「アレン」
高い声に名前をなぞられ、ハッと振り返った。少年が複雑そうな笑みを浮かべてアレンを見上げている。
「声、」
「戻ってきたから」
少年が少し目線を横に逸らした。その背には、先ほどまで居た屋敷とは比べ物にならない豪奢な洋館の廊下が続いている。夏準にとっての灰色で退屈な部屋。何も返せないアレンを夏準はまた笑った。少年の姿だが、いつもと変わらない表情の変わり方だと思う。
「消せない、消したくないものだけ逃げてきたんだ。アレンと……東夏のおかげで消えずにすんだ」
「そっか……良かった」
笑みを返すと夏準は声なく頷いた。体を翻して廊下を歩き出したので、アレンも隣に並んで歩く。小さい歩幅に合わせて歩くと随分ゆっくりしたペースだ。三人で並んで歩いているとそんなこと気にしたことも無かったなと思う。三人とも、肩を並べて話していられるテンポが体に染みついている。
「アレンは」
一歩、二歩、三歩、沈黙が続いたので、ん? と先を促してみる。少女みたいな声変わり前の声なのに、違和感なく耳になじむ感覚が面白い。夏準の広い音域のせいかもしれない。
「ボクが、嫌にならない?」
思いもしない言葉が続いて思わず足が止まってしまった。この身長差だと小さなつむじしか見えない。数歩先を行く少年を一歩で追い越して表情を覗き込んでみる。一度上がった目線がすぐに気まずそうに下がっていった。夏準の足が止まる。小さな手が自分の細い喉元に軽く触れ、伏せられていた大きな丸い目がアレンを見上げた。
「ボクは時々嫌になる。言いたいことを、アレンみたいに伝えられないから」
続く言葉がもっと思いもしない言葉だったので、アレンも足を止めて揺れる目の光を凝視する。普段とはまるで違うその視線の長さすらもどかしくて、アレンはその場にしゃがみ込んだ。夏準の腕を掴む。
「なったことない」
そんなことを今更不安に思われたんじゃたまらない。腹立たしい気持ちさえして語気が強くなった。じっと見つめる顔の上で唇が小さく開き、また閉じた。また言えない何かがあったのか。腕の力を少し抜いた。別に望む返事がほしいわけじゃない。ただ、伝わってほしいだけだったから。
「言い過ぎだろとか、すごいこと言うなって思う時はたまに……結構あるけど。それが夏準だし」
ちょっとふざけて笑うと、硬かった表情が少し解けてくれたので嬉しくなった。目元や口元ににじみ出る笑みを交わし合う。
「ありがとう」
「うん、俺も」
いつもなら絶対に聞けないような言葉をここ数日、夢と幻影の間で山ほど聞いた気がする。けれどそれをそのまま全て伝えるとまた黙らせてしまいそうだ。脈絡のない感謝を不思議そうに受け止める目に苦笑だけ返す。
「こっちだよ」
夏準の手がアレンの手を掴んだ。ぐいと引っ張られて立ち上がる。小さな歩幅が駆けるようなテンポに変わり、廊下の奥にある一際大きいドアの前で終止した。二人でじっと美しい装飾を眺める。
小さな手をぎゅっと握りしめた。この先に行かせないといけないことは分かっている。それを夏準は望んでいる。けれどその背を押すのが自分というのがどうしても嫌だった。この部屋から出てほしくてアンと二人でその手を必死に掴んだのに。
「大丈夫」
ふ、と笑う気配がして小さなつむじを見下ろすと、最近よく降ってくる優しい目と声が今は下から注がれていて、小さい姿とのアンバランスでちぐはぐだ。
「苦しいのも、幸せなのも、ボクはボクだから」
もう一度しゃがみ込んで目の高さを合わせる。その目に嘘が無いことを慎重に覗き込もうとするアレンを、夏準はくすぐったそうにまた笑う。
「アレンとアンを愛しているから。二人がボクを愛してくれるなら、大丈夫」
少し照れの混じった笑みが胸に満ちて、込み上げるものをこらえるために大きく息を吸った。は、笑みを零すと熱くなった目元が危うく湿る。決壊しないように口を開いた。
「そっか。じゃあ、大丈夫だな」
掴まれていた手が離れていくのを引き留めて、小さな体をぎゅっと抱きしめる。言わせてやりたいな、とふと思った。これだけアレンがほしい言葉を雨みたいに降らせてくれるのに、本人が言いたいことが言えずに苦しんでいるならとんでもない不公平だ。
細い髪の毛が首筋をくすぐって寄り添い、そしてすぐに離れようと身じろぐ。腕を解くと、穏やかな笑みがあっさり遠くなった。ドアノブに小さな手を伸ばし、一度触れて離し、そんな自分を小さく笑って、夏準はドアを開けた。「あ」、小さく声を上げたアレンにひらひら手を振り、あっという間に部屋の中に滑り込んでいく。
引き留めようとしてしまったのか、手が中途半端に浮いていた。それを拳に変える。細く開いたドアの先にあるのは暗闇だ。隙間と同じ幅の細い光の線が走っているだけで、何一つ中の様子を窺えない。力を入れるために息を吸い、折っていた膝を伸ばした。ドアノブをそっと握り、ゆっくりと光の線を太くする。
どれだけドアを開けても部屋の中は少しも明るくならなかった。暗闇の中、光の道だけがまっすぐ伸び、床に体を伏せている男の姿だけを切り取る。
「夏準」
思わず声が出たが夏準の体は少しも動かない。気にせずに思い切って足を踏み出した。銃口を向けられるのに比べたら百倍くらいマシだ。光のレールに添って歩み寄り、すぐ足元の横顔を見下ろした。てっきり閉じていると思った目が開いていて、ゆっくりと上を向く。アレン、囁くように名前を呼び返されて安堵の笑みが漏れた。
「夏準、行こう」
またその場にしゃがみ込んでその顔を覗き込んだ。やはり無表情だが、目の色が明らかに違う。光が当たると赤みが強くなってピンク色の海になるアンバー。それが何より雄弁にアレンを迎え入れている。
「お前のことはちゃんと、俺が守ってたから……いや、そうだな、なんとか守れてたと思う。ギリギリ」
背中に小さな手で叩かれた感触がして苦笑した。あそこで動けていなかったら。今はその想像すら恐ろしくてできない。みっともなく震えてしまいそうで、無理やり意識の隅に追いやる。今、それは重要じゃない。重要なのは、夏準がアレンの引っ張り出せるところに留まってくれていることだけだ。
「ありがとう」
ぴくりと眉が動く。少しの変化も見逃したくなくて手を伸ばした。前髪を指先で少し掻き分ける。
「苦しくても辛くても、それを忘れずに俺のとこに来てくれて」
今度はぐっと眉根が寄り、大きく顔がしかめられた。こちらを見ていた目が逸れて伏せられてしまう。
「言葉が無いんです」
夢の中でも聞いた声。こんな顔を背中に押し付けていたんだなと思うとアレンも苦しくなる。はく、はく、唇が何度か動いて、アレンに目が戻った。
「あなたがいないと、息もできないのに」
呼吸を奪われたのはアレンのほうだった。
驚きに見開く顔が夏準の瞳の中に映っている。逃げるように閉じられる目を追い、その肩に手をかけた。うつ伏せの体を仰向けに開かせる。そんなアレンを怪訝そうに、煩わしそうに、ただ見上げる両目をじっと見下ろした。もしかして自分が何を言ったかよく分かっていないのかもしれない。
「あのさ」
詰めていた息ごと言葉を吐く。溢れ出そうになる言葉のどれを掬い上げていけばきちんと伝わるのか分からない。
「ええっと……いいよ。俺が知ってるから。お前の言いたいこと」
「は……」
「俺以外の隣に立つ夏準なんて想像できないからさ」
実のところアンなら想像できるが、その時はアレンも居るはずなので意味は同じだ。苦しげに寄っていた眉が呆然と緩む顔が少し幼くて、つい笑みが漏れる。
「居たいだけ居てくれ。俺の部屋。あんなとこでいいならだけど」
人生で初めて見つけた意味を奪われた空っぽの部屋。思い出すのも辛いし苦しいけれど、夏準が居れば確かにアレンも退屈ではないなと思う。夏準に見せてやりたいものもそれなりに残っていたような気がしてくる。きっと他の誰かではこんなこと考えられない。
「そうしたら俺も、多分何か……報われる気がする」
くだらない、情けない自分の気持ちを吐露しているだけなのに、何故だか込み上げるものがあって涙がひとつ夏準の胸元に落ちた。止まらなくなりそうで慌てて拭って無理やり笑う。全部夏準のおかげなのだ。アレンが今ここにあるのは。それだけ忘れないでいてくれたら、もうそれでいい。
「諦めなくていいよ」
両手を掴み思い切り引き寄せた。