セピア色の豪奢な部屋。無邪気な赤子の声と、朗らかな笑い声。一幅の幸せな家族の絵画。その額縁の外側でまた夏準は一人、行儀よく座っている。
「夏準」
男の声に顔を上げた。父親である前に燕家の絶対的な現総帥。その言葉に逆らう選択肢など一族の誰にも持たされない。例え次に続く言葉をもう知っているとしてもだ。何度も何度も何度も何度も、どれだけ黒く塗り潰しても消えない記憶の始まり。
「こちらへおいで」
「え……?」
そのはずだったのに。
機嫌の良さそうな笑みが口元に滲む穏やかな表情。ドッと心臓が不穏に跳ね、その苦しさに思わず胸を押さえる。見たことのない表情、言葉、記憶。
「もっと近くで見てみろ」
「そうよ。貴方の弟でしょう」
この赤子も弟である前に燕家の正統な、誰もが認める後継者。どんな努力も功績も情も一切の無価値に帰す揺るがない血という事実。夏準、焦れたように名を呼ばれ、よく躾けられた飼い犬に過ぎなかった足が勝手に主人に擦り寄る。『母親』が身を屈め、夏準の視線に腕の中の赤子を晒す。
「この子もきっと……燕家を率いるに足る覇道を歩むでしょう」
「当然だ。なんとも幸いなことだ。お前たちの代で燕家は更に繁栄するだろう」
「弟の良き手本となるよう一層励みなさい」
肩に大きな手が乗り、止まった心臓が大きく跳ね忙しなく走り始める。その激しさに呼吸が苦しい。赤子を見下ろすのと同じ温度を保つ目が却って不気味だった。
「日本で、ですか……?」
「日本?」
頭上の眉が不可解そうに跳ね上がる。まるで初めて聞く国の名前をなぞっているような声に嫌な予感がした。はあ、怒りの滲まない呆れだけの溜息が気安く落とされる。
「何を言っている? 日本に中国、確かに隣国には重要なパートナーも多く居るが、わざわざ私たちが赴くことも無い」
「燕家を継ぐ、その重みをまだ理解していないのかしら」
肩にかかる手にぐっと力がかかった。こんな記憶、あるはずが無いのにその強さが嫌にリアルだ。苦しい呼吸が震えているのに、『父親』から目を逸らせない。
「お前は燕家の頂点に立つ者。有象無象の誰より必要とされる存在。それを忘れるな」
ヒュッと喉が鳴った。息ができない。逃げるように逸らした目が女とも合う。こちらも赤子に向けるのと同じ慈愛に満ちた笑み。
「違う」
「何だと?」
「違う、違う……これは、こんな、違う」
言葉だけでもまだ抗えることに安堵する。力を振り絞って体を一歩、二歩となんとか後退させた。言われていることは何もかも穏やかなのにそれが恐ろしく、吐き気がするほど気味が悪い。
「何を言っている」
「まさか誰かに何かを吹き込まれでもしましたか」
「まったく……忠成は何をしている。あれを呼べ」
「くだらぬ者の言葉に惑わされることなどあってはなりません。私たちは誰とも比類ない、唯一の」
嫌だ、咄嗟にそう叫びたかった。けれど間に合わない。『母親』は夏準の予想した通りの言葉を赤い唇で丁寧になぞった。
──家族、なのだから。
「うそ」
もう一歩後退しようとして、カーペットに足を取られて無様に尻をつく。その衝撃で胃が裏返って口元に手を当てた。嗚咽を飲み込み、這いずるように逃げを打って立ち上がる。
「嘘を……吐くな!」
怒りよりも困惑を装うその表情を睨みつけた。ひょっとして反作用が更に夏準を弄ぼうとしているのかもしれない。油断させ、より深いところに新しい傷を作る気なのか。これはただの記憶の繰り返し、支離滅裂に散らかされた夢。そういくら自分に言い聞かせても乱れた心が収まらない。
「家族? どの口が……!」
「夏準?」
女が立ち上がった。命からがら空けた距離をいとも簡単に詰められる。聞き分けのない子供を根気よく説き伏せる『愛情に満ちた』表情が身を屈め、もう一度腕の中の子を差し出した。
「弟になんてみっともない姿を晒して」
わ、や、意味のない音しか繰り出せない柔らかい頬。今では考えられない愛想の良さで小さな指が伸びてくる。
二人に実子が生まれると聞いた時、当然浮かんだのは暗い想像ばかりだ。口では慶事を祝う犬でありながら、冷静な自分がいくつも不安を描き出し、それを「家族として存在した数年間」という愚昧な安心で無理やり蓋をしていた。
けれどずっと、一人だったから。周りには厳しい目の大人ばかり、超えるべき数値に囲まれて育っていた。もし「弟」という存在が居たら、どんな生活がやって来るのだろうと想像しないわけではなかった。記憶の奥、更にその隅に押し込めて忘れていた感情。
くしゃり、何かが潰れたような気がしてぞっと背筋が冷えた。気力だけを振り絞って背を向ける。夏準、夏準、かかる言葉に耳を塞いで走り出す。
「ここは、違う! ボクはもうここに居たくない! 居られない!」
重いドアに体当たりをし、廊下に転がる。夏準様、夏準様、追い縋る声を振り切ってとにかく走る。けれど、いくら走っても辿り着かない『外』に絶望する。当たり前だ。ここは夏準の心の中。『外』なんてものは存在しない。
「アレン……アン……!」
苦しい呼吸の中、無意識に口が二人の名を情けなく囁いていた。両手を取って夏準を引き上げ、夏準を人にしてくれた。その記憶さえまやかしの記憶に塗り潰されていく感覚が恐ろしい。いくら見た目ばかり美しい記憶に塗り替えられたって、二人が居なければ燕夏準は人では居られない。
「アレン!」
叫ぶと、目の前に突然何かが立ちはだかって体がぶつかった。呆然と見上げるのは、屋敷では見ない簡素なドアだ。夏準様、背後から迫る声を耳が拾い、祈るような気持ちでそのドアノブに手をかけた。