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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 炭治郎はいい奴だ。本当にいい奴だ。善逸が失敗続きで惨めで情けなくなって努力を諦めてへこたれた時、炭治郎も他の人と同じように怒ったり呆れたりしながら置いてくなんてのはしょっちゅうだ。けれど、気づくとふっと、両手いっぱいに善逸のいいところを見つけて笑顔ですぐ近くまで戻ってきてくれている。炭治郎はそんな奴だ。こんなに優しい音をさせる人間に善逸は出会ったことが無い。泣きたくなるくらい柔らかい心の音なのに、いつも人のことばかりで、一生懸命で。寂しい音を気を付けないと聞こえないように隠していて、それすらもきっと人のためにやっている。こういう奴が幸せにならなきゃだめだろうと思う。善逸にできることなんてたかが知れているだろうけど、炭治郎に手を貸せることがあるなら手を貸してやりたい。何せ、初めてできた友達の一人なのだから。

 しかしだ。最近の炭治郎の音は、こう言ってはなんだけども──そういう気持ちを半減させてくる。

「炭治郎、なんだか嬉しそう」
「えっ」

 ああ、そこで聞いちゃうか。まあ、聞いちゃうよな。うん、分かる。カナヲちゃんは悪くないよ。全然悪くない。今日も笑顔がかわいい。以前は人形みたいに決まった形をなぞって笑っているだけに見えたのに、最近ははにかんだように笑うのがいい。よく喋っているところを見るようになったし益々かわいい。女の子はみんなかわいいよな。なんたって女の子一人につきおっぱい二つお尻二つ太もも二つついてる。すごいよな。

 情報技術科の暗号解析の試験で仲良く赤点を取った善逸、炭治郎に伊之助は、担当教官から山ほど課題を出されていた。この試験は例年赤点を出す者が多いことで有名で、同期も大半が同じ課題を受け取るはめになっていた。ところがカナヲと玄弥はこれを易々及第していたので、善逸たちは二人に泣きつくことになったのだった。午後の基礎操練のしごきをなんとか切り抜けて放課後の図書室に集まる。六時半、冬の窓の外はもう真っ暗で寒々しい。図書室の中は暖房が効いているけれど、足元では冷気が周遊している。

「俺ってそんなに分かりやすいかな。善逸にも朝、顔を見るなり言われて。善逸は音で分かっただろうと思ったんだけど」

 実際に歴史上使われた暗号の資料と課題とを机に並べて突き合わせていた炭治郎は、照れたように鼻のあたりを指でなぞった。真面目にやっているように見えるけれど、さっきからずっとソワソワソワソワ、風に波立つ水面みたいな音が耳についている。ああ、分かっているとも。音から「も」もちろん。

「お前、音痴なのか?」
「えっ」
「音外れてるぞ。鼻歌」

 音どころか鼻歌が漏れていることにすら気づいていなかったに違いない。玄弥のぶっきらぼうな言葉に炭治郎は気まずげな笑みを深めて頬を赤くする。それにしても鼻歌が校歌なのが炭治郎らしい。測量科の講義で演習問題を解かされている時、鼻歌を叱ろうとした教官も困った顔と音をさせていた。普段が真面目なだけに余計に目立っている。

「恥ずかしいな。全然気づいてなかったや」
「どうせいつものあれだろ。牛丼さん」
「誰だそれは!義勇さんだよ!」

 課題に全く興味を示さず、椅子をどれだけ傾けてバランスを保てるかで遊ぶという小学生のような真似でカウンターの職員から白い目で見られている伊之助がいつもの調子で言って、炭治郎も律儀に訂正する。ぎゆうさん、カナヲと玄弥が首を傾げているが、ただ聞き慣れない名前に疑問を持っただけだろう。善逸のように、その名を呼ぶ時だけ炭治郎の音が変わることには勿論気づいていない。

「うん、義勇さん。義勇さんはな、ええっと……義勇さんは俺の……俺の……?」

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの明るい笑みが次第にあいまいな表情になって、最終的には考え込むように眉根が寄る。困ったような視線が炭治郎から流れてくるが、もちろん善逸も知るわけがない。最初に持ち込まれた話からすると婚約者だろうが、今のところは互いに様子見をしている段階らしいから正式なものとは言えない、などと真面目に考えているんだろう。しかしただの知人だとは言いたくないに違いない。最近はもう何をしていても一に義勇さん二に義勇さんだ。

「兄弟子さんだったっけ?」「大切にしたい人、かな」

 声が重なったので善逸は思わず半眼になるしかない。せっかく何かいい言葉を見つけるきっかけになるかと思って助け船を出したってのにお前ってやつは。炭治郎は赤い顔のまま焦った様子で、そう、そうなんだよ鱗滝さんの元に居た人でだとか何とか言っている。白々しい。もうそれって答えじゃない?と善逸としては思うわけだ。そんな顔で大切な人だなんて言われたら連想できる感情はとても限られてくると思うのだが。

「へえ、炭治郎の兄貴分なのか」
「そっか。炭治郎を動かしているのはその人なんだね」
「源次郎の親分は俺だけどな!」

 良かったよな!ここに居る奴らがみんなお前みたいにきれいな心の持ち主でさ!!

 炭治郎は善逸のジト目に気付くこともなく、掻い摘んで「ギユウさん」との事情を説明した。恩人である鱗滝の弟子の一人で、縁談が持ちかけられたこと。炭治郎は煉獄家の養子だが、むしろだからこそ婚約について考えてみたらどうかと勧められたこと。会ってみるととてもいい人で、婚姻のことはさて置いて是非とも仲良くなりたいと思ったこと。年上の軍人で、強くて、真面目で、優しくて、綺麗で、いい匂いがして。段々おかしなことになってきてるぞと善逸は思ったのだが、他の三人はやっぱりそれに気づいていないようだ。初めこそ玄弥は男同士の縁談の話に驚いているふうだったが、幼年組のカナヲが古い家では珍しくないことだと説明して納得した。その後はひたむきに義勇を慕う炭治郎の様子を微笑ましい様子で見守っている。

「うーん……お兄さんと言うと少し違うと思う。それに確かに、義勇さんのおかげでもっと頑張らなきゃって気持ちにはなるんだけど。それだけじゃなくて、こう……なんだろう。義勇さんにも俺のことを考えてほしいと思うんだよな」
「それは、兄貴に対する気持ちとは違うのか?」
「違うんじゃないかなあ」
「姉さん、……みたいな人に対する気持ちとも違う?」
「違うと思うけど……俺は長男だからなあ」

 俺は長男かどうかも分からない孤児だけど間違いなく違うと断言できる。音が全然違うから分かる。

 善逸はとうとう口を挟もうかと思ったが、炭治郎の言葉に「これじゃ私たちも炭治郎の妹と弟みたい」とカナヲが小さく笑って、これが可憐なので口を噤み、玄弥が嫌そうな顔をする横で伊之助がいや兄貴は俺だねと勇ましく声を上げ、職員に図書室では静かにととうとう叱られてしまった。四人して首を竦める。伊之助だけが一人、堂々と椅子を傾けていて全く悪びれた様子がない。いつもながら感心する。

「どうしてこの話になったんだっけ……」
「炭治郎が嬉しそうって話だろ」

 ポソポソと呟いたカナヲに玄弥が同じくボソボソと答えて話が戻ってきてしまった。炭治郎はまたそよ風に揺れる草木みたいにソワソワした音をさせながら鼻筋を指でなぞる。照れているように見えて、話したくてたまらない気持ちを隠しきれていない音だ。

 課題をそっちのけで、炭治郎が擬音豊かに語ったコソコソ話をまとめるとこんな感じだ。

 義勇さんは、それはもう疲れた匂いをさせていた。部屋に入った瞬間分かるくらいだ。

 日曜日、見舞いに訪れたところで鱗滝さんと鉢合わせて大喜びで一緒に行きましょうと腕を引くと、何故かすまないなと謝られてしまった。何がですかと聞いたのに答えが珍しくハッキリしない。匂いもすまなそうな匂いがするだけでよく分からない。とにかく俺としては嬉しいだけだから、大丈夫ですよと声をかけ、その背を押して義勇さんの病室に一緒に入った。

「あっ、炭治郎さんこんにちは!」
「こんにちは!見てください!」
「みんなで作りました。早く治るようにって!こっちは冨岡さんが!」

 どこかぐったりして見える義勇さんの代わりに返事をしたのは、窓から入る冬の日差しを背にして満面の笑みを浮かべている三人の女の子たちだ。名前を順にすみちゃん、なほちゃん、きよちゃんと言う。しのぶさんが面倒を見ている小学生で、放課後は病院にやって来て簡単な仕事の手伝いをしている。そしてこの小さな看護師たちの今の仕事は義勇さんの見守り──義勇さん風に言うと「監視」だった。学校から帰るなり義勇さんの病室に駆け込んで、義勇さんのベッドの周りで色々と手伝いをしたり話したり宿題をしてそれを見てもらったりしているらしい。ちょっと羨ましいと思うけど、さすがに子供っぽいだろうから黙っている。

 朝から元気な三人娘が両手に乗せているのは色とりどりの小さな折り鶴だ。みんな手先が器用だからかどの鶴も凛と羽を張っているけれど、きよちゃんが片手に乗せて持ち上げた青色の鶴だけはちょっとだけ傾いていた。神経が損傷して一時は指先さえ動かない様子だったのが、鶴を折れるまでに回復したらしい。ただ骨折の完治までギプスでの固定は必要だから細かいところまではうまく折れなかったんだろう。わあ、凄いですね。できるだけ丁寧に鶴を両手に納めて頭のあたりを指でなぞる。ちょっとそっぽを向いているのがなんだか義勇さんらしい。

「炭治郎さんが来たので行ってきます!」
「炭治郎さんが来たら交代ですから」
「またお話ししてくださいね!たくさん!」
「うん、話そう。行ってらっしゃい」

 はーい、元気な返事が重なって耳に心地よい。鶴をサイドボードに置き、義勇さんに口々にお礼と挨拶とをして三人娘が部屋を出ていく。この小さな看護師たちは真面目でしっかり者で何より可愛らしいので、どの科でも人気者で忙しいらしい。義勇さんを妬んでいる人もいるかもしれませんよ、と言った時の義勇さんの顔を思い出して笑いそうになる。笑って、またムッとさせたくないからなんとか我慢した。

「疲れてますね」

 それでも笑いを堪えているのが分かるのか、義勇さんは鶴みたいにそっぽを向いて小さくため息を吐く。以前、自分は弟妹が居たことがないから扱いが分からないとぼやいていた。そんなに悩まなくても三人娘はすっかり義勇さんに懐いているのに、真面目な人だなと思う。それで、そういうところが好ましいなとも。

「これ、俺がもらってもいいですか?」
「持って行くならこっちからにしろ」

 驚いたように義勇さんの顔が戻ってきてサイドボードから赤色の鶴を持ち上げたので、首を横に振った。それは三人が義勇さんのために折ったものだから。それに。

「俺は義勇さんが折ったのがいいんです」

 両手に乗せた鶴を見せるようにして笑うと、義勇さんは眉を少しだけ寄せた妙な顔になった。しばらく俺の顔をじっと見て、それから諦めたように勝手にしろとだけ言う。ありがとうございます、と返す声が自分でも分かるくらい嬉しさに弾んでいた。これも子供っぽいだろうかと照れくさく思っていると、ゴホンと咳払いの音が背後からする。そうだった、鱗滝さんが後ろに居たんだった。何故だか益々照れ臭くなりつつ鶴を両手の中に納めたまま一歩下がって鱗滝さんに並ぶ。

「今日は用があって来た。すぐに帰る」
「先生はいつもすぐに帰りますが」

 沈黙。気まずい。義勇さんの声はいつもと何も変わらないけれど、ほんの微かに責めるような匂いが鼻先を掠めている。きっと鱗滝さんも同じ匂いを嗅いでいるだろう。これまで鱗滝さんと義勇さんが一緒に居るのを見かけたのはほんの数度だ。でもなんとなく義勇さんは鱗滝さんにだけはいつも「こう」だというのが分かってきている。遠慮が無いと言うかなんと言うか。「左近次は義勇の父代わりだから」というお館様の言葉を思い出す。

「そ、その用と言うのは……」

 微笑ましい気もするけれど、やっぱり気まずいので悪いとは思いつつ声を上げた。するとまた鱗滝さんはゴホンと咳払いをしてひとつ頷いた。丸椅子を勧めたがお前が座っていいと肩を押さえ込まれてしまった。逆らわずに座って鱗滝さんを見上げる。

「荷物のことだ」
「にもつ」

 怪訝げにオウム返しした義勇さんに向かって、鱗滝さんは話を繋げた。お前の住んでいたアパートは鬼にやられただろう。始末は軍部で行われたが家主と揉めたらしくてな。お前の家にあった物はひとまず儂のところに置いてある。お前の退院も近いと聞いているがどうするかと思ってな。義勇さんは目を見開いて鱗滝さんの面をじっと凝視したまま動かなかったけれど、やがて瞬きを取り戻して深いため息を吐いた。すみませんでした、それならしばらく先生のところで──多分世話になりますだとかそういう言葉が続いたはずだと思う。それを鱗滝さんが止めた。いや、待て。

「この話は少佐殿の耳にも入ったらしく」
「……なぜ」
「儂に連絡が来た」
「だから」
「それなら、炭治郎も居るしうちに来るのが丁度いいのでは、と」
「どこが」

 義勇さんは心なしか途方に暮れた顔をしている。やっぱり鱗滝さんにだけ義勇さんは「こう」だ。ちょっとだけ幼いと言うか、なんと言うか。そんな意外なところを知れるのは嬉しく思うけれど、こういうことを落ち着いて考えられるようになったのは随分後になってからだ。その時はもう、鱗滝さんの言葉の衝撃を受け止めるのでいっぱいいっぱいだったから。

「義勇さんが、義勇さんが……うちに!?」

 義勇さんの途方に暮れた目が俺に向いた。困ってる匂いや戸惑っている匂いが確かにしていた。それは分かっていたけれど、どうしても喜びを隠しきれなかった。よくぞ鶴を握り潰さなかったと自分を褒めたい。暖房が効いた部屋の中、頬や襟元がポカポカと熱い。

「義勇。荷物のことだが、どうする」

 鱗滝さんの言葉に、義勇さんはいよいよ退路を塞がれた匂いになっていた。かわいそうだったかな、もっと義勇さんがどうしたいか聞くべきだったかな、という感想も後になってから生まれた。その時はとにかく、鱗滝さんの話に渋々頷く義勇さんに抱き着かんばかりに喜んでいた。

 はい、炭治郎の話ここまで。良かったね、良かったな。カナヲも玄弥も口下手なところがあるようなので言葉は簡単なものだが、どちらも心から炭治郎の嬉しそうな様子を喜んでいる。

「それから俺はもう、ずっと地に足がついてる感じがしないよ。義勇さんは本当に凄いんだ。俺にとって、いつも」

 今も夢じゃないかと思うくらいフワフワしてて、と炭治郎が照れたように笑う。つられてカナヲがクスリと小さく笑い、玄弥が呆れた笑みを口元に滲ませた。そうだなお前の音、ずっと落ち着かないもんな。クリスマスと言わずもうずっとだ。「ギユウさん」と初めて会った日からずっと。

「それでその、義勇さんはいつ来るの?」
「二十四日だよ。だからなんだか、義勇さんがサンタクロースみたいだなって」

 あんまり子供っぽいから言えなかったんだけど。

 赤面する炭治郎の言葉に、とうとう善逸は耐えられなくなった。食堂の麻婆豆腐が食べたい。今無性に食べたい。学生向けなのに辛さに全く手加減が無い、豆腐が潰れがちでトロトロした麻婆豆腐を舌の痺れと戦いながら食べたい。じゃないとやってられない。

「なんか、こう……俺だけ!?俺だけなの、これ……!?」
「善逸?どうしたんだ?」

 どうしたじゃないのだ。ものすごくモヤモヤする。今だけじゃなくずっとモヤモヤしている。善逸と炭治郎だって一年にも満たないほんの短い付き合いだ。でも、一緒に苦しい訓練を切り抜けてきた同期なのだ。炭治郎はいつも優しくて親切で善逸を見捨てないでいてくれるいい奴だ。幸せにならないといけない奴だ。それを、急に出てきた「ギユウさん」はちゃんとできるのだろうか?すっかり義勇に参っている炭治郎からの話だけじゃ全然そのあたりが分からない。

 それにだ。善逸は女の子が好きだ。だから全然羨ましくはない。羨ましくはないけれど、女の子を好きなだけじゃなくどうせなら好かれたいし、一緒に楽しくお話ししたり手を繋いでデートしたりしたいし、あわよくばチュウとかもしたい。なんだかこのままだと炭治郎に全部先を行かれそうじゃないか?こんなに四角四面で真正面しか歩けませんみたいな奴に。羨ましくはない。全然羨ましくはないが、正直妬ましい。

「ウィッヒヒヒ……」
「な、なんだ善逸いきなり……」
「押しかけてやる……炭治郎、お前んちに伊之助と押しかけてギユウさんを囲んで男だらけのクリスマスパーティだ……冬休みだし丁度いいだろ?」

 どうせ二人っきりの楽しい時間とやらを満喫するんでしょうけど!

 要らぬ心配で善逸たちを義勇に引き合わせるのを嫌がったような奴だ。分かってはいるが呪詛を吐くくらいは許されたい。さて、少しは困った顔でもするかと思って炭治郎を見てみれば、驚くほど明るい表情をしているし、音が跳ねるように軽やかなものに変わった。

「いい考えだな、それ!杏寿郎さんたちに相談してみるな!」

 どこがだよ!クリスマスだぞ!?なんか、こう、二人っきりで仲深めたりとかなんかしろよ俺にもよく分かんないけどさあ!全然いい考えじゃないよ!なんでお前ってやつはこういう時だけ鼻利かないのかな!?やめて、楽しみだなあっていう音させないで!玄弥とカナヲも来ないかじゃないよ!伊之助、何が食える?じゃないんだよ!そうじゃないからさあ!!

 などと考えつつも初めての友人とのクリスマスパーティに期待してしまう自分も居て、一人胸中に罪悪感の嵐を抱える善逸をよそに、予定は着々と組み立てられていく。当然ながら、課題は全く進まなかった。

 溢れ出る生命の活気が滲んだかのような赤みを帯びた髪、強い光に満ちる鉱石のような瞳。すぐにそれが探し人だと分かってロビーのソファから立ち上がった。何も言わない内にそれをひとりでに悟ったことが不思議なのだろう、怪訝げな表情で愈史郎が後に続く。

「すみません」

 エントランスの自動ドアに駆け込み、つんのめるように減速して先を急ごうとするその横顔に迷わず声をかけた。足を止めこちらを振り返った少年はぽかんと口を開けてこちらを見つめている。すっかり冷えた冬の夜の外気に晒されていたためか、頬が心なしか赤い。少年らしいその様に心が和んで笑みを浮かべる。

「わっ痛っ」
「見るな。本来はお前の腐った目なんかが映していいひとじゃない」

 すると背後にいたはずの愈史郎がいつの間にか前に飛び出して平手でピシャリと少年の目元を打っていた。慌ててその肩に手を置いて咎める。本来は心の繊細な優しい青年のはずなのだが、どうも人見知りの気があって、いくら言い聞かせても見知らぬ相手に攻撃的になってしまう。

「愈史郎」
「はい!珠世様!」

 返事は素直なものだが全く悪びれた様子が無く思わずため息が漏れ出てしまった。目の下のあたりに手を添えたまま、何が起こったさっぱり分かっていない様子の少年に申し訳なく思いつつ目を合わせる。

「ごめんなさい。驚かせてしまいました。今日はお礼が言いたくて来たというのに」
「お礼?」
「愈史郎に声をかけてくださったと聞きました」

 ゆしろう、うわ言のように呟いた少年は剣呑な視線を送る愈史郎をまじまじ見て、ああとひとつ声をあげた。

「あの時君が待っていたのはこのひとだったのか。でも俺は声をかけただけ……」

 言葉が止まる。声をかけただけで終わらなかったことにきっと後から気が付いたはずだ。そこかしこにあったはずの生傷が綺麗さっぱり消えていていたらおかしいと思わないわけはないのだから。けれど、この少年はたった今それを思い出したかのような顔をしているので戸惑ってしまう。今度は愈史郎が大仰にため息を吐いた。

「だから言ったんです珠世様。こいつは愚か者だから深く考えもしないだろうと」
「愈史郎」

 照れ隠しなのかもしれないが、どうしてこうも乱暴になってしまうのか。眉を顰めて咎めるが困ったことに全く応えた様子が無い。どうしたものかと思っていると、少年が気分を悪くしたふうもなくおずおずと声を上げた。

「あの、聞いてもいいでしょうか。貴女がたは『何』なんでしょうか?」

 こうなることは分かっていた。この少年は鼻が利く。愈史郎が人でないことにもすぐに気が付いたのだと聞いた。極力目立つことを避けるべき身の上で、予科生とは言え軍部に近い者に接近することは危険だ。愈史郎にも何度も止められた。しかしこうして「また」縁を重ねて愈史郎を救われたなら、どうしても直接会わなければと思ってしまった。

「場所を少し移しましょう」

 緊張した面持ちで頷く少年と連れ立って病院のロビーを移動する。もう面会時間も終わりが近い夕刻だが、大画面のテレビの前に人が集まっている。どうも何かスポーツの大会が放映されているらしく、特別に多少のお祭り騒ぎは容認されているようだった。おお、とかわあ、とか声を重ねている人々の隅に隠れるようにして柱沿いのベンチに腰掛ける。少年の隣に腰掛けようとしたところ、愈史郎が入って来て真ん中を陣取った。

「貴方はあの日、ここで鬼を見た。そうですね」
「珠世様?」

 愈史郎の制止を聞かず少年だけをじっと見つめる。遠くから歓声が響く中、少年は静かにひとつ頷いた。

「信じてもらえるか分かりません。まったく突飛な話に聞こえるでしょう」
「貴方たちからは信頼できる匂いがします。だから、信じると決めました。決めたからもう、俺は疑いません」

 黒い鉱石のような瞳には赫い光が秘められている。見る者にこの少年のまっすぐな心を疑わせない、どこまでも澄んだ瞳だ。遠い昔に見た色が自然と想起されてぴったりと重なった。

「変わりませんね、貴方は」

 思わず笑ってしまったが、きっと「今の」少年には何のことだか分からないだろう。以前どこかで、と困惑した様子の少年には構わずに珠世は口を開いた。

「鬼が何故人を殺すか分かりますか」
「いえ……」
「飢えるからです。鬼は人の血肉を喰らう。かつての同胞をただ食い物のようにしか思わなくなる。それが鬼です」

 珠世を見つめたまま呆然としていた少年の顔が次第に青くなり顰められていく。鬼が人の血肉を食らうこと、そこに理由などないこと、かつては人であったものの成れの果てであること、どれも人に受け入れざる大きな衝撃と強い厭悪の念を抱かせるだろう。

「私たちは人の血、それが少量あれば生きていけます。幸い、摂取も触れるだけで事足りる。……それを鬼と呼ばないかどうかは分かりませんが」

 鬼と同じように人から何かを奪わなければ生きていけないことは変わらないが、結果的に人を癒すことにもなるのが皮肉だった。「以前」から重く背負う己の業を思えば尚更だ。

「違う、と思います。鬼からはもう人の匂いがしない。鼻が曲がりそうなひどい匂いだけがする。だけど、貴女たちは」

 鼻筋に指を当てる少年には少しも珠世たちを嫌悪したり軽蔑したりする様子はない。やはりこの少年はいつでも変わらない。目を伏せてひとつまた笑い、そして表情を引き締めて顔を少年に戻した。だからこそ、珠世には伝えておかなければならないことがある。

「鬼は血で増えます。傷口に鬼の血を浴びて増える。そして藤の花をひどく嫌う。近寄れもしないのです。本来は」

 この病院は鬼殺隊の者たちが収容されるので、藤を使った強固な守りがあるはずだ。しかし、鬼は病院の中にいた。そして鬼殺隊の者を狙った。話がそこまで至った時、少年の顔はたちまち硬くなる。珠世が言わんとするところをもう悟っているようだ。

「ここには何かがある。そして、貴方の親しい方が危険に晒されているかもしれない」

 目を見開いて立ち上がったその腕を愈史郎が咄嗟に掴んで止めてくれた。きっと珠世の意図を察してのことだろう。

「ひとまずは大丈夫だと思っています。鬼が出てからは藤を使った守りが院内にも施してある。相変わらずあのお嬢さんは聡明ですね」

 珠世の言葉に少年はとても納得しきったようには見えなかったが、愈史郎の手を振り切って走り去らないでいられるほどの冷静さをなんとか保っているようだ。青い顔でじっと珠世の言葉を待ち受けている。

「私もかつては鬼だった」

 見開かれる目に力なく笑みを返すことしかできない。珠世も他の鬼と何も変わらない、人の心を忘れ去って血肉を貪るどうしようもない化け物だった。そしてただただ、愚かな女だった。あんな男の甘言に乗って鬼に変じ、自ら何もかも壊すようなどうしようもない弱い人間だった。

「鬼は滅びたはずなんです。私も『大元』諸共滅びるはずだった」

 塵になって、未来も来世も無くこの世から痕跡さえ残さず消える。それで全てが終わるはずだった。もしかするとそこに幸せさえ見出していたかもしれない。だからこそなのか、そこで珠世の生は終わらなかった。

「けれど業の深さのためでしょうか、またここに人ならざる者として戻りました。同じことが『大元』にも起きているというなら私が──私こそが、必ず見つけなければ」
「……なぜですか?」

 躊躇うような問いは「以前」にも覚えがある。やはり同じように、そこには珠世のことを慮る気配さえあるのだ。変わらない優しさにやはり笑みを返してしまう。この少年を前にした誰もがきっとそうするように。

「この因果に感謝しているから」

 あの男を憎む気持ち、多くの犠牲に報いたい気持ちが強いのは確かだ。しかしきっとそれだけではなかった。

 『ここ』で同じ魂を持つ人を見つけることができた。遠くからその幸福な生を見送り、繋がっていく子供たちを今も見守っている。消えるはずもない罪の重さに苦しく喘ぎながら、人の短い一生を儚みながら。

 決して触れられないけれど、それでも、それでも私は幸せを感じている。

「そしてまた、この子にも会えたから」

 隣にある背に触れた。珠世とは違い何の咎も無い子供だ。明るい世界で人の世を謳歌すればいいのに、また目敏く珠世を見つけ、この背を追わせてしまった。何より申し訳なく思うのは、それを嬉しいと感じてしまうことだった。

「良かった、珠世さん」

 優しい声だ。そして、きっと錯覚だろうけれど、何かを懐かしむような笑みのように見えた。市松模様の羽織姿が懐かしく思い出されて、目元が少し熱くなった。

「ええ、炭治郎さん」

 ぱちりと丸い瞳が驚きに見開かれたが、炭治郎は何も言わずに表情を再び笑みに崩す。「以前」からの不思議な縁の重なりから、もしかすると何かを感じ取ったのかもしれない。

「気安く呼ぶな!」

 掴んだ腕を放して炭治郎を乱暴に突き飛ばした愈史郎は、鬼気迫る形相──しかし何故だか茹蛸のような真っ赤な顔で振り返り立ち上がった。座ったままの珠世の腕をぐいぐいと引く。

「珠世様もう行きましょう!礼ならもう充分過ぎるほどしたはず!」
「愈史郎、どうしてそう乱暴をするの」
「乱暴ではありません!駆除です!」

 愈史郎、咎めるように呼んだ名前には返事があるだけだ。引きずられるように立ち上がり謝ろうと口を開いたが、炭治郎の言葉が先に飛び出していた。

「そうやって好きな人を困らせるのはよくないと思う」

 炭治郎は真剣な表情で愈史郎を見つめている。対する愈史郎は赤い顔のまま体の動きを止めてしまった。照れ屋なところは相変わらずなので、珠世を母のように慕う愈史郎には恥ずかしい指摘なのかもしれない。

「俺も一緒だから気持ちは分かる。好きな人のためにとにかく何かしたくて、気持ちだけが前に出て。でもそれが却ってその人を困らせることもあるんだ。俺も何度も失敗してしまったから、分かるよ」

 炭治郎がずいっと前に出たが、愈史郎は先ほどまでの勢いをどこかに放り出してしまったようだ。「す」だとか「な」だとか言葉にならない言葉を上げて俯いている。

「でも……俺はあの人を支えたい。そしてあの人に支えてほしい。ちゃんとわかり合いたい。そういうふうにあの人を好きでいたい。君も俺と一緒じゃないのか」

 ひたむきに、幼い純粋さで人を慕う姿が炭治郎らしい。微笑ましく思っていると、愈史郎がついに動いた。がしりと炭治郎の両肩を掴んでいる。珠世から表情は窺えない。

「お」
「お?」
「お前のようなガキの浅慮と俺を一緒にするんじゃない!!」

 俺はお前なんかより遙かに年上だとか、お前の軽薄な感情で俺を量るなだとか怒鳴るように言い募るので、さすがにちらちらと視線を感じ始めている。愈史郎、と肩に手をかけるとがばりと真っ赤な顔が振り返って背を押された。

「珠世様、なんでもありません!ありませんから!あんな世迷言聞いてはいけません!耳が穢れます!!行きましょう!」

 世迷言にはとても聞こえない心正しい想いだと思ったが、訂正してやる間もなく押されて前に進む。帰ったらきちんと言って聞かせなくてはと思っているところ、慌てたように炭治郎が前に回り込んできた。

「あっ、まっ、待ってください!珠世さんは鬼に詳しいんですよね!?」
「ええ、恐らくこの時代では一番に」

 視線を憚って炭治郎が声を潜めてくれたので、珠世も低い声で頷いた。迷惑そうに顔を顰めている愈史郎を目で咎めて、言いにくそうに唇を開閉させている炭治郎の言葉を待つ。そう時間をかけずに覚悟を固めた顔ががばりと上がった。

「俺の家族は皆、鬼に殺されました。妹を除いて。妹はあの日から目を覚まさない。体は健康なくらいなのに、寝言ひとつも言わずにずっと眠っているんです。何か、何か分からないでしょうか……そういうことはこれまでにも」

 この子は、また。こんなに良い子が、また。

 珠世の表情を見て思わず言葉を止めた炭治郎は、年相応とは思えない慈しみの表情を浮かべた。大丈夫ですよ、俺は。珠世よりずっと幼いはずの少年の声には不思議と安堵を誘う力がある。

「ありがとうございます。でも俺は、悲しんでいるばかりじゃないですから。色んな人がいつも俺を支えてくれて、そう在れる」

 この少年とその妹の優しさに触れた時から、珠世だけでなく色々なものが目まぐるしく変わった。たちまち鮮やかに花開いていった。いつも多くの人の願いを託されて、この少年はひとつもそれを取りこぼさない。大事に抱え込んで笑っている。だからこそ珠世はこの少年自身の願いを叶えてやりたい。手助けをしてやりたいと思う。

「信じていただけるならで構いません。妹さんの──禰豆子さんの血を調べさせて頂けませんか」

 必ず何かを見つけます、珠世の言葉に炭治郎は深々と頭を下げた。

「今、誰と喋っていた」
「わっ」

 何度も頭を下げて二つの人影を見送った少年の首根っこを掴む。交替のためにロビーに降りたところだった。小芭内に命じられたのは冨岡義勇の護衛という心底不本意な任務だったが、それをこなす傍ら独自にこの少年の監視を行っていた。この少年は知人が多い。隣り合っただけで誰とでも仲良くなってしまうのでいちいち調べているとキリがない。今や病院内でこの男を知らぬ者のほうが少数ではないかと思うくらいだが、小芭内の知る限り先ほどの女と少年とは初めて見る顔だった。

 振り返った少年──炭治郎は大口を開けた。恐らく何だとかなんとか言おうとしたのだろう。しかしすぐに小芭内の襟元にある階級章に気が付いたらしくすぐに十度の敬礼で頭を下げる。

「自分は、将校生徒の……」
「お前の名前などどうでもいい。俺の名をお前が知る必要もない。ただ質問にだけ答えろ」

 そもそも名前は既に知っている。早くしろと急かしたが返事がない。しかもあろうことか不本意そうに口元がへの字口に引き結ばれている。

「言えません」
「なんだと」
「誰かも分からない人には。貴方は俺のことを知っていますよね」

 鼻に指を当て、炭治郎は疑念を隠さない表情で言う。この少年は鼻が利くのだというのは事前に聞かされていたが、それにしても生意気だ。あの男に関連する人物というだけで気に入らないと言うのに。

「俺のことを疑っているのか?生意気な奴め。勘違いしているようだから言ってやるが、お前のほうが俺にとっては余程疑わしい。言えないと言うなら連行して吐かせるまでだ。後ろめたいことがあるから隠すんだろう」

 品行方正で真面目な生徒。かつて柱を努めた鱗滝と名門である煉獄家の後ろ盾があり身元は明るい。しかしだからこそ信用できないと思う。義勇の周りで鬼が頻繁に出るようになった時期と、義勇がこの少年と知り合った時期は完全にではないがほぼ重なる。鼻から指を離さずただじっとこちらを見つめてくる炭治郎を小芭内もまた睨みつける。

「なんだ、言い逃れを考えているのか?」
「心配する匂いがする」

 すん、と鼻が動いて言われた言葉に不覚にも体も思考も固まった。寒さに弱いので冬の間はいつも軍服の中に潜らせている鏑丸が心配して首元から頭を出してくる。ハッ、不意に炭治郎が目を見開いて息を吸い込んだ。鏑丸に驚いたのかと思ったが、視線は小芭内から少しも動いていない。

「まさか、義勇さんのことを慕っている方ですか……!?」
「は?」

 一瞬、本気で見知らぬ国の言葉を話されたのかと思った。励ますように鏑丸がちろちろと首筋を舌で撫でる。すまない鏑丸、理解するまでにもう少し時間がかかりそうだ。

「すみません!でも義勇さんは俺の婚約者になってもらうので!すみません!ごめんなさい!」
「おい」
「あっ、でも義勇さんがどう思っているかは分からないですね……!?どうしたらいいでしょうか……!?でも俺は、俺が!義勇さんと一緒になりたいんです……!」

 炭治郎の表情は今にも泣きそうに切羽詰まっており、小芭内の軍服に縋りつく勢いだ。何故か。小芭内が横恋慕していると信じているからだ。誰に。鬼殺隊の柱を担う同僚、冨岡義勇にだ。はあ、肺から息を締め出し、すう、とマスク越しに思い切り吸う。

「分かった、殺す」
「えっ!?」

 腰元の刀に手をかけた。この国で帯刀を許されるのは軍人だけだが、真剣を常に帯びているのは一部の隊だけだ。ほとんどの隊では警棒代わりの模造刀が使用されている。しかし鬼殺隊の隊員は皆常に帯刀を許されていた。ただし、斬るのは鬼だけだ。それ以外に抜刀することは原則禁止されている。しかし今は許されるのではないだろうか?正直この男の言葉は鬼の戯言よりも理解できない。鬼より危険な存在かもしれない。よし、斬ろう。

「……だが気色の悪い妄想を抱えて死なれるのも不本意だから言っておく。俺は冨岡のことが嫌いだ。心底嫌っている。それが覆ることは今後未来永劫ないだろう。あの男には立場に求められる振舞いができない。自覚というものがない。いつも自分のことばかりで気が回らない。他人に与える影響を考慮しない。自分勝手で傲慢だ」
「でもあの」

 よっぽど鈍感な性質らしく、殺気をみなぎらせる小芭内を気にした風もなく炭治郎は気安く声を上げた。苛立ちに寄った眉根がピクピクと震える。いいだろう、死ぬ前に言い残すことがあるなら聞いてやる。目で続きを促すと、おずおずと炭治郎は続けた。

「嫌いなのに心配するんですか?」

 それが真実であることを疑わない、一切の茶化しや皮肉を感じさせない真面目な表情が傾げられている。それからふふ、と嬉しげに笑みが漏れた。そうか、優しい人なんですねと柔らかい微笑み。

「あっ、でも義勇さんは俺が、俺の、でも、ううん、ええっと……頑張ります!!」

 気合を入れるように両手で拳を固めた炭治郎を、同じ人間だと信じることができない。鬼ですらない。こいつは多分地球外で生まれ全く異なる文化社会で育った宇宙人に違いなかった。それにしては日本語が上手だな。すう、もう一度マスクの下で息を吸う。はあ、そして吐く。

「よし、殺す」
「なんでですか!?」

 怒りとも恐れとも知れぬ気味の悪い悪寒に震えながら剣の柄に手をかけた。あわあわと両手を動かす炭治郎に今にも抜刀しようとしたところ──華やかな声が耳を優しくつついた。

「あっ、伊黒さーん!居た居たよかったー!交替ですよーっ!」
「か、甘露寺……」

 ロビーに駆け込んできたのは軍服姿の蜜璃だった。取り乱したところを見られて気まずいが、蜜璃の明るい笑顔は少しも崩れないので恐らく気づいていないのだろう。安堵して体から力が抜けた。このまま宇宙人との戦闘に突入するという緊迫感を、春のように麗しい蜜璃の笑みが解かしてくれたようだった。小芭内にまっすぐ駆け寄ってくる姿に心を暖めていたが、ぱっと笑みが逸れて炭治郎めに向いた。忌々しい。

「あっ、ひょっとして君、煉獄さんの!?」
「え、あ、はい。俺は煉獄炭治郎です……けど」
「初めまして!私は甘露寺蜜璃。私も鬼殺隊の隊員でね、君みたいに煉獄さんちにいたこともあるの!大体の事情は聞いてて。会ってみたいと思ってたから丁度良かったあ!伊黒さんとももう挨拶を済ませてたのね!」

 よろしく、誰にでも垣根なく優しい女神のような蜜璃は、何の気兼ねもなく簡単に見知らぬ者にも触れてしまう。両手で右手を握られブンブンと上下され顔を赤くしている炭治郎を見ていると斬り捨ててやりたい気持ちがムクムクと蘇った。

「伊黒さんっ、て言うんですね……?」

 そしてまたこの男はちらりと目を小芭内に寄越してこういうことを言うのである。じろりと睨めつけるが笑顔しか返ってこない。

「あっ、ごめんなさい私邪魔しちゃった!?こちらは鬼殺隊の伊黒さん!すごく頼りになるし、いつもしつこくて素敵なの!」
「た、頼り……?素敵……?」

 キャー言っちゃったわ恥ずかしい、両頬を押さえて照れている蜜璃に、小芭内の体中の血も顔面と耳に集まっている気がした。この時ほどマスクの存在に感謝したことはない。きっと不気味ににやけた笑みが浮かんでいたことだろう。はっと気づいて炭治郎に目をやれば、窺うようにじっと見つめられていた。

「あの、俺も甘露寺さんにお会いできて良かったです本当に……今この時で本当に……」
「何が言いたい」
「いえ……」
「こちらこそ!本当に会いたかったの!だって冨岡さんのフィアンセなんでしょう!?しのぶちゃんから聞いてるんだから!フィアンセ!素敵!素敵な響き!」

 一人盛り上がる蜜璃は小芭内と炭治郎のやり取りをロクに聞いていない様子だったが、いつでも蜜璃の言葉を一言一句たりとて聞き逃したくない小芭内はしっかりその言葉の意味を理解してしまっていた。フィアンセ。そう言えばそうだ。あまりの思い違いに怒りで流してしまっていたが、婚約がどうとか言っていた気がする。

「はいまだ……予定、ですけど。俺はそうなってほしいなって」

 照れきった様子たどたどしく答えている炭治郎に、蜜璃は感極まった様子で抱き着いてしまった。かわいいわ、素敵だわ、幸せそうな蜜璃には悪いが、そんなことをすれば世の男全ては蜜璃から好意を向けられたと勘違いをする。炭治郎の両肩を掴んで無理矢理引き剥がし、小芭内に顔を向けさせた。蜜璃に不用意に近づいたことを憎んでも憎み切れないが、今この一瞬だけは憐れみが勝っていた。

「お前、前世でよっぽどの悪行でもやったのか……?」
「なんですか突然!?」

 それ以外に一体どんな理由があってあんな男と婚約などと。やはり宇宙人の文化を小芭内は理解できそうにない。ついでに抱き着かれて真っ赤になった顔をしっかり見た。その点は絶対に許さない。

「でも、良かったです。安心しました。伊黒さんは義勇さんじゃなくて、甘露寺さんのことが好う”!?」

 頬を片手で思い切り挟んで言葉を止めた。しかしその状態を物ともせずに笑みを浮かべているのでものすごく不細工だ。いや、甘露寺以外の人間は大抵皆へのへのもへじだがな。

「俺と一緒ですね!」
「何がだ!」
「だって、俺も義勇さんのことが好わ”!?」

 頬を掴んだままもう片方の手で口をばしりと叩いて言葉を止める。蜜璃からおろおろとした視線を感じるが絶対にこればかりは言わせてはならない。男の口を抑えたままぎろりと睨みつけて低い声で囁く。

「金輪際俺とお前のその気色の悪い妄執とを一緒くたにするな。甘露寺をよく見たのか?あの木偶のような男とまるで違うことが分からないならお前の目は節穴だ。俺は今でも甘露寺を初めて見た時の衝撃が鮮やかに蘇るくらいだというのに。あの愛らしさに度肝を抜かれない者などこの世にいない。お前のように愚昧で悪趣味な男を除い」
「わー!本当に一緒だ!俺も義勇さんを一目見ただけで腰が抜けもご!」

 手の下でくぐもった声で尚会話を成立させようとしてくる男に業を煮やし、小芭内はとうとう炭治郎の首に手をかけた。ぐえ、と緊張感のない悲鳴が漏れ出ている。

「一緒にするなと言っているだろうが……!」
「うう、い、伊黒さん苦しい、苦しいです……!」
「えっ!?ちょっと、急にどうしたんですか伊黒さん!?だめですよケンカは!」

 まさに阿鼻叫喚。一触即発の態で、小芭内は完全にこの宇宙人を地球のために斬り捨てる気でいた。しかし、すんと炭治郎の鼻が動いて、ぱちりと目が開き何かを探すように動いたので、思わず手の力を緩めてしまった。がばりと炭治郎が身を翻してその場を飛び出していく。

「炭治郎」
「義勇さん!?」

 駆けていく先に居たのは、今の小芭内の全ての苛立ちの源流に立つ男だった。素知らぬ様子の──実際何も知らないのだが──涼しい顔で炭治郎を見下ろしている。

「遅いと思って」

 義勇の言葉に駆け寄った炭治郎はきょとりと目を丸めた。それから、まさに「花が綻ぶよう」という言葉を体現するように眦と口元を緩めて笑ってみせた。まあ、蜜璃が嬉しげなため息をこっそりと吐いている。

「すみません。この前からの課題が終わらなくって。でも顔だけでも見たくて走って来ました、いつもみたいに」
「そうか」

 小芭内は思わず目を何度も瞬き、ついには目元を擦って頬まで抓ってしまった。錯覚か、夢でなければありえるはずがない。あの年がら年中葬式に参列しているような顔の男の顔が緩んで見えた。

「待っててくれてたんですよね」
「ああ、冷えるから」
「冷える?」

 義勇が寝間着のポケットから取り出して見せたのは缶だった。おしること筆書きのようなロゴがでかでかと書かれている。端には餅入りの吹き出し付き。

「あ、これ……」
「少し早いが。売り切れていないのを初めて見た」

 好きだと言っていただろう、最後の一本だった。いつもより明らかに多い口数で義勇が淡々と言う。炭治郎が震える手でその缶に振れた。ただの汁粉缶だが、まるで宝物に触れるかのごとくだ。

「ひょっとしてクリスマスプレゼントですか……!?」
「ああ。すまない、こんなもので。タラの芽を先生に頼んだが今は無いだろうと言われてしまった」
「う、お、覚えてくれてたんですね……!うわあ、うわあ……!『こんなもの』なんかじゃないです!ありがとうございます!大事に、」

 炭治郎は心から喜んでいる。それはこの少年のことをよく知らない、よく知りたくもない小芭内から見ても一目瞭然だった。だからこそ体が勝手に動いていて、二人の間に割り込んで炭治郎に渡ろうとする汁粉缶を持ち上げていた。驚きで丸くなった四つの瞳が煩わしい。

「これは、甘露寺が飲む」
「えっ!?」

 突然話を振ってしまって狼狽えた声を上げる蜜璃には悪いが、これはこうするしかないので許してほしいと思った。さすがに黙っていられない。

「ちょ、ちょっと突然何するんですか!?せっかく義勇さんがくれたのに!」
「うるさい」

 缶を取り返そうと奮闘する炭治郎の頬を、なんとか手で追いやりながら小芭内は義勇に半眼を向けた。それにしても炭治郎は案外力が強い。やはり生意気で気に食わない。

「考え直せ、冨岡……さすがにこれは……」

 義勇は相変わらず何を考えているか分からない能面のような顔で小芭内を見下ろし、辛うじて人間だと示すように瞬きをひとつした。それから静かに口を開く。

「居たのか、伊黒」

 小芭内が行冥のように体躯に恵まれた者だったなら、手の中の汁粉缶は爆発四散していたに違いない。それはもう粉々にだ。しかし現実には少しのへこみも無かったので無事蜜璃の手に渡った。ただ、蜜璃は女神のように優しい女性なので、結局それは元の贈り先へと渡ってしまったようだった。

 勢い良く戸を滑らせる音、意気揚々とただいま帰りましたと上がる声。玄関へ駆けつけて、千寿郎は炭治郎の話の外で初めてその人を見た。肩にかかった軍の外套は兄が着るものとまるで同じなのに印象は全く真逆だなというのが第一印象だ。怖いくらい静かな目をした人だ。

 じっと見つめられている。それに気づいてハッとして玄関に膝をついて頭を下げた。

「こんにちは」

 返事がないので顔を少し上げて確認すると、頷きひとつ。印象の通り静かな人のようだった。これは炭治郎の話でも聞いていたから、多分気分を悪くしたわけではないと分かってほっとする。

「義勇さん、この子が千寿郎さんです!杏寿郎さんの弟さんです」

 いつもの三倍くらいの笑みと弾んだ声で、義勇の荷物を抱えた炭治郎が千寿郎を紹介する。小さい兄として慕っている人の子供っぽい振舞いがなんだかおかしくてちょっと笑ってしまいそうだ。

「世話になる」
「いえ、どうぞご自分の家だと思って過ごしてください。兄もそうしてほしいと言っていましたから」

 頭を下げられて慌てて答える。全く喋らない人というわけでもないらしい。初めて聞いた声は夜の海のさざ波のようにやっぱり静かだ。ひとまず病院からの荷物を下してもらうために客間に通す。荷物はここでいいですか、外套をもらいますね、甲斐甲斐しい炭治郎は杏寿郎に引っ付いて回る自分によく似ていてやっぱり面白い。外套を肩にかけていたのは左腕をギプスで固定して吊っているからだったようだ。あと一週間は固定が必要だと言われているのだと炭治郎が説明してくれた。

「当主に挨拶したい」

 さて屋敷を案内しよう、ということになった時、義勇はまずそう言った。千寿郎が思わず炭治郎を見ると、炭治郎も千寿郎を見ていた。義勇の言葉には何もおかしなところはない。千寿郎が義勇の立場なら、やっぱり同じように挨拶したいと思っただろう。でも、やはり心配だった。父が義勇に何か酷いことを言うのではという心配と、父のことを悪く思われてしまうのではないかという心配と。きっと炭治郎も千寿郎と同じ気持ちになってくれている。まるで本当の家族みたいに。

 結局、同じ屋敷で過ごすのだったらいつかは必ず顔を合わせるわけで、義勇を連れて槇寿郎の部屋へ向かうことになった。声をかけたが反応がない。戸を開けるが万年床に寝転ぶ背はこちらを向かない。ちらりと見上げる義勇の表情がまったく変わらないのが安心するような、怖いような。

 義勇は部屋には入らずその場に腰を下ろして膝をついた。頭を十度傾けて礼をする。

「第二特別機動隊中尉、冨岡義勇です。ご子息のご厚意により、しばし世話になります」

 義勇は頭を傾けたまま動かないでいる。肩肘を布団に預けたまま体を反るようにしてこちらをちらりと見た父は、またすぐに背を見せてしまった。

「フン」

 返事はこれだけだ。頭を下げたままの義勇の背に炭治郎が手を当てて行きましょうかと声をかける。どこか声が沈んでいる気がして、千寿郎も寂しい気持ちになった。立ち上がって父の自室から離れる。

「すみません」

 いつも皆が集まって食事を取る広間を案内した時、やっとその言葉が口から出た。義勇と炭治郎の目がこちらに向いたが、まともに見返すことができない。

「いつも、ああで」

 物心がつくかつかないかの頃、父はああではなかった、と思う。いつも笑顔で、優しくて明るくて。ただの願望だろうか。兄の記憶をただ重ねているだけだろうか。思わず涙ぐみそうになる頭にポンと手が乗った。

 見上げた横顔はやっぱり静かだ。どこか鋭い印象のある怜悧な顔立ちだと思う。でも心まではそうではないのだろう。炭治郎の言う通りだ。ちらりと炭治郎を見ると、嬉しげな微笑みで頷かれた。その後は二人で屋敷の中を必要以上に時間をかけて案内して回った。

 途中で三時のおやつを挟み、明日に控えたクリスマスパーティの相談で盛り上がり、最後に向かったのは炭治郎の部屋だった。炭治郎の部屋は古い賓客の間を改装したものだ。短い渡り廊下がある半分離れのような場所なので、順番が最後になるのは何もおかしなことじゃない。ただ、千寿郎は今は炭治郎と家族の一員同士だから、その気持ちも分かる気がしている。

「それで、ここが俺の部屋で」

 炭治郎が戸に手をかけたまま動きを止めた。千寿郎もこの場に残ろうか去ろうか迷ってやっぱり動けなくなっている。

「あの」

 戸から手を離して炭治郎が義勇を振り返った。義勇の目は相変わらず静かだ。下から見上げると、黒い瞳の底に凪いだ海のような色があるのがよく分かる。

「何か困り事があったらいつでも訪ねて来てください。どんなに朝早くても夜遅くても構いませんから。ただ、その、ひとつ、義勇さんに言っていなかったことがあるんです」

 炭治郎の手が伸びて義勇の右手をぎゅっと握っている。義勇もそれを好きなようにさせていた。なんだか見てはいけないものを見ているような気になっているのに、去るための物音を立てることができなくて俯いている。

「俺は長男です。六人兄弟の長男でした。でも今は妹が一人残るだけで」

 ぎゅ、ぎゅ、と義勇の手を何度も握り直す炭治郎の手は小さく震えているように見えた。更に視線を下げて、ついに千寿郎は己の爪先を眺める。

「それで、杏寿郎さんが煉獄の家で世話してくれることになって。妹と二人、この家に来ました」

 炭治郎が引き戸を開けた音に、思わず頭を上げてしまった。炭治郎は部屋の中の禰豆子を緊張した面持ちで見つめている。

「妹です。一つ下で、禰豆子と言います」

 そして、義勇は。

「二年前から眠ったまま起きません。そういう病だそうです」

 驚いていた。あれほど表情の変わらない人だったのに、目を大きく見開いて、口も小さく開けて。炭治郎はこちらを見ていないが、匂いで気づいているだろうか。心なしか顔が青いようにも見えてその腕に軽く触れると、はっと小さく息を吐いて義勇の肩から力が抜けるのを見た。

「あの、義勇さん。よかったらどうぞ」

 義勇はその言葉にぎこちなく頷いて部屋の中に入った。千寿郎は触れていた腕から手を離してそれを見送るだけに留める。一体何にあんなに驚いていたのだろうか、それを知るべきではないだろうか。部屋の暖気を逃す戸に手をかけたまま閉められないでいる。

「本当に眠ってるだけなんです、いつもこうして手を握ってやるんですがあたたかくて、血が通ってて」

 禰豆子の布団の元に座った炭治郎が禰豆子の手のひらに優しく触れた。千寿郎も時々そうする。きっと炭治郎のように明るくて優しい人に違いないから、早く目覚めて一緒に話したいと思って。

「むしろ健康すぎるくらいだって言われてるんですよ、寝たきりで食事も点滴なのに全然痩せなくて!寝る子は育つって言いますけど、そういうことなんでしょうか?ねずこなのに、おかしいですよね。すやこに改名しなきゃ」

 炭治郎の声も笑みも普段の三倍くらい弾んでいる。だが先ほどまでの愉快な気持ちが湧き上がって来なかった。炭治郎の隣に腰かけて、義勇はただじっと禰豆子を見下ろしているようだった。背しか見えない。

「それで、その」

 炭治郎の言葉が途切れてしまったが、それでもまだ何か言おうと言葉を探している気配がする。心が苦しくなる沈黙だと思った。今すぐここから駆け出したいのに、先ほどの義勇の表情が気になってそうすることができない。

「それで」
「分かってる」

 炭治郎を見下ろす義勇の表情も声も、また静かな調子に戻っていた。先ほど見たものがまるで幻だったのかと思うくらいだ。

「そんなに言わなくても」

 炭治郎はもう言葉を探すことすらできなくなってるように見えた。笑顔も弾んだ声もやめて、ただひたすらに義勇を見上げている。

「お前は、何も悪くないよ」

 炭治郎は何も答えなかった。じっと義勇を見つめたまま動かない。その内に、ぼろりと瞳からひとつ涙が零れ落ちて、後から後から続いていった。義勇もそれをじっと見下ろしている。できるだけ音を出さないように気を付けながら千寿郎は静かに戸を閉ざした。

 炭治郎は優しくて感情豊かな人だ。いつも、千寿郎や誰かのために一緒に笑ったり怒ったり泣いたりしてくれる。でも炭治郎が自分のためにあんなに静かに泣くところを初めて見た。

 不安に騒ぐ胸に手を当てて無理に抑えつける。居てほしい。炭治郎さんの傍にあの人が居てくれたらきっといい。だけどあの人はそうしてくれるだろうか。何かを怖れるような横顔が目に焼き付いていてなかなか離れなかった。

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