ひとまず、話を昨晩に遡ると。
「うーん……最っ高! 僕のコーディネート!」
「誰が着こなしているかもお忘れなく」
「それはもう分かってるから言わなくていーの!」
両手で拳を作り力説するアンに夏準は呆れたように苦笑を傾けた。夏準が着込んでいるのはスーツだ。実家の関係か、参加者を聞いただけで肩が凝りそうなパーティに参加する必要があるらしい。急なことなので服を見繕ってほしいと夏準が持ちかけてからアンはずっと上機嫌だ。思う存分本領を発揮した結果、家中のありものを寄せ集めたとは到底思えないキマりっぷりに仕上がっていた。物珍しさにアレンもまじまじ眺めてしまう。
「さすがだなあ」
「それだけ? 僕のセンスが?」
「うん、光ってる」
素直に感心して真正面から返すと、アンは照れ交じりの笑みを浮かべつつ、それをごまかすようにふざけて胸を張っている。夏準と目を合わせてそれを笑う。だがすぐに視線が逸れていった。それだけのことに何故か落ち着かない、妙な感覚がする。
「そろそろ出たほうが良さそうですね」
「夏準」
体の向きを変えた夏準を思わず呼び止めていた。振り返る表情にはいつもと違った様子は無いのに、やっぱり何か妙だった。しかしその正体を少しも掴むことができない。すぐに言葉を繋げられないアレンを見つめる目に怪訝そうな色が差したので、急き立てられるように口を開けた。そうすると何か、音を吐き出すしかない。
「あー……その、大丈夫か?」
アレンの言葉は受け止められることなく三人の間でふよふよ浮いている。夏準どころかアンまできょとんとした表情だ。付け足す言葉を探し出してなんとかパスを繋げようとしたが、夏準がコートを出る方が早かった。ボクの心配をしているんですか、とからかうように笑われてしまう。
「分かってますよ。ステージが近いのは。できるだけ早めに戻ります」
ステージが近いから一瞬でも惜しい、それは確かだ。しかしどうもそれはアレンの渡したかったボールではないような気がする。アディショナルタイムを虚しく使い切って、夏準はさっさと部屋を出て行ってしまい、ホイッスルの代わりにドアが静かに閉まった。
「……何だったの?」
「いや……夏準……変じゃないか?」
「えー!? 言ったじゃん、僕のセンス光ってるって! 嘘だったの?」
「服じゃなくて! なんて言うか、全体的に」
「全体的に……? 何それ」
アレンの言葉を汲み取れないアンと、据わりが悪い感覚をうまく表現できないアレンとの間にもどかしい沈黙の川が流れる。少し粘ってみたがいい言葉がどうしても見つからず、先に川を上がったのはアレンだ。
「気のせい、か?」
「うーん……でも、アレンがそう言うならそうかもよ」
アレンと夏準の付き合いの深さを誰よりも近くで見ているアンは、よく周りが見えているアンが気にしていないならと諦めようとしているアレンをむしろ引き留める気になったらしい。あごに手を当てて何かを思い返している様子だ。
「まあ、でもこういう時頼ってくれるようになったのは前と違うかもね? 実家の関わることなんて、前だったらどこへ行くかも知らなかったかも」
「そうだよな」
物腰の柔らかさとは正反対の鉄壁。それがリビングの向こうに築かれている時間のほうがむしろ長かったなんて今では嘘みたいだ。もしかしたらそれこそが違和感の原因だったのかもしれない。アレンもアンも、夏準が家を出る背を押されたがっていると言葉なしに悟っていた。
「付いて行ったらダメだったか、やっぱり」
「そもそも入れるか怪しいって言われちゃったらね……」
またもどかしさの川に押し流されそうになったからか、アンが気持ちを切り替えるように明るい声を上げた。
パシン、変って言えばさあ、と両手を打ち合わせる。
回想はバイトの閉店間際。最後の客だろう相手のグラスを拭い、さりげなく次のもう一杯を呼び込もうとしていたアンにボーイが声をかけた。客に謝罪し、しっかり次の約束を取り付けてから席を立つ。落ち着きのない新人ボーイがあたふた案内したのはなんとVIPルームだ。約束していた太客は居ないはず。となると、新規指名だろうか。恐る恐る、しかしそれを悟らせない笑顔でボーイにドアを開けさせ──
「夏準!?」
「ああ、終わったんですか?」
──そして、脱力した。
ヘルプの子を付けるでもなく、ただっ広い部屋の真ん中、夏準はラップトップから顔を上げた。ボーイにもういいよと手を振ってズカズカ部屋の中に入る。隣にどすりと腰を下ろして覗き込む画面にはレポートらしきものが綴られていた。テーブルの上にはドンペリのボトルとグラス。
「もー、こんな時間にVIPルームって言うからヤバイお客さんかと思ったじゃん!」
「そんな相手も居るんですか? 普段から」
「そうじゃなくて。こんなこと普通無いからそう思ったんだって」
夏準の顔色が途端に剣呑になったので慌てて言葉を付け足す。実のところ、勢いがある華やかな店を隠れ蓑に厄介ごとを持ち込もうとする客はそこそこ居たりするようだ。ただでさえ酒を介しての商売、トラブルが起きない日のほうが珍しい。が、そこはしっかり翠石組が睨みを利かせていて、結局はなんとかなっている。
「で、どしたの」
「……人の気配があるほうが集中できる、という話もありますけど。全くダメですね」
ごまかすようなアンの笑みに夏準は全く納得していないものの、一応は話を繋げてくれた。やれやれ、といった様子でため息を吐いているが、むしろため息を吐きたいのはアンのほうだ。
「……それ確かめるためにドンペリ空けてVIPルーム?」
「こちらのオーナーさんは揉み手で案内してくれましたよ?」
ご機嫌に夏準を接待する依織が簡単に想像できてしまい思わず頭を抱えた。VIPルームを使うような客に対して新人ボーイが寄越されたのもおかしいと思っていたのだ。善や紗月だとネタばらしをしてしまうだろうから面白くないと思ったに違いない。
「ほんとにそれだけ?」
「散歩ついでに拾って帰ろうかと思っただけですよ」
組んだ足に肘を付き半眼で覗き込むが、むしろそんなアンの態度は夏準を喜ばせるだけらしい。アンをまんまと驚かせたことが嬉しいのだろう。機嫌の良さそうな意地の悪い笑みに呆れたため息を今度こそ押し返す。
「眠れなかったの?」
「そういうことで構いませんよ、そう思いたければ」
一見なんとも可愛くない返事だが、いつもの気取った笑みから子供扱いが気に入らない不満を感じられるようになると感想が変わってくる。ため息の次は上機嫌な笑みをそのまま打ち返してやれば、パタリとラップトップが閉ざされた。
「もう飽きました。早く帰りましょう、アン」
「はいはい」
それこそ子供みたいな催促に笑わせられつつ、夏準の回してきた車に乗って家に帰ってきた。
と、いうのがアンの話だ。
「今までそんなことなかったから、何だったんだろーって思ったよ。面白かったけどさ」
「……俺、その時寝てたのか? 全然知らなかったぞ」
「あー……曲で詰まっててイライラしてた時じゃない? アレンをそっとしておいてやろうってことだったのかな」
「……」
確かに今回の曲はどうしても納得できないパートがあり、数日の間そのことを四六時中考えていた自覚はある。しかし、今更そんな気を遣うなんて水臭いことをされたなんて思いたくはない。むっと口元を引き結んでいると、ほらアレンは何かないの、とアンが呆れたように水を向けてくる。実のところ、アレンにも思い当たる節はあった。
ぱたり、ひとつ瞬いて、思い返すために目を伏せる。
最近はイベントに呼ばれることが多くバイトをする余裕があまり無い。しかしBAEが駆け出しの頃からDJとして重宝してくれているクラブには、声がかかればできるだけ顔を出すようにしている。何よりクラブDJは自分がパフォーマンスしている時とは違った楽しさがあるのだ。レコードが擦り切れるほど聞いた自分の好きな曲をフロアの雰囲気に合わせてその場でミックスしていき、自分の指ひとつで客の熱量が引き上がっていく感覚が気持ち良い。普段は閉店までDJブースでコントローラーにかかり切りになるのだが。
「なんで居るんだよ」
音楽に合わせて体を揺らしたり踊ったり、全く聞いてない様子で談笑したり絡み合ったり。重低音とレーザーライトが跳ねるホールを見下ろしつつ、アレンは隣に椅子を運ばせて長い脚を組む男に困惑をそのままぶつけた。
「あの人たち全てに、ここに居る大層な理由があると思ってるんですか?」
カクテルを持つ手でフロアを指差す夏準はいつもと変わらない余裕のある笑みだ。アレンが聞きたいことはそういうことじゃないと分かっているくせにしっかりごまかしている。ミキシングに集中のほとんどを使っているアレンに勝ち目がないことも計算済みに違いない。実際その通りだ。前の曲のキラーフレーズのタイミングで、まるでアンサーのように次の曲へ繋いでいく。フロアがわっと沸いた。
しばらくはそんな調子で、フロアをコントロールする隙間、全く操縦できない夏準と進まない会話を繰り返す破目に陥っていた。
しかし、今日の山場と店に入る前から決めていた三曲で盛り上がりを頂点に引き上げ、満足してインターバル代わりの自作トラックへ繋げたところ。ふと夏準に意識が戻った。いつの間にかファンらしき女性たちに囲まれ、乾杯をしたり手を握ったりサービスを大盤振る舞いしている。その様子が更に新たなファンを呼ぶようで、まるでDJブースが握手会の会場だ。
「夏準」
「はい?」
アレンの呆れた声に返る夏準の声はいかにも上機嫌だった。明らかにアレンに対するからかいが混じっている。ひとつ息を吐いて、機材の端からマイクを引き抜いて差し出した。
「気が散る」
曲をフェードさせ、Furthermoreと名乗っていた時に作った粗削りのトラックに繋げる。アレンの言いたいことを悟ったのか、夏準の笑みはいつも見る皮肉げなものに変わった。
「考え無しですねえ」
女性たちに軽く手を振ってマイクを受け取った夏準は、アレンに身を乗り出した。すぐ耳元に甘い声が流し込まれる。
「ボク以外に集中できますか?」
クスリ、ひとつ笑った夏準はその場に立ち上がってトラックに合わせてリリックを刻み始めた。悔しいことに夏準の言葉通り、煽りに乗せられてリリックの刃を交わすことを抑えられず、ブースのマイクに歌を乗せていた。
クラブのオーナーには感謝される結果にはなったが、実のところアレンが操縦されて終わったような気がしてならない。バイトのはずが、結局フロアの誰より最高に楽しんで夏準の回してきた車に乗って家に帰ってきた。
と、いうのがアレンの思い当たる節だ。
「なにそれ! 僕が居ないとこで何楽しそうなことやってんの!?」
「言われると思った……しょうがないだろ。なんか居たんだから。あいつ」
「次は三人! ね!」
「うん、まあ、いいけど」
そうなると最早BAEのステージになってこちらからオーナーに頼み込まないといけない気がする。けれどあの場にアンが居ればと思ったことは確かなので、苦笑で頷かずにはいられなかった。
思い返してみると、最近似たような流れで夏準は何かとアレンやアンと行動を共にしようとしている気がする。なんだかんだ楽しく過ごせてしまうので不審にも思えていなかったが。二人して思案顔で見つめ合う。
「……寂しいのかな。そうじゃなかったら、甘えてくれてるのかも」
ぽつり、呟かれた言葉にアレンは目を瞬いた。どちらも夏準らしくない言葉だが、なんだか無性にさっき出かけていったばかりの夏準の表情を確かめたくなる。
「終わったら連絡してって送っとこうよ」
「だな」