文字数: 153,679

天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 しのぶの診察室は軍病院の本棟五階にある。フロアマップには「二特外科」とだけ記され、一般の外来患者は立ち入ることができない。第二特別機動隊所属の隊員は基本的にはしのぶが担当する。鬼による外傷や血鬼術の影響と見られる症状は、他の科で見ると一般人を動揺させる可能性があるからだ。おかげで院内の一部からは妙な実験や研究をやっているんじゃないかと噂され不気味がられているらしいが、あながち的外れとも言えないので放置している。おかげさまで静かで集中できる良い環境になってもいるし。

 空調に暖められた部屋の中、加湿器がスチームを吐き出す音だけが部屋に満ちている。丸椅子に座る男のつむじを見下ろしながら左肩に手を当て、曲げ伸ばしを繰り返させて筋肉や骨の動きに異常がないかを入念に確認する。既に撮ったレントゲンからは異常が見られなかったが、触診にも問題は無さそうだ。痛みを隠している様子も無い。離れてデスクに戻りカルテにメモを取る。

「今日は監視は居ないのか」

 しのぶが異常なしを確認したことを察したのか、義勇がぽつりと口を開いた。義勇との会話は大抵しのぶが投石することで始まる。水面に波紋ができて、雫が跳ね上がった時だけ返事がある。いつもそんな調子なので珍しく思ってペンを止めてしまった。顔を上げる。

「さあ、誰のことでしょう。うちには『かんし』なんて者は居ませんけど……」
「……なほ、すみ、きよだ」
「ああ!それならそう言ってもらわないと。おかしなあだ名ですねえ。全く分かりませんでした」

 不服を表しているらしい胡乱な目を笑顔で躱し、ペンの先にさっさと視線を戻した。しかし実のところ内心では驚いている。まさか三人の名前がそんなにスラスラ出てくるとは思わなかった。

「あの子たちでしたら今日は小児科です。何か用事が?」
「いや……あの三人は頼りになる。知見を借りるつもりだった」

 耳を疑うとはまさにこのことだ。まさか病院へ向かう道すがらおかしな血鬼術にでもかけられたのだろうか。ペンを放って椅子を回し義勇に向き合う。ところが義勇の顔はいつもと同じ仮面のような無表情である。少なくともふざけた様子は無い、ように見える。断言できないのは、この人がふざけたところなど一度も見たことが無いからだ。

「この際だ、時間がない。胡蝶、力を貸してほしい」
「はあ?」

 今度は露骨に声が出てしまった。今一体何を聞いたのか。「力を貸してほしい」?第二特別機動隊の医長を任じられてこれまで、こんな言葉は聞いたことが無い。どんな大怪我でも涼しい顔で押し黙っているような男だ。昏い目だけはじっと常にこちらを見て、いつここから戦線に戻れるのか絶えず無言で訴えかけてくる。それを気鬱に感じながら押さえつけるのがいつもの習慣のはずで。それが。

「……他を当たれと言うなら、そうするが」
「いえ、少し……と言うかかなり驚きまして。取り乱しました。ごめんなさい」

 動揺する自分を抑えようと、髪を耳にかけ撫でつけた。対する義勇の顔がやはり全く変わらないので、話も聞かずに大げさだっただろうかと思い直す。よくよく考えれば、義勇が突飛な言動をして場の空気を掻き乱したり逆に凍らせたりというのは珍しいことでもなんでもないのだ。ひとまず話を聞かなければ。大抵のことはこの人の言葉足らずが原因なのだから。

「力を貸せるかどうかはお話によりますが、何かお困り事が?」
「教えてほしい」

 拳を膝の上に置き、目がひたりとしのぶに合わせられている。青空を四等分して切り取る窓を背にしているので、睫毛の影が降りた瞳は夜明け前の海のように深い蒼色だ。余程深刻な頼みなのだろうかと身構えて──

「若い娘はふつう、どういった物を好むんだ」

 ──肩透かしを食った。こんな真面目な顔をしておちょくっているのかとじっと見つめたが、義勇は身動き一つしない。しのぶの返事をひたすら待っているらしかった。ええっと、一度取り落とした言葉をなんとか拾い上げる。

「いつも言っていますけど、言葉が足りてないですよ、冨岡さん。どういった経緯でそれを知りたいんでしょうか」
「経緯」

 ごく常識的な返答だったと思うが、意外そうな表情を浮かべるのをやめてほしい。何の理由もなく突然年頃の娘を持つ中年男性みたいな相談を持ち掛けるはずもないだろう。もし何の理由も無かったら間違いなく鬼の仕業だ。藤の香でも思いっきり焚きつけてやることに決める。

「あれは二年前、俺は……」
「ねえ冨岡さん?そんなに遡る必要ありますか、本当に。このあと回診もあるんですけど」

 これもごく常識的な指摘だったと思うので、心外そうな表情を浮かべるのを本当にやめてほしい。一応しのぶの言葉を受け止めてはいるようで、義勇は思案するように目を伏せた。

「三日前の晩から炭治郎の部屋で眠るようになった」

 沈黙。コオオ、と加湿器の音。

「……今度は色々と省略され過ぎた気もしますが、今はいいです。それで?」

 一切の言葉を捨てて義勇の話を促すことだけに専念する。手助けはするが、こちらから与えない。これは症状に憔悴、混乱した患者の話から主訴を形どる上で非常に重要なことなのだ。決して匙を投げたわけではないですから。ええ、決して。

「炭治郎には妹がいて」
「禰豆子さんですね」
「知っていたのか」
「……ええ、まあ」

 知っているも何も未だ確かな治療法を見つけられていない不甲斐ない主治医だ。しかし詳しく話せば脱線してしまう。患者の個人情報に関わるところでもある。曖昧な返答に留めたが、幸い義勇はそこで足を止めなかった。炭治郎が話したとでも思ってくれたのだろう。

 朴訥と並ぶ言葉をなんとか繋ぎ合わせ、いびつに完成させたパズルから推察した義勇の話はこんなところである。

 ペラリ、薄い紙をめくる音に目を開いた。天井が橙色に染まり、梁に黒い影を添わせている。右頬を枕に付けて首を回せば、すぐ隣にある白い頬も橙で染まっていた。閉じた瞼の先で長い睫毛が天井を向いている。少女らしい小さな鼻も血色の良い唇も微動だにしない。造形の愛らしさも手伝って作り物のようで心配になってしまうが、胸が微かに上下しているのを確かめて安堵する。ふうと小さくため息を吐いて少女の横顔の向こうに目を遣った。

「まだ寝ないのか」

 枕を抱えるように肘を付き、本を読んでいた炭治郎がハッと顔を上げる。橙色の光は炭治郎の手元にある読書灯から発されているものだ。

「眩しいですか?ごめんなさい」

 申し訳なさそうに眉を下げた炭治郎が慌てて読書灯の首を押さえ込んだので、そのままでいいと止める。鬼殺隊のほとんどの者がそうであるように義勇の昼夜も逆転して身に染みついている。今こうして呑気に横たわっている間に、そう思えばどうしたって眠りは浅いのだ。それよりも炭治郎がまだ起きていることのほうが気になった。

 このままここで寝ていってください。

 炭治郎がそう言ったのは二日前のクリスマスの夜だった。賑やかなパーティを終え、義勇は禰豆子の寝顔を眺めながら炭治郎が日記を書き終わるのを待っていた。炭治郎が使っているのは深い青色の軸を持つシャープペンシルだ。それがぱたりとノートに倒れたので書き終わったかと目を遣ると、炭治郎は真剣な面持ちで義勇を見上げていた。ストーブで温もったのか頬も耳も赤い。

 昨日は眠れませんでした。また義勇さんが出ていくんじゃないかって思うと。このまま、ここに居てください。

 何の相談も無しに、結果的にお館様の意向に背き、炭治郎や煉獄の者たちの厚意をないがしろにしたことには負い目がある。そして更にはその時、気が付いてしまったのだ。真剣な表情の向こうにある古風な文机の上、日記は一行すらも埋まっていなかった。緊張しているのか、こいつは。この言葉を義勇に切り出すことに。今まで感じたことのない感情が胸のあたりを敷き詰めて、気づけば義勇は頷いていた。禰豆子の隣に布団を敷くことになってからもう三日目だ。

 二晩、炭治郎の寝入りはいつも早かった。毎日を五体全部を使って全力で過ごしているような男だからだろう。規則正しい寝息をふたつ聞きながら浅い眠りをたゆたって夜明けを待った。ろくに眠ってもいないのに、これが何故だか心を安らがせるのだ。しかし今日はそろそろ日付が変わろうというのにまだ寝付く気配がない。寝返りを打ち、枕の上でじっと炭治郎の言葉を待つ。

「落ち着かないんです」

 気まずげに炭治郎は笑った。本を開いたまま畳に置き、布団をずり下げながらむくりと上体を起こして義勇を見下ろす。

「実は明日、禰豆子の誕生日なんですよ」

 誕生日、驚いて思わず繰り返せば、炭治郎が照れた様子で「はい」と答える。そして瞳に橙色の慈しみを灯して禰豆子を見下ろした。その白く丸い頬を優しく撫でてやっている。

「それで魔法みたいに何か変わるって思ってるわけじゃないんです。ただ……兄弟がたくさん居ると誰かの誕生日が来たと思ったら、また誰かの誕生日が来て。もっとちゃんと祝ってやりたいんですけど、父が病気をしてからはそうもいかなくて」

 それから愉快げに家族の話が続いた。プレゼントは大層な物は買えないから協力して手作りする。誕生日の晩には必ず好きな料理が出て、自家製ケーキもある。それは小さいものだが、誕生日の者だけ一粒多く苺が食べられる。それぐらいしかできなくとも、みんな心底嬉しそうな顔をする。

「そういうことを考えてると、どうしても一番最初に祝ってやりたい気がして」

 ストーブの温もりが残る橙色の光。それによく似たものがきっと、炭治郎の中には目一杯詰まっているに違いない。荒唐無稽だが、義勇は不意にそれを確信した。この男は血肉の代わりにそういうものが詰まってできているから、どこかに穴が空いてそれが流れ出したとしたら、きっとこいつは息絶える。だから誰もがそうならないことを願ってしまう。そういう男なのだ。

「義勇さん?」

 もぞもぞと布団から這い出て立ち上がった。さし、さし、裸足が畳に触れる度に音がする。不思議そうに義勇の挙動を見上げる橙色の混じった赫い瞳に近づいた。その布団に足を踏み入れてすぐ隣に腰を下ろす。えっ、と上がった声を無視して足先が冷える前に掛け布団の下の毛布に突っ込んだ。炭治郎の体温のおかげか随分温かい。布団を引き上げながら体を横たえる。

「ワッ、ワァ!?」
「お前も横になれ。冷える」
「いや、だって、ぎ、ええと」
「俺も読んで待つ」

 左肘に力がかからないよう気を遣いつつ身を起こし、開かれた本を覗き込んだ。学校の課題で読まされていると言っていた歴史書のようだった。真面目な炭治郎らしい。思わず口元が緩んでしまった。

「俺も禰豆子を一番最初に祝いたい」

 見上げた炭治郎はまだ座り込んだままだ。呆然とした表情で義勇を見下ろしている。顔が真っ赤だ。今布団に入ったばかりだというのにもう義勇の体温を熱がっているらしい。しかし多少の不快は我慢してもらうしかない。何をするのも、義勇とがいいと言ったのは炭治郎だ。義勇にもそう思われたいと言った。楽しいのも苦しいのも一緒がいいと。

 はい、冨岡さんの回想はここまでです。良かった、いつまで続くのかと思いました。同僚のこんな甘酸っぱい気まずい話。

「……それで」
「禰豆子に何か贈りたい」

 しのぶは深呼吸した。でないと怒涛の剣幕で詰め寄ってしまいそうだったからだ。その回想要りました?と。その一言で良くなかったですか?と。幸か不幸か──いやはっきり言ってしのぶにとって不幸なことに、義勇は一切しのぶの様子に気づいていないようだ。

「炭治郎は温かいから眠ってしまいそうで大変だった」
「そうですか……それはそれは……良かったですね……」
「良くはないだろう」

 そうですね、炭治郎くん大変だったでしょうしね。

 その後のことを聞く気にはとてもなれないが、どんな話になったにしても炭治郎は朝まで眠れなかったに違いない。誰の目から見ても炭治郎の想いは明白だが、当の相手がこれなので心から同情を禁じ得ない。

「もし、禰豆子が目覚めて……許されるなら」

 心優しく純粋な少年の行く末を案じる重い頭を、知らずの内に片手で支えていた。顔を上げたが義勇は目を伏せたままだ。言葉をなんとか探し出そうとしているらしい。

「炭治郎の大切にするものを、俺も大切にしたいと思う」

 もし、義勇が炭治郎と出会わなかったら。こんな言葉は当然出なかっただろう。相手に伝わるだけの言葉をここまで根気強く探したかどうかも分からない。しのぶに助けを乞うことを思いつきもしなかったかもしれないし、なほやすみやきよの名前がこんなに確かに刻まれなかったかもしれない。

「横向きくらいになれとは言いましたが、まさかここまでとは」

 何の飾りもごまかしもない、率直な感想だった。何も伝わっていないのが手に取るように分かる怪訝そうな表情に呆れた笑みしか返せない。

「炭治郎くんは本当にすごい子だという話です」

 義勇は人から距離を取るが、人からも同じように距離を置かれやすい。ちょっとズレていて、言葉足らずなところが一因かもしれない。だがそれより一層深い、自分に近いところにしのぶは原因を見ている。

「……そうだな。今まで、こんな風に考えたことはなかった」

 表情は変わらなくても穏やかな声だ。

 ずっと、自分を見ているような気分がしていた。きっと同じように思ってこの人を避けたくなる人も居るはずだ。偉そうな言葉をかけてはいても、結局しのぶだって前を向いているかは分からない。そもそも前がどちらかなんて分かる者が鬼殺隊に居るのだろうか。それぞれ深い傷をもう痛まないものとして振る舞って、なんとか剣を振るっている。義勇はその極端な例に見えた。だから、苦手だと思うと同時に、出口を見つけてほしいと思う。そうすれば自分も、少しは、何か救われた気持ちになるような予感がしたのかもしれない。

「妙な男だ」
「妙ですか」

 確かに炭治郎のような少年は稀有だろう。でも「そんな風に」考えることは、何も妙でも特別でもないとしのぶは思う。

「時間も無いことですし、この駅まで出てこの店を探してください。店員さんに勧められたものを買っておけば間違いないですから。ああ、あんまり高いものはダメですよ。気持ち一つを素直に受け取れなくなります」

 聞けば、付き添いを申し出た炭治郎をなんとか押し留めて出て来たらしい。呆れも限界を超えると笑みになるものだ。やれやれ、とメモ帳から一枚紙を切り離してボールペンを走らせる。

「化粧品のお店です。ハンドクリームが有名ですね。とてもいい匂いがするんですよ」

 案の定、渡されたメモを怪訝そうに眺めているので言葉を足したが、まだ今ひとつ腑に落ちていないようだ。人に助言を求めておいて強情ですねえ、と苦笑と共に息を吐く。

「香りは人間の心身に働きかけるものとして、色々研究されているんです。その中でひとつ言われているのは覚醒作用がある、ということです」

 禰豆子の状態は実のところ思わしくない。容体には何一つ問題が無いことが却って治療を難しくさせていた。鬼の影響を受けている可能性が高いのだが、その鬼はこの目前の人が斬っているはずだ。糸口が見いだせない。もう自分のような気持ちになる者を一人として作りたくないのに、藁に縋るしかない。そんな自分の気持ちの表れのような提案だと思った。自嘲で笑みが歪む。しかし義勇はやはり、そんなしのぶに気づいた様子は無かった。

「ありがとう」

 静かに下がった頭がゆっくりと戻ってくる。いつになく穏やかに凪ぐ蒼い瞳をまじまじ見つめてしまった。毒気を抜かれたとでも言えばいいか、何故だか拍子抜けした気持ちになってコホンと空咳をひとつ。

「ああ、そうでした。復帰は年明けになりますから」

 備えて鍛錬に励んでくださいね、続けた言葉を義勇は目を見開いて聞いている。やっと想定していた反応が返ってきたなと思いつつカルテを片づける。もういいですよ、と追い出そうとするが義勇は椅子から立ち上がろうとしなかった。

「もう一週間は早くギプスが外れたはずだ。まだ待つのか」

 眉根を寄せて義勇に目を戻せば、自分の状態くらいはさすがに分かっていると鋭く返される。しばらく言葉もなく睨み合った。これだから柱を入院させるのは嫌なのだ。猛獣を檻に押し込んでいるみたいで。

「分かっていて、どうして大人しく牙を隠していたんですか」
「無意味にお前がそんなことをするはずがない」

 炭治郎と過ごすためだとか返されたらどうしようかと思った矢先だ。思わず呼吸を止めてしまった。はあ、肺の底から空気を吐き出す。これからどんどんこんなことを誰彼構わず言うようになるのだろうか。

「時々私、冨岡さんのこと嫌いになりそうです」

 薄々は分かっていた。呆れるくらいの素直さと一途さが心の奥底に沈めてある人だということは。いくつも自分に課した重しが炭治郎に徐々に解かれて、水面に浮き出て来ようとしているなら喜ばしいことだろう。でもそれを正面からぶつけられる対象になるのは正直なところ遠慮したい。義勇から枷の一切が取り払われたら物凄く厄介な気配がする。ただでさえ我が道を行く人なのに。

「気にしてない」

 いつものように反論が返ってくるかと思いきや義勇は涼しい顔だ。思わず眉根が寄る。

「お前の言葉は時々真逆になると聞いたから」

 一体誰にそんなことを聞いたのだろうかと考えてみれば、一人しか思い当たらなかった。しのぶのことをこんなに親しげで、からかうようで、しかし優しく包んで言い表すような人はこの世に一人しか居なかったのだから。深く息を吸い込んだ。しばらくそれを肺に留めて思い切り吐き出す。

「……本音を言うと、好きでも嫌いでもないんですけどね」
「!?」

 この場合はどういう意味になるのか、と顔にありあり書いて露骨に動揺する姿に溜飲を下げる。笑顔で背中をぐいぐい押して立ち上がらせた。もう回診の時間だ。それに、炭治郎と禰豆子をあんまり待たせるのも悪いだろう。

 少し開けた障子の隙間から月明かりだけを入れる。縁側の木戸は開け放ったままにしてあった。暖気の淀む部屋に細く流れる冬の怜悧な空気が心地良い。遠くからわずかにゴオン、と響いてくるのは鐘の音だろう。また一年が無為に終わろうとしている。やれやれと息を吐き盃を持ち上げ口を付けようとしたまさにその時、人の気配を感じて眉根を寄せた。障子に手をかけて隙間を広げれば、月明かりに薄く輪郭を浮かばせる男が静かに膝を付いている。

「……君か」

 この冨岡義勇は現役で柱を任じられている男だ。無論のこと只者ではないだろうが、その静けさは常軌を逸していて不気味さえ感じる。炭治郎がよく着ている市松模様の半纏を着込まされていなければ幽霊か何かかと見違えそうだ。

「何の用だ。こんな日まで小言か」

 無言のままひとつ頭を下げた義勇は、縁側をキシリと鳴らして立ち上がった。そして槇寿郎の部屋に踏み込み、隣に腰を下ろしてくる。怪訝に顔をしかめたが一瞥すら寄越さずに身を乗り出し、縁側に置いていた盆を引き寄せた。思わず目を剥いたのは、そこに槇寿郎の膝元にあるのと同じ徳利が乗っていたからだ。何だそれはと思わず聞いてしまった。男は涼しい表情で顔を上げる。大抵いつもこの顔なので内心が全く読めない。おかげで対局でも負けが続いていた。

 義勇は徳利の首を取り上げ自分の盃に注ぎ、その口をこちらへと向ける。澄ました顔を不審に見つめつつ自分の盃を傾け、空いたそれを渋々差し出した。ちろちろ注がれると湯気が立つ。

「飲めるのか」
「耐性は。特別歩兵学校を出たので」

 やっと口を開いたかと思えばこれだ。競り上がるむかつきを抑え込むように盃を傾ければ、カッと喉元から胃までを熱く焼いた。

「……嫌な話を聞かせる」

 軍における入隊資格は十八歳以上だが、鬼殺隊のみ特例としてその規定が無い。鬼の存在を知り、それと戦う気概を持ち、更には日輪刀に適性のある者が稀少だからだ。一方、身寄りを失った者が多い隊員の生活を守るという意味もある。十八までは通学が義務付けられていて、その費用も軍が負担する。通学先に特に指定はなく士官学校を志す者が多い。ところが中には敢えて特別歩兵学校を選ぶ者も少なからず居る。学校と名は付いていても実態は訓練施設だ。通常は入隊後に特務機関に配属された者があらゆる「耐性」を付けるための場所である。日常に何の未練も無く、ただ一つの望みだけを残された若者がそういう道を選ぶ。

 槇寿郎の言葉を受け止めたからか、ただ単に何も考えていないのか。義勇は涼しい顔で押し黙ったままだ。はあ、苛々と大きなため息を吐き出して盃を差し出した。義勇はまた大人しく徳利を傾けて酒を注ぐ。ちびりと温い水面に口を付けると、同じように義勇も盃に口を付けた。自己申告通りに顔色一つ変えず飲み干し、は、と吐いた息が白い。冷え込む大晦日の晩に障子を開け放ち、突然転がり込んできたよく知りもしない青年と肩を並べて何をやっているやらだ。

「何か話があって来たんじゃないのか」

 のそりと立ち上がって部屋の明かりを点け、障子を閉ざした。のしのしとその正面に戻って腰をどすりと落とす。意外そうな表情を浮かべるのをやめろと言いたい。よく知りもしないなりに、何の理由もなくこんなことをする青年ではないことくらいは分かっている。

「どう修練したらいいか分からない」

 しばらく槇寿郎を見つめていた義勇は、やがて観念してポツリと言葉を零して項垂れた。その後に続くのは沈黙だけだ。どうやら補足は無いらしい。

「それは……恐らくだが、結論だな。過程を聞こう」
「過程」

 上がった顔の表情を見るに全く想定していなかった返しらしい。しかし逆にどういう受け止め方をされると思っていたのか問いたい。その一言で全て分かったらエスパーだぞ。

「これまで俺は……足が止まりそうな時、鍛錬を重ねてきました」

 「過程」というものを今まさに迷いながら辿っているらしい。途切れ途切れの言葉はどこかたどたどしい。

「そうすれば前へ進めた。足を止めていた全てが流れ去り遠くになった」

 義勇の言葉を聞く内に、隊で面倒を見てきた若者たちの顔が胸に浮かび複雑な気持ちになる。脇目も振らず打ち込み、着実に力を付けていく横顔が好ましくもあった。足を止めうずくまることを恐れ、息が切れても走りを止められない背を見るのが苦しくもあった。

 「だが」で義勇の言葉が止まり眉根を寄せる。一体何を抱えているのかと思い──

「だが……炭治郎にはどうしていいか分からない」

 ──ぽかんと唇が緩んで開いた。炭治郎?問えば、深い頷きが返る。

「もっと、何かしてやりたいが、何も思いつかない。もどかしい」

 義勇はいかにも深刻そうだ。いや、本人にとってそれはもう深刻な悩みなのだろう。膝の上に乗った拳が言葉通りもどかしげに強く握られている。

「もっと分かってやりたい。足りない」

 ここにあの小生意気で口うるさい少年が居れば飛び上がって喝采をあげただろうに。義勇と顔合わせをして帰ってきた日の惚け顔がありありと思い返された。つい気になってしまい玄関まで出て行ったことを未だに後悔している。

「君は相談する相手を間違っている」
「では、誰なら」

 本人じゃないか、と投げやりに答えそうになり唇を引き結んだ。いつも崩れない義勇の表情に縋るような必死さが窺える気がする。

 許してほしいのだと乞われた。炭治郎のために、義勇の存在を槇寿郎に許してほしいと。己の無力に対する絶望に一度覆われてしまったら、人間の心は一度死ぬのだと思う。死を無かったことにはできない。何をしたところで取り消しも挽回もできない。報われて苦しみから解放されることは永劫無い。だがこの青年には今、折れた木に萌え出る新芽のような心がある。きっと槇寿郎はその柔く弱いそれこそを許してやらなければならないのだろう。

「……俺には妻がいた。最愛の妻だ。妻も俺を愛していたと思う。いつも俺を信じてくれた」

 美しく、聡明で、思慮深く、慈愛に満ちていた。槇寿郎の中で正しさはいつからか瑠火の形になった。瑠火が傍らで見つめ返してくれさえすれば何も間違わないと思っていた。間違ってもきっと瑠火が正す。そうやって生涯まっすぐに連れ添っていくのだと信じて疑っていなかった。

「だが……瑠火が今の俺を見たら嘆くだろうな」

 元々、槇寿郎の心は自分で思うよりずっと弱いものだったらしい。瑠火の血を引いた杏寿郎や千寿郎には遠く及ばない。黎明を沈めた水面のような瞳をひたりと槇寿郎から動かさない義勇にも追いつかない。独りその背に置いて行かれる辛さや寂しさに藻掻く力も失くしてしまった。新芽も出ない老木は朽ちるだけだ。だからせめて、こんな槇寿郎に何かを望むと言うのなら、同じように力尽きさせたくないと思う。

「人に何かしてやりたいと思うなら、背くな。裏切るな。少なくとも悲しませないようにしろ」

 身を乗り出して徳利を取り上げ、手元の盃に注ぐ。首を掴んだまま底を振るとわずかに残っていたので義勇の前の盃にも注いだ。空になった徳利を畳にドンと押さえつけ盃を呷る。

「でないと俺のように後悔するぞ」

 義勇は槇寿郎が酒を注いだ盃をただじっと見下ろして何も答えない。酔っ払いの戯言だと思ったのかもしれない。それならそれでも構わない。何も成し得ていない男の説教など似たようなものだろう。いっそ本当に酔い潰れてやろうと立ち上がって酒瓶を探しに行こうとした。

「間違いじゃない」

 一瞬、ぼそりと漏らされた呟きの意味が分からなかった。更に数瞬重ねても何について言っているのか見当がつかない。だがふと、それが「相談する相手を間違えている」の答えかもしれないと思い至る。

 とたとた、小気味良い足音が障子の向こうから近づいてきた。その無遠慮な音には聞き覚えしかない。はあ、とため息を吐き出したところで「失礼します」と張りのある大声が縁側に響き渡る。勢い良く障子が開かれ、暖気の巡る部屋にたちまち冷気が流れ込んだ。

「義勇さん!」

 部屋の中を覗き込む表情は必死ささえ感じる真剣な表情だった。しかし彷徨うように動いた目がすぐに義勇を見つけて、溶けるように笑みに変わる。本人はそれをきっと意識してもいないだろう。すぐに縁側に首を戻して大声を上げる。うるさい。

「千寿郎さーん!こっちだったあ!って槇寿郎さん!寝るって言ってましたよね!?ああ!またお酒ですか!最近飲んでないと思ったら!」
「相変わらずやかましい奴だ」
「杏寿郎さんが帰って来たんですよ!起きてるなら一緒に年越しそば食べましょう!」

 先ほどまで深海の中に漬け込まれていた部屋がたちまち波立ち騒がしくなる。槇寿郎のぼやきなど聞いてもいない様子で、炭治郎はすとんと義勇のすぐ傍に腰を落とした。

「もう年が明けちゃいましたよ。せっかく一緒に居るのに」

 口ぶりは責めていても表情は淡い笑みだ。少なくとも幼い少年が箸が転がって笑うような笑みとは全く違う。一体ここをどこだと思っているのだろうか。知らないのなら教えてやるが槇寿郎の私室である。心底よそでやってほしい。

「すまない」
「あっ、いえ、そんな謝るほどではことではなくてその」

 しかしこの隣の青年は炭治郎の表情から何を汲み取ることもないらしい。正面に向き直って律儀に低頭するので炭治郎もあたふたを両手を動かしている。もう一度言う。よそでやれ。

「炭治郎。これからもよろしく頼む」

 頭を上げた義勇の表情は槇寿郎からは見えない。ただ一纏めにされた箒のような癖毛が見えているだけだ。しかし、こちらこそと答えて嬉しげに破顔する炭治郎はよく見えた。これまでとはまるで違った妙な年の明け方だった。思えば炭治郎やら義勇やら転がり込んできて妙なこと続きだ。呆れた気持ちで重い体をのったりと起こし縁側に歩み出た。丁度小腹も空いている。炭治郎がしきりに新年のあいさつをかけてくるが無視をして台所に向かうことにした。

「あの」

 人が運河のように押し寄せて流れる神社の境内で、極限まで肺と腹に沈黙を詰め込まれる拷問に耐えかね、善逸はとうとう音を上げた。すぐ眼前で着飾った若い女性たちが楽しげに横切っていくのを見ていたらどうにもたまらなくなったのだ。ついでにその女性たちが善逸のことなど目にも留めずチラチラ隣に立つ男の顔ばかり見ていたのが心底つまらなかった。ハイここで問題です。俺はどうしてこんなところで、このいかにもモテそうで妬ましくてしょうがないお兄さんと突っ立ってなきゃいけないんでしょうか?正解は、伊之助が初詣客を当て込んで居並ぶ屋台に心惹かれて戻って来なくなり、炭治郎が探しに行ってしまったからです。ちょっと難しかったかな?俺が伊之助を探しに行って炭治郎は好きなだけギユウさんとイチャイチャすれば良かったじゃん?炭治郎にはまだ難しかったのかな?

 善逸が一人忙しくそんなことを考えていることなど全く知る由もない義勇は、善逸が上げた声を聞いてゆっくりと視線を落とした。苦手だ。まず表情が無い。目鼻立ちに無駄が無いせいで涼しく、もっと言うと冷たくさえ見えてしまう。不機嫌を抱えているんじゃないかとビクビクする。更には音も少ない。水滴が、ピタ、ピタ、一定の間隔で落ちているみたいだ。大勢の人の色んな音が行き交うせいもあって全然何を考えているか分からない。

「……俺に何か用ですか」

 それでも先ほどからその水滴の音が少しだけ速くなっていた。音の方向は炭治郎でなく善逸を向いている。炭治郎ももしかしたら何かを嗅ぎ分けて善逸を義勇の横に残したのかもしれない。そんな気遣いは要らなかった。本当に。

「さすがだな」

 目が少し見開いている。水滴がタタタ、と雨粒のようなリズムに一瞬だけ変わった。たったそれだけが義勇の驚きの表現らしかった。何この人、めちゃくちゃ分かりづらい。このギユウさんとコミュニケーションを取って、更にはどっぷり惚れ込んでいる炭治郎のことを尊敬さえしそうだ。しないが。

「耳がいいと聞いては居たが」

 いえいえ滅相もないです。アナタに比べたら俺なんて塵みたいなもんです。思わず下手に出そうになって口を噤んだ。世の中にはそういうのが嫌いな人も居る。どうしよう、正解が分からないぞ。早く帰ってきてくれ炭治郎。

 善逸は鬼殺隊の隊員だが「仮入隊」という身分である。「お館様」のように古い時代の名残で「最終選別」などと呼ばれたりもする。十八歳以上で入隊した場合は半年、以下の場合は十八になるまで基本的には皆この身分だ。先輩の隊員の下に付いて任務に出て、その評価で適性を判断される。著しい成果を上げれば期間の途中でも本入隊が決まり、逆に適性なしと判断されれば後方部隊に配属が決まったりもする。そしてその最終的な適性の判断には柱も関わるのだという噂を聞いた。

 ところでこのギユウさんのフルネーム、冨岡義勇と言う。柱は雲の上の上官でおまけに多忙だ。本入隊もしていない平隊員では見かける機会もそうそう無いが、噂だけは盛んに聞こえてくるので全員の名前を嫌でも覚える。クリスマスパーティーで炭治郎が嬉々として紹介するので腰を抜かすかと思った。同じ仮入隊の身分なのに呑気に手合わせを申し込んだりしている伊之助の無邪気さが羨ましいと思いそうになった。思わないが。

 己に適性が無いことくらいは自分が一番よく知っている。善逸は昔から何をしてもダメだった。一度引いた負けがずっと尾を引いて、どこへ行こうが誰もかもが善逸のやることなすことの失敗を確信しているみたいだった。誰も善逸に期待しない。善逸自身ですら自分が成功することなんてもう想像すらできない。手ひどく失敗して傷ついて惨めに泣くことになることがもう分かっているから辛い。だからいつも逃げてきた。そしてそれはそれで傷ついて惨めに泣く。独りでそれを繰り返してきた。でも今は一人じゃない。善逸が逃げ出したら同じように傷つく人が後ろに居る。だからせめて逃げたくないし、できれば喜んでもらいたい。

 もの凄く簡単に正直な気持ちを言うと、下手なことをして評価に関わる刺激をしたくない。何か粗相をして気分を害される前に距離を取っておきたい。なのに義勇は善逸に用事がある。どーすりゃいいの俺は。

「我妻は」

 ぽつり、たっぷり沈黙を挟んで零れる言葉はやっぱり水滴のようだ。恐れ慄きつつも一応返事はする。はい。

「炭治郎の親友だな」
「しんゆう」
「……違うのか。炭治郎はよくそう言っているが」

 まず最初に思ったのは、柱の前で俺の話やめてくれる?である。一体何を話してるんだよ炭治郎。まああいつはいい奴だしな。人の悪口なんて言えない奴だし。そんなに酷いことでもないよな。信じるぞ炭治郎──エッ!?なに!?親友!?

「ハ……ハハハ、まあそりゃ同期で入学して!?一緒の班になることも多いですし!?毎日一緒に昼飯食ってるし!?ババ抜きだってするし!?まあ親友って言えなくはないですね!?」

 真冬の空気が熱くなった頬に心地良い。親友だなんて生まれて初めて言われたのではないだろうか。そういう話ならどんどんしてくれ炭治郎。ギユウさんに限らないぞ。

「それを見込んで、頼みがある」
「ウェヒヒヒ……ヒ……はい?」
「教えてほしい。炭治郎に、何をしてやればいい」

 義勇は善逸をじっと見下ろしている。善逸も義勇をじっと見上げている。周囲は騒がしいのに義勇の半径一メートルくらいで音が全部消えていく感じがする。一体何なのだろうかこれは。鬼殺隊の最高位の一人を、炭治郎の話と短い触れ合いからだけで判断するのは失礼かもしれないが、ちょっと心配な人だなと思い始めた。真面目が行き過ぎた感じがするのは炭治郎と少し似ている。ともかく、言葉を失う善逸の様子を見かねて話を変えるとか、そういう器用なことができる人ではないらしい。

「ええっと……まずは興味を持ってやってくれます?」

 ぱたり、瞬きに音を聞いた気がした。睫毛が分厚いせいだろうか。本当に見れば見るほどモテていそうな顔で、しかも腹立たしいことに他の誰かにモテることに全然興味が無さそうだ。タタタ、という雨に似た音だけが義勇の驚きを伝える。

「言ったんですよね、炭治郎に。興味ないって。気にしてますよ、アイツ」

 音だけでなく表情も明らかに変わった。髪の毛が逆立っているようにさえ見える。きっと今の義勇なら誰が見てもどういう気持ちか分かるのではないだろうか。それに少しだけホッとする。

「興味なら……もう、持ってる」

 慌てたような落ち込んだような複雑な音と共に出てきた呟きだ。でしょうね、と心の中で相槌を打った。炭治郎の奮闘はどうやら空回りでは無かったようだ。「ギユウさん」の正体を知ってから尚更、本当のところ相手にされていないのではと心配していたけれど杞憂だったらしい。

「何故こんなことを考えるのかは分からないが」
「はあ?」

 思わず喉から飛び出してしまった大声に俯いていた義勇の顔が上がった。大丈夫ですか?と続けそうになって何とか耐えた。

「ちょっと整理しますけど。ぎゆ、いやいや、んーっと……冨岡、中尉様は」

 忘れてはいけない。ちょっと気を抜くと一瞬で忘れ去りそうだが「ギユウさん」は冨岡義勇。第二特別機動隊中尉。沈着冷静で正確無比に鬼の頸を狩る鬼殺隊の水柱様だ。

「炭治郎に何かしてやりたいわけですよね。興味があって、喜んでほしいわけですよね?」
「そうだな」

 沈黙。人びとが楽しげにすれ違っていく喧噪。冬の冷気が高くした空は雲一つない晴天だ。新年からこんなに晴れるって幸先いいなあ。

「『そうだな』じゃなくない!?」

 両想いじゃないか。百歩譲って炭治郎のことを弟のように思っている気持ちなのかもしれないが、それにしたって物凄く好感度が高い。このまま押し出したら多分どこまでも行けるぞ炭治郎。と、そこで義勇がぽかんと善逸を見つめているのに気づきざっと血の気が引いた。

「いや!いえいえいえいえ!ええっとその、スミマセン今のは言葉のアヤってやつで、つまり言いたいのは……聞いてみたらいいんですよ!なんでも!直接本人に!」
「本人に……」

 幸い義勇は善逸の失礼な物言いより炭治郎のほうに意識を向けてくれたようだ。良かった。ギユウさんが炭治郎を大好きで良かった。

「炭治郎は嘘がつけません。すぐ顔に出るから一発で分かる。本当のことしか言えないやつなんです。だから聞いてみればいい」

 我ながらなかなか良いことを言ったのではないだろうか。そう満足する気持ちの裏に、なんだかよく分からない複雑な気持ちがモヤモヤと染み出してきた。炭治郎は嘘をつけない。どんな相手でも真正面から向き合う。誰も信じない善逸のことすら真心から信じてくれた。だからやっぱり善逸は思うのだ。ちゃんとこのギユウさんはできるんだろうか。

「そういう、素直でいいやつだから、もう二度と嘘つかないでください」

 少なくて変わった音だから分かりづらいが、さっき聞いた音の中には確かに「後悔」があった。義勇には炭治郎を傷つけるようなことを言った自覚がある。そして炭治郎に親友と呼ばれた善逸はそれを聞いてしまったので、ギユウさんが例え柱の冨岡義勇でも放っておけない。

「嘘をつかれるのは悲しい。俺たちには、分かるから、それが。余計に」

 水滴のような音が不意に消えて、義勇が隣から消えてしまったのかと思った。思わず見上げたが義勇はその場から一歩も動いていない。善逸をまた無表情でじっと見下ろしていた。

「分かった」

 消えたと思ったが音は変わっただけだったらしい。一気に音が増えていたた。柔らかい雨が春の花や若葉を包むような豊かで優しくて鮮やかな音がする。

「ためになった。ありがとう」

 本当はこういう音がする人なのか、と思って、炭治郎がどこかに頭をぶつけて好きになったわけじゃないことをやっと納得した気持ちになった。

「二人とも!」

 唐突に炭治郎の顔が正面に飛び込んできて思わず一歩下がってしまった。義勇と善逸の間に割り込むように入ってきた炭治郎の左腕は、しっかり伊之助の右腕を掴んでいる。さらに伊之助の右手にはしっかりフランクフルトが握られている。

「伊之助見つけて来たぞ!」
「大げさな大次郎だよな!俺の育った山のほうが何倍も広いってのに」

 よく見ると左手にはたこ焼きのパックが抱えられていた。手首に引っかかっているのはりんご飴だろうか。そんなに買い込まなくても山の仲間たちと違い屋台は逃げないと教えてやるべきだったかもしれない。

「何の話してたんだ?二人で」
「……ええっと」

 炭治郎の声も笑みも音も朗らかだ。でも禰豆子の白い手を取ろうとした時と全く同じ顔をしている。怒った音が一切しないのが逆に物凄く怖いのだ。それにしても禰豆子は物凄く可愛らしかった。人生で二度目の雷に打たれた。また会いたいなあ、今度こそ手を取りたいなあ、と思考を禰豆子に飛ばすと炭治郎の笑みが深くなる。やだ怖い。考えただけもダメなの?

「炭治郎」

 パッと炭治郎から無音で発されていた緊張感が霧散した。はい義勇さんと弾けるような声で振り返っている。健気だ。義勇も心なしか穏やかな表情でそれを受け止めているように見える。

「いい友だな、善逸は」

 思わずギョっと目を剥いてしまった。義勇にはこの緊張感がまるで伝わっていなかったのだろう。そういう人だとはもう分かったからこのタイミングは勘弁してくれ。炭治郎にまたあの無音の笑顔を向けられるのか──

「はい!」

 ──と思いきや、善逸に戻ってきたのは満面の笑みだ。それから炭治郎は心底嬉しげに義勇に善逸の良いところを語って聞かせ始めた。とっくにフランクフルトを片づけてたこ焼きを貪る伊之助の肩を掴んで押し出し、伊之助もすごいやつで、と善逸と交互に褒める。本人の前でこれでもかと言うほど。義勇はそれを律儀に聞いている。非常に真面目な頷きに居た堪れなさが限界を超えた。

「おみくじ!おみくじ引こう!ね!いやー今年はどんな年になるかなー?ドキドキするなあー」
「あんな細っこい紙っ切れ一枚じゃ何も決まらねえよ。よく食ってよく寝ろ」
「お前初詣来た意味ある!?飯食いに来ただけだよねお前!?ていうかこの状況よく流せるよな!?お前っていつもそう!」
「まあまあ善逸……」

 宥めるようでいて愉快な気持ちを隠しきれていない音に呆れる。新しい年は、誰にとってもうんといいことがあるといいと思う。炭治郎がギユウさんとうまく噛み合って、こんな音を年中させるようになればいいのだ。相談料とか巻き込まれ費を徴収したい気もするが、親友割引ということにする。

 ちなみにその後、義勇は涼しい顔で大凶を引いて炭治郎の顔を今日の青空にも負けないくらい真っ青にさせていた。やっぱり俺この人ちょっと苦手。

 カチ、カチ、古い大時計が時を刻む音が静かな部屋に大きく聞こえる。他の学校や訓練施設と違って、軍本部の多くは古い時代の名残を残している。明るい光を優しく遮る薄絹のカーテンさえどこか懐かしい風情があった。

「義勇、蜜璃、よく来たね」

 こちらへ、と言われて敬礼のために下げていた頭を並んで上げる。先輩である義勇の後に続き、机の向こうに座る輝哉とその後ろに控えるあまねの前に並んだ。いつもと変わらない穏やかな笑みと声にほっとする。ちらりと盗み見る義勇の横顔も不愉快そうには見えない。軍帽を左手に持ちピンと背筋を張っている。

「怪我はすっかりいいようだ」
「はい」

 今日は義勇の復帰の第一日目だ。年を跨いでの任務でお館様への新年の挨拶がまだだから、と輝哉の元まで付いて来た蜜璃を義勇は拒まなかった。どこまで許されていいのか分からなかったが、年末に見聞きした義勇の身の回りのことがどうしても気になってしまう。

「蜜璃も。あれから不調は無いかな」
「は、はい!お気遣いありがとうございます!お館様とあまね様のこの一年が少しでも、心安らかなものでありますように」
「ありがとう。皆にとってもそうであることを心から願っているよ」

 輝哉の優しい笑みに温泉に浸かったような心地良さを感じ、頭を下げたあまねの鼻筋の美しさにどぎまぎする。恥じらいで耳を赤くする蜜璃を輝哉は慈しむように見つめ、それから義勇へと目を移した。

「義勇」

 名を呼ばれた義勇は言葉の代わりに低頭して輝哉の言葉を待っている。蜜璃はただその静かな佇まいを素敵だなと思うが、輝哉から見るとまた違う意味を持つらしい。困ったようにその眉が下がった。

「私の臆病で不安にさせてしまったね」

 臆病、その言葉が耳にうまく馴染まない。輝哉の笑顔と義勇の横顔との間でおろおろと目を彷徨わせた。輝哉は優しい人だ。けれど優しさで次の言動を間違ったり躊躇ったりする人では決してない。言葉を上げたいが割り入ることもできないでいる蜜璃に輝哉は笑みで答える。

「産屋敷の当主は代々先見の明を持つなんて言われているけれど、私はただ、子を失った父親の累積なんだと思っているんだ」

 軍上層部の重要な役職には、旧時の公家や武家といった名家出身の者たちが持ち回りのように就くことが多い。しかし鬼殺隊はいつの時代も産屋敷の当主が長だ。かつて産屋敷の当主は三十を超えることもないと言われていたほど短命の者が多かったらしいけれど、鬼殺隊の長い歴史の中で決まりが変わったことは一度も無いと言う。輝哉はゆっくりと立ち上がってデスクの前に出た。

「積み重なった痛みと、悲しみと、後悔と、恐れとが、『勘』になる」

 あまねに手を添えられながら義勇の前で立ち止まる。その足先を視界に入れたのだろう、義勇が顔を上げた。

「お館様のお考えを疑うことなどありません」

 互いに多忙の中こうして横に並ぶ機会はそう多くない。けれど義勇らしい言葉だと思う。しかし、その実直な答えをさすがだと蜜璃が思っても、やっぱり輝哉は別の意味を受け取るようだ。それが何かまでは分からない。けれど輝哉はまた困ったように眉を下げて笑っている。

「それに、そのお考えが無ければ」

 義勇の言葉には間を置いて続きがあった。ところが中途半端なところで途切れて止まってしまう。真隣から見ているから、言うつもりが無かった言葉なんだと分かった。いつもはほとんど変わらない冷静な目が波立っているような錯覚がする。本人が一番自分の言葉に驚いているように見えた。

「義勇、『時』だ」

 輝哉の声の調子は相変わらず穏やかで優しいのに、不思議と部屋の空気が変わった気がして背筋を伸ばした。輝哉はもう困った笑みではない。顔を上げた義勇を嬉しげに覗き込んでいる。

「その日、その時、そこにしかない。それを私は逃したくない」

 一緒に待ってくれてありがとう、軍帽を抱える義勇の左手に軽く触れ輝哉はそう最後に言った。義勇はまた黙ったまま、しかし深く頷きを返していた。

「……これから一体何が起きるのかしら」

 義勇と連れ立って部屋を出た途端にため息が出る。ざわつく胸を両手で押さえ込んだ。素敵な予感と共に感じる胸の高鳴りならどれほど良かっただろう。どくどくと心臓が跳ねる感覚が落ち着かない。

「何が来ても、同じだ」

 素っ気なく言って義勇が長い足を踏み出し、すたすたと無人の廊下を歩き出す。詰所に戻るのだろう。小走りで横に並んだ。

「あの……冨岡さん!」

 言葉にこもる感情が薄くても、実は優しい人だというのは度々感じていた。足を止めて蜜璃の言葉を待っていてくれることが嬉しい。思わず笑みになると義勇の目も穏やかな色になった気がした。廊下の窓から入る光がそうさせているだけかもしれないけれど。

「あのあと、どうでした?」

 誰も居ないのは分かっていたが口元に手を当てて声を潜めてしまう。軍部中枢の静かな建物の中で、義勇の私事に触れることに恥じらいとためらいがある。ついつい顔が赤くなった。

 やっぱり気になっていたのだ。ラーメン屋のドアを開け放った少年の、涙をこらえるような必死の表情が頭から消えない。「許されない」ことなんてきっとない、蜜璃にはすぐにそれが分かった。けれどそれがいくら明らかなことでも、「許されない」と信じたら誰に何を言われてもだめなのだ。輝哉の言葉は抽象的で、蜜璃にうまく掴めているか分からない。しかし『時』という感覚は分かる気がした。その日、その時、そこにしかないことだけが、苦しく閉ざした心を少し変える。

「今は」

 じっと蜜璃を見下ろして黙り込む義勇をめげずに見つめ返していると、やっと言葉が降ってきた。ちょっと変わった会話のテンポを持つ人だとは分かっているから気にならない。むしろ独特で素敵だ。

「甘露寺の言ったことがその通りだったらいい、と思う」

 落ち着いた声が予想よりもずっと高いところをふわりと通り過ぎていった。ぼうっとその整った面差しを見つめ、言葉の意味が頭に浸透してやっと声が出る。きゃあと悲鳴も出た。びっくりさせてしまったのか、少しだけ跳ねた肩が可愛い。

「きっと大丈夫です!冨岡さんなら!」
「そうだといいが」

 伏せた目の先には何も無いけれど、きっと炭治郎の顔が浮かんでいるに違いない。先ほど穏やかだと思った瞳に今ははっきりと優しささえ感じる。

「素敵!素敵だわ冨岡さん!わあ……私もそんな方を早く見つけたい!」
「炭治郎みたいな奴はそうそう居ないと思うが……」

 思わず一瞬、また笑顔のまま呆けてしまった。間髪を入れずに言葉が返ってきたのは慌てているせいだろうか。笑みに緩む頬が堪えられなくて手で押さえる。

「やだ、冨岡さん!私は私だけの大切な人を見つけるんだから!人の好きな人を取ったりしないから安心してください!」

 こんなに頼りになって格好が良いのに小さな子供みたいだ。くすくす喉を鳴らしていたが、ふと義勇の様子におかしいことに気が付く。思わず笑ってしまった蜜璃を怒ったり嫌がったり照れたりした様子もなく、ただ呆然と見下ろしているようだ。ぽとり、軍帽が義勇の左手から滑り落ちたので思わず目で追う。

「すきな」

 あら?あららら?ひょっとして冨岡さん、気づいてなかったのかしら……?

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。