自分で車を回すことにしたのは、万が一何かが起きた時の選択肢を狭めずに済むからだ。ドライバーを待たせていると車を捨てる判断の重みが不当に大きくなる。そもそも夏準にメリットがあるとは思えない招待だ。形式や体面にこだわる必要も無いだろう。
パーティ自体には特別怪しい要素は無い。ただ、BAEとして呼ばれるには政治や経済の要人が多すぎる。もし誘いに乗って三人で乗り込んでいたとしたら相当浮いた印象になったのではないだろうか。それとも、集まっている人間には日本外の者も多く居る様子なので、それなりの格好をしていれば案外紛れ込めたのか。
「夏準様」
参加者の顔ぶれと自分の記憶とを一致させながら会場の端を漂っていると、ふと名前を呼ばれた。視線を送った先に待ち構えているのは冴えない中年の男性だ。にこやかな笑みからは瞳の底を窺い知ることはできない。
「お久しぶりですね。少し場所を移して話しませんか」
流暢な韓国語。当然だ。この男は本国の人間なのだから。燕財閥の重鎮などと言われることもあるが、実のところは並居る飼い犬の一匹に過ぎない。その中でも質の悪い駄犬だ。身の程を知らず、財閥に与えられた偽りの自分の姿を信じ込み、代替わりに乗じて燕家を牛耳ることができると信じ込んでいる。
断っても断ってもあの手この手で夏準を自分の舞台に引き入れようとする執念だけは感心している。東夏にすげなくあしらわれ、今度は夏準に擦り寄って来ようとしていることなどとうに調べがついているというのに。
「なるほど」
応接室の一つに案内され、腐りきった甘言を吐こうとする相手の話を断ち切った。苛立ちで足を組み替える。大人しく座っているのすら苦痛だ。
「ボクを誘き出すのには悪くない手でしたよ。実際、ボクの怒りはアナタではなく、こんな浅はかな思惑に気づけなかった自分に向いていますから」
夏準個人に汚い手でまとわりついてくるのならいくらでも無視できる。小蠅と同じだ。触れる前に叩き落とさせればいい。ただ、アレンやアンにその手が伸びたとすれば話は別だ。夏準にはそれを無視できない。それを既に知られてしまっている。
「無礼な真似をしたことは謝罪します。ただ、私も夏準様と志を同じくする者だと知って頂きたく」
「志?」
ハッ、思わず鼻で笑ってしまった。万に一つも無いが、この男が仮に夏準の『志』を知っていたなら、アレンとアンには指一本すら触れなかっただろう。それがどれだけ夏準という存在を揺らがせるかを知っているはずだ。
「やりたかったのはただの脅しでしょう。このボクに。いい度胸をしていますね」
声から視線からも温度が失われていくのが自分でも分かる。最初からこの場に夏準が二人を連れて来るとは思っていなかったに違いない。むしろ連れて来ていないことが男に夏準の弱みをはっきりさらけ出している。夏準が頷かない限り、アレンやアンの周りには不審なならず者が現れ続け、ついには二人を危険に晒すかもしれない。
夏準の威圧を正面から受けた男はそれでもなんとか笑みを保っている。目を逸らし、ポケットから取り出したハンカチで引き攣る表情をごまかすように汗を拭う仕草だ。くだらない言葉をまだ続けるつもりなのか、震える口元が開いている。無駄な根気強さだ。
「話は終わりです」
人生の中で最も無駄な五分間だったが、収穫はあった。相手とその思惑が分かっているならいくらでも手の打ちようはある。
「アナタの身の毛のよだつほど低俗で凡庸な趣味に付き合う気はボクにはありません」
男が何故夏準に固執するのかも、不本意ながら情報を持っている。男の秘書や配下は見目の良い青年ばかり。アレンやアンに手が及んだのもそのあたりに理由があるかもしれないと思うと寒気がする。立ち上がろうと組んだ足を解いた時、男の笑みが醜悪に歪んだ。
「兄弟揃っていけ好かない」
男がハンカチを自分の口元に運んだ。その瞬間、背後から首元に腕を回され何かガスのようなものを撒かれる。別の人間が潜んでいたらしい。咄嗟に息を止めるが、揉み合っている内にいくらか吸ってしまったようだ。振り切って立ち上がる頃には視界も思考も揺れている。咄嗟にテーブルの上に置かれた古風な燭台のオブジェを手に取った。ひ、と情けない引き攣り声を上げた男を鼻で笑い、朦朧とする意識の中、手の中に隠していたものをテーブルに放り燭台を思いっきり振り下ろす。そうして、男の震え声の嘲笑という最悪のトラックを聞きながら夏準の意識は途切れた。