「忠成!」
さすがと言うべきか、東夏は硬直から一瞬で立ち直り鋭く忠成を呼びつけた。振り返りもせず腕を伸ばし、その襟元を掴んで顔を無理やり近づけさせている。とてつもなく傲慢な態度なのに東夏がやっているとどうにも自然に見えてしまうし、忠成も何故だか幸せそうに見えてしまう。
「説明しろ」
「申し訳ありません、坊っちゃま。僭越ながらワタクシ、燕家に連なる方々は全て記憶しておりますが……この方は……」
「御託はいい。お前が何も知らない無能なのかどうかだけ答えろ」
「は、はい……ワタクシめ、愚かで役立たずの豚でございます……! お叱りはいかようにも……!!」
何かが始まってしまった。よく分からないが、なんとなく幼い少年に見せるものではない気がする。ちらりと視線を下げると、気を利かせたアンが少年の両耳を塞いでくれていた。
「ただ、ひとつ。敢えて申し上げるなら、幼い頃の夏準坊っちゃまと瓜二つ。似ているというよりも……そのまま、でございます」
恍惚と頬を染めたままではあったが、忠成の声には困惑も混じっている。普段同じ人間と思えない姿ばかり見ているせいで余計にそれが真に迫って聞こえた。ぐっと眉根を寄せた東夏は忠成の首を背後に振り投げ、大きな瞳でアレンとアンを睨み上げてくる。黄金に似た黄味の強いヘーゼルに甘さは一切なく、そこは夏準とは全く異なっている。
「どういうことだ」
「東夏たちにも分からないのか……」
「多分、夏準が連れてきたんだと思うんだけど、その夏準と連絡が取れないんだよ! もう二日も!! 一昨日の夜、実家の関係でパーティに出るって行ったっきりで……ねえ、何か知らない!?」
身を乗り出したアンの勢いに全く怯まず、東夏はつまらなそうに話を聞いた。そしてアンとアレンの凝視を同じく冷めた目でじろりと眺め回し、最後に煩わしそうに息を吐いた。中に入れろ、苛立ちが露骨に混じった言葉が吐き捨てられる。えっ、アンと一音がユニゾンしてしまった。
「立たせたままにするつもりか? 燕家の次期継承者たるこの僕を。雑種の小汚い小屋など……本来は一歩も踏み入れたくはないが。こちらも夏準に重大な用件がある。何か知っているなら全て吐いて……」
滔々と刺々しい言葉をフロウに乗せている東夏が口を閉ざしたのは、小さな手のひらが伸ばされたからだ。左手でアレンの服の裾を掴んだまま、少年が東夏に恐る恐る右手を伸ばし、しかし触れるのをためらっているようで宙でそれをさまよわせる。見下ろす東夏と見上げる少年、困惑をしかめ面でごまかしたような表情がやっぱり似ていて、そんな場合でもないのに少し笑ってしまった。似たような笑みをアンと交わして頷く。
「そうだな。とりあえず入ってくれ。コーヒーでいいよな?」
「夏準のお気に入りの豆出したげよっか?」
「要らん!」
「申し訳ありません。坊っちゃまは紅茶を、それもお二人のような方では容易には手に入らない最上の茶葉をワタクシが心を込めてお淹れしたもののみお好みになりますので……」
「余計なことは言わなくていい! 白忠成!」
「はい……!」
怒りに任せて玄関に蹴散らされた靴を、やっぱり何故か嬉しそうに忠成が片づけている。この二人の関係は相変わらず複雑だ。ちょっとアレンの理解は及んでいないが、この特殊さがあの唯一無二の楽曲世界を構築していると思えば納得もできる。
リビングに入るなり、忠成は我が物顔でキッチンに入っていった。どうやら言葉通り手ずから紅茶を淹れるつもりらしい。ちょっとぎょっとしたが今はそんなことに構っている場合でもない。少年がなんとも言えない顔でその様を眺めている。
どこに通すか迷っている内に、東夏はダイニングテーブルの椅子にさっさと腰かけた。こちらもやはり何の遠慮も無い。一応この部屋の原住民であるアレンとアンの方が身の置き所に迷ってしまったが、とりあえずはその正面に並んで座ることにする。少年はアレンの膝の上に乗るのだろうと思いきや、東夏の隣の席に腰かけた。しかし、また困惑を不機嫌でごまかす表情で見下ろされても気づかないフリをして、正面のアンの顔をやや緊張の滲む表情でじっと眺めている。
「お前……何者だ。まさか」
「東夏、それもう僕たちがやったから」
「一旦置いとこう。さすがに違うだろ」
「何を考えている? あの雑種が居るんだ。他にも腹違いが居る可能性を言っている。それならば忠成が知らないはずもないがな」
ああ、そっち。そっちもそりゃ考えてたけど……アンと二人して呟きを口の中でモゴモゴ転がす。東夏の心底煩わしそうな目が痛い。1ミリでもこっちの可能性を考えなかったか追及したら絶対に嘘だろと思わないでもないが、それを確認できたところで何にもならないので大人しく気まずさの後味を飲み込む。
「喋れないみたいなんだ。どこから来たのかもよく分からない」
「筆談ならどうなんだ」
間髪入れずに投げられた問いに思わずまたアンと顔を見合わせた。試してない! また声が重なる。慌ててローテーブルに放っているメモ紙とペンを回収して少年の前に広げる。「程度が知れるな」、という東夏の呟きがまた鋭い。さすがは夏準の弟だ。
少年がおずおずとペンに手を伸ばした。ぎゅっと紙にペン先が押し付けられ、線がいくつか引かれる。しかしそれは文字の形を成しているようにはとても見えない。少年自身がそのことに戸惑っているように見えた。
「書けない、のか?」
アレンの言葉にペンがぎゅっと握り込まれて慌てる。そっか、大丈夫、と慌てて付け足すが、東夏のつまらなそうな溜息が追い打ちをかけた。
「ジュニア、無理しなくて大丈夫。もしかしたら何か……ショックなことがあったりして表現することができないのかも。そういう話聞いたことあるから」
「……これ以上無駄な時間を使う必要もないな。お前たちが話せ」
相変わらず横柄な東夏の態度だが、少年にこれ以上のプレッシャーをかけないようにしているようにも見えてしまう。やっぱりどうにも嫌いになれない。どこか夏準に似たところを見つけてしまうせいだろう。
アンと二人で分かっていることを順を追って話していくが、改めて整理すると分からないことだらけだ。腕を組み、ひたすら値踏みするような鋭い視線を送っていた東夏は、話が途切れたところで冷え切った声を挟んでくる。
「嘘を吐いている」
「えっ!?」
「嘘じゃないって、本当に夏準は……」
「お前たちの話などしていない。小賢しい真似をしているのはあの忌まわしき雑種だ」
いちいち言い回しが攻撃的だが、東夏が言いたいのは夏準が嘘を吐いているということらしい。面食らって黙り込んだ。言葉通り忌々しそうな東夏の視線の先は明後日を向いている。その先には頭に思い描く夏準が居るに違いない。
「『燕家に関りのあるパーティ』を僕が把握していないわけがない。そんな場があったとは聞いていない」
何も返せないアレンたちへちらりと視線を戻し、東夏はまたつまらなそうな鼻息を漏らした。目や口元が冷笑に引き上げられる。
「そもそも、燕家の名を純血の僕ではなく有象無象に冠するということがどういうことか分からないのか? それが僕の耳に入ったら何を失うのか……その程度の想像力も働かない愚物がそれ程多いとは思わないが。特に、燕家から施しを得たいなら嫌でも無い脳を働かせることになる」
分からないのかと言われても、アレンもアンも「財閥の跡目争い」なんてもの想像もつかないし、そこにある損得計算に少しも興味を見出せない。ただ、そこに価値を感じる人々にとっては、夏準と東夏のどちらに声をかけるかというたったそれだけのことが自分の立場を大きく変える、ということらしい。何とも言えない感情を横並びでまた口の中、砂のように噛む。
「相手をどれだけ知っているか……ではなく、相手の何を知っているか、だったか。大層有用な絆だな」
一拍遅れて、よく分からない招待を受けた時の夏準の言葉だと思い出した。夏準が深く突き刺したリリックを引き抜いた東夏が、今度はその切っ先をアレンとアンに向けている。
「俺たちを……付いて来させないつもりだったんだ。最初から」
「ほんとに、もう……!」
夏準は恐らく、経緯を省略して深く突っ込ませないためだけに燕家の名前を使ったのだ。少年の前だからと抑えたものが戻ってきたのか、アンが肘を付いた手で顔を覆った。あの時、やっぱり違和感を放っておくべきではなかった。自分を世界の中心に置くような顔の下、アレンやアンを世界よりずっと小さな部屋の中、その中央に大切に置いてくれていることを今はもう知っているのに。
「結局、何も分からないということか。この僕にあれ程の手間をかけておいて……!」
「坊っちゃま」
苛立たしそうに呟いて口元に指を添える東夏の前に、ティーカップが場違いなほど優雅に差し出された。東夏はそれをしかめ面で見下ろしている。
「気分じゃない」
吐き捨て、ソーサーを手の甲で忠成とは反対側へ押し出した。ペンを両手でぎゅっと握りしめて俯いていた少年が驚いた様子で顔を上げるが、東夏の鋭い視線はアンへ向けられている。
「アン・フォークナー」
「えっ、うん」
「夏準の豆の場所とやらを忠成に伝えろ」
「ご心配なく、坊っちゃま。既に把握しております」
「……なんで把握してんの?」
ふう、吐息と共に脱力したアンは苦笑いを浮かべた。腕を伸ばして少年の手からペンを引き抜き、安心させるように頭を軽く撫でる。その様子にアレンも少しだけ肩の力を抜くことができた。
「手間って……何なんだ? そう言えば東夏たちはなんでここに……」
「死亡信号だ」
言い切らない内に東夏が答えを差し込んでくる。その問いが来るのを待ち構えていたかのように。『死亡』という言葉の重さと、黄金色の瞳に立ち昇る暗い炎にさすがにたじろぐ。
「……僕たちの生死でどれほどの金が、ヒトが、モノが動くと思っている。生命の価値はお前たち凡人どもの比にならない」
「どういうことだ?」
低い声で呪詛のように吐き出される言葉に思うところは当然あったが、今はそこで立ち止まらないことにした。話に付いていけないことを示すと、東夏の表情が大きく怒りに歪む。
「燕家の人間の生体信号は常にモニターされている! 有事の際に備えてな! それが途切れた場合、既定時間内に取り消されなければ死亡したことになる」
「まさか、夏準が……!?」
「僕だ」
最悪の想定にざわつく心を無理やり押し留める更にもう一段低い声。急にまた理解の外に放り出されて言葉が続かない。気まずい沈黙数秒。ギリ、と東夏の口から歯ぎしりの音が漏れた。
「だから、発信されたのは僕の死亡信号だ!」
「ワタクシめ、あの時のことを思い返しますと、未だに気が遠くなるようでございます……いかに坊っちゃまを目の前にしておりましてもワタクシの心臓こそ止まる思いで……!」
「そんなことはどうでもいい! 確定処理までご丁寧に……!! あらゆるシステムに口座……! その再開にどれだけ手間を……!!」
キッチンからのコーヒーの香り混じりの嘆きを断ち切って、ダン、と振り下ろされた拳でティーカップごと少年の肩も跳ねる。それを煩わしそうに一瞥した後、鋭い視線はまたアレンたちに向けられた。
「それを……夏準がやったってこと?」
「それ以外に考えられない! あの狡猾な雑種以外に……!」
よっぽど大変な思いをしたことだけは伝わってくるが、未だに何がどう大変なのかピンときていないのでどう話を続けたらいいのか分からない。するとそこに、今度はコーヒーを満たすティーカップを持った忠成が戻ってくる。
「夏準様の信号は日本へ赴かれてからすぐに途絶えていました。恐らく、ご自分で人をお探しになって処理されたのでしょう。そしてきっと、その際に逆に利用することも考えついておられた。さすがは燕家の御子息と感服せざるを得ません」
「……それ以上鳴くな。躾がまだ足りていないのか?」
「は、はい……!」
やはり何故だか嬉しそうな忠成を一目すら見ることはなく、東夏はカップに手をかけた。そして思い切り眉をしかめ、心底憎々しげな顔でカップをソーサーに叩きつけている。
「夏準が何も考えずにそんなことするとは思えない。特に……東夏に対しては」
「うーん、そうだよねえ」
「お前たち如き雑草に何が分かる」
「言ってたでしょ、自分で。『何を知ってるか』、だって」
夏準が東夏に対して、燕家に対するものとは異なる感情を持っていることはよく分かっている。もちろん一言で表せるような簡単な感情ではないことも知っている。ただ、家族という、三人にとっての苦しい関係の象徴を超え、東夏という少年の音楽や生き方に興味を持っているように見えた。雨に濡れ、ボロ雑巾みたいにアレンの手の中に残っていた燃えカスをさり気なく覗き込んでくれた時のように。だから尚更、生死を弄ぶようなことをするとは思えなかった。
「多分……その方法しか無かったんじゃないか。誰かの助けを呼ぶために」
スマートフォンが使えたら真っ先にアレンかアンに連絡が入ったはずだ。それを疑いたくはない。それすらも間に合わない状況で、奥の手として使われた連絡手段。
東夏はアレンの推測を何の感情も浮かべていない無表情でただ聞いている。焦れたアレンが更に口を開いたところで、忠成のほうから気の抜けた通知音のような音がして言葉を阻まれた。失礼、コートの内側のどこにそんなスペースがあるのか、タブレットを引き出して内容を確認している。
「坊っちゃま。ご依頼への報告が」
「言ってみろ」
差し出されたタブレットを受け取らない東夏に、忠成は恭しく頭を垂れた。
信号の発信源がとあるホテルであること。そのホテルでは国内外の要人が集うそれなりの規模のパーティが開かれていたこと。名簿に名前は無いが、夏準らしき男は目撃されていて、声をかけた人物が居る証言があること──聞き終えた東夏はまた表情を歪めた。
「あの男か……虫けら以下の脳無しだな」
「東夏……!」
「この僕を愚弄した償いをと思っていたが……どうやら無様な燕夏準が見られそうだ。それで溜飲を下げてやってもいい」
東夏もきっと、アレンと同じ考えにとうに至っていた。そしてその確認のためにわざわざ自分から乗り込んできたのだ。アレンの声と目を煩わしそうに振り切って立ち上がり、意地の悪い笑みを忠成に向けている。そのまま歩き去ってしまいそうな気配を感じてアンと共に慌てて椅子を蹴って立ち上がったが、東夏の隣に座る少年が手を伸ばすほうが早かった。手首を取られ、たちまち東夏の視線が険しくなる。
「何だ」
少年の表情は相変わらず硬いが、東夏の威圧に怯んだ様子は少しも見えない。口を開け、しかしやはり声が出ないのだろう。悔しそうに顔を歪める。
「한국어로 쓰지 그래?」
東夏が何かを早口で吐き捨てて少年の手を振り払った。少年は息を大きく吸ってテーブルに向き直る。ペンを取り、また紙にぎゅっと押し付けた。覗き込む紙の上、ハングルが一字生まれていた。一瞬動きを止めた少年は、勢いを付けて次の文字を繋げる。
「何を書いてるんだ?」
東夏に嫌そうな表情を返されるが、ここで引くわけにもいかない。その目を見つめ続けていると、いかにも面倒そうな所作で緩慢に視線がテーブルに落ちる。
「『待っていた、ありがとう』、『ごめんなさい、でも』、『僕を助けて』、『早く』……『戻らなければ』」
少年は既にペンの動きを止め、東夏をただじっと真剣に見上げている。東夏もその顔をじっと凝視する。
「東夏」
「……『死んでしまう』、ですか」
口をつぐんだ東夏に焦れて名前を呼ぶと、忠成が代わりに続きを読み上げた。二度目に聞いた重い響きの言葉が今度こそ夏準にかかっていることを確信する。
「東夏、頼む。俺たちも連れて行ってくれ」
テーブルを回って、少年の背後に立った。細い肩に手を置き、東夏と目を合わせて頭を下げる。
「俺たちには夏準が居ないとダメなんだ」
アレンの影の中、少年がゆっくりと顔を上げた。大きな瞳と目が合う。アンバーに赤みが増したピンク色の海。
「夏準にも、俺たちが居ないとダメなんだよ」
またくしゃりと少年の顔がと苦しげにしかめられた。何がそんなに苦しいのか分かった気がする。泣きそうになるのを堪えている表情なのかもしれない。
「軽い頭を下げてようやく糸口を見つけたにしては随分な大口だな」
棘だらけの冷たい言葉に顔を上げれば、東夏はもうとっくに体をリビングのドアへ向けている。細く長い脚を払って大きく一歩を踏み出し、背後に続く忠成の名を呼ぶ。
「奴隷志願者だ。せいぜい使い潰してやれ。足手まといになったら即刻蹴り出せ」
「はい。そのように、坊っちゃま」
「ど、奴隷って……ほんっと、兄弟揃って素直じゃないよねー? ジュニア」
「何か言ったか!」
「いーえ! ありがとうございます東夏坊っちゃま!」
いつの間にかアレンの隣に並んでいたアンが、少年を覗き込み明るい声を上げていることにアレンまで励まされる。少年の縋るような目に強く頷き返した。
「大丈夫。絶対助ける。行こう」