みを浮かべるだけだ。炭治郎自身にも何がしたいのかよく分かっていないのかもしれないと思った。手に触れるのも無意識な時が多い。
「だが……あたたかい、とは思う」
関心を持たないようにしていた時でさえ、この熱を振り払おうという気になったことは一度も無かった。嫌なのかと問われれば、嫌ではないと答えるしかないのだろう。炭治郎は困った笑みをまた緊張したような面持ちにして顔を伏せてしまった。頬まで赤くなってしまっているように見える。
「緊張すると失敗するんです。いざという時のために緊張しないためには、ひたすら練習しないといけない」
腕に手が当てられたまま、ぼそぼそと独り言のように話し始めたが、今までの話との繋がりが今一つ掴めず眉根を寄せて首を傾げる。だから、と叫んで炭治郎は真剣な顔を上げた。
「義勇さんに触れていないと!と!思いまして!」
だからとは。
一体どこから繋がってきた文脈だろうか。義勇は普段の己の語りぶりの一切を棚に上げて思った。ぽかんと見つめていると、言葉が義勇に正しく伝わっていないことを悟ったらしく、えーだとかうーだとか唸っている。
「それに、ほら、手当てって言いますよね!本当に手を当てると、早く治るそうですよ」
「……そうなのか」
「いや、俺もどこかで聞いただけなんですが!」
するりと右腕を炭治郎の両手から引き抜いた。きょとんと目を丸める炭治郎に手を伸ばし、左頬に貼られた湿布に軽く触れてやる。腫れているようだ。本人は訓練で失敗してなどと言っているが、殴られでもしないとこんな怪我にはならない。
目を見開いていた炭治郎がふっとまたあの落ち着かない優しい笑みになった。表情は一つの角なく柔らかく、赫い瞳が輝きを惜しみなく慈雨のように義勇に降らせる。
「俺、頑張りますね。頑張って立派な士官になってみせます」
頬に触れる義勇の手を取った炭治郎は、それを両手で包んでぎゅっと力を込めた。
「大切な人を俺の手でちゃんと守りたいから。もう二度と、絶対に失いたくないから」
炭治郎は折に触れ家族の話をする。弟妹がこうだった、父母にこう言われたなどという他愛もない話だ。だが彼らがどうなって、何故今傍に居ないのかに触れることはない。義勇が一方的に鱗滝の話からそれを知るのみだ。この情が深く慈しい少年が、もし家族を殺した「もの」について見当をつけることがあったら。その先を義勇は想像したくない。炭治郎はこの道に入るべき人間じゃない。俺とは違う。
「義勇」
記憶に意識を傾けた義勇を引き戻す鱗滝の声は、いつもよりどこか柔らかく聞こえる。仕方のないやつだと呆れられているような気分になり、ぐっと口元を引き結ぶ。
「炭治郎は鬼殺には向かんだろう。だが、胆力と根気があり努力を怠らない。よくできた子だ」
そうなのだろう、きっと。心底楽しげに紡がれる話から、律儀にノートの罫線を走る豪快な字面から、明るい笑顔から、穏やかな声から、義勇もそれを日々知りつつある。だから余計に鱗滝の意図を知りたい。知って、できることなら自分を遠ざけてやりたい。──義勇、咎めるようにもう一度名前を呼ばれる。
「お前を押し付けたわけじゃない。お前だからあの子を頼みたいと思っている」
頼みたい?鱗滝を思わず凝視した。俺に何ができると言うんだ。守るべき人たちに何一つしてやれなかった俺に、今更、一体、何が。
「……分かりません」
「今はそれでいい」
鱗滝はまた「いい」と話を切り上げてしまった。そうなると義勇も話を諦めるしかなくなることを、多分この師は知っている。憮然と黙り込むと、鱗滝は逃れるように腰を上げた。無理するな、と素っ気なく言って歩き出そうとして、大事な話を忘れていたと足を止める。
「お館様から言伝を預かっている。怪我が治り次第会いたいとな。床払いしてすぐになるから悪いが、義勇が居ないと困るから、と仰っていた」
鱗滝をじっと見上げると、ひとつ深く頷かれる。つまり謹慎解除ということらしい。戦える。知らず腹の奥底に焦燥が山積していたようで、安堵が体中に染みわたった。肩から力が抜ける。鱗滝はそんな義勇を見下ろし、呆れたようなため息を吐いた。
言わなければ。何故だかそう思った。炭治郎に聞かせてやらなければ、と。
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話したこともありますが改めて書きますね。俺は、カナヲや玄弥と一緒の班になれて良かったと思います。二人をちゃんと知ることができたから。
カナヲは心の声が他の人より小さいだけでした。時間はかかったけれど、カナヲはそれを少しずつ聞かせてくれるようになりました。カナヲにはお世話になっている人がいて、その人が自分を生かして、動かしているんだそうです。でもそれはつまり、その人が好きで、その人に喜んでほしくてすごく頑張っているってことですよね?それを思うだけじゃなく実行できるカナヲは本当にすごい。そう言ったら少し笑ってくれたのも嬉しかった。
玄弥も同じです。玄弥にはどうしても会いたい人が軍部にいて、学校でいい成績を残して少しでも名が知れるようにしたかったと言っていました。だから、優等生のカナヲや、煉獄の養子というだけで目立っていた俺がそれをジャマすると思っていたみたいで。たくさんケンカして良かったこともあったかなと思います。もう傷は増えないはずですので安心してください。俺も玄弥の願いが叶うように助けてやりたい。
明日はついに発表です。緊張します。でもきっと、うまくいきます。義勇さんも成功を祈っていてください。他ならぬ義勇さんが祈ってくれていたら、俺もきっと何でもできてしまうから。
しのぶさんからは心配する匂いがしてました。怒ってはないと思います。
天ぷらだと俺はタラの芽が好きなんですが、季節じゃないですよね。義勇さんは何が好きですか?
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「あっ、冨岡さーん!」
鱗滝を病院の玄関口まで見送り、1階ロビーのソファに腰掛け大画面のテレビをぼうっと眺めていたところ、大声で名前を呼ばれてびくりと体が揺れた。周囲には入院患者はもちろん、待合の外来患者や見舞客が入り乱れているがやはり驚いたような視線を感じる。
「良かった!すれ違いにならなくて!」
パタパタと駆けてきたのは同僚の蜜璃だ。義勇の元まで近づいてその肩に手をかけてやっと、注目の的になっていることに気づいたらしい。あら、やだ、私ったらごめんなさいと真っ赤になって声を小さくした。
「負傷したのか」
「ええっ!?違いますよ、お見舞いです」
もしかして心配してくれたんですか、キュンとしちゃう、とはしゃいだ様子だが、一応声量は小さいままだ。蜜璃が隣の空席にストンと腰を下したところで、その後ろにもう一人同僚が立っていたことに気が付いた。薄紅色でまとめられた可愛らしい花束を手にした小芭内だ。
「そうか、他にも入院したのがいるのか」
納得して呟くと、蜜璃はきょとんと目を丸め、小芭内は眉根に深い皺を刻んだ。
「やだー!冨岡さんのお見舞いです!!」
今度は義勇がきょとんと目を丸めるほうだった。蜜璃や小芭内とは同隊に属しているものの、鬼殺隊は単独任務が多い。小隊が組まれることもあるがほとんどが一時的なものだ。共に同じ任務に当たったことはあるものの、そこまで深い親交を持っていたわけでもない。
「そうか」
「そうです!」
「すまないな」
「大げさですよぉ!」
かわいいわ、と呟いたので小首を傾げると、かわいいです冨岡さんと言葉を重ねられる。心外だ。しかし当人に悪意は無さそうなので、どんな顔をしてどんな言葉をかけてやればいいのかさっぱり分からない。
「思ったより元気そうで安心しました!あっそうだ知ってました!?ここの自販機のおしるこ、餅が入ってるんです!お見舞いにおごっちゃいます!」
「いや……」
自販機で売っている餅入りの汁粉とは。つまり缶に入っているのだろうか?年寄りや子供が飲んでも大丈夫なのだろうか。そもそも飲み口から出て来るのか。大体義勇は汁粉にそこまで執着はない。せっかく見舞いに来たところを使い走りのようにするのも悪い。様々思いはよぎったが、蜜璃の行動のほうが早かった。ぱっと身軽に立ち上がり、大股で小芭内とすれ違って行く。しかし、あっと小さく声を上げたかと思えば、後ろ歩きで義勇の傍まで戻って身を屈めてきた。口元に手を当てて、こそりと小さな声で囁かれる。
「私もこの前背中から派手にズバーッとやられちゃって。怪我すると落ち込んじゃいますよね」
数か月前だっただろうか。一週間ほどの療養が必要との連絡は聞いた覚えがある。記憶を辿る義勇に構わず、蜜璃はにこりと笑みを浮かべ両手をぐっと握って見せた。
「でも大丈夫!すぐ治りますから!」
じゃ、行ってきまーす、間延びした声を上げて小走りに駆け去っていく背に三つ編みが揺れる。相変わらず弾けんばかりに元気で明るい同僚だ。少し炭治郎に似たところがあるかもしれない、と思ったところで、ばさりと膝に花束が放られた。
「持て」
小芭内が眉を吊り上げて義勇を見下ろしていた。右目は琥珀、左目は翡翠を嵌め込んだような美しい瞳だが、どちらも今は殺気を放って冷えている。すう、と小さく息を吸う音を聞いた。
「何故俺がお前への見舞いの花などをいつまでも持っていなくてはならないんだ?そもそも甘露寺が行きたいなどと言わなければ来ない。お前の見舞いなどに俺は絶対に来なかった。お前には甘露寺が選んだこんな立派な花束などとても似合わない。精々ぺんぺん草がお似合いだ。いや、ぺんぺん草にも失礼なくらいだな。何故ならお前は罪を犯した。甘露寺に接近するという罪だ。来い、今すぐに断罪してや」
「よく」
心中で留めるつもりだった呟きが思わず口から漏れ出ていた。今更引っ込みもつかないので、渋面を浮かべつつも言葉を止めた小芭内に続きを告げることにする。
「そんなに喋ることがあるな」
単純な感心だったが、小芭内の瞳は一層冷たく、表情はますます険しくなった。びしりと指を突きつけられて思わずそれを眺めてしまう。
「俺が好きでお前などと話しているとでも思うのか?大体お前は感謝の心が無い。あの甘露寺が直々に見舞いに来たんだぞ?人として最低限の礼節を持っているならば感涙して平身低頭するくらいはしろ。できないと言うなら俺が今ここで殺す。生まれ直してその腐った感受性を叩き直してくることだな。いいか冨岡、お前には鬼殺隊としての自覚が足りないと俺は思っていた。常々思っていた。今回もここまで長期間の戦線離脱。『柱』にあるまじき醜態だ。俺はお前と同等と思われるのが恥ずかしい。おい、なんだ。何とか言ったらどうだ」
言葉が途切れる。気づけば周囲にそれなりに居た人びとの影がすっかり消えていた。小芭内の気迫に慄いたのかもしれない。そもそも期待はしていないが孤立無援だ。義勇はどうやら何かを言わなければならないようだった。しかし小芭内の言葉は全て真実なので、義勇から更に付け加える言葉がない。首を傾げてしばし考えたがやはり何も思いつかない。仕方なく静かに目礼をする。
「すまない」
小芭内に目を戻すと、目をカッと見開いた般若のような表情だったのでさすがに驚く。すう、と今度は大きく息を吸う気配がしたので更に五月雨のような言葉を浴びせかけられることを覚悟したが、大きなため息がひとつ吐かれただけだった。
「お前は……もっと、しっかりしろ。そんなことだからいいように利用されるんだ」
「……利用?」
重そうな頭を片手で支えながら、低い声で小芭内は苛々と言い募る。どうやら義勇の謹慎は能力的な問題ばかりではなかったらしい。というのも、義勇が深手を負わされた木の弦を操る鬼との戦闘の時から、義勇に鬼を差し向けようとする隊員の姿が認められていたのだ。爬虫類鬼もこの隊員の手引きが疑われており、今この男は捕えられ調査を受けているのだという。全てが寝耳に水の話で言葉を差し挟むこともできず義勇は硬直した。
「お館様のご心痛をこれ以上……」
「あのぉ、伊黒さん。それってお館様がまだ内密に……って言ってませんでしたっけ」
突如戻ってきたのんびりとした華やかな声に、小芭内の瞳が大きく見開かれる。
「あれ?違ったかな?えっと、でも、そう、きっと私の思い違いよね。ごめんなさい、邪魔しちゃったわ」
蜜璃を振り返ったまま動かなくなった小芭内に、蜜璃はわたわたと言葉を重ねて頬を染める。両手を自分の頬に当てようとして、そこに袋を握ったままだったことに気づいたらしい。あっ、と笑顔になって袋を義勇に差し出した。
「それでね、おしるこ売り切れちゃってて、やっぱり人気みたいで!うーん、残念!次こそおごりますから!あ、これ代わりのおはぎです!」
自販機に汁粉を買いに行くだけにしては時間がかかるなと思っていたが、どうやら代わりになるものを売店で探してくれていたらしい。そのまま手を突き出したままにさせておくわけにも行かないので、有難く右手を伸ばした。
「……頂こう」
「はい!」
輝かんばかりの笑みの蜜璃と、反対に渋面を極める小芭内。普段の任務に義勇の負担が加わっているだろうに、わざわざ義勇の様子を見にきたのは小芭内の語った事情があったからだろう。しっかりしろ、小芭内の言葉は正しい。
「伊黒、甘露寺。当座迷惑をかける」
頭をもう一度小さく下げた。言葉など何の意味もないことは分かっているが言わずにはおれなかった。他の隊における隊長級の役職を示す『柱』の名まで任じられているが、義勇は明らかに他の柱よりも数歩後にあることを痛感する。俺じゃなかった。ここに在るのは、本当は。
「……でも、私が怪我した時は冨岡さんたちが助けてくれたんですよ」
右肩に軽く手が触れる感触があった。思わず顔を上げると、眉尻を下げた困ったような笑み。しかし義勇と目が合った途端、蜜璃はすぐに表情を明るい笑顔に変える。
「休むことも任務です!伊黒さんもそう思いますよね!?」
「……ソウダナ」
小芭内の相槌はぎこちない。しかし蜜璃は気づいた様子もなく義勇の膝から花束を取り上げた。病室どこですか、飾っていきますね、あっ伊黒さん持ってくれてありがとうございました!蜜璃は相変わらず華やかに騒がしい。病室の番号を告げると跳ねるように歩き出したのでおはぎの袋を手に後を追う。隣に並んだ小芭内を見下ろすと、ジロリと蛇の目のように睨み上げられた。
「……戻ったら二倍、いや十倍は働け」
頷かずに先を行く。そこが義勇の戻るべき場所なのか今は答えがなかった。一層戦って、鬼を斬らなければ。その先に答えがある確信もないのだが。
蜜璃と小芭内を送り出し夕飯を摂った後、また1階のロビーに戻ってきてしまっている。昼時よりも人影の減ったロビーを落ち着かずうろつき、最後には入り口に一番近いソファに背を預けてぼんやりとしていた。自動ドアが開く音に首を動かせば、目をまんまるにした炭治郎と視線がぶつかる。
「義勇さん!?」
パタパタと駆け寄ってきた炭治郎は迷いなく義勇の傍まで近寄ってくる。義勇の嗅覚は人並みだが、生ぬるい病院の中に居ると、外から炭治郎が引き連れてきた冬の冷たく清々とした匂いが鼻を掠める気がした。
「どうしてこんなところに……少し寒いですよここ。わあ、ほら冷えてる。って、あっ!すみませんつい」
義勇の手に重ねられた手はやはりあたたかい。しかしそれはすぐに離れていき、炭治郎は慌てた様子でオーバーコートのボタンを外した。肩にふわりとそれがかけられると、体中が炭治郎の体温に包まれた心地がする。落ち着かないが、落ち着く。
「義勇さん、何かありました?」
すとん、と自然に隣に腰を下した炭治郎は、鼻を指先で押さえて不思議そうに首を傾げた。その赫い瞳には義勇に対する純粋な気遣いだけが映っている。
「何も無い」
何かあっても、きっと言わないだろうなとふと思った。この少年はそれを心から憂うだろう。
「ただ、待っていた」
自分自身の言葉に気づかされたような気分だ。そうだ。鱗滝を見送った後病室に帰る気にならなかったのも、一度病室に戻って懲りずに入り口付近に戻ってきたのも、炭治郎を待つためだったのだ。
「えっ」
義勇の中では何か納得のようなものが生まれていたが、対する炭治郎はそうでもない様子だ。またも目がまんまるに丸められ、じっと義勇を凝視している。やたら長い沈黙だった。少なくとも一分は経った。
「えっ!ええっ!?」
やっと動いたかと思えば身を乗り出し自分と義勇とを交互に指さしたり見上げたりするのでひとつ頷いてやると、わっと声を上げて顔を伏せてしまった。両手だけが義勇の膝の上の右手に重ねられているが、これも自覚はなさそうだ。
「あの、ちょっと待っててください。ほんの少しだけ」
「……何を待つんだ?」
「嵐が過ぎますので!今過ぎますので!!」
説明されてもさっぱり意味が分からないが、とにかく義勇は待たなければならないようだった。ううう……と低い唸り声を上げて身を縮めているのでどこか苦しいのかと心配になってきた頃、炭治郎がやっと顔を上げた。ついでに両手もぱっと離れていく。
「義勇さん!嬉しいです!!」
満面の笑みだ。自動ドアの外はすっかり暗いのだが、突如陽が昇ったかと錯覚するほどの明るさで思わず義勇は瞬きを強いられた。よっぽど何か嬉しいことでもあったのかと思い──昨日の日記の内容が脳裏を閃いた。
「そうか。発表がうまくいったのか?」
「えっ?」
てっきり頷きが返ってくるとばかり思っていたので、きょとんと目を丸める炭治郎と同じような顔で見つめ合ってしまう。その内に炭治郎の表情はなんとも言えない曖昧なものになり、昼下がりに蜜璃が浮かべたものによく似た苦笑に近い表情になったかと思うと、最後には優しい笑みに変わった。
「……はい、うまくいきました。聞いてほしくて走って来ちゃいました」
「毎日走って来てるだろう」
「ふふっ、そうでした」
義勇は度々人の言葉を誤って受け取り、誤って返すことがある。きっと今もそうしてしまったのだろうが、炭治郎はそれを許したのだと思う。心底愉快げに零れる笑みを見ていると不思議に気分が凪いで穏やかになる。いつものように無理に押し殺すのとは何かが少し違っている。
「俺も言うことがあった」
「義勇さんが!?なんですか?聞きたいです!」
「怪我が治り次第の復帰が決まった」
身を乗り出して笑顔を輝かせていた炭治郎がその姿勢と表情のまま時を止めた。
「えっ」
笑顔がたちまち陰る。今日の窓の外にあった曇天のようだ。その表情にざわりと義勇の胸も騒ぐ。一雨来る直前に吹く、重たく湿った風を受けた時のような感覚に似ていた。
「あ、いや……そうですよね。治れば、復帰。良かった」
取り繕うようにぎこちなく言って、炭治郎はなんとか笑みを顔に押し込むことにしたようだった。何か声をかけようと思うのだが、炭治郎の言葉は途切れない。
「俺!あったかい飲み物買ってきます!あ、知ってました?ここの自販機のおしるこ、餅が入ってるんです!これが美味しくて!義勇さんも是非試してみてください!行ってきます!すぐ戻ります!」
多分売り切れているぞ。そう止める間もなく駆け去っていく背がもう遠い。
その時に義勇は悟った。きっと、良かったですねと言われると思っていたのだ。日記のように、人のことを自分のことのようにして喜んで。