文字数: 49,741

Lost for words; no need for words



2

「……居る」
「居て悪いんですか?」

 灰色の部屋の真ん中でアレンは呆然と呟いた。ベッドに寝そべる男から咄嗟に返されるその憎まれ口がなんだか妙に懐かしい感じがして泣きたい気持ちになる。何も悲しいことなんてないのに。自分で自分がおかしい。ごまかすように笑ってベッドに近づいた。

「だって……退屈だろ? この部屋」
「いいえ?」

 枕を肘置きにする、夏準にしては行儀の悪い体勢だ。からかうような、こちらを試すような目が見上げている。瞳の穏やかな光だけが部屋の中で鮮やかだ。アンバーに赤みが増してピンク色の海が凪いでいる。

「アレンが居ますから」

 言い切った後の笑みがあまりに優しいので咄嗟の言葉が見つからない。ごまかすように笑みを吐き出し、ベッドにどすりと腰を下ろした。付き合いだけは長かったベッドがキシリと小さく軋む。

「何見てるんだ?」

 枕元に何かが広げられていることに気づいて覗き込み、ぎょっと固まってしまった。どれもこれも見覚えのありすぎるスコアだ。印刷された音符の隙間を英語と日本語と入り乱れたメモがぎっしりと埋めている。

「書き込みだらけ」

 夏準の指がすっと五線をなぞった。そうすると頭の中に響くのは弦の音。口角を引き上げる力を失ったアレンを、夏準はやはりからかうような目で見上げている。

「……見て、悪いものでした?」
「うーん……まあ、いいよ。夏準なら」

 腕を組み、渋い顔で唸ったが、結局最後には苦笑が戻ってきた。正直なところ見られて嬉しいものではないけれど、それ以上に情けないところを散々見られているから今更だ。ここまできて見栄を張ったってしょうがない。アレンから音楽を何度も掬い上げてくれた夏準に見せられないものなんて最早無いとすら思う。

「アレン」
「ん?」

 夏準の表情から笑みが消えた。それが気になって思っていたよりも柔らかい声が出る。もう一度覗き込もうとしたが、それより先に夏準が起き上がった。アレンの背にぴったりと頭が付く感触がする。

「どうしたんだよ」
「いえ」

 そう言えばこれ夢だったな、とそこでようやく思い出した。夏準がこんなに頼りない声を上げ、こんなに近くに触れてきたことなんて無いのだから。やっぱり自分の願望が混じっているのだろうなと思って少し恥ずかしいし、夏準に申し訳ない。

「どうしても、言葉にならなくて」

 シャツの首元がきゅっと締まってくすぐったい。夏準が背中で服を引っ掴んでいるせいだ。首元に指を入れつつ、少し体を夏準のほうへ傾けてみる。すると、額が肩に乗せられた。細くて艶のある髪が目端に入って、匂いまで感じられそうで、そのリアルさに少し戸惑う。

「夏準でもそういうことあるんだな」

 相手の痛いところをまっすぐ突き刺せる頭の回転とライミング。放課後の練習で何度突き刺されて穴だらけになったか知れない。それでいて、自分を最大限に魅せる言葉はBAEの楽曲に媚薬のような甘さを加えている。言葉ひとつで人を天国にも地獄にも送れそうだなと感心することすらあるというのに。思わず苦笑して肩に乗った頭に頬を寄せた。

「言いたくないことなのか?」
「分かりません」

 いつもの余裕が消えた硬い声。どこか途方に暮れた声にも聞こえる。思わず手が浮いた。頭に伸びた指を、「ただ」と続いた言葉が止める。

「言えば、後悔すると思います。言わないでいるより」

 なんだか次に繋ぐ言葉を全て拒絶するための牽制みたいだなと思った。夏準はきっと、アレンがその言葉を否定したいことをもう分かっている。そしてそうされたくないと思っているのだ。浮いた手を自分の膝に戻した。静かな部屋には何の音も無い。やっぱりそれを退屈だとアレンは思う。息を思い切り吸って無理やり次の言葉に繋げた。

「俺も、そうやって言わないことがあった」

 ぐっとまた服を引かれるが、今度こそ指の先を夏準の頭に付けた。指通りの良い髪をさらさらと梳く。

「バレたらどうなるか……多分、もう分かってた。最初から諦めてた。バレた結果は……やっぱり、その通りだったし」

 大切なものをごっそり取り除かれ、全て灰にされた味気ない部屋。その存在がいつもアレンを苦しめる。無意識に、そこに「対話」が無いことをもう知っていたのだと思う。両親はボールを投げる。アレンは期待されたところでそれを受け止める。その繰り返し。アレンからボールを投げることは無い。髪から指を引き抜いてぎゅっと拳を握り締めた。

「同じように諦められたくない。お前に諦められるのが、一番嫌だ」

 もしアレンが「対話」の成立しない存在になっているなら、何より夏準にそう思われているとしたら、それより恐ろしいことはなかった。アレンが証明したいものが根底から揺らぐ気がする。アレンの音楽は最早自分一人のものではない。夏準とアンと心が通っていないと一音も生まれない。

「俺は、お前に見捨てられるのが一番怖いよ」

 ふ、小さく頭が揺れた。笑った気配。

「下手な冗談」

 どういう意味だ──そう問い返そうとしたところに、ピンポーンとどこか気が抜ける音が響いた。思わず目を丸めていると、ピンポーン、またインターホンが鳴る。ピンポーン、ピンポーン、間隔が短くなり、最終的には連打になっている。夏準の重みが掻き消えた。

「な……なんだ……」

 意識を無理やり引き上げたので目の奥からズキズキと痛みが脳天に響く。ソファの背もたれから体を起こそうとして、胸元にある重みを思い出し少年の体に腕を回した。すっかり定位置になっているアレンの膝の上でアレンと一緒になって眠っていたらしい。少年も目元に残る眠気を拭い取ろうと懸命に擦っている。

「なに……?」

 同じくソファで眠っていたアンも乱れた髪を雑に整えながら体を起こした。互いの間抜けな寝起き顔を眺めて数秒、ハッと重い瞼を跳ね除けて目を見開いた。夏準が帰ってきたのかもしれない。もしくは夏準に関係のある誰かが訪ねてきたか。少年を落とさないよう丁寧に床に下ろし、勢い良く立ち上がる。ドタドタと玄関まで駆けてドアを開け──

「遅い!」
「うわっ、東夏!?」

 一喝された。白い頬を上気させ怒りを隠さない少年がアレンを部屋に蹴り戻す勢いで玄関にズカズカ足を踏み入れている。当然その後ろには慇懃な執事が一切の遠慮無く続いた。見るからに怒り心頭の東夏は目の前のアレンすら視界に入っていないように見える。ビームでも出ていそうな鋭い視線を巡らせ、玄関を破壊する勢いだ。しかし。

「燕夏準を出せ! よくも暗愚な雑種ごときが小手先の妨害でこの僕の覇道を……っ」

 トタトタ、軽い足音が玄関に割り込んできてアレンの腰にぶつかって止まる。アレンの服を掴んだまま玄関を覗き込む少年に、東夏も忠成も目を見開いて口をつぐんでしまった。

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