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Lost for words; no need for words



 話は戻って一日前。

「アレンも何も知らないの?」

 胸元に縋りついている少年を落とさないように慎重に体を起こした。子供と接する機会なんてほとんど無いので、扱いに戸惑いつつも抱き上げるようにして膝に座らせる。夢で見たのと同じ体勢が益々現実との境目を曖昧にする──が、まさか夏準本人のわけがないだろう。アンの詰問に弱り切った目だけで返事をすれば、アンも変な癖が付いたままの髪を困った様子で掻き分けている。

「夏準は?」
「居ない……連絡も付かなくて……」
「でも、夏準と絶対関係ある子だよな」

 既に何度か連絡を試みたらしく、アンは片手のスマートフォンの画面をちらりと確認し、落胆したようにため息を吐いた。途方に暮れて真下にある小さな頭を見下ろす。恐る恐る背中を軽く叩いてみると、肩がびくりと大きく跳ねる。力が強すぎたのかとアレンまでビクついてしまった。しかし、少年はおずおずと体を起こし、不安そうな表情でアレンを見上げてくれた。今度は刺激を与えないようにしようと頑張って笑顔を作る。

「……なんでそんな変な顔してんの?」
「変、って……笑顔だろ?」
「余計に怖いから無理しないほうがいいと思うけど。ね?」

 アンは少年と距離を保ったまま、しかし目の高さを合わせて悪戯っぽい笑みを浮かべた。少年は戸惑った様子だが不安の色が少し薄れた気がする。さすがはアンのコミュニケーション力。気まずく表情から力を抜いて少年を覗き込む。

「話せるか?」

 アレンの言葉にすぐ少年は口を開いた。しかし口を動かす度にはくはくと呼吸だけが漏れるので、戸惑うように自分の喉に手を当てている。

「話せないのか?」

 少年は諦めきれない様子で口を開いたり閉じたりを繰り返しているが、喉が全く震えず、掠れた音すら漏れ出てこない。表情が険しくなると夏準とあまりにも似ている。見ているほうが苦しくなるくらい必死な様子に、両肩を柔らかく掴んで止めた。

「話は通じてそうで良かったよ。韓国語、アンニョンとかケンチャナとか、それぐらいしか覚えてないからさ。もっと覚えようとは思ってるんだけど……」
「そうだ! ちっちゃい夏準だからぁ……ジュニアって呼んじゃおっかな」

 どう? と首を傾げるアンに、少年はゆっくりと自分の喉から手を手放す。YesともNoとも取れない微妙そうな表情だ。ダメ? と反対に首を傾げるダメ押しに諦めたように目を伏せている。小さな体に似合わないちょっと大人びた表情で、それがまた夏準を思わせた。やっぱり似ている。似過ぎている。そこにジュニアなんて呼び名を付けた日にはだ。

「なあ……アン」
「……なに?」
「まさか隠し、いてっ」
「思ってても言わなくていいの」

 容赦ない拳骨は姑息にも少年に見えないように後頭部にぶつけられた。リリックが二、三個飛んだんじゃないかと思うくらいの力だ。しかし、少年の前でする話ではないのは確かなので素直に反省する。はあ、呆れた様子でアンがため息を吐いた。それに反応して目を上げる少年に優しく笑いかけ頭を軽く撫でる。すると少年が頭を差し出すように傾いたのでアンの目が見開いた。

「なにこれ、かわいい……! ほら、こういうとこ夏準と全然違うじゃん」
「そうか?」
「大体、どう見ても7歳か8歳くらいでしょ? その時夏準15歳くらいだよ? そんなの……」

 アレンもアンも、その頃には夏準と既に知り合っている。昔から、実家の大き過ぎる力のことを考えてか、人に接する時はいつでも慎重だったと思う。笑顔でしっかり線を引き、相手の無意識を巧妙にコントロールしてそれを守らせている。アレンとアンとの間にさえ絶対に踏み入れさせない空間を作っていたくらいだ。

 ただ、一方で。インターナショナルスクール時代から今まで、老若問わずとにかくあらゆる女性にモテまくっているのも事実。ファンを引き連れて颯爽と歩く姿は日常の風景の一部だ。

「この話はやめよう」
「うん」

 本人の居ないところで下世話な怪談を続けるのはあまりにも卑劣だ。心から否定できない自分を憎みつつ、アンと目を合わせ深く頷き合い、不審そうに目を瞬いている少年に意識を戻す。

「どうやってここに来たんだ? 夏準が連れて来たのか?」

 アレンの言葉を、少年はまた何とも言えない複雑そうな表情で受け止めた。声が出せずにもどかしいのかもしれない。どうやら単純な経緯ではなさそうだ。うまく答えられないなら無理強いしないことを伝えようとして、少年の細い指が動いたので口を閉ざした。まず小さな爪の先は少年自身を差し、そしてアレンに向けられた。

「……俺?」
「アレン、ほんとに何も知らないの? 夏準が連れてきたにしても何も言い残さないわけないし……」

 何かの作業に集中していたにしても、こんな少年を差し出されて意識を奪われないわけがない。ではアレンとアンが寝落ちていた間に置いていかれたのだろうか、と考えてみても、あの夏準が書き置きひとつも残さないのは違和感がある。すると──残る可能性は「その余裕が無かった」ということにならないだろうか。

「夏準、どこに居るんだろ。大丈夫かな。何か……実家のことに巻き込まれちゃったんじゃ……」

 アンの言葉に心臓がぐらりと危うく揺れた。少年の背に手を当て、テーブルに手を伸ばし自分のスマートフォンを確認するが、夏準からの連絡はやはり無い。メッセージアプリでメッセージを送っても読まれた様子は無いし、電話をかけて返ってくるのは電源が入っていないか電波の届かない場所に居ることを伝える無機質なメッセージだけだ。

「コンシェルジュさんに聞いてみよっか。もしかしたらいつ帰ってきたかとか知ってるかも」
「電話で聞くか」
「うーん……顔見せちゃったほうが早いかもね。いつも連絡してるの大体夏準だし……」

 曇らせた顔をなんとか拭って、アンは無理やりに明るい声を出しているようだ。乱れた髪を乱雑に手櫛で梳いて体を起こす。しかしそのジャージの裾を小さな指が掴んだ。少年が突然大きく身を乗り出したので転げ落としそうになり慌てて支える。

「どうしたの?」

 きょとんと振り返るアンに少年は何も答えない。ただ大きな瞳でアンをじっと見上げ何かを無言で訴えている。アンの表情が苦笑で緩んだ。

「大丈夫だよ、夏準が帰ってきたか確認するだけだから」
「付いて行きたいのか?」

 アンの言葉に眉根を寄せた少年は、アレンの助け舟に大きく頷いた。そうなの? アンの声はどこか嬉しげな色をしている。背中を支えている手を離してやると、少年は軽い音を立てて床に跳び下りた。そしてアンに駆け寄り、服の裾をしっかり掴み直している。

「顔はそっくりだけど……やっぱり全然似てないかも」
「そうか?」

 三人で玄関まで向かったは良かったが、少年の靴らしきものは見当たらなかった。念のためシューズクローゼットを開いてみるがやっぱり無い。もちろん大学生三人の共同生活に子供用サイズの靴なんて登場しないので、代わりになるような物も無い。益々、どういう状況でこの少年がこの部屋に転がり込んできたのか謎が深まるばかりだ。

「抱えていくか」

 しゃがみ込んで少年の脇腹に手を添えたが、少年の顔がどこか不満そうに見え、やっぱりそれがどこか夏準を思わせて、そんな場合でもないのに少し笑ってしまった。手を離して背中を見せる。

「じゃあ、おんぶにしよう」

 この提案はお気に召したらしい。子供らしい高い体温とほんの少しの重みが背中にぴったりとくっついた。軽々抱え上げ、いつものサンダルに足を通そうとして、この状態でこけたらまずいと思い至りスニーカーに足を通す。一連の流れから何を考えたか筒抜けらしく、偉い偉いと子供のようにアレンまで撫でられてしまった。

「なんかいいなあ」

 エレベーターに乗り込んだところでアンがぽろりと呟きを零したが、誰かに向けたものでもなさそうなそれはカーペットに独りころころ転がっていった。それを目で追うようにアンの横顔を見つめる。目端にある少年の顔もアンの方を向いているようだ。二人分の視線を受けたアンは困ったように苦笑いを浮かべている。

「夏準は東夏が居て色々……あったのは分かってるけど、僕、兄弟ほしかったんだ」
「へえ、そうだったのか」
「一人っ子ってそう思うこと多くない? アレンは考えたことなかった?」
「いいや……うーん、そういうこと考える暇も無かったって感じかな」
「そっか」

 アンの眉が少し下がった。別にそういう表情をさせたいわけでもなかったので、アレンも苦笑を返す。兄弟が居て何かが変わったとは到底思えないが、自分のような誰かがもう一人居たかもしれないのも、自分よりも両親の期待に答えられた誰かが居たかもしれないのも苦しい想像だと思った。

「僕は……味方が居たらいいなって思ってた、かも」

 言葉尻に向けてデクレシェンドになった言葉は最後には囁きに変わる。しかしすぐにそれを振り切ってアンは笑みを浮かべた。

「今は二人と居るし、そんなこと一瞬でも思わないけど」
「そっか」
「ジュニアは? 兄弟いる?」

 仕切り直しとばかりに少年を覗き込んでいるので、アレンも首を回して少年の顔を覗き込んでみる。突然注目を集めた少年は居心地悪そうに指を一本立てた。一人っ子? とアンが尋ねると首を振る。兄弟が一人居るということだろう。

「へー……一人なんだ。じゃあやっぱり夏準たちの弟とかじゃなさそうだね……」

 ちらりとアンと目が合ったのは、「こんなに似ているのに」という言葉を呑み込んだからに違いない。そこでエレベーターが止まり扉が開いて、そのまま話は終わった。

 ロビーのカウンターに居たのはすっかり顔なじみのコンシェルジュだったので、思っていたよりもずっと簡単に話を聞くことができた。少年を連れていたので夏準の親戚の子を預かっていて急用があるという話を信じてもらえたのも良かったかもしれない。

 コンシェルジュの話をまとめると。

 夏準は昨晩、鍵を預けている自分の車を玄関まで回すよう頼んだ記録が残っている。パーティに参加するためにわざわざ自分で運転して出かけたということだ。車の鍵はまだ返ってきていないし、深夜から朝までが当番だが夏準が通ったところも見ていない。つまり、一度も部屋に帰っていない可能性が高い。

「じゃあジュニアは、どこから……?」

 ロビーのソファーに浅く腰を下ろし難しい顔を突き合わせる。ソファの柔らかさに埋もれそうな少年はもどかしそうな表情だ。何か伝えたいことがあるかもしれないが、声が出せないのでは聞き出すのは難しい。

「もっと詳しく話聞いとけばよかったな。どこでやってた何のパーティかも分からないぞ」
「なんとか東夏と連絡取れないかな」
「そう言えば俺、バトラーと対談したことあるから……その時のツテでなんとかいけないか?」
「確かに! あーでも、そういうのって普段全部夏準がやってくれてるもんね……」
「じっとしてられないな……」

 八方塞がりでどこへ当たるべきか見当もつかない状況に焦りばかりが募り、アレンは思わず立ち上がっていた。特にどこかへ向かうつもりもなく、緊張している時などに辺りをうろうろして二人の顰蹙を買ういつもの癖だが、少年の体が大きく傾いて袖を引かれる。アンが部屋を出ようとした時と同じだ。

「ジュニア?」

 アンが声をかけても少年はアレンから目を逸らさない。儚げで柔らかい見た目の中に鋼のような怜悧な芯が通っている。やっぱり夏準を思い返さずにはいられない。

「何か知ってるのか? ……外に行かないほうがいいってことか?」

 頷き二つ。アンと目を見合わせ、言葉を交わさずに部屋に戻ることに決めた。

 とは言ってももどかしい状況には変わりはない。ソファーに腰を落ち着けることができずラップトップを開いてみたりするが今は曲に集中することすら難しそうだ。

「何か飲む? コーヒーとか。 あ、でもジュニアは別のほうがいいよね。待ってて」

 見かねたアンが立ち上がってキッチンに入っていった。その間にネットニュースなどを流し見してみるが、夏準はもちろんパーティの情報には辿り着かない。ここに夏準が居れば何か掴めたかもしれないのに。当の本人を探している状況でそんなことを考えているのだからどうしようもない。

「お、なんだ」

 ディスプレイを睨むために屈めた体の隙間に、細い腕が差し込まれた。膝に小さな手がペタリと付いたかと思えば、思わず身を起こしたアレンの体を背もたれに少年が膝に腰かける。よっぽどアレンの膝の上が気に入っているらしい。

「懐かれてるねえ、アレン」
「普段、怖がられるほうが多いんだけどな」
「前メトロで赤ちゃんに泣かれてたよね?」

 からかうように笑いつつ、アンがローテーブルの上に盆を置く。乗っているのはコーヒーカップ二つ。それから──

「はい、ジュニアはコレ!」

 ──蛍光色で輝くグラス。満面の笑みで差し出されたそれを少年は反射で受け取ってしまったようだ。小さな手には余る大きなグラスを抱えたまま固まっている。

「こ、この色……何入れたんだ?」
「普通に、冷蔵庫にあったフルーツとか野菜とかだよ? 見てよ! 元気出そうな色じゃない?」
「そ……っか。普通……元気……? えーっと……俺が飲んでもいいか?」
「え? なんでえ?」
「急に俺もスムージー飲みたくなったっていうかさ……あっ」

 頭上のぼんやりした攻防を聞いていたのかいないのか。どうやら少年が悲壮な覚悟を固める方が一歩早かったらしい。グラスに口を付け、まずぐっと喉が詰まるような音がして、背筋がピンと伸び肩が狭まる。言うなれば尻尾を踏まれた猫。体中の毛が逆立つ様が見える気がする。

 けふけふ、声が出ないので吐息だけの咳を繰り返す様を見て、アンは慌ててグラスを取り上げた。自分で口を付けて目を見開いている。何これ、と絶叫しているが、できれば出す前に気づいてほしかった。

「ごめん」

 バタバタとキッチンに戻ったアンはアレンと少年の足元に膝を付いて水のグラスを差し出し、がっくりと項垂れている。

「いっぱい入れたら元気出るかなって思っちゃった……」

 普段自分用に作っている時に失敗しているところは見たことがないのだが。今日は夏準の監督も無く、その上に少年のために張り切ってしまったのが敗因らしい。少年がグラスを受け取りながら片手でアンの頭を撫でたものの、年端もいかない少年に気を使わせていることが更に追い打ちをかけている。うう、と伏せた顔から呻き声がする。

「やっぱり……夏準が居ないとダメだね、僕たち」
「そうだな」

 今度は少年の手がパタパタとアンの肩を叩いた。不思議そうな表情で顔を上げたアンに、少年は自分の胸を叩いて見せる。

「そうだよね、今はジュニアが居るもんね!」

 アンが勢いよく少年を抱きしめたので、なんとなくそんな予感がしていたアレンは少年の手からグラスを抜き取って体を逸らした。アンのされるがままになっている少年の表情は笑みではないがどこか穏やかだ。なんとなくその表情をじっと眺める。

 アンの気が済んだところで、とりあえずは連絡が付く人に助けを借りようという話になった。やはりこういう時に頼りになるのは、アンよりも更に何重にも輪をかけて顔の広い依織だろう。アンが電話をかけ、夏準と連絡が取れないこと、何か実家の事情に巻き込まれた可能性があることを伝える。ひとまず少年の話は置いておいたほうが話が込み入らないと判断したようだ。

『特にヤバイことが起こった、ちゅう話は入ってきてへんなあ。ただ、どこで何やってて誰が来とったかくらいなら調べられるはずや。ちょっと見てみよか』

 スピーカーから聞こえる頼もしい返事に感謝の言葉がユニゾンする。感謝は何か見つかってからにしいや、鼓膜破れるわ、依織らしい返しに焦燥が少しだけ慰められた。

『しかし……お坊っちゃんの嫌な予感、当たってしまったかもしれへんな』
「嫌な予感?」
『あんたらのことや』

 アンがちらりとこちらに探る視線を送ってきたのでアレンは首を横に振って返事をする。思い当たる節がまるでない。なんや、聞いとらんかったんか? 沈黙から察したのか依織が呆れ混じりの声を上げた。

『そら、悪いことしたか。あの坊っちゃんらしいわ』

 依織から語られたのは、アンとアレンを狙ったと思われる不審者の話だった。アルタートリガーの関係者を含め何か厄介な思惑が動いていないか依織に探りを入れていたという。

「もう、夏準って……!」

 電話を切るなりアンは苛立ち交じりの声を上げたが、少年が反応してぴくりと肩を揺らしたのを見逃さなかった。深い呼吸と共に肩から力を抜いて、穏やかな笑みになるよう努めている。

「ごめん。なんでもない」

 お茶淹れてくるね、これなら失敗しないから! 明るい声を上げてまたアンはキッチンに戻っていった。その背を見送る少年の表情は暗い。

 馬鹿げた考えだと分かっている。けれどあまりにも鮮明な夢を見たせいで、アレンにはどうしても消せない突飛な考えがあった。馬鹿馬鹿しすぎて言葉にできないそれを、しかし抑えられずに少年の背中をぎゅっと抱き締める。

 顎のあたりにちょうどつむじが来るなんて本来ならあり得ない。そもそも、こんな風に近い距離で触れあったことなんてない。けれど日に日に少しずつ漏れ出るようになった親しげな言葉や接触と、少年の行動がそんなにかけ離れているとも思えない。ふとした瞬間に何度心をくすぐられてきたか分からないのだから。

「何があったか分からないけど……俺、何か、また気づいてやれなかったか?」

 送り出した時に持っていた違和感の正体を確かめなかった自分が腹立たしくて、やるせない。アレンの呟きに少年は何も返さず、ただ俯いていた。

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