※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/series/11262045
1
伸びをしながらリビングへの扉を開ける。昨晩の冷たい雨がすっかり洗い流したのか窓一面爽やかな青だ。そこそこのトラップ反応に打ち据えられたアンの気分も口角と共に少し引き上げられた。しかしキッチンにはまだ夏準の姿がない。目覚めのコーヒーのご相伴には預かれないらしい。ミルクでも飲んどくか、体を捻ろうとして止めた。目端で何かが動いたのに気が付いたからだ。テーブルの向こう、ソファの背もたれから足が生えている。アレンか夏準、どちらかがだらしなく寝そべっているらしい。
「アレン?」
確率が断然高いほうの名前を呼びながら背もたれに手をかけて覗き込んだわけだが、予想通りだ。クッションに髪の毛をくっしゃくしゃに乱されてだらしなく寝そべっているアレンを発見できた。
「またそこで寝落ちしてんの?」
どうせ起きやしないと思いつつ落とした呟きだったのに、こっちは予想が外れた。薄目が開いてワインのような深い赤がぼんやり滲む。眩しさに眉根を寄せて瞬きを繰り返しつつも口元は笑みで緩んでいるようだ。のっそり腕を上げ、アレンは自分の耳元に触れてイヤホンを抜き取った。手入れに抜かりのないツヤツヤのピンク色の滝に手を伸ばす。
「聞くか?」
「はあ?」
寝ぼけている、多分。声はどこかフワフワおぼつかないし、アンの冷たい返事もまったく気にしていない。いやそっちは寝ぼけてなくても大体そうだけど。呆れで頭が重くなり、屈み込んでソファの背もたれに肘をつく。
「このバースからフックまでの盛り上がりが最っ高でさ……フックのてっぺんで心臓掴まれて握りつぶされるかと思うんだよな……」
「……ホント、HIPHOP三食で生きてけそうなヤツ」
「そうなれたら幸せだよなあ」
ディスが正面から受け止められて無効化された。「ツンデレラッパー」の名も呆れて肩を竦めているに違いない。苦笑するしかなくて吐息を漏らしたが、そこでふと気づいた。目線がアレンに近くなったおかげで、薄い隈と充血が目につく。
「アレン、なんかくたびれてない? あー……いつもに増して飛ばしてたから、でしょ」
アレンは何も答えない。ごまかしているつもりなのか、そんな気力もないのか、そもそも聞いていないのか、片耳からお気に入りのHIPHOPを注ぎ込んで満足そうに薄く笑うだけだ。
「バカ」
いつもなら条件反射で返ってくる反応も無い。ただ目線が逃げたせいで確信犯だと分かっただけだ。やはりいつも以上にドギツイ反作用を食らったのだろう。
「アン」
「なーに」
「あれやってくれ」
あからさまに拗ねた顔と声を押し出しても憎たらしいほど気にしていない。イヤホンを持ったままの指先が髪の毛の隙間でゆらゆら揺れている。手持無沙汰にじゃれついているらしい。
「僕はアレンみたいに安売りしないの」
指先から逃すために髪の毛をまとめて肩の後ろに流す間に、眠気や疲れで溶けていたアレンの瞳が一瞬だけ苦しげに細くなった。だよな。珍しく聞き分けがいいと思ったが、すぐにその理由に察しが付く。ステージバトルのファイナルでのことを思い出したのだろう。
演出の調整でも練習でもないふとした日常の隙間、アレンはアンや夏準の幻影を見たがることがあった。それは大抵、こういう無防備な姿の時だ。
「……しょうがないな」
なんとなく頭に浮かんだP△R△DISEの自分のパートを口ずさんでみる。そもそも寝起きでメタルを身に着けていないが、まるでそこに幻影が漂っているみたいに手のひらを広げた。ライブの興奮に輝く宝石がパラパラとアレンの胸元に落ちていく様が見えた気がする。
「きれいだ」
ロクに水分も取っていないのか、カスッカスに掠れた声だ。ラッパーの命の喉を何だと思っているのやら。そのくせ今にも溶けそうなゆるい笑みにまた戻っている。気持ち良さげに目が閉ざされた。
「アンが居ると、曲がぐっと広くなる。天井ブチ抜いてどこまでも行ける。色が付いて見たことない世界になる。そこが好きなんだ」
「サービスするなり調子良くなって。ロコツなんだから」
呆れきって歌うのを早々にやめる。不服そうな表情になりそうだったので先手を打って目元を手で覆った。
「寝てなよ。今日ぐらい甘やかしてあげる」
ただからかったつもりだったのですぐに手のひらを外したが、アレンは上げていた腕をゆっくり降ろして目を開けようとしない。程なくスウ、スウ、と可愛らしい寝息を繰り返し始めた。
「子守歌であやされてウトウトしちゃうって赤ちゃんでしょ、もう」
いよいよ呆れも底をついて笑えてきてしまった。クスクス喉で愉快な気持ちが転がる。身を乗り出して朝日に白く照らされた額にキスをした──ところでパタリとドアの閉じる音。振り返れば朝日にも負けず劣らずキラキラ全開の笑み。
「……なにその顔」
「いえ? お邪魔しました。別にボクは気にしませんよ。ライブや楽曲に影響なければ」
「うーわ、腹黒ドS王子の顔だった……」
どういう顔かと言えば、1ミリでも隙があれば末代までネタにしてくる顔だ。ゲンナリしつつも、夏準の起床自体は大歓迎だった。案の定キッチンに入ってコーヒー豆の入った缶を取り出したので軽やかに身を翻す。
「淹れるんでしょ? コーヒー」
「ええ。そうですけど?」
カウンターを挟み、アンも笑顔、夏準も笑顔。きっちり一人分の分量の豆がミルに流れ込む。
「そんな細かいとこまでドSしなくたっていいでしょ?」
「ボクは「カンペキな王子様」、ですから」
散々呼んでおいて我ながら理不尽だとは思うが、この切り返しはちょっと意地が悪い。「もういい。自分でやる」と、どうせならスムージーでも作ろうかと冷蔵庫に近寄ったところで、夏準が何かを呟いた。聞こえなかったが響きから多分韓国語だと思う。
「なに?」
「いえ、別に」
ついうっかり出たように聞こえて悪意は感じなかった。手元に落ちる視線がほんの少しだけ気まずげに見えるので余計にそう思う。コーヒー豆がもう一掬いスプーンに盛られた。しかしこちらに戻ってきた視線はまた完璧な笑みだ。
「もっと頼み方を考えればもう一人分くらい手間では無かったのに、と思って」
「……そっちこそもっと言い方ないわけ」
「なんのことでしょう」
今日は休日なのでたっぷり時間がある。そのせいで遊ばれているらしい。面倒くさいと思いつつのしのし夏準に近寄った。肩口に鼻をくっつけて恨めしく見上げる。
「ハージューン、いいじゃん、も一杯淹れるくらい」
「つまり?」
「……おねがいしまーすう」
「まあ、仕方ないですね。そんなに言うなら」
「……」
真横から眺める夏準の表情は活き活きしていていかにも機嫌良さげだ。ソファで伸びているアレンとは大違いである。もう一掬い、スプーンが上下する。やっぱり遊ばれているらしい。鼻歌でも歌い出しそうな横顔を見ている内にアンも面倒くさいより面白いが勝ってきてしまった。
「夏準、最近イイ感じだね」
「なんですか?」
「なんか……そう、かわいい」
ミルをゴリゴリ回す手は止まらなかったが、笑顔が怪訝そうな表情に変わってしまった。珍獣でも見るようにアンとちらりと一瞥し、すぐに手元に視線を戻している。
「そんなこと、毎朝鏡を見てますから分かってますけど」
「もー! そういうことじゃなくて!」
「今更気づいたんですか? ボクは可愛いも格好良いも美しいも、その辺りの形容詞は全て内包してますから」
「はいはい」
ゴリゴリ豆を轢く音と共にコーヒーの芳香が漂う。それをひとつ吸って、アンは夏準から離れた。先ほどから付いて離れてを繰り返している冷蔵庫に背を預ける。
「……誰かに愛されるための人でいるって、すごく気持ちいいけど吐き気がするほど気持ち悪くもなるから」
相槌は無い。相変わらず豆を挽く音だけがしている。けれどライブが鍛えた勘みたいなもので、夏準の意識がこちらに寄せられていることを肌に感じる。それだけのことに不思議な安心感を覚えている。
「そうじゃない夏準を見れてる感じがして、いいなってこと」
長い間やっぱり返事は無かった。無視されたのかと思ったが、コーヒーメーカーが動き出したところで夏準はぽつりと一言漏らした。そうですか。
オシャレな朝食がテキパキセットされていく隣でスムージーを作り、くだらない話を交わしつつ当初の予定通りご相伴に預かり、顔をしっかり完成させてリビングに戻る。コーヒーの芳香をまた吸った。
明るい日差しを存分に受けて輝く腹黒王子様はソファに座っている。次のライブ用のリリックを練っていたようだが、その目前を赤い炎が鮮やかに横切る。フロウに合わせて揺れる赤い頭のすぐ隣にまた手を付いた。
「どうだ? 今の」
覗き込めば、つい先ほどまでの溶けたワインレッドが嘘みたいな目だ。テーブルには寝坊助用の一杯のコーヒー。朝から晩までHIPHOP漬けのこの男がそれに口を付けた様子はない。水よりも先に正面からのたった一言をあからさまに待っている。そのために舞台の上と変わらない熱量で歌ってみせたのだ。
明るい陽射しに縁取られた夏準の表情は呆れた笑みだ。多分アンも同じ表情を浮かべていると思う。ただ、カラーグラスの向こうの瞳に満ちるのは呆れではない。
「いいですね」
よし! だよな! いやでもなここはもっともう少し……アレンの口が怒涛のように回り出した。
「まったく。ライブでもないのにトラップにハマっても知らないからね」
「よし! 忘れない内にメモしとかないと」
「相変わらず都合の悪いことは聞こえない耳してるみたいですね」