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Fill △ up! (BAE)



 波が砂を打ち、ざああ……と引いていく。そのリピート。意外と一定のリズムにはならない。時折波と波の間で水が遊ぶ音がちゃぷちゃぷ跳ねる。シーズンではないので人影はまだらだが、砂浜には子供連れがちらほら居て高い声が楽しそうに響く。その中には波打ち際の感触を裸足で楽しむロクタも混じっている。それを見てやっているイツキは、無表情なのにいつずぶ濡れになるか気が気ではない様子が見て取れて不思議だ。湿った潮風が走ると耳元で音になり、名も知らない鳥が旋回する鳴き声も音になる。

「……意外とあるもんだな、音」

 すぐ向こうに高層ビルが見える街中の海浜公園の砂浜。汚れるのも構わず仰向けに寝そべっていると、空っぽの体に様々な音が染み入った。隣から笑みの混じった空気が波音に紛れたので見上げる。砂浜に腰掛けた京の笑みは街中に居た時よりずっと穏やかだ。

「君は、やっぱり素直なひとだね」
「……それってディスか?」

 咄嗟に反応してしまったが、京は困惑したように笑みを消すだけだ。しばらく見つめ合い、アレンの言葉の意味が全く理解されていないことに気が付く。

「あ、ごめん。うちに呼吸みたいにディス吐いてくるやつ居るから、つい」

 うっかりしていると皮肉を聞き逃すレベルで連ねていく奴なんてそうそう居ない。なんとなく気まずくなって早口で謝ってしまった。京は気にした様子もない。返事もなく視線を海へと戻している。アレンも後に続いた。海面は昼下がりの光を含んで眩しいくらいに輝く。アンの幻影の輝きに少し似ていると思った。

「こうやって、音だけを感じる時間が必要なんだ、僕には。そうしないと、感情も思考も乱されて……壊れてしまいそうになる」

 波音に混じり合って溶け込む声。アレンにはその感覚を共有することはできないが、言葉の端に滲む苦しみを感じ取ることはできた。

「君には、どんな時間が必要なのかな」

 時間。それがあれば「大丈夫」に戻れるのだろうか。漠然とした不安がまた胸をざわつかせる。このまま、何の音も言葉も湧き出してこなくなったら。BAEはどうなってしまうのだろうか。夏準やアンを失望させてしまうのだろうか。

「トラップ反応」

 これまで空気のように軽やかだった京の言葉が、突然質量を持ってずしりと胸元に届いた。思わず目を戻すが、京の視線は波打ち際、ロクタとイツキに注がれている。

「昨日のステージは僕も見ていた。素晴らしかった。……相当の反作用があっただろう」

 君の音楽に必要なものなのかな。その苦しみは。

 いくつも拍を置いて、しかし何も憚ることなく京はアレンに問う。それはまるで幻影ラッパーらしくない言葉だ。だが、まっすぐに己を表現しようとする1Nm8らしい問いでもある。

「どうなんだろうな」

 京はやはり何も言わない。穏やかに、無理強いせず、アレンが言葉をまとめたくなるまで待っているのだと肌で感じられる。その心地良さに身を預けて、取り留めのない考えをまとめようと試みる。

 アレンのHIPHOPの始まりは幻影ライブ、武雷管の存在無しには語れない。その出会いがあったからこそアレンは「自分の音楽」というものを考え始めるようになったのだ。幻影ライブだからこそ生まれる一体感、それを追求して、やがては武雷管をも越える存在になりたい。それが今も昔も変わらぬ夢だ。

 だが、楽曲自身が持つ力というものも信じている。それで一度アンと口論になったくらいだ。仮にメタルが無くなったからと言って、「自分の音楽」が脆く崩れ去るとは思っていない。

 じゃあ何が怖いのか。どうして苦しんでも続けたいのか。

「俺はただ……トラップ反応とか過去の色んなことなんかより、幻影ライブに出会わなかった時のほうが怖いんだと思う」

 HIPHOPにも幻影ライブにも出会わず、あの部屋の中で、今も両親の解釈する「正しい」音楽を続けていたとしたら。一体何を支えに立っているんだろうか。

「あいつらに会えなかったら。そっちのほうが怖い」

 夏準の根が意外と優しいことを知らなかったり、アンが誰よりも強い芯を持っていることを見つけられないまま死んでいったんだろうか。そう思うと頭から足の爪先までぞっと冷える。

「俺に必要なのは、多分……時間じゃなくて、夏準とアンなんだ」

 何の音を聞いても心が満たされないのはそのせいだとやっと分かった。アレンに必要なのは耳を休める優しい音じゃない。賑やかでくだらないいつも通りの二人の音だ。

「それがあれば別に、苦しくてもいいし……それが尽きた時のほうが多分、苦しいよ」

 長めのブレイク。ふ、とまた波音に笑みが滲んだ。見上げれば、京もこちらに視線を戻している。

「なんだよ」
「少し分かってしまいそうだったから」

 思わず体を起こしたが、京はやはりアレンを馬鹿にしたつもりは一切無いようだ。穏やかな色の瞳を細くする。

「残念だけど……僕たちは違う主張を持っているみたいだ。でも、ここでは言わないことにするよ」
「そこまで言うなら言ってくれよ。気になるだろ? 俺、1Nm8の曲には衝撃受けたんだ。シンプルなフレーズの中で音もリリックも思いもしないところにハマってさ。あれを作れる奴の考えなら知りた」
「お砂場遊びが盛り上がっているみたいですね? アレン」

 調子が戻ってきて砂浜に手を付き身を乗り出したところに、聞こえるはずのない音が割り込んだ。体が驚きで大きく揺れた。慌てて振り返ると、飛び散る砂を避けるように一歩後退されてしまった。

「夏準!? アンも!? なんでここに……」
「「なんでここに」はこっちのセリフ! 急に居なくなったと思ったら……!」
「この砂まみれを車に乗せるんですか……アンにも車を回してもらえば良かったですかね」
「僕だって絶対ヤダよ!」

 アンは髪の毛が逆立って見えるほどの形相だし、夏準の笑顔には底知れぬ圧を感じる。逃げるように視線を彷徨わせると、いつの間にかイツキとロクタが京の元に戻ってきていた。こちらも突然現れた二人に驚いているようだ。

「BAEの48とanZか」
「お迎え来て良かったね、スザク!」

 ロクタの無邪気な笑みと言葉に対し、フフと夏準がわざとらしいくらいの完璧な笑みで応えた。何も分かっていない様子のロクタをイツキが少し下がらせている。夏準が現れてからずっとその笑顔に背筋がぞわぞわしているアレンを庇う者は誰も居ない。

「そうですね。迷子がご迷惑をおかけしました。引き取りに来ましたので」
「迷子って……」
「違うんですか?」

 見下ろす表情から笑顔が消えた。露骨に機嫌の悪そうなしかめ面だ。その表情の変化に気を取られていると、両頬を手で挟まれ顔の方向を変えられた。しゃがみ込んでいるアンだ。

「心配したんだからね」

 そこでやっと、アレンの中で反作用で見る幻影といつもの日常がきれいさっぱり分かれた。心身ともにダウンしたところを思いっきり見せて、心配させて、何も言わずにこんな遠出までしていたんだから、それは心配するに決まっている。

「帰ろ、アレン」
「帰りましょう、アレン」

 差し出された両手をじっと見つめた。二人とも怒りや呆れを抑えてくれているのが分かる、穏やかな表情。

 その時にふっと降りてきたフレーズがあった。波の音の中で渦巻くように旋律が生まれる。リリックが風に乗って波間を漂う。

 どんな顔をすればいいか分からなくて歪んだ顔のまま、その両手をしっかり掴んで立ち上がった。アンがひらひらと背後の三人に手を振ったのでアレンも引きずられつつ振り返る。

「ありがとな、セブン!」
「僕は何もしてないよ」

 目の前で起こったドタバタをまるで気にしていないマイペースな答えだ。イツキもロクタも迷惑そうにしている様子はない。ロクタなんか嬉しげに手を大きく振り返している。京も小さく手を上げてくれた。

「ただ、君に音が戻ったことを嬉しく思ってる」

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