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Lost for words; no need for words



 それまで、夏準の中に隙間なく詰め込まれていたのは鉛のような怨嗟や怒りだ。それを理性で冷やし、理屈で丁寧に塗装したら人間に見えていただけ。そのまま一生過ごしていくのだと思っていた。暗い覚悟を既に固めていた。それを、たった一晩で空っぽにされたとしたら。やっぱりそれは殺されたと言ってしまっていいのではないかと思う。

 ひとつ、ひとつ、投げ入れられるのは拙い音。拙い表現。ぎこちないやり取り。剥き出しの言葉。鮮やかな幻影。洗練されていく旋律。重なり合う声。くだらない言い争い。気心の知れたじゃれ合い。賑やかな笑い声。信頼。抱擁。愛情。空っぽになった夏準に今ぎっしりと詰まっているのはアレンとアンが好き勝手放り投げたものばかりだ。それが心臓を動かし、肺を膨らませ、燕夏準を人にしている。

 だがふと、思う。投げ入れられたものは永遠だろうか。

「どうしますか」

 声をかけられ、取り留めのない思考が止まった。冷めた目で見下ろしていた地面から顔を上げ、こちらを窺う男の神妙な表情を投げやりに見る。クッと喉が鳴った。

「『どうしますか』? ボクが答えるんですか? 何故?」

 男の表情がざっと青ざめたのが分かったが、表情を動かさないよう努める涙ぐましい勤勉さに免じてそれ以上の追及はしない。そもそも興味も無い。ただじっと見つめていると、男はぐっと息をひとつ呑んでその場にもう一度しゃがみ込んだ。縄で手足を縛られた、いかにも無法者といった風体の男の前髪を乱暴に掴み、原形を留めていない顔を覗き込む。

 何故アレンを尾けていたのか。アンを付け狙っていた者との関りは。誰の差し金か。蟻のように湧き続けるくせ、捕えた者は一様に口を割らないらしい。いくら尋問しても悲鳴すら上げない。まるで魂が抜かれたようだと言う。雇用条件に反する弁明を聞き入れたのは、それが無視できない連続性を持っているからだった。

 虚ろな目をしていた無法者はとうとう意識を失ったらしい。申し訳ございません、深く頭を下げる男を見下ろす。

「アナタのその音には……よっぽどの価値があるんですね。ボクにわざわざ聴かせるくらいには」

 男の肩が小さく揺れた。が、反抗する気配は無い。個人的に雇っているセキュリティガードの怠慢ではないと分かった以上、ここで言葉を重ねたところで何の進展も得られないことだけは確かだった。嘘を許さないようわざわざ威圧する必要は最早無く、いくら続けてもアレンとアンの周囲に漂う不穏な気配に対する苛立ちが緩和されるわけでもない。引き続きお願いします、声から棘を引き抜いて踵を返す。

 夏準が背負っているものしか見えていない不届き者を視界に入れない内に片づけさせることは日常の一部だ。しかし、ここのところは何故だか二人だけを狙っているとしか思えない不審な人物が多発していた。意図がまるで読めないところに底知れない気味の悪さを感じる。周囲できな臭い動きがないか翠石組にも探りを入れたが、やはり何も掴めない。

 家の近辺で行うことでもなく、とんだ無駄足のために遠出してしまった。薄暗い車中でイヤホンを身に着ける。流れ込むのは次のステージで歌う新曲だ。今回は練習のために使える時間が短いので、それぞれ暇さえあれば聴き込んでいる。そんな状況でも、合わせる度にアレンジを加えてくるアレンの熱量にアンと共に呆れ顔を並べる毎日だ。引き下がっていた口角が自然と緩む。

 マンションに戻ると、コンシェルジュに呼び止められた。少し困惑の混じった表情に嫌な予感を覚える。渡されたのは送り主の無い手紙。

 二人が居るかを確かめずに戻った自室で封を開いた。飾り気のない白い紙と、更にもう一枚封筒が出てくる。パーティへの招待状。そして、プリントアウトされた簡潔な手紙。三人での参加を促す文言の後に続く、「さもなくば」という字を冷たく見下ろす。

 夏準の中に投げ入れられたものは永遠だろうか。もし、投げ入れた二人を失っても、それは夏準の中で変わらずに輝くのだろうか。『両親』にそれなりに愛された記憶は、ゆっくり腐り落ち怨嗟と怒りにどす黒く塗り替わっていくだけだった。けれど、きっともう怨嗟と怒りで満たすことはない。どんな理由があっても、詰め込まれた全てを何一つ汚すことなどできそうにない。

 万が一が起きるとしたら。果たして、燕夏準は人でいられるのだろうか。そんな風にふと思うのだ。

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