とたとた、どたどた、様々な重みの足音が行ったり来たりする音、振動、気配。声を荒げたり、逆に楽しそうに笑ったり、感情に満ちた声。小さく、温かみのある火。それが意識の導火線の先に灯った。じりじりと火が走り昇った先、夏準はパチリと目を開いた。古くくすんだ木の天井を安っぽい白い光が皓々と照らしている。全く見覚えのない目覚めの景色だ。眩しさに目元に手を当てて気づいた。カラーグラスが無い。
「起きたか」
木枠で囲まれた電灯が人の顔で隠され、突然視界が暗くなった。指の隙間の向こうにはうさんくさい笑み。それを見て、意識が途切れる前までのことが滝のように頭に流れ込んできた。
「あんさん、よお寝る子やなあ。いつ見てもバッタバッタ寝込んどるやないか」
「……ご迷惑をおかけしたようですね」
「ま、こっちとしてはむしろありがたい思っとるわ。ヨンパチの弱みなんて喉から手ェ出るほど欲しい輩は山ほどおるやろからなあ」
「エセ関西弁」というのはネイティブでない夏準にはよく分からない感覚だ。しかし、それを考慮せずともこの男の話しぶりは充分うさんくさいと思う。うんざりしつつ体を起こした。かけられていたブランケットがずり下がる。どうやら居間のような場所で寝かされていたらしい。低い食卓の上にカラーグラスが置かれていたので手に取る。時に口よりも語る目から勝手に何かを読ませたくない。
「弱みにもなりませんよ。こんなこと」
「ま、それもそか。かるうい寝不足に貧血。あのヨンパチがただただ不摂生してました、じゃ話のタネにもなりゃせんもんなあ」
やや棘を感じるが、少し寝たせいか驚くほど心が動かない。体の不調が思考にまで影響を及ぼしていたのだろう。そろそろ限界が近いことは分かっていた。そのために学校も休みを取り、モデルの仕事を調整するために事務所にもアポを取っていたのだから。しかしその日こそが限界になるとは計算違いだった。言わなくてもいいことを言い、かけなくてもいい心配を二人にかけた。
「ま、ゆっくりしてき」
反応を返さない夏準に飽きたのか、呆れたのか。依織は立ち上がり、そのついでに頭にポンと手を置き歩き去っていく。まるで子供の扱いだ。さすがに少し気分が悪くなった。憮然と手櫛で髪を整えていると、ふと視線を感じる。心底つまらなそうな色がビー玉の瞳の上で模様のように揺らいでいた。手元には紙とタブレットとノートパソコン。曲を練っているアレンと同じ一揃えだ。珂波汰は翠石組と関りがあったといつかに聞いた。その流れで機材でも借りているのかもしれない。
「お前」
不躾な呼びかけに答えてやる必要を感じないので、口元にだけ笑みを刷かせる。やりづらそうに珂波汰の顔がしかめられた。苛立たしげにペンを握る手元に視線を落としている。
「体弱かったのか」
「いえ? まったく」
「……そうかよ」
それ以上会話は続かなかった。しかし雨の音より遠くから聞こえる人の気配の方が大きい。とたとた、どたどた。市場の喧騒のように賑やかな音が居間に近づいている。
「おお、本当だ。起きたみたいだね。気分はどうだい?」
「もー、魔王みたいなやつが具合悪そうにしてたらどんな重病かって思うじゃん! 紛らわしいなあ」
開け放たれた障子からどかどかと居間に雪崩れ込むのはもちろん、この屋敷の主たちだ。手にはそれぞれ鍋やコンロ、具材などが乗せられている。作業している珂波汰は更に端に寄せられて不満そうな顔だ。
「ほれ、お前はこっち」
ドスン、とぶっきらぼうに盆が目前に置かれる。見上げれば、紗月が不本意そうに口をへの字口に押し曲げている。盆の上に乗るのは古そうな椀に入ったどろどろの粥と、やはり年季の入った木の匙。
「善兄の雑炊。俺たちが風邪とか引いた時は……いつも、これなんだ」
「健全な精神は健全な肉体から! まずは精をつけて養生するといい!」
それぞれ好き勝手に好きなことを言って満足したらしい。最早夏準には興味も無い様子で鍋の準備を始めている。それがどうしてかありがたかった。一体どれだけ食べる気なのか、コンロは二つだ。食材にあれが足りない、これがほしい、とまた台所との往復が始まっている。騒々しい。
なんだか何を言ってもやっても無駄な気がする。他にやることもなく匙を手に取った。一掬いすると卵の匂いが湧き上がって鼻孔を満たす。不思議だった。最近は何を作っても、どこへ出かけてみても食欲が湧かなかったのに。一体何があったのか、部屋の外からどっと笑い声が響く。匙を口に含んだ。喉をするりと流れ、胃がほっと温かくなる。
「寝不足と、食欲がないのと。……本当にそれだけだったのに」
「言えよ。そういうの」
誰も聞いていないと思って零した独り言に返事があった。食卓の隅で小さくなって作業を続けている珂波汰だ。見つめている夏準にひとつも視線を返そうとしない。
「なんのために一緒に居るか分かんなくなるだろ」
夏準に向けて言ったのか、珂波汰も独り言のつもりなのか。返事を期待している様子は見えなかったので、そのまま黙って匙を口元に運んだ。
半分ほど食べたところで、ふとまた台所とは別のところで声が生まれた。声が遠いが来客らしい雰囲気を感じ取る。これ以上に騒々しくなるのか……とただ呆れていたが、古い家の床を踏み抜くのではと思うほどの大きな足音に思わず眉根が寄った。
「夏準!!」
「……アレン?」
夏準の顔を見るなり、アレンはぐしゃりと顔を歪めた。そして思わず身を引いてしまうような勢いで夏準のすぐ傍に滑り込んでくる。最初は怒っているのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。焦りというか、とにかく必死さがすごい。
「夏準!!」
「な、なんですか……そもそも、何故ここに?」
「抜けないでくれ!!」
「はい?」
「BAEを抜けないでくれ!!」
「は……はあ?」
思いもしない登場だけでも頭が追いつかないのに、何を言っているのか全く分からない。いつの間にか高度な皮肉を身に着けてさっさとやめろと言っているのでは……などと夏準の思考まで飛躍しそうだった。どこから手を付けたものかと考えているところに、とたとたとた、と軽やかな足音が近づいてくる。
「夏準~! よかったぁ、もースマホ見てよ!」
「アン」
障子から顔を覗かせたアンがアレンとは正反対に落ち着いているおかげで、自分が異世界に放り出されたわけではないことを確認する。両腕に縋りついてくるアレンを冷たく見下ろせば、焦燥に満ちた目が迎え打つ。
「なんなんですか、コレは」
「なんなんだよ、コレ!」
夏準の「コレ」は当然アレンの珍妙溢れる状態を指しているが、アレンの「コレ」はスマホの中に収まっているらしい。眼前に押し出された画面から体を反らして焦点を合わせた。なんてこともない、つい先ほど頼まれるまま撮った写真だ。スタジオで一緒になったアイドルグループVISTYのアカウント。ハッシュタグは「VISTY新メンバー」。
「……アン」
「なにぃ?」
「分かっていて放っておきましたね?」
「なんのことぉ?」
とぼける気もなく顔がニヤついている。後でどんな報復をしてやろうか心の中の閻魔帳をめくりつつ、今はひとまず目前の不毛なやり取りを早く終わらせることにした。
「アレン。ひとまず落ち着いてください。それで、そのアカウントの過去の投稿を遡ってみてください」
両肩を掴んで距離を置かせたアレンは、怪訝そうな表情ではあったがひとまず静かになった。早く、と言葉の代わりに顎で促すと、大人しく自分のスマホをスライドし始める。
「えっ……これ、あれ……?」
「体当たりで著名人と写真を撮るという企画だそうですよ。アイドルというのも大変ですね」
「企画……かよ」
「あ、死んだ」
畳に両手を付いてがっくり項垂れたアレンを、アンが薄情に実況する。馬鹿馬鹿しくて言葉も出ない。肺の底から深いため息が漏れた。
「いや、だって、あんなことが朝にあったらさあ……夏準、めちゃくちゃハマってるし……」
「本気で信じたんですか。ボクがBAEを抜けるって」
声に棘が立つのを止められない。朝にあんなことがあったばかりだ。夏準だって冷静に話したいが、それよりも腹立たしさが勝ってしまった。夏準が今更、BAEを最高で唯一の道だと信じられなくなるとでも思っているのだろうか。これまで交わしたリリックで、託した信頼でそれが伝わっていないなんて許せない。侮られている。
「夏準」
夏準の言葉に引き寄せられるようにアレンが顔を上げる。確かめられている気がした。夏準の瞳の中にあるアレンや、アン、BAEに向けられた思いを。顔を逸らさず、ただ憮然と見下ろす。
「ごめん」
「……何の謝罪ですか、それ」
「お前に、あんなこと……言わせちゃいけなかった。あれ以上言わせちゃダメだと思って話止めるしかなかった。ごめん」
問いの答えはまた予想から外れていた。アレンは本当にいつも夏準の埒外に居る。
「もういい」、それは見限る言葉じゃない。自分を責める言葉だ。この男は、夏準の放った言葉を自分が言わせたと本気で信じている。それは優しさのようで、途轍もない傲慢でもある。
「アレンって」
「……なんだよ」
「馬鹿ですね、本当に」
「はあ?」
もう怒りも苛立ちも、不調さえもどうでもよくなってしまった。アレンがどこまでもアレンでしかないので力が抜ける。不安も、疑念も、空虚から生まれたつまらない感情も、盤上に居ないアレンの前では何の意味も成さない。
「アン」
「へっ?」
「……やっぱり間抜けな返事ですね」
お前も何かないのかよ、と露骨に訴える顔を無視し、食卓に肘を置いて傍観者を気取っているアンに声をかける。完全に油断していたのか背筋がピンと伸びて笑ってしまった。
「ボクも謝ります」
「……僕に?」
「ええ。ちゃんと聞いてもらうべきでしたから」
きょとんと目を丸め、何度か瞬きを経て、最後にアンは口元を緩めた。不満そうなアレンをからかうように笑いながら、フックを口ずさむように軽やかに口を開く。
「いーよ。そんなこと」