フフ、と夏準も笑っている。その音に交じるあまりの気安さにアレンは顔を上げた。夏準の目には少しの怒りも嫌悪も見えない。あるのは呆れと親しさだけ。
そこでアレンは気づいた。気づいてしまったのだ。
なんでもない日常の一瞬だ。アンの帰りを待ちながら練習とアレンジを繰り返す深夜の作業。散々甘い声を間近に浴びて、アルコールなんて無くても気分はほろ酔いだ。散々積み重なった寝不足の下に蠢く愉快さで喉が震える。くすくす笑いながら夏準の膝に額を付けた。目を閉じると意識がぐるりとひとつ回転する。体は間違いなく眠気を欲しているのに、頭の一部分だけが冴え渡って次の音を探している。くくく、肩が揺れる。それで、降ってきたのが夏準の笑みだった。
ぱちりと目が合う。アレンと違って何にも気づいていないだろう夏準は、笑みを引きずったまま不思議そうに顔を傾けた。脚に体を添えてそれをじっと見上げる。
「アレン?」
そこにはやっぱりアレンを責める音は無い。ただ純粋な疑問が柔らかくアレンの上に降ってくる。フ、夏準はまた笑った。
「何か言わないと。よく躾られたペットみたいですよ」
自分で言ったことが面白くなってしまったのか、目を意地悪く細めた夏準はまた吐息に笑みを混ぜている。夏準はやっぱり気づいていないのだ。疑問なのはアレンの沈黙だけ。その他は夏準の中では少しもおかしくない、らしい。
体を起こした。そしてソファにしがみ付きよじ登るようにして夏準の横に腰かける。夏準は何も言わずに隣にやって来たアレンを面白そうに観察している。アレンが何を言い出して何を始めるのか、愉快そうに待ち受けている。
手を伸ばした。指先が夏準の頬に触れる。同じ男とは思えない柔らかい肌。意外そうに目が丸くなったのは一瞬で、何がしたいのかと言葉なしで問う笑みが瞳に宿る。首を傾けて手のひらに添う。
次は顔を近づけてみる。色素の薄い、赤みのあるアンバー。光が入ると少しピンクに色が近くなって、瞳の色まで甘い色をしていると思う。ドS腹黒のくせに、アレンの眼光を受け止める色は柔らかい。ここまで近づいても夏準は疑問ひとつ挟まない。嫌がって身を逸らしたりもしない。アレンが今、そうされたくないことをきっと分かっている。
更に顔を近づけた。鼻がぶつからないように顔を傾ける程の距離。もうぼやけて表情も窺えないけれど、夏準はやっぱり何も言わない。また、フフと呆れ混じりの親しげな笑みが漏れるだけ。ついには目まで閉じられてしまった。そうなるともう、触れないでいる理由もない。何杯も空けたコーヒーの匂いと苦味がかすかに感じられた。甘くないのはそれだけだ。
体を離してまた夏準の表情を観察する。その笑みでようやく自分が何をしたかの実感が追いついて来た気がする。キスの名残、夏準の肩に手を置いたまま、アレンは呆然と呟いた。
「俺って……すごいかも」
「はあ?」
ふは、夏準が珍しく笑みに表情を無邪気に崩す。心をくすぐるその表情を見てやっぱり、と確信を深くした。アレンは気づいてしまった。夏準にここまで許されて、愛されているのは、絶対に自分だけに間違いない。