※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21796298
※ お題箱で頂いたお題「風邪をひいてしまった激レア夏準が、看病をするアレンに『いかないでください』とか甘い言葉を言ってそれにアレンがドキドキするというお話」
「あれ? 夏準の分は?」
アンがきょとんと目を丸めてキッチンを振り返った。相変わらずどこに出してもいいねが連打されそうな写真映えする朝食──ホットサンドとサラダの皿、カップスープはそれぞれ二人分だけだ。トラックの作り込みが楽しくなってしまい、つい明け方まで作業していたアレンは重い頭と重い瞼を無理やり押し上げてアンの視線を追った。マグカップを片手に自分の城に籠っている夏準は何でもないような顔でこちらに手のひらを差し出している。
「ボクはもう食べましたので。二人でどうぞ」
「何かあるのか?」
「いえ……」
アンの顔がこちらに戻ってこないし、アレンも夏準から視線を逸らさない。そこでようやく夏準は澄ました表情をわずかに崩した。二人の視線を煩わしそうに手のひらでひらひら払う。
「少し、体調が良くないので。それに合わせたものにしたんです」
「体調!? 夏準が!?」
「まさか、また、メタルの……!?」
「そうなると思いました。とりあえず座ってください」
「座ってる場合じゃないよ!」
「そうだよ、夏準が体調崩すなんて……」
「座ってください」
大声を出されたわけでもないのに、切っ先を研がれた声と視線に口を閉ざされてしまった。ダイニングテーブルに両手をついて不本意を噛み締める。そんなアレンとアンの不満を正面から受け止めて、夏準は呆れたように険しい表情を緩めた。大したことじゃないと言っているんです、とため息と一緒に囁く。
「風邪の引き始めだと思います。春服の撮影だったんですが、雨に降られてしまって」
昨日丸一日かけた撮影に出かけていたから、その間の話だろう。メタルとは関係のない原因に少し体の力を抜くが、それにしても。取り組む何事に対しても自分の納得のいくレベルに仕上げるために、その土台の体調管理を一際気にかけている夏準だ。
「もーなんでそんな時まで……僕たちがやるのに」
「見ての通りそこまで酷くもないですし、ついでです」
「何かあるなら今からでも俺がやるから。休んでてくれ」
「結構です。近寄らないでください」
キッチンに向かって足を踏み出そうとしたアレンを、また鋭い声が制す。むっと顔をしかめたが迎え撃つ夏準の視線も冷たい。
「アナタたちにうつすと面倒ですから。特にアレン」
「うっ……」
「自覚があるようで何よりです」
アレンもほんのたまに風邪を引っかけることがあるのだが、大抵は作曲中の不摂生とステージでの無茶とその他諸々が溜まりに溜まってのことなのでそこそこ長引いてしまう。しかもそんな時に限ってこれまで思いもしなかったメロディーが浮かび、二人の目を盗んで作業に没頭し、ベッドに縛り付けられそうな程怒らせたことは一度や二度ではない。
「近寄るくらいじゃうつらないだろ。今は元気だし」
「今朝もデスクで潰れていたくせによく言えますね」
しかし、それはそれ、これはこれ。近寄るななどと言われると余計に何かまた隠されているのではと疑う気持ちが出てくる。じりじりとスリッパをキッチンに滑らせるアレンとアンを見て、夏準は表情に苦さを増した。いかにも渋々、部屋着の両袖を捲ってホールドアップの格好だ。申告通り異変は無さそうに見える。
「大げさに心配しなくても大したことではありません」
「そうやって言って無理するじゃん」
「そうしないようにちゃんと白状したでしょう?」
アンがちらりと視線を送ってきたのですぐに頷きを返す。問い詰めなかったら言わなかったことは間違いない。じとりと湿った視線を送る。
「……さすがに大事を取って休みますから」
「じゃあ、俺も」
「僕も!」
「ボクを体よくサボりの口実に使わないでください」
「そういうわけじゃ……」
「アナタたちが居たのでは休めるものも休めないと言っているんです」
キッチンカウンターに到達したアレンとアンをピシャリとせき止める言葉に、また不本意を飲み込まされてしまう。
「……そういう時は本当に無理しないで。頼ってよね」
「分かってます」
頬を膨らませたアンの不機嫌な声に、夏準はとうとう苦笑を漏らした。そして目元を緩めて首を傾げる。ピアスがふらりと揺れた。
「アナタたちがいつも通りでいてくれると、ボクも安心できるんです。こう言えば、分かってくれますか?」
アンにちらりと視線を送ると、すぐに頷きが返ってくる。んん、猫みたいな唸り声が二人してほぼ同時に喉から出た。
「……あいつ、ずるいぞ」
「夏準はねえ……」
「何か?」
「何かじゃないだろ」
「ほーら、ベッド行く!」
とうとうアンが痺れを切らしてキッチンに踏み込み、籠城を突破する。夏準の腕を掴んでキッチンからぐいぐい引っ張り出しているので、アレンもそれに続こうとしてバックステップで冷蔵庫に戻った。ミネラルウォーターを引き抜いて夏準の部屋に向かう。
アンに部屋に押しやられ、エプロンを剥ぎ取られ、夏準は無駄な抵抗をする気も無くなったらしい。大人しくベッドに横になっている。そのヘッドボードにペットボトルを置いた。
「水、置いとくな。薬は?」
「飲みました」
「何かあったら絶対連絡してくれ」
「本当に大げさですねえ」
「病気の時はこれがフツーなの! めいっぱい心配されて大人しく休む! いい子にしてなきゃダメだからね?」
「……楽しんでませんか?」
アンからカラーグラスまで引き抜かれ、その勢いをからかうように夏準が小さく笑っている。その温度差が唐突にもどかしくなって、アレンは布団を引き上げてその肩をベッドに押さえつけた。
「そんなわけないだろ。心配だよ」
夏準は憮然と覗き込むアレンを笑みを消して見上げている。その怪訝そうな表情がまたもどかしい。けれど、これ以上何と言っていいかも分からず、夏準の視線も逸れていってしまった。分かりました、何も分かってなそうな呟きひとつだけ返されて目が閉じる。何とも言えない気持ちのやり場に困っていたが、アンに背を宥めるように叩かれて大人しく諦めることにする。今はとにかく、無理せず休んでくれさえすればそれでいいのだから。
「多分結構きついんじゃないかな」
「だよな……」
部屋を出るなり、ため息混じりにアンが囁いた。本当に少しの違和感程度のことなら夏準ならうまくごまかせるはずだ。もしくは雑談として自分から話していたかもしれない。隠したがるのはそれが夏準にとって許せない弱い部分だから。
「僕たちが居たんじゃ休めない、かあ……」
「そういうところあるからな……」
別にアレンもアンもそんな夏準らしさを曲げてほしいと思っているわけでもない。ただ、そんな夏準のためにできることが無い自分に納得できないだけだ。
とりあえず夏準の希望通りに朝食を片づけ、大学へ行き、西門に風邪に良い食べ物を教えてもらったりしつつ、買い物を終えて速やかに帰宅したわけだが。案の定、スマートフォンには一切連絡は入ってこなかった。買い込んだあれこれをアンに任せて夏準のドアをノックする。
「寝てるか? 入るぞ……」
いつもなら返事を待つが今はその数秒すら惜しい。そっとドアを押し広げるなり、ケホケホと咳が聞こえてくる。驚いて部屋の中に飛び込んだ。早足でベッドを覗き込む。喉からなんとか押し出されているような呼吸に胸が上下して、汗で湿った前髪の間で眉が苦しげに寄せられていた。
「あっつ」
湿った額に触れた指に伝わる熱は明らかに高い。どう見ても悪化している。閉じられていた目が薄く開いた。熱で充血して潤んだ目の光の弱さにドキリとする。
「夏準」
「アレン……うつり、ます」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
掠れた声を押し出したせいでまた咳が出て、夏準はそれを無理やり抑え込むように顔を枕に伏せた。ドアの向こうからアンの声がかかる。アレン? 夏準どう? ──まずいことになったと迷わず報告しようとする腕を、熱くて湿った手のひらに掴まれた。驚いて振り返るアレンを夏準の苦しげに細められた目がじっと見上げている。アレン? アンの声が近づいてくる。
「後で一緒に怒られてくれよ」
囁くと、夏準は枕に頭を擦りつけるようにして弱く頷いた。腕を掴まれた手がずるりと落ちる。苦笑して、部屋から早足で抜け出した。今にもドアノブを捻ろうとしたアンとかち合う。
「寝てた。買ってきたのは起きてからかな」
「そっか。熱は?」
「あると思う。ジェルシート貼っとくな」
「うん」
ドアに背中を預けて動かないアレンと、その正面でドアノブに手をかけたままのアン。ごく近い距離で耳障りな無音のトラックが充満する。
「アレン」
「ん?」
「騙されてあげてるんだからね」
ため息と共に笑みを傾けるアンに、アレンも苦笑を返した。ドアノブにかかった指先が離れていく。
「頼んだよ」
「うん」
「ダッシュで帰ってくるから」
「うん、そうしてくれ」
ごまかすとか嘘を吐くとか、そういうことが好きになれないアレンを、アンは結局呆れたように笑うだけで済ませてくれた。後ろ髪を引かれる様子のアンを見送って、約束通りジェルシートの箱とタオルとをまず掴み、買い込んだあらゆるドリンクを抱え込んで夏準の部屋に戻った。最早ノックも省略だ。
「夏準」
「だい、じょうぶです……」
「大丈夫なやつの声じゃないだろ」
「アンは……」
「バイト行った」
安心したように細く吐かれる息になんとも言えない気持ちになった。夏準なりにアンのことを気遣っているのだろうと思うけれど、きっとこの姿をアンが見たらいい気持ちにはならない。
「……買いすぎ、です」
抱え込んだスポーツドリンクや栄養ドリンクの名前を読み上げながらヘッドボードに並べていくと、目を閉じたまま夏準が掠れた声で茶々を入れた。その呆れた笑みの気配に、胸に詰まったものを少しだけ振るい落とすことができた。ベッドに腰かけてタオルを額に押し当てる。ごしごし顔や首元の汗を拭ってやると、その感触が煩わしいのか筋張った手が伸びてきて止められた。けれどその力があまりにも弱々しいので無視して続行する。
「アレン。もう、いいです、から」
「これ、貼るだけだから」
夏準の目がまた薄く開いた。その目の前でジェルシートの箱を振って見せる。シートを一枚引っ張り出し、ペりぺりフィルムを剥がし、額にぺたりと貼り付ける。冷たさに驚いたのかまた目が閉じ、は、と熱い吐息が漏れ出た。は、は、浅い呼吸が薄暗い部屋に続く。
「居てもいいか?」
タオルで乱した髪に指を伸ばして軽く整えてやった。こんなこと、普段なら絶対にしようとも思わないし、思ったとしてもできない。新鮮──と表現したら不謹慎だろうか。よく分からない、知らない気持ちが湧き上がってきている。
「えっと……体が重くて、何もできなくて、でも眠れなくてさ。頭だけ動いてて……すごく、もどかしいの、分かるから。気持ちだけだけど」
「いり、ません」
手強い。はあ、苦しげに大きく息を吐き出して、夏準はもぞもぞと寝返りを打った。こちらに背を向け、それを小さく丸めて咳を吐き出している。余程うつしたくないのだろう。布団越しにその背を撫でた。
「何か食べたか? あれから」
「はいりそうに、ないです」
「そっか。でも、薬飲むなら何か食べないと。だろ?」
それはアレンやアンが風邪を引っかけた時に夏準に口酸っぱくかけられる言葉だった。夏準が朝、自分で抜かりなく準備していた粥に、西門オススメのスープ、買い込んできたフルーツやアイス。
「いやです」
そのお品書きをまたすげなく突っぱねられてしまった。しかも子供じみたたったの四音で。きっと調子の悪さが極まって長く話せないだけだろうから、そんな場合でもないのだがどうしても笑えてくる。こちらに背を向ける肩に手を置いて火照る横顔を覗き込んだ。アレンが風邪を引いた時にベッドに押し込める夏準も、最後には今のアレンみたいな顔をしている気がするな、と思い返して少し照れくさい。
「俺とかアンにはスプーンつっこんででも食べさせるのにか?」
「でないと、治らないですから」
「な? だから……」
「ふたりが、いつもどおりではないと……不安、なので」
不意打ちに言葉を取り落したアレンを夏準が億劫そうな細目で見上げた。けほ、小さな空咳と一緒に「うつらないでください」と熱まじりの囁きをこぼす。いつもの飾り立てがない素朴な呟きが、やっぱりそんな場合でもないのに嬉しいと思ってしまう。「らしさ」のために弱さを巧妙に隠されるよりずっと。
「その不安は俺も一緒だよ。夏準にも早く治ってほしい」
「一緒じゃないですよ」
げほげほ、喉にひっかかる苦しそうな咳を抑え込むように夏準が布団を引き寄せ背を丸める。出ていけ、とその背が如実に語っていた。もういい加減喋らせるのをやめて休ませるべきだろう、それも分かっている。けれどどうしても黙っておけなかった。
「一緒だろ」
「いいえ」
「なんで夏準に分かるんだよ、俺の不安だぞ」
言って、自分までなんだか子供じみた言い分になっていることに気づいた。病人に対してムキになるのは間違いなく大人げない。とりあえず夏準と同じように何か無理やり口に突っ込んで薬を飲ませよう。そう決意してベッドから立ち上がろうとした。
「どこでも、行けるから。どこまでも、どんなところへも。ボクをおいて」
分かっている。
体調を崩した時は頭だけが働いていて、体の苦しさで眠りも充分ではないから、ロクでもないことばかり考えるのだ。熱のせいだかそれを抑える薬のせいだか、完治したあとに見たらなんだこれ? となる変な思いつきに走ったりする前科がアレンにも山ほどある。
けれど何も無いところから出てきたものじゃない。心の奥底にその種火が無ければ燻る言葉じゃない。
苦しい呼吸と咳で上下する布団の塊に腕を置いた。スリッパを放り捨ててベッドに足を乗り上げる。夏準の部屋のベッドは男二人寝転んでもまだ余裕がある広さだ。高い背を丸めている背にぎゅっとくっついた。嫌がるように身じろぐ背に腕を回す。
「どこでも行けるから、ここに居るんだよ」
熱の塊が身じろぎを止めて静かになった。縋るように額を押し付けてぎゅっと腕の力を強くする。
「分かってるだろ? 分かっててくれよ」
いつも通りでは到底聞けなかっただろう言葉を聞けて良かったと思う半面、こんなに心臓に悪い思いはもうしたくないなと思う。ありもしない「不安」に逃がさないでちゃんと掴んでないといけないのはアレンのほうだ。
「……この後、何が起きるか僕もう分かっちゃったかも……」
店の残り物のフルーツやゼリー、アルコール消毒という名目の名酒数本を担がされ帰路を急いだアンは、部屋に満ちる呼吸の穏やかさに脱力した。ベッド中のシーツやらデュベやらブランケットやらに包まれている夏準はいいとして、それと向き合って眠るアレンは薄布一枚もかかっていない。くしゅん、タイミングよく発されたくしゃみに苦笑が漏れた。とりあえず叩き起こして引き離すか、そのままにして二人とも布団で簀巻きにしておくか、難しい判断を迫られている。