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Lost for words; no need for words



1

 「正しい」生活に必要なものだけが整頓された寒々しい部屋。初めて自分から欲しいと思ったものが全て取り払われて不自然な隙間になっている。ここは間違いなく「アレンの」部屋だが、今ではもう「自分の」部屋ではない。アレンの心がこの部屋で安らぐことは多分、もう二度と無いだろう。

 そんな灰色の部屋の真ん中にぼうっと突っ立っているのはこの上ない苦痛だ。この部屋のドアを開けるための鍵は、自分の音楽を罪として認め捨て去ることだから。立っている気力を奪われ、ベッドに腰を下ろす。目線の先の棚にはトロフィーや賞状が整然と並んでいた。目を逸らす。物心つく前から寝食を惜しんで練習した結果を無価値とは思わない。ただ、ステージを降りて吐かれる満足げな笑み交じりの吐息や、肩を組まれて近くなる紅潮した頬のほうがアレンにとってはよっぽど価値がある。それは誰にも取り上げられない。膝の上で握り込む拳をうつむいて睨みつけていた。

 バタン、勢いよくドアが開く音に驚いて顔を上げる。アレンの記憶には無い音。しかしドアの向こうには誰も居ない──わけではなく、目線を大きく下げる必要があった。見開かれた大きな目、しかめられた細い眉、丁寧に毛先が切り揃えられた丸い頭。いかにも育ちの良さそうなブレザーから伸びているのは折れそうなほど細い手足。

「えっ」

 動揺して漏れた声で、くしゃりと小さな顔が歪んだ。タ、軽い足音が床を蹴りこちらに駆け込んでくる。胴にしがみつかれたものの、対応が分からず両腕が浮いた。困惑しきったまま小さな頭をただ見下ろすことしかできない。しかし、狭くて小さな肩が揺れていることに気づき、全ての疑問を一旦捨てることに決めた。ぎこちなく小さな体を掬い上げて膝に乗せる。突っぱねられるかと思ったが案外抵抗は無い。ただ頑なに顔がアレンの胸にくっついている。上下する薄い背から吐かれる細い息も震えているようだが、泣いているというわけでもなさそうに感じた。怖がっているとかパニックに陥っているとか、そんな印象を受ける。戸惑いつつも、片手で隠せそうな小さな頭を宥めるように撫でてみる。

「……どうしたんだ? 何かあったのか?」

 自分で思ったよりも随分優しい声音になってしまい、そこで初めて違和感がせり上がってくる。何故当然のようにこの状況を受け入れようとしているのやら。出会いはインターナショナルスクールなのだから、本当だったらこんな姿は知らないはずなのに。そこでようやく、アレンはこれが夢だと気づくことができた。これはどうしようもなく苦しい夢で、そしてきっと、夢の中ですらまた救われている。本人にとっては誰にも触れられたくない脆い姿だろうに。勝手に登場させてしまったことが少し申し訳ない。

「来てくれてありがとう。俺のとこ」

 小さくて細い体を覆い隠すようにぎゅっと抱きしめる。震えていた吐息が止まった。それから、胸元に顔が擦り寄ってくる感触が強くなる。思わず苦笑してまた小さな頭を撫でる。それだけで切れそうなくらい細くて艶のある髪の感触がリアルだ。

「夏準」

 囁くなり、かかる重みが一瞬で変わった。両腿を横断する長い脚が床に余っている。閉じ込めるように抱きしめていたはずの体に逆に抱き寄せられている格好になった。驚いたが、ここが夢ならそんなものかと笑いのほうが先に来てしまった。肩に鼻の先を付けて背中をポンポン叩く。

「……アレン」
「ん?」
「ボクは……」
「うん」
「やっぱり、アナタが」

 吐息と変わらないくらいの囁き声が首筋をくすぐった。笑み交じりに答えを返すけれど言葉が続かない。いつもの夏準らしくない。ひょっとしてアレン自身の何かの願望なのだろうか。そう思うとちょっと気まずい。

 ──! アレン! アレンってば!!

 ハッと意識を引き上げて目を開けた。ピンク色の滝に囲まれたアンの顔が大写しになってこちらを覗き込んでいる。左肩にぶつかる背もたれの感触で、ソファでそのまま寝落ちてしまったことを悟った。昨日は確か──そうだ、出かけた夏準が帰ってくるまで待っていようと思って。来るステージに向け、アンの意見を聞きつつ曲をアレンジしたり練習を重ねていたりしたはず。

「やっと起きた! ねえ、これって……何?」
「……これ?」

 アンが体を起こして向けた視線の先を追う。そこで初めて胸元に重みと温もりがあることに気が付いた。アレンをマットレスにして猫の子みたいに丸くなって眠っているのは幼い少年だ。丁寧に毛先が切り揃えられた丸い頭。いかにも育ちの良さそうなブレザーから伸びているのは折れそうなほど細い手足。

「は……夏準?」

 まさかと思いつつ呼んだ名前だが、当然体が大きくなるなんてことは起きない。しかし名前に反応して緩慢に上がった眠そうな顔は、アンと共に見た夏準の記憶の中の姿とあまりにも一致していた。

 バチリ、アレンと大きな目を合わせた少年は、またくしゃりと顔をしかめてアレンの胸元に顔をくっつける。その感触は夢の続きとは思えないほどリアルだ。呆然とアンに視線を送れば、アンも全く同じ視線でこちらを見下ろしている。

 アレンこそ聞きたい。これは一体、どういうことなんだ。

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