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天つ国、いずくにか (未完パラレル)



 さて、この冒頭に登場するのは一人の名も無き会社員男性だ。冒頭のみに登場して、今後も一切登場する予定はない。ただ、簡単に彼のことを紹介するなら、難しい仕事もなんとか回せるようになりそろそろ若手扱いから脱しつつある入社五年目である。面倒を見る後輩も増え充実はしている。大変は大変だが特に不満もない。だが同期に結婚が続き、親の言外の期待もあって、なんとなく焦燥に背中を押されている。

 そんな折、ひょんなことから後輩の同僚女性と映画の話になった。ああ、あれですね、面白そうですよね、へえ、見たことないんですか、実は俺も──他愛もない雑談はあれよと言う間に休日の約束に変わった。

 職場で見るよりやや着飾った姿の後輩に高揚しつつ、連れ立って映画館に入ればロビーは人で溢れかえっていた。どうやらいくつかの人気タイトルが同時に封切りされたらしい。はぐれないようにと自然に近くなる距離に更に胸が高鳴った。こんな歳にもなって俺は中学生かと思うものの、大学のサークルで知り合った彼女と自然消滅してからはすっかり仕事が恋人だった。多少浮かれてしまうのもしょうがない、と誰にともなく胸中で言い訳する。

「あ、義勇さん!ポップコーン買って行きましょう!」

 その時、目の前を少年が横切ったので立ち止まった。別にぶつかるほどの至近距離だったわけではないが、今日日新入社員もかくやというぐらい活気やる気に満ち溢れた大声だったので目を引いたのだ。大きな瞳が丸く爛々と輝いている。体格からして高校生くらいに見えるが、顔にはどこか幼さが残っていて愛嬌がある。額に大きな痣があるが、輝く笑顔の眩しさがそれを気にさせない。後輩に来たら思いっきり可愛がりたくなってしまいそうなタイプだ。

 そして、その爽やかな少年に手を引かれて視界に入った「義勇さん」は長身の青年だった。目の縁をまつ毛がくっきり飾り、鼻口が小さくまとまっているせいか、どこか人形めいた印象を受ける。一方で、よく見れば身体に厚みがあり、長い髪も無造作にまとめられていて野性味も感じる。一言で言えば「クールなイケメン」になるだろうか。思わずちらりと横目で後輩を見れば、案の定足を止めてイケメンに目を奪われている。自分の容姿については自分が一番分かっているだけに少し複雑だ。しかしそうなっても仕方ないと思うくらいには人目を引く魅力を持つ二人組である。他にも彼らに視線を送る人びとがちらほらいる。

「ポップコーン」
「はい!」

 少年の溌溂な声とは対照的に、青年の声は低く静かだ。表情もほとんど変わらない。しかし少年はそれを心底嬉しげに見上げている。随分仲が良いようだが、どういう関係なのか今ひとつ分からない。兄弟にしては似ていないので親戚くらいだろうか。少年がしっかりと握り込んだ手を見ていると、歳の離れた友人知人とは言えそうにない。

「食べながら映画を見るのか?」
「えっ、っと……そうですね。なんでも、映画館に来たらポップコーンは食べるものらしくて」
「そうなのか」

 いや、必ずしもそうするわけではないですよ。

 思わず声をかけそうになったが何とか堪える。いきなり見知らぬ男が会話に入っていくわけにもいかない。青年は少年の言葉に黒目がちな瞳をほんの少し驚きに見開いている。すまない。と静かな呟きを漏らした。

「おかしなことを言ったな。それが作法なのか。こういうところにはあまり来たことがない」

 一体どういう人生を送ってきたのかこの青年は。表情の乏しさのせいで陰があるようにも見えてきてハラハラしてしまう。謝らないでください、間髪を入れずに慌てたような少年の声。

「あの、実は俺もなんです……家族が多くてうちの家、あんまりこういうところには来られなくて、だから何か、失敗してしまったらすみません」

 しゅんと少年は項垂れた。うっかり先程の心のツッコミを声に出してしまわなくて良かったと心底思った。そうか、苦労人なんだろうな。もう盗み聞きであることなどすっかり忘れ、少年の家庭事情に思いを馳せ目元を熱くしてしまう。

「善逸や伊之助たちと練習しようと思ったんですけど、早く義勇さんと一緒に行きたくて」

 項垂れたまま、しかし少年はぐっと青年の手を握り込んだ。そこで、なんとなく「何か」悟るところがあった。どうしてこの少年が他の誰よりも「義勇さん」を優先したかはきっと誰の目にも明白だ。

「……お前が失敗したら、俺も失敗するだけだ」

 青年の声は一定の調子を保っているが、それでもどこかに穏やかさが混じって聞こえた。顔をガバリと上げた少年の額に繋いでいない手が伸び軽く撫でる。

「一緒に失敗すればいい」

 口元が緩んで見えるのは笑みだろうか。顔をたちまち真っ赤にした少年は青年をぽかんと見上げている。しかし次第に瞳は感極まったように潤んでいき、笑みには年相応から少し外れた慈しみが宿っていった。

「俺、義勇さんを大切にします。義勇さんが俺のお嫁さんで良かった」

 いや、「何か」は悟っていたけれども。
 嫁。嫁とは。この長身の男前が愛嬌溢れる少年の嫁……?

「だから俺は、」
「これからなるんだから同じなんです!」
「そうか……?」
「それより義勇さん、試しにひとつ小さいのを買って二人で分けませんか?食べきれなかったら俺が食べますから!」
「そうだな。足りなかったら次は大きいのにする」
「……!次!はい!次!!絶対そうしましょう!あっ、飲み物もありますよ!何がいいですか!?」

 わあわあと歓声を上げながら少年が青年を売店カウンターまで引っ張っていく。何故だか映画を既に一本見た気になってちらりと後輩を見やると、同じような表情から深い頷きが返ってきた。言葉なく何かを共有する。

 ありがとう少年、ありがとう「義勇さん」。思ってたのと少し違ったが、確かに俺たちにも何かしらの──連帯感のようなものが芽生えたぞ。それから、なんとなくの焦燥に身を任せるんじゃなく、誠実に目の前の相手と向き合ってみようという青臭い気持ちも。

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