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報告通り、覗き込む青年の目は確かに開いている。しかし正面から見下ろしてもどこかピントが合わない違和感があった。整った顔立ちのせいか人形を連想する。改良メタルとの共鳴実験の間、苦しげにうなされている時の方がまだ人間味があった。
体を起こしてくださいと指示すれば、燕財閥のご子息ともあろうものが何の抵抗もなくそれに従う。ベッドシーツが擦れる音だけが部屋に響いた。瞳に光が入らず暗くくすんでいることに失望する。
男はかつて、アルタートリガー社の施設でファントメタルの研究を行っていた。
世界中から集う研究者の誰もがこの金属の持つ常識外れの特性に魅入られていたように思う。潤沢な資金や破格の給与に目がくらんだ者を見かけることは皆無だったが、しかしそれがむしろ厄介でもあった。多様な特性の何に情熱を傾けるかは複数居るチーフによって全く異なっていた。
その内たった一人の暴走で解散にまで至ったことは、男にとって未だ納得できないことだ。確かに最も成果を上げ研究を進めた第一人者ではあるものの、あれほど狂った思想を秘めているとは思いもしなかった。ファントメタルの可能性がそんなことで閉ざされたのかと思うと身が震える程の怒りを覚える。
例の一件からこの新金属の研究へ大々的に出資する企業は無くなった。研究員の中には収監に至った者もおり、アルタートリガー社の在籍記録があると大学などの国費の関わる機関にはまず採用されない。路頭に迷う者が多い中、しかし男には個人的な出資の声がかかった。大きな出資元の一つであった燕財閥の繋がりで、かつて何度か顔を合わせたことがある資産家だ。韓国の研究所に居た経験から施設の案内を行い自分の研究について語って聞かせる機会があり、当時の男の研究に最も興味を示していた人間だった。
男は支援を受けて研究へ更に没頭した。余計な横槍が無くなってむしろ快適に感じるくらいだ。過程で心神喪失に陥る被験者を数多見たが、少なくともこれ以上苦痛に苛まれることは無いだろう。
男はメタルによって起こる超常的な精神感応や能力の向上には興味がない。むしろ毒性とも言うべき「特定の記憶」への作用こそ男の情熱を掻き立てた。メタルは例外なく、その人間の記憶の中から最も深い苦痛を探り当てる。そこには、あの頭のおかしい研究者とは明らかに異なる現実的な救済の可能性が秘められているのだ。
トラウマの削除。更には書き換えまでできるかもしれない。古い記憶がいつまでも頭に鬱屈とした霧をかけ、静寂に胸を裂かれる人間──男のような者にとって、それはまさに人生のやり直しを意味する。
合金化を繰り返すことによって生まれた改良メタルは、DNAへの反応を経たメタルを持つ者の内、その親和性が高い者が睡眠・昏睡状態にある場合に強く作用する。資産家のこれまで連れてきた質の悪い被験者とは全く異なる新たな被験者に男は大いに期待し──そして落胆した。
目覚めた青年はベッドから起き上がったが、それだけだ。他の被験者と全く同じ。いやそれ以上に反応が鈍い。こちらで指示したことには従うし、言えと言った言葉を反復できる。けれど自我の表出に関しては、質問に答えるというような初歩的なことすらできないようだ。
満面の笑みで肩を叩いてくる資産家を内心で軽蔑しつつ、男はひっそりと溜息を吐いた。この小物の目的はむしろ実験失敗の被験者なのではという疑念は日に日に募るが、余計な口出しをしてこない限りは気づかないフリを貫いている。
資産家は青年を救いたいのだと強調した。この方こそ燕家の後継者に相応しいので、格別のケアを行ってくれと言う。その打算はともかく、この青年は急性浸食から奇跡的に回復した既往歴があるのだ。これまでとは異なる結果を見せるかもしれない、と男も気持ちを切り替えた。
医療スタッフと共に様々なテストを行っては思わしくない反応に顔をしかめを一日繰り返して翌日、テストや実験を続けていると青年がふと顔を上げた。何かの気配を探るように部屋中をゆっくり見渡す。初めて見せた自発的な行動だ。
「聞こえますか?」
興奮して声をかけたが青年は男にはまるで反応しない。ただ扉をじっと眺め、また動かなくなってしまった。医療スタッフと怪訝な顔を見合わせる。
その時、静かな処置室にヒビを入れる大きな音と共に勢い良くドアが開いた。息を切らせ汗だくになった資産家がひどい形相で立っている。
「メタルを使う」
「はあ、しかし」
「誰が金を出してると思っている」
改良メタルの反応実験に失敗した被験者は自我を失った状態になり、使ったメタルを持つ者の言葉にのみ反応するようになる。しかしその指示が重なれば重なるほど解離的な精神症状を強くし、最後には何の反応も示さなくなっていく。「格別のケア」とは明らかに矛盾する指示だった。
やっと成果が見えそうだったのだが。メタルを奪われるように持ち去られ、男は諦めのため息を吐いた。やはりもっと被験者が必要だ。その点だけはアルタートリガー時代の方がよっぽど環境が整っていた。