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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 動かない片方の腕を抑えにして苦心しながら炭治郎のオーバーコートを畳んだ。今年支給されたばかりだろうそれは、ぱりっと生地が硬く炭治郎らしいと思う。だからこそ、きれいな形を保ってやりたいという気持ちになった。そう時間をかけられないのでなんとか納得のいく体裁になったところで立ち上がる。炭治郎が自販機に走り去って行ってからずっと、視線を感じていた。ねとりと粘性のある視線、殺気だ。首筋が不快にざわつくが、目を巡らせても視線の元に辿り着かない。

 試しに椅子から離れて歩き出すと視線も付いてくる。義勇を狙っている。ならば、ここで事を起こす必要は無いと判断した。足を速める。視線もひたりと続く。数百、数千の戦闘の経験が直観に訴えかけて警鐘を鳴らす。刀が要る。特別な鋼を使った己の刀が。それでしか斬れないものが相手で間違いない。

 すう、と吸った息を体中に巡らせることをイメージする。理由は分からないが敵は人目を避けている。軍病院の中だ、対抗する相手が出てくることを警戒しているのか。人影のない階段に足をかけて二つ目の踊り場。ざわりと背筋が粟立ち身を沈める。頭上を鋭く何かが過って行った。

 一つ下の踊り場には白い人影がある。パジャマを着ている姿は一見ただの入院患者のようだが、腕や脚の代わりに裾から覗く包帯の束が異様だった。ゆらゆらと包帯の先が無数の蛇のようにゆらゆらと動く。

「な、ぜ」

 包帯に覆われた口元がぎこちなく動いた。背から追いすがる包帯を躱しながら階段を駆け上がる。勢いはあるが攻撃は単調だ。成ったばかりの、人をそう喰っていない鬼だと判断する。それでいて病室のある階に辿り着いた途端に攻撃がピタリと止むのが不気味だった。成ったばかりの鬼はとにかく飢えを満たすことしか考えないはずだ。目立たずにひとつの標的だけを狙うようなことはしない。過去に交戦した覚えもない。

 とにかくまずは刀を、とドアをスライドさせたところですぐ背後に気配を感じて身を反らす。包帯がしゅるりと左脇を走ってベッドのマットレスを突き刺した。更に背後から包帯の追撃がある。動きを封じようとしていると悟って床を蹴った。ベッドの上に飛び乗り、枕元の隙間に隠してある刀を取り出してまたマットレスを蹴って宙返りする。そこを串刺しにしようとする攻撃を蹴って部屋の隅に着地した。軌道を逸らされた包帯がカシャンと軽い音を立てて電灯に突き刺さり部屋に暗闇とガラス片が落ちる。開いたままのドアから細長い光の道が床に敷かれた。もし誰かがうっかり通り過ぎれば厄介なことになる。

「なぜ」

 包帯の鬼がまた口を開いた。それはこちらの言葉だ。軍病院内に鬼が入り込むなどあってはならない未曾有の大事件だろう。また包帯が伸びてきたので身を沈め、壁際を移動する。ギプスに固定された左腕のせいで、いちいち刀を手にした右手でバランスをとる必要があるのが煩わしい。いつもより反応がワンテンポ遅くなっている感覚がする。全開で固定されていたドアを後ろ手に軽く引くと、ひとりでに滑って病室は薄闇に閉ざされた。フットライトだけが淡く光っている。

「俺を付け狙った理由はなんだ」
「なぜ、だ、なぜだ」

 会話にならない。そもそも鬼と楽しくお喋りをする趣味もないので、義勇は刀を抜くために体をドアに預けた。どうせこの程度の知能の鬼では大した情報も吐けない。グン、とドアが体重を受けて少し沈む。

「なぜ、おまえらだけ、おまえだけ」

 薄暗い部屋の中、曇った硝子のように濁った目が包帯の隙間からギラギラと光り、一時たりとも絶えず憎悪を放ち続けていた。

「なぜ、おまえだけ、いつも」

 義勇は気づけば鬼を睨み返していた──何故?何故だと。だからそれは、こちらの言葉だ。

 俺であることに意味などあるはずがない。俺が残ることに意味があるなら、誰も死ななくてよかった。死ぬ数に決まりがあるというなら俺から死ぬべきだった。だが俺はそうならない。多分、指先一本になってもまだ戦っている。俺に天国は許されていないから。この地獄の中を永劫に藻掻いていなければならない。きっと、そういうことになっている。

 その時、ふとドアを押し返すような力を背の向こうに感じた。誰かがドアに手をかけている。まさかと思えば、すぐに予想した通りの声が義勇の名をドア越しに呼んだ。こいつは、また。

「開けるな」
『義勇さん!開けます!』

 開けさせてはいけない、と咄嗟に思った。こいつは義勇とは違う。得体の知れない化け物に怨嗟の念を浴びせかけられるべき人間ではない。炭治郎には向こう側に居る理由がある。少なくとも義勇の中にある。

「嫌です!」

 しかし、あろうことか炭治郎はドアを開け放ってきてこちらに踏み込んできてしまった。いつもそうだなと思う。初めて出会った時ですらそうだった。勢い良く抱き着かれて身を伏せた。腕の力は強く、触れたところは相変わらずの体温だった。

「どうやったらあいつを押し返せるのか分からない」

 軍人らしく、私情を挟まずに事実のみを並べ立てて事の顛末を語ったが、最後に思わず深い嘆息が漏れてしまった。そこにため息が重なって目を上げると、しのぶが呆れ切った表情でこちらを見ていた。

「まだそんなことを言っているんですか?」

 そんなだからみんなに嫌われるんですよ、などと続けられて心外の一言だ。確かに好かれてはいないだろうが、嫌われるほど人と関わっていないはずだろう。俺は嫌われてないと抗議すれば、少なくとも炭治郎君にはそうかもしれませんね、と気のない雑な返事。む、と口を引き結んでいると、しのぶは呆れた表情のまま笑みを浮かべた。

「いつも後ろを向いているからですよ、ちゃんと見えないのは」
「どういう意味だ」
「せめて横向きくらいになってくれないと、と思うだけです。でないと、炭治郎君がかわいそうですから」

 話が抽象的過ぎて言葉を足されても全く意味を理解できない。しかしいくら義勇が渋面で見つめたところでしのぶが動じるわけもなく、私は冨岡さんより炭治郎君の味方ですから、と続けられて、それだけは言われずとも分かっていると胸中で憮然と答える。「炭治郎がかわいそう」という言葉が、何故だか心に引っかかっていた。

「あの、義勇さん」

 十二月に入って晴れの日が続いている。夜はやはりそれなりに肌寒いのだが、日中は先月よりも暖かいと感じるくらいだ。暑がりの炭治郎はやっぱり頬を上気させていて、やはり窓を開けておいてやればよかったのではないかと思う。しかし義勇が暑がりの炭治郎のために換気をしていたのだと知った炭治郎に、風邪を引いては事だからほどほどにしてほしいと懇願されていた。そこそこの悶着があったので、炭治郎がやって来る直前に換気をするのは控えていた。

「俺、何か変ですか?」
「変?」

 確かにいつもは止め処なく楽しげに学校での出来事などを語っているが、今日は言葉が途切れがちだ。気まずげに目を泳がせたり、それでいてちらちらと義勇を覗ったりを繰り返していた。普段と違うような気はする。

「いえ、義勇さんがずっと見ているので」
「見ないほうがいいのか」

 今更そんなことを気にするとも思っていなくて困惑する。しのぶの言葉がずっと気にかかっていたので、そのことを考えるのに本人を眺めているのが丁度いいかと思っていただけで他意はない。ベッドに腰かけて丸椅子に腰掛ける炭治郎を正面からじっと見下ろしていた。実際のところ、陽光を受けてきらきらと光る瞳の際に炭火のような赫を改めて見つけたり、炎で染めたような髪先に少年らしい柔らかさを感じただけで、そこから何かが分かるわけもなかったが。

「いえ、その……なんと言うか……」
「お前も俺を見るだろう、いつも」

 見るのはいいが見られるのは気に入らないというのは不公平な話である。義勇が憮然と言うと、炭治郎は唇をぎゅっと結んで俯いた。よっぽど暑いのか耳の先まで赤い。

「はい……すみません……どうぞ、お好きなだけ見てください……」

 義勇の言葉に過剰にやり込められたらしく、すっかりしょぼくれた様子の弱々しい声が大げさで、思わず義勇はふっと息を漏らした。炭治郎が俯いたまま上目でちらりとこちらを見上げてくる。そしてそのまま固まってしまった。

「変と言えば、変かもな」

 いつでもおかしな奴だと思う。歳も近くない無愛想な男のところに、恐らくではあるが、家の事情だけでなく好き好んで通って来ている。何も特別なことはひとつもない。ただ炭治郎の言葉に義勇が相槌を打つだけだ。

「う」

 いよいよ炭治郎の顔は真っ赤になった。まさに茹蛸そのもので湯気でも上ってきそうだ。

「暑いのか。窓を開けるか?」
「いえ!いえ、大丈夫です!すぐに治まります!今日は風が強いんです!そのままで!」

 慌てたように言い募りつつ、結局炭治郎は制服を脱いでシャツ一枚になった。パタパタと手で風を送る内に落ち着いてきたらしく、ふうと大きく息を吐いた。気を取り直したような笑みが戻ってくる。

「すっかり冬ですね」
「そうだな」

 首を巡らせ炭治郎の目線を追って窓の外の枯れ木の群れを眺める。ついこの間まで紅や黄の葉がなんとか枝にしがみついていたが、今は茶色の枯葉がいくらかぶら下がっているだけだ。寒々しい枝が澄んだ青空を好き勝手に切り取っている。戦っていないせいか、炭治郎のせいか、時間の流れが緩やかだと思う。いつもはもっと瞬きひとつの間に季節が変わっていくものだが。

「そう言えばナースステーションのところ見ましたか?クリスマスツリーが置いてありましたよ」
「ああ」

 見たも何も飾り付けを監視の三人娘に付き合わされたのだ。何を求められているかを義勇は悟ることができないから、子供の相手は頭を余計に使うので疲れる。きらきらと期待と喜びに満ちた目を向けられることに慣れない。

「クリスマス、毎年忙しくて。ただケーキを食べる日だったなあ」

 炭治郎が目を伏せて懐かしむように微笑んだ。炭治郎も三人娘より年上とは言え、子供と言えば子供だ。しかしこの少年には三人娘のような疲労は覚えないな、とふと思った。頑固者で図太いが、結局のところ炭治郎の全ての根は無尽蔵の優しさだ。

「でも毎年楽しみでした。下の三人はサンタをまだ信じてるから俺たちもおこぼれで枕元にプレゼントが置いてあったんです。大したものじゃないんですけど」

 優しい眼差しが義勇の手元のあたりを彷徨って、すぐに義勇に戻ってくる。明るい笑みだ。この少年しか持てない思いやりや思慮深さのようなものが、何気ない会話の中で義勇を救っているのかもしれない、と気付く。今もそうだ。義勇が言葉を探すような間もなく弾んだ声が続く。

「そう言えば一昨年は鱗滝さんも突然ショートケーキを買ってきてくれたんですよ!俺、クリスマスなんかすっかり忘れてて。鱗滝さんもそんな素振り全然無かったから、鱗滝さんの誕生日ですか?って聞いちゃったんですよ」

 ふふ、と炭治郎が笑う。確かに鱗滝にはそういうところがあった気がする。季節の折や誕生日のような節目の度に、一切の前触れがなく嬉しいことがあった、ような気がする。いつも誰かと、一緒に、それを──

「よく……覚えてないな、俺は」

 楽しげに話していた炭治郎が言葉を止めて、またやってしまったかと思った。やはり炭治郎とは違って義勇は口下手で、こうして余計な口を挟んでは人の言葉を奪ってしまう。しかし転換する話題にも持ち合わせがなく、目を逸らして黙っているしかない。

 熱いくらいの湿った手がまた右手に重なった。目を戻しても、そこにいつも他人の目に見る呆れはない。真剣な表情だと思った。

「あの、義勇さん、俺と」

 いくら待っても後が続かない。じっと見つめ合うが、次第に炭治郎の目線が下がって行ってしまい、最後には自分の手がどこに置かれているかに気付いたらしくばっと両手を上げている。今更、もう気にもしていないというのに。

「何か欲しい物があるのか」
「え!?」

 素っ頓狂な声を上げた炭治郎の目がかっと見開く。しかし、義勇が「枕元にはさすがに置けないが」と続けると、ほんの少しだけ残念そうな顔をする。また義勇は間違ったらしい。しかし他に炭治郎が続けたかった言葉に思い当たらない。無策のまま沈黙を口の中で転がしていたが、炭治郎の表情が不意にくるりと変わった。

「待っ、待ってください、今クリスマスプレゼントの話してますか!?」
「ああ」
「くれるんですか!?義勇さんが!?俺にですか!?」
「欲しいなら。詫びをしたい」

 きょとんとひとつ瞬き、それから笑み。しかし心底嬉しげなものに見えなくて義勇の心に靄をかけた。焦燥のようなものが胸のうらをざらつかせる。

 確かに義勇は口下手だが、ここまでそれを惜しく思ったことはなかったような気がする。炭治郎にはもっと、うまい言葉を探してやりたいと思う。もしかすると初めてそんなことを考えていて、だからこそ義勇はこれまで口下手だったのかもしれなかった。

「ありがとうございます」
「何がいいんだ」
「何でも嬉しいです」
「……それが一番困る」

 炭治郎はやはり笑みだ。大人びた優しい笑みだ。

「一番欲しい物は、今すぐは難しいものなので。義勇さんが思いついたものならなんでも、それが嬉しいです」

 だが、本当はもっと別の、底抜けに嬉しそうな笑みが見たかった気がしている。

 結局、恐らく義勇が見たいと思っていた表情は、杏寿郎が義勇に仮住まいを提供するという話で見てしまい、世話になる気はさらさら無かったというのに頷かざるを得なくなってしまった。

 クリスマスプレゼントの話も本人から希望が出た。クリスマスパーティをしないかと友人に提案されたのでぜひ参加してほしいというものだ。そんなことでいいのかと問えば、むしろものすごく丁度良かったんですと真剣な形相で言われて思わず頷いていた。

 義勇はただ頷いていただけだった。それで本当にいいのか確証が持てず、鱗滝にタラの芽を頼んだところ、長い沈黙の後に旬じゃないだろうと言われた。なるほど、炭治郎が一番欲しかったものはそれだったかと納得した。確かに旬でない好物は頼みづらいだろう。そんな中で偶然にも、毎日炭治郎が来る時間帯に通い詰めていた自販機で汁粉が売り切れていない事に気が付き、これだと思っていたのだが、小芭内に考え直せと言われてしまった。

 それでとうとう義勇は情けなくも音を上げ、三人娘にクリスマスプレゼントはふつう、何をやるものかと聞いたのだ。三人が目を見合わせてキャッキャッと笑うので気まずい思いをした。内緒ですよ、と三人が義勇の身を屈めさせてひそひそと言う。

「みんなでお金を出して、しのぶ様にマグカップを買ったんです」
「この前、お気に入りを割ってしまったって言っていて」
「毎日使うものはどうでしょう?それで毎日私たちのことを思い出してくれたら、とっても嬉しいから」

 ティースプーンが付いていてとてもかわいいんです、紅茶も一緒に買いました、お菓子も作るんですよ、三人娘は心底楽しそうだった。

 毎日使うもの。学生なら筆記用具だろうか。売店で深い青色の軸のシャープペンシルを買った。ついでに三人娘には礼の代わりだと思ってカラフルな消しゴムを買った。女の子に大人気というポップに間違いはなかったらしく大喜びで、クリスマスの飾り付けの余りでシャープペンシルをせっせと包装してくれた。

 どうしようか迷って、義勇は結局それを持ち出す荷物の中に入れた。何の変哲もない安物の文具だ。しかし毎日使うもので、炭治郎が毎日義勇を思い出したかもしれないものだった。自分はひょっとしてそうなってほしかったのか、と今更気付く。炭治郎に喜んでほしくて、毎日思い返してほしくて。新鮮だなと他人事のように思う。そんなことを考えたことがかつてあっただろうか。あったような気もするが、きっと遠い昔だ。

 外套を羽織り、着替えを数枚突っ込んだ小さな鞄ひとつと刀を納めた肩掛け。幼い子供でもないから、金さえあれば寝るところなどどうとでもなる。残りの荷物のことは後日考えることにする。元々大したものは何もないから、いっそのこと廃棄してもらっても構わないぐらいだ。

 客間には縁側がある。障子を静かに滑らせると冷えた空気がしんと指と鼻の先を撫でた。予め玄関から靴を持って来てあったので、それを履いて庭に降り立つ。物音ひとつない庭を気配を消して進む。幸い誰にも見咎められなかったようだった。見つかったところで戻る気は無かったけれど。

 ついに門まで辿り着いたものの、当然のことながら木戸は重く堅く閉ざされている。数歩後退し、勢いをつけて駆け上がり塀瓦の上でバランスを取った。国や軍の要人の屋敷が多く立ち並ぶ閑静な住宅街だ。路地に人影はない──ように見える。慌てて電柱の隅に隠れた人影を見なかったことにして路地に降り立った。そのまま駅に向かって歩き出す。

 殺気とはかけ離れた動揺した気配がする。え、あれ、と囁く声まで聞こえたが、飽くまで気づいていないふりを貫き通した。少し歩く速度を上げると、後ろの気配もあからさまに歩く速度が上がる。最早気配を消す気もないのだろうか。どうしたものか。

「あの」

 駅前の大通りに出たところでとうとう背後の気配が声をかけてきた。聞こえないものとして前へ進むと、めげずにもう一度声がかかる。あの。天真爛漫な気性をそのまま反映したかのような伸びやかで華やかな高い声。

「冨岡さん、どこに行っちゃうんですか……?」
「甘露寺」

 とうとう名前まで呼ばれてしまったので義勇は観念して足を止めた。振り返ると、思うより数歩近くに蜜璃の気配があった。子供のように無邪気な気配を纏っていても咄嗟の身のこなしに隙がない。伊達に「柱」の名を担っているわけではないということだろう。尾行任務には向いていないかもしれないが。

「軍病院の警護じゃなかったのか」

 義勇が聞いていた説明は、小芭内や蜜璃が中心になって鬼の出現した軍病院を警護・調査している、というものだ。それが何故煉獄家の屋敷の周辺に配置されているのかは明かされていない。単に怪我療養中だから情報が伝わってこなかった可能性は低いと見ている。蜜璃が無言のまま大口を開けた。

「別にいい。俺に警護がついているくらいはさすがに分かる。俺は標的になっているのか」

 先日の小芭内の話では、鬼殺隊の中に内通者らしき者が居て、義勇に鬼をけしかけていたという話だった。男は調べを受けたという話だがその後の話は聞かない。敵の正体が掴めているならそこを叩けばいい。だがそうできないということは、まだそれが分からないからだろう。

「それなら、俺が外を出歩いて敵を誘き出すほうが早い。違うか」

 思案に伏せていた目を上げ、蜜璃に視線を合わせた。そして義勇は思わず眉根を寄せた。そこにある表情が焦燥と混乱で今にも泣き出しそうなものだったからだ。一度目を逸らしてもう一度蜜璃の顔を見たがやはり切羽詰まった半泣きの顔だ。さすがの義勇も蜜璃がどうしたらいいかを完全に見失っていることを悟った。しかしそれが分かったからと言って、気が利く言葉が浮かぶ義勇でもない。思わず視線を泳がせてすぐ目の前がラーメン屋であることに気が付いた。すると、蜜璃の視線も義勇につられてラーメン屋ののれんを見つめている。

「食べるか」
「食べます」

 あっ、蜜璃が顔を真っ赤にして焦った声を上げたが、今更訂正されてもこれだけ間髪を入れずに返事をされた後では無意味だろう。健啖家だという噂は真実だったらしい。ひとまず泣き出しそうな顔ではなくなったので、正しい選択を取れたようだと安堵しつつラーメン屋の引き戸を引いた。いらっしゃいと威勢の良い声がかかる。日付がそろそろ変わるような時間だ。店の中には三人ほど客がいるだけだった。こちらには一切興味が無さそうにカウンターで黙々と麺を啜っている。

 義勇が店の中に入ってテーブル席に腰かけると、蜜璃もおずおずと後に続いた。テーブルの上にある品書きを押し出すが、どこか浮かない表情で俯いている。

「奢るが」
「お、奢られても私は何も話せません……!」

 蜜璃が必死の形相で品書きを義勇に押し返す。一体何を言っているのかすぐに理解できなかったが、義勇の推測に蜜璃が正しいとも間違っているとも答えていないままだと気づいた。ひょっとしてそのことを言っているのか。

「別に何も話さなくてもいい」
「え!?」
「食べたいかと思っただけだ」

 嬉しさと困惑がない交ぜになった表情に頷いてやる。語らずとも落ちているとでも言えばいいか。別にこれ以上の情報は要らない。泣かれでもしたらどうしていいか分からないので、それを避けられれば何でもいい。

 タイミングを見計らったように愛想のいい店員が水を置いていったので、蜜璃がラーメンを頼んだ。何も頼まずに席を占有するのも悪いので義勇も同じものを頼む。大きな声で店員が注文を復唱すると、厨房からありがとうございますと威勢のいい声が返ってくる。

 グラスを両手で持ち上げて水をぐっと煽った蜜璃は、それをテーブルに戻して大きな息を吐き出した。

「あのぉ、聞いてもいいでしょうか」

 上目気味の蜜璃をじっと見つめる。質問の内容によるなと思って黙っていると沈黙だけが流れていく。ラーメンがどん、どんとテーブルに置かれ、店員が去っていくまでそれが続いた。もうもうと上がる湯気の上に割り箸を差し出してやると、眉尻を情けなく下げた蜜璃がおずおずそれを受け取ってパキリと割って義勇に返した。そういう意図ではなかったが厚意はありがたい。もう一本取ってやって交換する。

「どこへ行こうとしてたんですか?」
「とりあえず、食べたらどうだ」
「は、はい……」

 いただきます、消え入りそうな声で言って手を合わせた蜜璃がラーメンを啜り始める。義勇もそれに続いた。食べ始めたのはほとんど同時のはずだが、半分ほど食べたところで顔を上げると、蜜璃の鉢にはほとんど麺が残っていなかった。品書きを押し出してやると困った顔をする。

「でも、あの……」
「俺はまだかかる。遠慮するな」
「じゃ、じゃあ替え玉を……」

 そんな調子で替え玉が三玉、もういいのかと念を押すと申し訳なさそうに餃子とチャーハンが追加され、今の蜜璃はいい食べっぷりだねえとサービスされたまかないメニューのカレーにスプーンを付けたところだ。既に店内に他の客の姿はなくなっている。

「甘露寺はよく食べるな」
「す、すみません、恥ずかしい」
「……恥ずかしいのか。いいことだろう」

 どこか驚いた様子で凝視されて困惑していると、蜜璃はやがて明るい笑みになった。やはりどこか炭治郎に似ているな、と思う。表情と感情が直結したところだろうか。

「さっきの質問だが」
「えっ!?はい」
「分からない」

 笑顔がまた驚いたような表情に戻って固まってしまうが、すぐにああと大声が上がった。どうやら間が開いたので何の話か分からなかったらしい。

「分からないなら、えっと、煉獄さんのお世話になってもいいんじゃないでしょうか……」

 蜜璃も以前、杏寿郎に師事するため煉獄家に居たと聞いている。杏寿郎のいいところをいくつか上げて、しかし義勇に何の反応も無いことを見ると身を乗り出した。とってもいい人なんですよ、煉獄さん。

「それに、どんな鬼が出てくるかわからないなら、返り討ちにしやすい場所に居たほうがいいって」
「……そうか、それでか」
「あっ!?いえ、これは私の考えで!」

 図らずもラーメンが情報代になってしまっているなと思ったが、狼狽える蜜璃が哀れなのでさすがに口に出さなかった。俯いてカレーをしずしず片づけ始める姿が更に哀愁を漂わせている。はあ、小さく息を吐いた。

「許されない」

 これだけ言っても何も伝わらないとは分かっていたが、他に適切な言葉が見つからない。しかしぱっと顔を上げた蜜璃の表情に怪訝げな様子は無かった。ただ無心に、じっと義勇の顔を見つめている。

「少し、分かる気がします」

 きっと全部同じじゃないけど、全然違うと思いますけど、何度も念を押すのはきっと、蜜璃なりの誠意と優しさなのだろう。

「私も許されないと思ってきました。でも今はありのままの私でいいと言ってくれる人が、居場所がある」

 春の若葉のように瑞々しい翠の瞳が真剣に義勇を見上げている。そこにある輝きの美しさと自分に共通するものがあるとはとても思えなかったが、何故だか目を逸らすことができなかった。

「いつか、どこかには、あるんじゃないでしょうか。必ず。私たちを許してくれる場所や、人たちが」

 義勇は蜜璃や、炭治郎とは違う。だから、そんなものはあるはずもない。そう分かっているはずなのに否定の言葉がすぐに頭に浮かばない。ただ黙り込んで目を伏せている自分を義勇は情けないと思う。弱いと思う。きっと、そうだったら良かったと思う気持ちが心の奥底に残っているからだろう。

 背の向こうでガラリと店の戸が開く音がする。新たな客が入って来たらしい。あっ、と蜜璃が声を上げてそれを凝視したので嫌な予感がして振り返ろうとした。それよりも早く右腕を掴まれる。強い力だった。

「義勇さん」

 少年らしい高さの残った声はここのところ毎日聞いていたはずなのに、初めて聞く声だと思った。思わず顔を上げると、パーカー姿の炭治郎が義勇を見下ろしていた。

「どこへ行くんですか、誰に何も言わずに」

 炭治郎の目の先にあるのは義勇の鞄と肩掛けだ。いつものような柔らかい表情がまるで消えていて、ひやりと臓腑を冷やす気迫だけがある。怒っているらしい。

「炭治郎くん、あのね」
「甘露寺さんすみません。俺は、義勇さんに聞きたいんです」

 はい、と引き下がる蜜璃の声もその気迫に圧されたように弱い。赫い瞳が燃えるようだ。こういう怒り方をするのか、と意外に思って義勇はそれをただ見上げていた。なかなか反応を示さない義勇に炭治郎の眉根が寄る。口が開いた。

「待て。俺も冨岡に聞きたいことがある」

 しかし蛇のようにぬらりと炭治郎の背後から現れた小芭内が、炭治郎の言葉を奪っていた。炭治郎よりも鋭い突き刺すような視線には明らかな殺意を感じる。一応これでも同僚のはずなのだが、最近はずっと小芭内から殺意を向けられている気がする。

「何故お前はこんなところで甘露寺と仲良く飯を喰っている?甘露寺の優しさに付け込んで一体何をしている?こんな夜更けに未婚の娘を連れ回して何を考えている?ああ、答えなくていい。お前がどんな言い訳をしても有罪が確定している。俺が斬首する」

 色々言いたいことはあるが、義勇の口下手で蜜璃を大いに困らせた自覚はあるので「仲良く飯を喰って」というのは誤った認識というものだ。夜更けといってもやっと日付が変わったくらいで鬼殺隊にとっては活動時間帯のど真ん中だろう。第一、小芭内の言葉が全て正しかったとしても小芭内が何故これほど怒るのかも理解できない。右腕は炭治郎にぐっと圧迫されたままで逃げ場がない。大人しく小芭内に斬首されておけということなのか。

「まあ待て、ここは一旦落ち着くべきだろう!俺の気に入りの店にも迷惑がかかる!とりあえず俺たちも一杯ずつ頼もう!心配するな、甘露寺の食べた分まで俺の奢りだ!」
「俺は喰わない。それから、甘露寺の分は俺が持つ」
「あの……なんだかその、ごめんなさい……」

 その場に居るだけで炎がぼっと上がって全てを照らすような男の声に、義勇は何となく炭治郎に見つかったわけを察した気がした。杏寿郎は任務で遅くまで戻らないと聞いていたが、帰途と鉢合わせていたのかもしれないと推測する。観念するように小さく息を吐くと、炭治郎の手の力がまた強くなって痛みを感じるほどだ。目を上げる。冷たささえ感じた怒りの表情は、涙を無理に抑えつけるような表情に変わっていた。

 俺たちが食べ終わるまで待っていてくれ、杏寿郎が言い、お前はここに座るなと小芭内に店から追いやられ、頑なに腕を離そうとしない炭治郎と二人、冷えたガードレールに腰を預けた。駅前の大通りにはまだそれなりに車の通りがあって、ごうごうと沈黙を埋めて走り去っていく。歩道に人影はなく、電飾が光る並木だけが静かに騒がしい。

「お前も」

 口を開くと言葉に白い息が重なった。見下ろす炭治郎の眉根は深く寄ったままだ。

「怒ることがあるんだな」
「義勇さん」

 声には明らかな怒気が混じっている。率直な感想だったが、今言うべきではなかったのかもしれない。

「正直に言ってください」

 一体何を言えばいいのか。何から言えばいいのか。元々話すつもりが一切なかったので何も心構えがなかった。思案に沈む義勇に焦れた様子で炭治郎が顔を歪める。

「俺の何が悪かったですか。俺が、情けないからですか?俺がもっとちゃんとしてれば……」

 思わず目をきょとんと丸めてしまい、そんな義勇の様子に気づいた炭治郎も涙の滲んだ目を丸めている。義勇を責める言葉が並ぶのだとばかり覚悟していたので、予想もしていなかった言葉に理解が追い付かない。

「どうしてそうなるんだ、お前は」

 思わず呆れてしまった。まだ十六の少年だ。怒っているのだったら気が済むまで義勇を詰ればいいのだ。実際、これだけ優しい心根の男を怒らせたのだからきっと義勇が全て悪い。しかし炭治郎にはそれができない。これも優し過ぎる性質のせいだろう。

「お前は悪くない、いつも」

 ここで黙っていればきっと炭治郎はまた自分を責める。義勇を責められないからだ。義勇の中に何の咎も無いと信じているからだった。それを一刻も早く否定してやらねばならないのに、自分でも何を躊躇っているのかよく分からない。ただ事実を告げるだけのはずだ。

「ずっと、悔いる匂いがします」

 炭治郎が腕を掴んだまま正面に回り込んできた。何の拘束力もないはずなのだが、その目の真剣さに身動きが取れなくなってしまう。

「俺が悪くないと言うなら、言ってくれるなら、義勇さんは何を後悔してるんですか」
「言えない」
「義勇さん、お願いです」

 右腕を掴む力は少しも弱くならない。もしギプスが無ければ左腕もそんなふうに掴まれていただろう。縋るように懇願されて胸の辺りが苦しくなった。黙ってやり過ごすという手も使えそうにない。この澄んだ目の前で使いたくない。

「義勇さん、俺は家に残った匂いを嗅ぎました。鬼の匂いがした」

 声がわずかに揺れている。本当はもっと色々な感情が乗せられるはずだったのだろう。しかし炭治郎はそれを必死に抑えるような低い声で静かに言った。いつか聞くのではと予感していた、しかし聞きたくなかった言葉に息を吸い、体を硬くする義勇をくしゃりと顰められた顔が見上げる。

「それから、鈴蘭みたいな匂いが少しだけした。優しくて、寂しくて、悲しそうで、悔しげで。家族のために何もできなかった、家族と別れたくない俺に寄り添ってくれて、涙が止まらなかった」

 身動きの取れない義勇の首に、炭治郎の腕が回った。ガードレールに腰を預けていたので身長差が小さくなっている。ギプスの腕に負担をかけないようにこわごわと背に手が回り、その鼻先が肩に触れた。

「義勇さんの匂いです」

 炭治郎が肩に目を押さえつけている。泣いている、と思った。体が震え、声に涙が滲んでいる。その声を聞いていると義勇の目元も少し熱くなった。目前にある頭に少し頬を傾ける。

「すまない」

 何の意味もない言葉だ。言われた相手が優しければ優しいほど、言ってはならない言葉だった。分かっていたが、言わずにはいられなかった。多分ずっとそう言いたかった。

「お前の妹を地獄に残したのは俺だ」

 間に合わなかった。優しい言葉もかけてやれなかった。死なせてもやれなかった。あれから目覚めないのは、義勇が絶望の淵に突き落としたからではないのか。

「どうしてそうなるんですかあ、義勇さんは」

 目元を義勇の肩に当てたまま涙声で炭治郎が呆れたように言って、ふっと体の力を抜いた。体重がぐっと右肩にかかったのでつい手で支えてしまう。やはりあたたかい。真冬の空気が余計にそう思わせる。

「義勇さんだって、少しも悪くないじゃないですか、やっぱり」

 声には笑みが滲んでいる気がする。炭治郎は声まで感情豊かだ。顔が見えていないのに泣き笑いの顔を想像できてしまった。出会ってそう経ってもいないのに、いつの間にかそれが容易なことになっている。そうすることが義勇の生活や思考に染みてしまっている。

 炭治郎がそうさせた。それを、義勇に許した。

「あの」

 しばらく黙り込んでいた炭治郎が、ふと声を上げたので見下ろす。すぐ眼下にある耳が赤い。こんなに近い距離で長くくっついていたから、暑がりには辛いのか。離れてやろうと身じろぎたいが、完全に炭治郎に動きを封じられている。

「炭治郎」
「だめです」

 動き出そうとしているのを察したらしく言葉でも動きを止められる。いよいよ途方に暮れて大人しく炭治郎の体重を受け止めているしかない。炭治郎の熱のせいで、義勇の胸元もぽかぽかと少し熱い。

「俺は何をするのも、義勇さんとがいい。義勇さんにもそう思われたいです。一緒がいいです。楽しいのも苦しいのも」

 言い募って、炭治郎は最後にすみませんとため息交じりに囁いた。また少し涙の滲んだ声だ。義勇としては困惑しかない。何が楽しくて義勇にそんなことを望むのかと思うし、謝られる理由も無い。

「なんで謝る」
「俺のことばかりだから」

 そうか、と閃いた。実際に呟いてもいた。炭治郎がとうとう顔をあげ、間近から不思議そうな顔で見つめてくる。しかし不思議に思うのは義勇のほうこそだった。

「そんなのがお前の欲しいものだったのか」

 いつも人のことばかりの炭治郎は、義勇が炭治郎のために何かを惜しみなく与えることを手放しで望めないのだろう。呆れた奴だと思う。義勇程度の持つもので構わないなら炭治郎に皆くれてやっても構わない。これほど簡単なことはないのに──そんなふうに考えつつ、ここで炭治郎以外の人間ならばどうかという可能性を全く考慮しないのが冨岡義勇という男であった。

「そんなのじゃないです」

 炭治郎はむっと顔をしかめて義勇に更に近づく。ほとんど鼻先が触れそうな距離になって、焦点が合わない義勇をふっと笑った。

「叶うんだったら、今までで一番嬉しいプレゼントです」

 クリスマスパーティの準備をすると張り切っている炭治郎と千寿郎に何か手伝うと申し出たところ、満面の笑みを浮かべた二人に炭治郎の部屋まで押し出された。

「何か話してやってください。これ以上遠くにいかないように」
「……努力する」
「はい!」

 少女の気を引く話題など一切持ち合わせがないのだが、これが義勇の仕事と言われればやるしかない。見下ろす少女の頬にはわずかに血色の紅が差し、すうすうと健やかに胸板が上下していた。

 結局義勇は炭治郎に腕を引っ張られて煉獄家へと戻っていた。復帰後に話があるだろうがこれはお館様のご意向だぞと言われれば返す言葉もないし、良かったと幼い千寿郎に泣きつかれると思考も固まった。俺の弟を泣かせた罪は重いから大人しくしておいてくれと冗談めかして言われたが、どこを見ているか分からない明るい目に物言わぬ圧を感じた。多分、「弟」には二人の人間がかかっている。

 それじゃあお願いします、と明るく駆け去っていく二人を見送り細く息を吐いた。

「悪かったな」

 囁くように声を落として、丸い額に少し触れた。頭のあたりに深い傷を負って危険な量の失血をしていたはずだが、目立った傷跡は残っていないようだった。

「嘘を教えた」

 すう、すう、眠る呼吸は変わらない。義勇の言葉で何かが変わるはずもないが、少なくとも訂正は必要だと思った。地獄を生きる義勇とこの少女には決定的な違いがある。この少女にはあの兄がいるから、目覚めてもきっと大丈夫だ。それをあの時に言えていたらどんなに良かったかと思う。虚しい空想でしかないけれど。

「やることがあった。すぐ戻る」

 ふと重要な用事を思い出して立ち上がる。禰豆子の頬が少し緩んだことに気が付かないまま、義勇は立ち上がって炭治郎の部屋を出た。廊下に足元を冷たく冷やされながら、記憶を頼りに昨日まず訪れた部屋を探す。煉獄家は広く、当主の部屋はその最奥にある。

「何だ」

 失礼しますと声をかけ、返事を待たずに襖を開く。昨日とは違い一応身を起こしていた槇寿郎は思いもしない闖入者にぎょっと目を丸めている。剣呑な視線を意に介さず、その正面に座した。

 じっと男を観察する。無精ひげに乱れた髪、衣服。手元には酒瓶と升があり、朝から酒精に溺れていることが見て取れる。気味悪げに義勇を眺めつつも、手が升に伸びたのでそれを奪った。

「また口やかましいのが増えるのか。まったく……返せ」

 伸びてきた腕を難なく躱す。腕を伸ばしたまま槇寿郎は苛立ちとも困惑ともつかない顔をしていた。それをただじっと見つめる。

「な、何か言ったらどうなんだ。何を考えてるのか分からん奴だな」
「昔」
「うわ」

 言えと言うから口を開いただけなのだが、槇寿郎はびくりと肩を竦めている。人を化け物か何かだと思っていたのだろうか。

「一度だけ、俺の師……鱗滝から聞いたことがあります。煉獄の今代当主は情熱の塊のような男だ、人の上に立つに足る器を持った男だ、と」

 槇寿郎の眉根がぐっと寄り不快を隠さない表情になった。升を膝の上に置き、義勇はただじっとそれを見返していた。

「考えていました。何がそんなに苦しいのか」

 びり、と本気の殺気が肌を走る。酔っ払いとは思えない気迫だ。指先に力を込めたが努めて動じないことを心掛ける。争いに来たわけではない。

「何が?ハッ、何もかもがだ」

 酒で掠れた声で投げやりに言い放って、酒瓶の首を掴んだ男はそれを無理矢理自分の口に流し込んだ、顔が顰められる。とても好きでそうしているふうには見えない。

「俺では極められなかった。杏寿郎も千寿郎もそうだろう。それでどれだけの人間が死ぬか。どれだけの人間が死んだか」

 どすん、酒瓶が振り下ろされた。そして怒りに任せたように薙ぎ払われる。酒が畳に広がって滲んでいった。

「俺よりも若く才覚のある者が我先にとだぞ!何故だ!俺が無力だからだ!俺が間に合わなかったからだ!死ぬために戦う者が後から後から生まれて、その通り死んでいく!」

 槇寿郎は憎々しげに吼えるが、その言葉はひとつも義勇に向いていなかった。自刃を見ているようだなと思う。何故だか義勇の胸も苦しい。

「君のような若者を作ってしまったことが俺の苦しみだ。永遠に消えぬ至上の苦しみだ」

 出て行け、視界に入るな。また腕が升に伸びてきたのでそれをまた躱した。鬱陶しげに顔が顰められる。

「おい、」
「俺もきっと同じだ」

 槇寿郎が己を許せないというならそれは仕方のないことだ。それを代わって誰かが覆せないことをよく知っている。義勇も、義勇自身をきっと永劫許せない。

「だが……炭治郎が乞うから」

 苛立ったような槇寿郎の顔が不審げなものに変わる。きっと話の筋が見えていないのだ。手の升を畳の上に置いた。膝をにじって少し後ろに下がる。膝に右手をつき頭を下げた。

「俺を許してもらえないだろうか」

 しばらく頭を下げていたが何の反応も無い。顔を上げると、ぽかんとした表情で槇寿郎は義勇を見下ろしていた。まだ言葉が足りないかと思い、なんとか言葉を脳内から搔き集める。

「貴方が許すなら、俺も多分、俺がここに在ることを許せる」

 苦しみでしかないと言われた存在から何か、別の意味が持てるような気がしている。炭治郎のために、それを許してほしいと思った。

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