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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 炭治郎は元は竈門家の長男だったが、今は訳あって煉獄家の厄介になっていた。戸籍の上で言うと煉獄家の養子なので、姓まで名乗れば煉獄炭治郎となる。初めの内は慣れなかったが、一年経ってようやく少し慣れが出てきた。

 この煉獄家というのは代々大将級の将校を輩出してきた家で、公家武家のルーツを持つ者の多い軍部でもその名を知らぬ者がないほどの名家中の名家だ。どの代においても家名に恥じぬ逸材が当主を務め、実質的に今代の当主とみなされている長男の杏寿郎もその例に漏れない。成人したばかりの若さで、国内警護の要であり軍部最大の組織である第一師団に属する歩兵第一連隊で中隊長を務めている。才覚ばかりでなく人格にも優れた杏寿郎は、上司の覚えめでたく部下にも熱烈に慕われている。炭治郎もこの義兄のことを心から誇りに思っているし、杏寿郎も素直で真面目なこの義弟のことを実の弟である千寿郎と変わらぬほど可愛がっている。そういうわけで、煉獄家における炭治郎の暮らしは概ね順風満帆だ。たったひとつの困りごとを除いてはだが。

「またそんなに飲んで!控えてください!体に毒です!」
「フン、お前に文句を言われる筋合いはない」
「ものすごくあるでしょうが!!俺はあなたの息子ですよ!?」
「お前みたいな無礼で生意気な小僧を息子に持った覚えはない!出ていけ!」
「嫌です!お酒を置いてください!!」

 士官学校から帰宅してまず押しかけるのは、名ばかりとなってしまった現当主の槇寿郎の私室だ。炭治郎から見れば養父となるこの男、かつては師団長まで務めた立派な将校だったが、ある時を境にすっかり酒に浸り部屋に籠るようになってしまったという。炭治郎がこの家に入った時には既に、放っておけば寝ているか酒を煽るか。とてもではないが放っておけない状態だった。忙しい杏寿郎の代わりに自分がやらねばと始めたこのやり取りももう一年、一向に改善の兆しは見えない。まさかここまで手強いとは。酒で目が曇って、父を心から案じる千寿郎の顔が見えていないんだろうか?心を痛めながら毎度加勢について来てくれる千寿郎の顔を陰らすばかりで炭治郎は申し訳なさと不甲斐なさでいっぱいだというのに。

「竈門少年」

 酒瓶を抱えて不貞腐れた子供のように背を向けた槇寿郎をどうしてやろうかとわなわな震えているところに、暗闇にぼっと炎を灯して広げるような明るく強い声が差し込まれた。慌てて背筋を正して振り返れば、部屋の戸から杏寿郎が苦い笑みを覗かせていた。匂いが揺れる。槇寿郎はいつもそうだ。頑なに振り返らないくせに杏寿郎や千寿郎の声を聞いただけで簡単に悔いるような寂しいような匂いを漂わせる。素直じゃないのだ、要するに。

「父上と仲良くしているところ悪いが来てくれるか」
「あ、兄上……」
「杏寿郎さんには何が見えているんですか……?」

 心から言っているとしか思えない匂いのする発言に戸惑いはするものの、今は杏寿郎の用件に意識を向けたほうが良さそうだ。激務続きで時には数日帰らないこともある杏寿郎が陽が沈んだばかりのこの時間に屋敷に居るのは珍しい。一旦休戦にするしかないな、と槇寿郎に視線を戻せば、とぽとぽ酒がまさに升に注がれているところだった。

「どいつもこいつも俺を寄ってたかって馬鹿にして……」
「あー!ダメですって言いましたよね俺!?」

 慌てて正面に回り込んだが、槇寿郎はちらりと炭治郎を見遣っただけでぐいっと升を傾けてしまった──こんなに言っているのに。杏寿郎さんも千寿郎さんも、こんなに心を痛めた心配の匂いをさせていて、でもその心配が父を傷つけることが分かっていて、何も言わないでいるっていうのにそれに甘えて。

「こっのぉ……糞爺!」
「うっぐ……石頭めえ……」
「はい!千寿郎さん!急いでこれを隠してきて!!」
「は、はい……!」

 最早我慢の限界だ。自慢の石頭をその額にぶつけると、槇寿郎が痛みで升を取り落としたので、酒瓶ごと抱え上げて部屋を出る。おろおろと後に続いてきた千寿郎に酒瓶を託すと少しだけ溜飲が下がった。そこで初めて炭治郎は自分をぽかんと見下ろしている杏寿郎に気が付いたのだった。

「ワハハ、よもやよもやだな。あの父上に頭突きとは!」
「すみません……でもあのままじゃ、本当に体を悪くしますよ……」

 どんな人でも養父は養父。世話になっているからには敬意を払うべきだ。何百何千言っても話を聞き入れてくれないから仕方なく強引な手を取ったにしても「糞爺」はさすがに良くない。しかもよりによってそれを尊敬する杏寿郎に見られていたと思うと顔が青くなるやら赤くなるやらだ。

「君は不思議だな」

 けれど、杏寿郎の匂いには怒りや呆れは少しも混じっていなかった。どこか愉快げですらある。不思議に思って目を上げると、思いのほか優しい笑みが見下ろしていた。

「君がいると、物事は何でも明るく、正しく、優しく照らされていくように思えてくる」

 太陽をそのまま閉じ込めたような光を持つ瞳は、かつては怖いと思うこともあったくらい普段は力強い。けれどそれがほんの時折、こんな風に夕陽のように優しく滲む時がある。家族の一員として心を許し、炭治郎を慈しんでくれている。それが分かる瞳と匂いだ。思わず照れた笑みが浮かぶ。

「俺、褒められてますか……?」
「ああ!褒めている!俺は君のそういうところを好ましく思う!君は幼く、まだまだ弱く、未熟だが!それは間違いなく今持てる君の強さだ!」
「ううん……頑張ります……」

 でも、相変わらずものすごく笑顔で本当のことをズバっと言うんだよなこの人は。簡単に思い上がらせてくれないのはさすがだ。一層の精進を胸に誓うしかない。むん、とこっそり気合を入れていると、また優しく笑う匂いがした。

「そんな君だから、鱗滝さんも頼りたいのだろうな」

 今の杏寿郎の笑顔はどこかいたずらに成功した子供のような無邪気さがある。昔、花子や茂がこんな顔をしているのを見たことがあったな、そんな風に思いを馳せている内、ようやく言葉の意味が頭に染みてきた。

「鱗滝さん!?もしかして、鱗滝さんがここに!?」
「ああ」
「本当ですか!わあ、久々だなあ!」
「君に用事だそうだ。……腰を抜かさんようにな」

 鱗滝は、炭治郎がひとつ下の妹以外の全てを失った直後の一年間、面倒を見てくれた恩人だ。鱗滝もかつては軍人で、退役後に剣道の師範となったのだと聞いた。妹の入院した病院に知人が入院していたらしく、偶然に出会っただけの炭治郎を引き取り、鍛え、現役時代のツテを辿って煉獄家へ入るきっかけを作ってくれた。煉獄家に来てからは家でも士官学校でも鍛錬の毎日で、なかなか会う機会がなく手紙を交わすだけだったが、思わぬ再会に顔が綻ぶ。大股で廊下を進んでいけば、客間に近づくほど懐かしい匂いがする。

「鱗滝さん!お久しぶりです!!」

 炭治郎は喜色満面で礼儀も作法も忘れ客間の戸を開け放って部屋に転がり込んだが、はっと気が付いて杏寿郎を振り返った。だがそこにあるのは優しい笑みと頷きだけだったので、遠慮なく鱗滝の正面に腰を下ろす。杏寿郎も特に気にした様子もなく下手側に座した。再会の邪魔をしないようにしてくれたようだった。

「久しいな炭治郎。元気そうで何よりだ」
「鱗滝さんも!」

 鱗滝の顔はいつものように面で覆われていて見えないが、確かに再会を喜ぶ匂いが鼻に届いている。鱗滝も炭治郎のように鼻が利く男だ。炭治郎の喜びがつぶさに分かるらしく大げさだなと呆れている。その反面、喜ぶ匂いは余計に強くなるのだった。その匂いに更に気分が高揚した炭治郎はぐいと卓に身を乗り出した。しばらくは互いの近況などについて存分に──互いに匂いで通じるところもあり杏寿郎から見ると言葉少なに見えたかもしれないが──語り合ったが、はっと我に返る。そもそもここに連れられたわけを思い出した。

「俺に用事と聞きました!」
「ああ……今日はお前に頼みがあって来た」

 鱗滝のほうは子犬がじゃれつくような炭治郎の喜びようを見て、本題に入ることを待っていてくれたようだ。その優しさを嬉しく思いつつ、自分の子供っぽさに恥じ入り、そして珍しいなと心の中で首を傾げてもいる。わずかだが、鱗滝には話をためらう匂いが混じっている。

 けれどやはり炭治郎に戦いにおける判断の速さ、正確さを叩き込んだ師だ。炭治郎のきょとんと丸めた瞳を正面から受けてすぐに覚悟を決めた様子で、膝をにじり卓の横に移動してきた。そしてそれを見守るしかない炭治郎の真横につき、静かに頭を下げる。あまりに唐突で予想もしない出来事に、炭治郎は動揺のまま鱗滝の肩を押し返すように両手を伸ばしていた。

「炭治郎、この通りだ。お前を見込んで頼みたい」
「鱗滝さん!?やめてください、顔を上げてください!俺、鱗滝さんの頼みなら何だって……」
「鱗滝さん」

 しかし炭治郎の言葉を静かな声が差し止めた。思わず両手の力を抜いて振り返ると、杏寿郎が微笑んでいる。しかし口元は笑みの曲線を描いていても、目元には強い光が宿っていた。声は暗闇の中で静かに燃え盛る松明のような烈しさが潜んでいて、匂いには鱗滝に対して少し責めるような感情が混じっている。

「まずは落ち着いて頂きたい。そういう話の運び方は良くない。俺は貴方を大先輩として尊敬しているが、今の俺はこの竈門少年の兄でもある。まずは話を聞いてから考えさせたい」

 杏寿郎の言葉に鱗滝は項垂れた。炭治郎としては複雑だ。養子としてではなく「竈門炭治郎」であることを尊重してくれるこの義兄の気持ちは大変嬉しいし、ありがたい。しかし鱗滝も炭治郎にとっては紛うことなく恩人、恩師であって、何か頼まれごとがあるなら何でも引き受けてやりたいのが本心だ。おろおろと視線を両者の間で彷徨わせていると、鱗滝が古傷やタコだらけの硬い手のひらを炭治郎のそれに重ねた。炭治郎の手を遠ざけて、もう一度頭が下げられる。

「すまない、炭治郎。少佐殿も。どうにもあの子が……いや」

 両膝の上に置いた拳をぐっと握って、鱗滝は今度こそ覚悟を固めたようだ。顔を上げ天狗の面を通して炭治郎の瞳をじっと見つめる。炭治郎も姿勢を伸ばしてそれに応えた。

「単刀直入に言う。炭治郎、儂の弟子の一人を娶ってほしい」

 鱗滝の放った言葉の意味が咄嗟に理解できず、炭治郎は「も」の口のまま固まった。勿論です、と間髪入れずに答えるつもりだったのだ、本当は。だが、めとる。めとるとは。漢字では何だろう。「娶る」か。つまり嫁にするということだよな。誰を?儂の弟子、つまり鱗滝さんの弟子を。

「め……」

 口がやっと少しだけ動いた。だがまだ一音しか出てこない。鱗滝の匂いは覚悟で固まっていて他の意図が全く嗅ぎ出せなかった。救いを求めるように振り返れば、杏寿郎がまたいたずらっぽい笑みを浮かべている。そこでふと思い出すのは鱗滝が来ていると炭治郎に告げた時の杏寿郎の言葉だ。『腰を抜かすなよ』。既に杏寿郎はこの話を聞いていたのか。つまりこの話は冗談でもなんでもなく、鱗滝は本気で炭治郎にそれを望んでいる。

「め……?」

 えええええええ!?

 思わず炭治郎は叫んでいた。いや、これが叫ばずにいられようか。炭治郎はやっと十六歳になったばかりだ。身分は予科生、士官を目指すただの学生に過ぎない。加えて言うなら初恋すらも経験がないときた。それが突然、何をどう飛躍させれば結婚などという話になるのだろう。前のめりで鱗滝の膝に文字通り膝を付き合わせる。

「なんで俺なんですか!?杏寿郎さんだってまだお見合いの話が来ているくらいで、婚約の話もないのに…!?」
「俺はなかなか忙しくてな!縁があればとは思っているのだが!」

 炭治郎の混乱に、鱗滝は申し訳なさそうな匂いを零すのみだ。それに尻込みし、一体どこから話を切り込めばいいのか迷っていると、杏寿郎が助け舟を出してくれた。

 炭治郎は煉獄家の実子でなく養子だ。これは煉獄家に取り入りたくても「家格が低い」と自認している家にとっては格好の的になるようで、炭治郎の嫁に、という話は他にも増えつつあるらしい。しかし杏寿郎はこれに辟易していた。それをそのまま受けてしまうと、一生を煉獄家の者として生きなければならなくなるからだ。

「今は君を守り力をつけてもらうためにこの家に入ってもらったが、君にも守りたい家があるだろう。俺も君と同じ長子だから、君の気持ちは分かるつもりだ」

 一切何も知らぬうちに己を取り巻いていた話にぽかんと口を開け、そうかと思えば「竈門少年」と呼び続けてくれる千寿郎の真心に感じ入り、炭治郎の表情と感情の変化は忙しない。杏寿郎はたちまちパンクした炭治郎がおかしいのだろうが、混乱を極めても仕方のないこの状況を哀れだとも思うようだった。苦笑を浮かべている。

「そういうことだから、俺としてはこの話、君がどう思ったところですぐに頷かせる気はない。君にはまだ輪郭すらも見えない未来があるのだから。ただ婚約という形でなら、こちらにとっても都合がいいと思っている」

 「煉獄家が認めた婚約相手がいる」という事実が少しは炭治郎の見合い話を遠ざけるだろう、というのが杏寿郎の目論見らしい。とうとう言うべき言葉を失った炭治郎に、鱗滝の申し訳なさそうな匂いが一層濃くなった。

「優しいお前に、卑怯な頼み方をしているとは分かっている。だがまずは、会ってやってくれ」

 もう一度恩人に深々と頭を下げられれば、炭治郎に返せる言葉はひとつしかなかった。

「それってさあ……大丈夫なのか?」

 同期で友人の善逸の箸先が炭治郎に向けられる。多少行儀が悪くても、士官学校食堂の入り口付近に座るような予科生に気にするような者はいない。同じ予科生の中にも明確な一つの隔たりがあるのだ。名家の出で幼年学校からエスカレータ式で昇級してきた者たちは幼年組、炭治郎たちのように一般の中学校を出た者たちは中学組と呼ばれている。露骨な差別があるわけではないが、エリート家系のサラブレットたちにはどうしても中学組を侮るような気配があるし、中流以下の家庭から出てきている「凡人」の子供たちはどんなに実力がある者でも大なり小なり引け目を感じている。

 更にそこにおいて、炭治郎という存在は異端だ。中学組でありながら、名家中の名家の養子。思い返せば幼年組にも中学組にも遠巻きにされる入学当時はなかなか堪えるものがあった。そんなことを気にせず付き合ってくれる善逸と伊之助という友人ができたことは炭治郎にとって心からの僥倖だ。ただし嬉しいことに、最近では苦しい訓練を共に乗り越える内に中学組同士で壁はほとんどなくなってきている。杏寿郎の話によれば、本科生になる頃には幼年組・中学組の障壁もほとんど取り払われるらしい。まあ、それは杏寿郎だから言える話なのかもしれないが。

「大丈夫じゃないな……全然大丈夫じゃない……」
「いや、お前がいっぱいいっぱいなのは音で分かるけども」

 ともかく今はこの「婚約」だ。炭治郎は唐揚げが香ばしい匂いをさせるトレーを押しやってテーブルに伏せた。自分の鼓動の音が大きく振動して伝わってくる。昨日鱗滝に会ってからというもの、ずっと鼓動が速い気がする。ひょっとするとこのまま自分は緊張が死因で死ぬのではないか?そんな馬鹿げたことまで考えたところで、伊之助が「食べないなら食べるぞ」と箸を伸ばしてきた。食べるよ、トレーを力なく手元に戻して起き上がると露骨に不本意そうな顔をされたので、ひとつを伊之助の皿に乗せてやる。午後は体術訓練が主だ。たらふく食べておかないと持たないことは分かっていても、既に胸がいっぱいだ。

「何かワケありで、貰い手がどこにもないからお前にお鉢が回ってきた……とか、そういうんじゃないんだよな?」
「分からない。年上だって言うのを聞いてるだけなんだ」
「年上かあ……何十歳も年上の人だったりして……」
「ううん、鱗滝さんにそんな歳の弟子がいるって話は聞いたことないけど、そうだとしたら俺みたいな未熟者が来たらがっかりさせるだろうな……」
「お前は本当に器でかいよなあ」

 椀に盛られた千切りキャベツをモソモソ口に詰め込みつつ、善逸の感心したようでいて呆れた匂いを漂わせる声に目をやる。何を言われているのか今ひとつ理解できていない炭治郎を音から察したのだろう。考えてもみろって、と善逸は真剣な顔で身を乗り出した。

「おばあちゃんが来たりしたらやっぱり嫌だろ?」
「そうだなあ、あんまり歳が離れてたらびっくりはすると思う。だけど、どんなおじいさんが来たとしても大切なのは心が通うかどうかじゃないかな」

 沈黙。後は、伊之助が大盛の白米を忙しなく掻き込む音。善逸から驚愕している匂いがして炭治郎も狼狽えた。全く驚かれないとはさすがに思っていなかったが、まさかそんなに驚かれるとは。

「もしかして……相手の人って」
「うん、男の人だ」

 かっと善逸が目を見開いたが、咄嗟に言うべき言葉が見当たらないらしく、大口を開けたまま雷にでも打たれたかのように固まっている。炭治郎のほうも何と声をかけたものか、おろおろと善逸の次の言葉を待つほかない。膠着状態を破ったのはやはり伊之助で、お前も要らないのか?と善逸のトレーの煮物の小鉢に箸をつけようとしている。要るよ!と善逸は小鉢を持ち上げた。

「お前ってやつはどこまで器でかいの!?俺はもう、年上の別嬪さんが来たって話になったら絶対に絶交してやるって決意しかなかったのに、お前はほんととんでもないな!?」
「そんなこと思ってたのか善逸……」
「当たり前だろうが!」
「当たり前かなあ……」

 善逸との出会いの記憶がふっと炭治郎の頭をよぎった。同期の女生徒たちに手当たり次第に声をかけていたんだったな。あの時はまさかこれほど親しくなるとは思ってもいなかったが。懐かしい記憶が少し炭治郎の気を休めてくれた。善逸に微笑みかける。

「もしかしたらそういうことがあるかもとは考えていたから。特に好きな人も居ないしな」
「まあ、煉獄家っていうと名門中の名門だもんなあ……」

 一般家庭では男女での結婚が多いが、古くから続く家の場合は男性同士で婚姻関係を結ぶということも珍しくなく、現代においてもその名残がある。家名を守ったり高めたりすることに重きが置かれているためだろう。栄えている家であれば妾も養える。そうなれば、後継ぎが成せないということも大した問題にはならない。

 とは言っても、炭治郎は何の力もない養子だ。その覚悟が現実で必要になる可能性は限りなく低いと思っていた。その上、まさかこんなに早くに自分の頭上に降りかかることになるなど予想していたわけもない。

「なあ、結婚式ってうまいモンがいっぱい出るんだよな?天ぷらも出るか?」
「あのなあ、お前はもっとこうさあ、聞いてた?今までの話?」
「あん?」
「炭治郎がとんでもない奴と結婚させられたらどうするんだよ!」
「いや、鱗滝さんが目にかけてるお弟子さんなんだからそんなことは……」
「そんなこと分からないだろ!」

 人に話したおかげか少し落ち着きを取り戻した炭治郎とは反対に善逸はすっかりヒートアップしている。善逸のそんな勢いを歯牙にもかけない伊之助は、怪訝げな表情で首を傾げた。

「なんだ、嫌なのか?嫌だったら嫌だって言えよ。子分の面倒くらい見てやるよ」

 そして炭治郎にビシリとスプーンを向け、デザートのヨーグルトを吸い込むように平らげてしまった。ふ、と炭治郎は思わず笑い、はあ、と善逸がこれ見よがしなため息を吐く。

「そんな単純な話じゃないだろ……でも、まあ、そうだな。我慢はするなよ、炭治郎」
「ありがとう、伊之助。善逸」

 年上、男性、現役の軍人。現在は怪我療養中。鱗滝から聞いている話はこれだけだ。夜も遅くなりつつあったので詳しく聞けなかったこともあるが、鱗滝が話したがっていないことが匂いで分かったからだった。深い心配と、ほんの少し悲しげな匂い。善逸に余計な心配をかけたくなくてとても口には出せないが、訳ありというのはあながち間違った予想ではないかもしれない。でも今はひと時、緊張や不安を忘れて微笑むことができた。友人の真心が染みる。

「な、なんだよ急に……えー、あーっと、嘘ついたらすぐ分かるんだからな!お前は!」
「そうだなあ、音でばれちゃうよな」
「じゃなくて!もうめちゃくちゃ分かるから!お前嘘つけてない自覚ないの!?」

 士官学校は月曜から土曜まで座学と訓練、演習でみっちり詰まっている。日曜日だけが休みなので顔合わせも日曜日が選ばれた。場所は軍病院、入院中の相手の病室。婚約するかもしれない相手との初対面に相応しい場所でないことくらいはさすがの炭治郎にも分かるが、相手は療養中だ。怪我が治れば忙しくなるからと鱗滝に急かされれば頷くしかない。

 薬品や消毒の匂いや、緊張したり沈んだりした匂いで満ちる病院は、ただの見舞いにしてもなんだか落ち着かない。早くに亡くしてしまった父が入退院を繰り返していたこともあって、なんだかその頃の気持ちを思い出しもする。ただでさえ緊張しているというのに悪循環だ。チン、とエレベータが目的の階に辿り着いたので、他に降りる人びとを優先して待っている間に深呼吸した。

 盛装などと言われてもてんで思いつかず、杏寿郎のアドバイスに従って予科生の制服である詰襟を着込み、軍帽とオーバーコートを片手に抱えている。緊張のためかすぐに汗をかき、肌寒い秋の空気が心地よいくらいだ。とても上着なんて着ていられない。

 てっきり鱗滝と連れ立って相手と対面するとばかり思っていたのに、鱗滝は一階のロビーで待っていると言うので炭治郎は一人で静かな廊下を歩いている。病室の番号を横目に流していくうちに廊下の突き当りまで来てしまった。一番端の病室のドアの横に聞いていた番号が掲示されていた。その下に「冨岡義勇」というネームプレートがかけられている。相手の実体にいよいよ近いことを感じ、緊張がいっそう高まった。

 コンコンコン、失礼します。深呼吸の後、意を決して戸を叩く。しかしいくら待っても返事がない。もう一度試してみるが返事どころか物音ひとつしない。鼻を利かせてみたが、わずかにする人の気配がその人のものなのか残り香なのか分からない。居ないのか、眠っているのか、気づいていないのか、無視されているのか。このドアを開けてみないことには何も分からないのだ。

「こんにちはー……じゃあ、入りまーす……」

 カララ、とドアをスライドさせると、適温に保たれていた生ぬるい廊下に肌寒い空気がふわりと吹き付けてきた。六畳ほどの広い部屋の奥にベッドが置かれていて、そこに人がいる。身体を起こして窓の外を見ているようだ。軍病院の裏手は丘になっているので、その窓からは木々の紅葉がよく見える。

 まず分かったのは匂い。それから長い黒髪。あまりこだわった様子も無くひとまとめにされている。すっかり固まった炭治郎のほうにその頭がゆっくりと動いて振り返ってきた。きりりと細い眉に目元の涼しさを際立たせる睫毛、静かな瞳。すっと通る鼻梁に小さい口元。伏せられていた瞳がじっと炭治郎に合わせられた。

 その瞬間、情けないことに──炭治郎の腰は抜けた。

 危うく情けなくへたり込みそうになって慌ててドアに縋りついたので、その重みでドアが全開になって鈍い音を立て壁にぶつかった。

 無言だ。炭治郎は何を言えばいいかすっかり分からなくなっていたし、相手もわずかに目を開いて固まっている。どうやら炭治郎の動揺ぶりに驚いているらしかった。早くどうにかしなければ、と思えば思うほどどうしていいか分からなくなる。

「すまない、驚かせたか」

 声まで静かな人だな、体はまったく動かないのに炭治郎の脳は呑気にそんなことを考えている。静かな湖面に波紋が浮かぶような心に染み入る声だと思った。

「入ってこい」
「は、はい……」

 その言葉で炭治郎の体はなんとか動きを取り戻した。ぎくしゃくとドアから離れ、それを慎重に閉ざし、右足と右手を同時に前に出して男に近づき、ベッドの隣で直立した。今の炭治郎を教官が見れば直立不動の手本として褒め称えるだろう。

「俺は冨岡義勇という」

 炭治郎は立っているので、当然に男──義勇は上目で炭治郎を見上げる形になる。見下ろすと睫毛が分厚いことに気が付いた。それがこの目の印象の強さを作るようだ。ドアの前で感じた匂いが今は強い。

「お前は」

 頭がぼうっとして、風邪の時に熱で何も考えられなくなる感覚に似ている。すっかりそんな調子なので、問われているのだと気づいたのは義勇が困惑したような匂いとともに言葉を重ねてからだった。「お前は」──そうか、名前を聞かれているぞ、炭治郎!

「あっ、はい!すみません!失礼しました!竈、煉獄炭治郎です!」
「歳は」
「じゅ、十六です」

 義勇の目がまたほんの少し見開く。小さな動きだが、義勇の驚きの表現らしかった。それからしばらくもせず、小さなため息とともに体の力を抜く。目がまた伏せられた。

「先生は何を考えているんだ……」

 声や顔色は静かなままだが、匂いには呆れが強く、ほんの少しだけ怒った匂いも混じる。後から考えてみると、この匂いを嗅ぐことになることを分かっていて鱗滝は炭治郎に付いて来なかったのではないか、などと気づいたが、この時の炭治郎にそんな余裕は一切なかった。

「お前が煉獄の者なら、何か家の事情があるのかもしれない。だが、お前がそれを大人しく聞く謂れはない。この話は……」
「あのっ」

 分かっていた。目上の言葉を途中で遮るのはあまりにも失礼だ。だがこのままではまた名を聞かれた時のように相手を困惑させると思ったのだ。更には呆れさせるかもしれないし、怒らせるかもしれないし、失望させるかもしれない。それは何故だか嫌だった。

「すみません!緊張しすぎて、全然頭に入ってきません!!」

 だから素直に状況を伝えて謝っておく必要があると思ったのだ。炭治郎は勢いよく頭を下げた。現にもう義勇が何を話しているのか全く理解できず、声と匂いの心地良さで体中がいっぱいになってしまっている。これまで酒など飲んだことはないが、酩酊するとこんな感じなのだろうか。そうだとすれば酒をやめられない槇寿郎の気持ちが分かってしまいそうで怖い。

「ええっと、その!とりあえず、義勇さんって呼ばせてください!!」

 がばりと顔を上げ身を乗り出した。義勇はまた目を見開いているが、今までで一番分かりやすく驚いている顔だった。髪の毛さえ驚きで逆立っているように見える。しかし炭治郎には最早己を止める術が見当たらない。頭が真っ白だった。

「俺のことは炭治郎で構いませんから!お願いします!」

 お願いします、お願いします、何度も懇願したところまでは覚えている。ついには「分かった」と頷かれたことも、あんまり嬉しかったので記憶に刻まれている。しかし恐ろしいことに、それから何をして、何を話し、何をどうしてその場を辞して家まで辿り着いたのか。さっぱり記憶に無いのだ。きちんと鱗滝とあいさつを交わしたかどうかさえ覚えていない。

「お帰りなさい、炭治郎さん」
「あ、うん、ただいま……」

 玄関に呆然と座り込んでいると、炭治郎の帰宅に気が付いた千寿郎が遠慮がちに声をかけてくる。はっとしてのそのそと軍靴を脱ぐ。

「今日はどうでしたか?」
「すごく……その、綺麗な人で、思わず腰が抜けた……それで、」

 そう、綺麗だった。紅葉の窓の中にある義勇は、炭治郎にとってあまりに鮮やかだった。何が綺麗だったかと問われれば、姿なのかもしれないし、居住まいなのかもしれないし、声や所作なのかもしれないし、その全てかもしれない。だが、何より。

「いい匂いがした……」

 がしゃん、と大きな音がして振り返れば、何故が千寿郎の後ろには杏寿郎と槇寿郎が揃って立っていた。千寿郎はきょとんと目を丸め、杏寿郎は顔を伏せてふるふると身を震わせ、槇寿郎は珍しくぽかんとした顔で硬直している。大きな物音は槇寿郎が酒壺を取り落とした音らしかった。

「おい……大丈夫か?」
「大丈夫じゃないな……全然大丈夫じゃない……」

 今の炭治郎では善逸を安心させてやることを何一つ言える自信がない。カレーが乗ったトレーをぐっと押し出してテーブルに伏せる。体中に伝わる鼓動が大きく速い。先週を遙かに凌駕していて、いよいよ死んでしまうのではないかという不安すらする。

「いっぱいいっぱいな音は変わらないんだけどな……」

 変わらない、善逸のその言葉で先週も食堂で交わした会話を思い出した。確かに善逸はこう言ったのだ──年上の別嬪さんが来たって話になったら絶対に絶交してやる。炭治郎はたちまち青くなって善逸の片腕に両手で縋りついた。

「善逸、絶交しないでくれ」
「大丈夫だよ!俺は女の子が好きだから!!」
「いや、すごく綺麗な人なんだ……きっと善逸も見たら分かるから」

 しかし言ってから炭治郎ははたと気が付いた。善逸との出会いは同期の可愛らしい女学生にしつこく声をかけ続けていたので、炭治郎がそれを咎めたからだ。もし善逸が義勇を見て義勇に好意を持ってしまうと同じことが起きるかもしれない。何故だかそれはひどく困ると思った。掴んだままの腕をぐっと握り締める。

「善逸……義勇さんを見ないでくれ……」
「だからあ!!」

 がばりと大きく腕が振り回されて炭治郎は両手を離した。その勢いで体が後方に傾いたが、幸いなことに伊之助は隣に居なかった。カレーの日は一度だけおかわりができるので、それを取りに行ったのだろう。

「それで?そのギユウさんと結婚するわけ」
「分からない……あんまり綺麗で、驚いて、何を話したか全然覚えてなくて……気づいたら家にいたんだ」
「重症だ……」

 炭治郎と善逸、それぞれが違った理由で重い頭を抱えていると、案の定山盛りのカレーライスを手に伊之助が席に戻ってきた。言動は粗野でも食べっぷりが良い伊之助は食堂で働く人々に好かれているようだった。まるで一皿目を食べ始めるかのような勢いでスプーンを突っ込んでいる。

「天ぷらはどうなった?」
「お前はそれしかないの!?」

 善逸は呆れているが、炭治郎には伊之助も伊之助なりに気にかけてくれていることが分かった。それを嬉しく思いつつ、次に何をすべきか炭治郎にも皆目分からないのが実のところだ。朧気な記憶だが、義勇がこの婚姻を嬉しく思っていないことはなんとなく感じている。

「とりあえずは……親しくなろう、と思う」

 だが、それを察して身を引くという選択を炭治郎は取れそうになかった。鱗滝の願いだからということも勿論あるが、何より炭治郎自身が義勇を知りたいと考えている。

「まー、それがいいかもな。よくよく付き合ってみたら変な人かもしれないしな」
「義勇さんはそんな人じゃない」
「何話したかも覚えてないのに?」
「……変な匂いはしなかった」

 善逸の鋭い斬り込みに傷を負いつつも、あれだけの良い匂いをさせた人が悪い人だったなら、炭治郎はもう自分の鼻を信じられなくなりそうだとも思う。返事に炭治郎の固い意志を感じたのだろう、善逸はやれやれと頭を掻いた。

「しょうがないなあ、俺が女の子に声をかけまくって磨いた会話」
「いや、それはいいや」
「断るの早くない!?」

「また来たのか」
「はい、また来ました!」
「懲りないな」
「はい懲りません!」

 初対面の日から二週間、義勇は相変わらず紅葉の窓枠の中で鮮やかに炭治郎を迎える。

 炭治郎は足繁く義勇の病室に通っていた。士官学校が終わったその足で病室に向かい面会時間ぎりぎりまで居座る。同じ軍属の施設だからだろうか、士官学校と軍病院は一駅ほどしか離れていないのが幸いした。当然のように先週の日曜も朝から病室に居座ったし今日もそのつもりだ。鱗滝も誘ったのだが、別の日に会ったからいいと断られてしまった。しかしその答えに安堵している自分もいて、炭治郎は最近、義勇どころか自分自身のことすらよく分からない。

「足は良くなってきた。少し歩きたい」

 義勇がそう言ってベッドから出るべく動き始めたので、近くなる匂いにまごつきつつも炭治郎はそれを手伝った。

 初日はすっかり緊張で舞い上がって気づいていなかったが、義勇の怪我はなかなかの重傷だ。特に左腕は肩から落ちるかと思うほどの大怪我だったらしく、包帯で頑強に固定されていて少しも動かせない様子だ。左足も神経が切れそうなところまで傷ついていたと聞いたが、こちらは順調に回復しつつあるらしい。凄まじい速さでリハビリをこなしていると仲良くなった看護師が教えてくれた。

 義勇が松葉杖に右半身を預けて立ち上がった。炭治郎は特に力をかけずに万一の場合に転ばないように手を添えているだけだ。支えられてはリハビリにならないからと義勇に頼まれたのでそうしている。ぱっと見には分からなくとも、触れただけで鍛えていることがよく分かる体の厚みだ。

 右側を何かから庇うような大怪我。何かの作戦中の事故だろうか。原因を誰も語らないので、炭治郎も敢えて尋ねることはしないでいる。しかしここ何十年も対外的には平和な時代が続いているから、軍の任務は国内警護が主だ。事件や事故の捜査や防止、災害時の救助と支援。そんな活動中にこれほどの怪我を負うことがあるだろうか。

 見上げる義勇の横顔は相変わらず静かだが、思うように動かない左脚を右半身の力で補いながら歩くのはやはり辛そうで、やや眉根が寄っている。炭治郎は白い顎の先をちらちらと気にしつつも前方の安全を確認してながら供をした。

「お前は」

 清々しい秋晴れだが、朝の肌寒さのせいか庭に人影はない。どこか湿ったように感じる冷えた空気の中、その清涼な空気によく馴染む声が心地よく響く。炭治郎はぽうっと義勇の次の言葉を待った。

「よく俺を見ているが」

 そう言って義勇は炭治郎を見下ろす。庭の銀杏の木々も黄色い葉をつけていて、それを背にした義勇を真正面から受け止める形になる。しかも手を添えるほどの近さで。義勇の瞳はよく見ると黎明に凪いだ海のように深い青色をしている。

「何か面白いか?」

 一拍遅れて義勇が何を指摘したか気づき、炭治郎はかっと耳が熱くなるのを感じた。ついつい義勇の顔や姿をまじまじと眺めていることに当然本人は気づいていたのだろう。だが、楽しい楽しくないなどという理屈や理由のある話では最早ないのだ。何か糸に引かれるようにして眺めてしまう。そしてそれを、そのまま永遠に続けていたいと思ってしまう。しかしそれを思うままに口に出すこともできず、何度もまごつきつつ炭治郎はなんとか言葉を探し当てた。

「俺たちは、結婚するかもしれないんですよね」

 結婚、その言葉を口にするだけで炭治郎の心臓は大きく跳ねるというのに、義勇の表情も匂いもひとつも揺れない。ただじっと炭治郎の次の言葉を待っている。

「それなら、俺も義勇さんを知りたいし、ちゃんと知ってもらわないといけないので」

 義勇はまだじっと炭治郎を見下ろしている。今ひとつ何を考えているか分からない顔だが、匂いにはわずかな戸惑いを感じた。

「本気で言ってるのか……?」
「はい!」

 間髪を入れずに腹から返事をすると、無人の庭に大声が響き渡ってしまった。義勇の困惑の匂いが深くなり、ふいと目が逸らされる。何かを探すように視線が流れ、銀杏の木の下のベンチを見つけて止まった。

「……そこに座る」
「はい!」

 落ち葉で松葉杖が滑らないかを気にしつつゆっくりと進み、ベンチに腰を落ち着ける。ひやりとした冷たさが尻から這い上ってきた。あまり長居は良くなさそうだ。義勇に万一にも風邪などを引かせるわけにはいかない。昼過ぎにまた来ませんか、そう相談しようとして義勇が何か話そうとしている空気を感じてやめた。こういう時はこれまでにも度々あった。恐らく言葉を探すための沈黙なのだろう。義勇はそういう時じっと炭治郎を見つめるから、静かな海のような瞳が美しくて炭治郎はどぎまぎする。早く話を終えてほしいような、いつまでも悩んでいてほしいような。しかし義勇は炭治郎のそんな相反する心地など知るはずもないから、あっさりと口を開いた。

「よく聞け。俺は二十一歳で、お前より六歳も上だ。上背もお前よりあるし、そもそも男だ。生家もない。天涯孤独だ。多少の貯えはあるが、煉獄家ほどじゃない。この話、お前に損しかないんだぞ」

 言い切った後、義勇からは満足したような匂いがする。しかし炭治郎としてはきょとんと目を瞬くしかなかった。義勇が何を言っているか、心の底からよく分からない。首を傾げて言葉を返した。

「……俺も義勇さんから六歳も下で、これから伸びますけど義勇さんよりチビです。俺も男だし、杏寿郎さんがたまたま気に入ってくれただけの養子です。俺にはいくらの貯えも無い。義勇さんには何か得があるんですか?」

 純粋な疑問だったが、義勇にとっては意外の言葉だったらしい。今度は義勇が目を丸めている。そうして見つめ合っていると、なんだかおかしな気持ちになってきて、炭治郎はやっと少しだけ緊張から解放されて笑みを零した。義勇のほうは炭治郎の笑みの意味が分からないのか怪訝げな様子だが。

「せっかく会ったんだから、俺たちは。俺はもっと義勇さんを知りたい。知ってからどうするかを決めたいです」

 話しながら、炭治郎自身の気持ちも固まっていくようだ。互いに相手がどのようなものを身に着けているかは大した問題ではない。長く続く付き合いなら重要なのは中身で、炭治郎も義勇も互いに互いのことを何も知らない。

「俺も鱗滝さんに基本の体術を習ったんですよ!だから、受け入れ難いことがあるなら、まずは俺を弟弟子と思ってくれたらいいですから。それで、義勇さんも俺を知ってください」

 なんだか義勇との付き合い方にひとつの目標が見えてきて、炭治郎の心は不思議に軽くなった。義勇を知る。炭治郎を知ってもらう。そうしていつかは、炭治郎と同じように義勇にも「知りたい」と思ってもらいたい。

「ね!」

 笑顔でぐいと身を乗り出す。義勇は困惑の匂いを纏わせたままだが、もう驚いてはいないようだった。やはり義勇からは不思議ないい匂いがする。一体何がこんなに美しく香るんだろうと思っていると、義勇が右手を持ち上げた。そこにしっかりと重ねられている炭治郎の両手も一緒に持ち上げられる。

「癖なのか?」
「えっ!?」
「また握ってる」
「わ、わあっ!!」

「善逸……俺は全然大丈夫じゃない……」
「うん、そうだな」

 炭治郎が麻婆豆腐が乗ったトレーを遠ざけてテーブルに伏せると、呆れた調子で善逸が答えた。善逸は辛いものが嫌いではないのにあまり得意ではないので、伊之助から皿を死守するように抱えながらちびちびレンゲを口に運んでいる。

「まあでも中年のオッサンみたいなこと言ってたお前にも少年の心があるって分かって俺は安心してきたよ」
「もう俺は……俺が分からないんだ……義勇さんを前にすると何も分からなくなる……」
「お前をそこまでにするギユウさんってほんと何者なんだろうな。癪だけど気になってきた」
「善逸には……見せない……」
「はいはい」

 結局日曜日は一日中義勇のリハビリに付き合っていた。リハビリというよりもむしろトレーニングに近いそれに集中する義勇の横顔を、やはり炭治郎は飽きずに眺めていたのだった。無心で機能回復に打ち込む義勇は炭治郎にとって慕わしく、尊敬でき、そしてやはり綺麗に映るのだ。

 ただ義勇には人と関わったり話したりすることが得意でない節がある。善逸は炭治郎にとって気のいい親友だが、いきなり引き合わせると義勇を困らせるかもしれない。だからまずは炭治郎が義勇と親しくなってから善逸や伊之助を紹介するのがいいと思っている。他意はない。ないはずだ。

「安心しろよ。俺はモテそうな男を見たら怒りしか湧かないから」
「そ、そうか……」

 あまりに乾いた匂いに思わず顔を上げてしまった。どこか虚ろな目をした善逸は教官の一人である宇随に三人もの美しい嫁がいると先日知ってから時々こんな顔と匂いをする。あまり刺激すると言葉通りに怒り出すので、この匂いを嗅いだ時はさり気なく話題を変えるようにしていた。

「義勇さんともっと親しくなるにはどうしたらいいんだろう……」
「なんだそんなことでぐだぐだ言ってんのかぁ!?これだから勘次郎は」
「今日のはだいぶ近いな……」
「勝負だよ勝負!殴り合え!戦え!」
「……で、それで何が分かんの」
「強さにきまってんだろうが!」

 びしり、伊之助は小鉢のシュウマイを掴んだままの箸で妙なポーズを決めている。善逸がこれ見よがしなため息を吐いて大きく首を横に振った。

「まあそんなこったろうと思ってたけどさーあ」
「あ゛あ゛ん!?」
「そうか、なるほどな……修行か……俺に足りないのは修行なんだな、伊之助……」
「ちょっと!だめだって真に受けちゃ!」

 善逸の両手が力強く炭治郎の両肩を掴んだ。何も伊之助の言を丸呑みにしたわけではないが、義勇が体をよく鍛えていて強いことは見ていてよく分かる。少なくとも身体的に強くなっていかないと信頼を得ることは難しいに違いない。

「こういうのは奇をてらっちゃだめなんだよ!映画見て!暗闇であの子の横顔にドキドキして!手繋いじゃったり、ちゅ、ちゅーしちゃったり!?とにかく、」
「ああ、ありがとう善逸」
「聞いてた!?聞いてないよね俺の話をさあ!!時々お前俺にめちゃくちゃ雑じゃない!?」

 聞いていたが、今はどちらかというと義勇の信頼と好意を得られるような自分を目指したい気持ちのほうが強いのだ。ここ二週間という短い付き合いだが、義勇と親しくなるための近道はあまりなさそうだと感覚で悟っている。

 ──でも映画か。もし義勇さんとそんなとこに行ける日が来たら、天にも昇る気持ちになるんだろうなあ。

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