※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21053265
※「VIBES」後のどこか
朱雀野アレンにはここのところ悩みがある。
いや、もっと正確に言うと悩みというほどの重さは無いのだが、その軽さのせいで「そのこと」がいつも自分の周りを衛星のように付いて巡っている気がする。不快だったり苦しかったりするわけでもないけれど、なんとなく落ち着かない。そんな感じがずっとしていた。
そんなんじゃ楽曲にも集中できない──と、いうことだったら何とかしようと藻掻いたはずだが、そうなっていないせいで危機感も薄い。手元のノートには溢れるリリックとメロディー。「そのこと」に対して何か確かな形を見つけようとしているのかもしれない。言葉や音が溢れ出て満ち、その中でただ心地良くふよふよ漂っている。
「アレン?」
名を呼ばれていることに気づけたのはサンプリングのアタリを付けていた曲の再生がいつの間にか止まっていたからだ。ボールペンがノートの上に倒れ込んでいる。ヘッドホンを首筋にずらして振り返ると、本を片手にソファに腰掛けている夏準が不審そうにこちらを見下ろしている。曲のイメージがある程度固まるまでリビングで作業したくなる時がある。あとワンフレーズ足りない時や、どちらも良くて迷っている時に二人の意見を聞けると有難い──ということをアレンは一度も口にしたことはないのだが、夏準もアンもそういう時はそれぞれ好き勝手しながらなんとなく傍に居てくれる。今はバイトに出ているアンも帰って来れば何かとちょっかいをかけてくるだろう。
「キリが付いたんですか?」
「あ……いや、集中切れた」
「珍しいですね。一度入ると夜中まで帰ってこないのに」
本が扇のようになって口元が隠れているが、皮肉っぽい、いたずらっぽい笑みが目元に滲んでいる。やたら古い本のタイトルはHow to Win Friends…なんとやら。どんな本読んでるんだ。夏準が読んでいると怖い。
「詰まったんですか?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど……」
むしろ絶好調だと思う。浮島のようにメロディーラインが固まりつつあった。あとはバラバラのフレーズを組み上げれば、仮トラックまでは詰められそうな気がする。いつもなら掴んだフックの解説がしたくてたまらなくなるはずなのに、どうしてか喉がきゅっと閉じている。最近、時々──HIPHOPと日常の隙間、夏準と二人の時に起きる謎の現象だった。
「仕方ないですね」
本がパタリと小気味良い音を立てて閉じられる。目を丸めたアレンを少し笑って、夏準は本をソファに置いた。飲みますか? コーヒー。何か隠したり気取ったりする必要の無い時の夏準は声も表情も柔らかい。以前は稀に遭遇してアンと二人囃し立てていたそれが、今では当たり前に日常に隣り合っていて、またアレンの喉をきゅっと閉ざした。
「いっそのとこ寝てしまっては……なんて、言いませんよ? 今回もアレンには溝が擦り切れるまで頑張ってもらわないと」
「……分かってるよ。ありがと」
付き合いが長いともう、意地の悪い言葉も信頼の裏返しにしか聞こえない。苦笑を返すと、「よくできました」とでも言いたげな目で歩き去っていく。なんとなく首元でヘッドホンの角度をいじったりしつつ、キッチンに向かう姿をぼんやりと眺めた。
まさにこれだった。悩みというか、悩みと呼ぶほどでもない、夏準の言動の端々に生まれる、意識の端でチカチカ光っている何か。アンもそういう瞬間があるのかと聞いてみたかったが、「これ」をどう説明していいか分からない。リリックとメロディーだけが無限に生まれる。EQが天井を突き破っているアンにもさすがに全ては伝わらず、全くピンと来ない顔をされてしまった。
──まあ、なんかさ、もっと「近く」なった感じはする。それって、いいことじゃないの?
大学のカフェテリア、スムージー片手にアンは何でもないことのように言った。僕は夏準のこともっと好きになっちゃったかも。アレンは?
「はい」
また意識がどこかへ飛んでいたようだ。声をかけられるまで、夏準が隣に戻ってきていることにも差し出されたコーヒーカップから立ち昇る匂いにも全く気づいていなかった。アレンの反応の鈍さに呆れたのか、カップはテーブルの端に乗せられた。カチ、とソーサ―とカップがぶつかるほんの小さな音が静かな部屋に響く。
「……俺だけ」
「当たり前でしょう。どうせすぐに徹夜に付き合わされるようになるんです。ボクは今の内に休んでおかないと」
零さないでくださいよ、そう言いつつ夏準はアレンの左隣に腰掛けた。ラグに直接座るなんて普段はしない奴だが、カップが倒される確率を少しでも減らしたいのかアレンの作業を邪魔しない程度に走り書きの紙をまとめにかかる。
「まあ、カップの片づけくらいまでなら付き合ってもいいですよ」
「なんだよ」
先ほど見上げた笑みが今は真横にある。その愉快げな横顔を見ていたらまたメロディーが降りてきた。あ、今の。今回のイメージとは違うけどいいかも。別の曲の導入で行けないか。少しBPMを落として気を引いて、そこから8ビートで少しポップにして……
頭の中に流れるメロディーとアレンジを書き込んでおく。ペンでビートを打ちながら鼻先で歌ってみて、また書き込んで。実際に音が聞きたくなってたまらなくなったらソフトに打ち込んでみる。いつもの作曲作業だ。ただこのメロディーは今回使うか分からない。できるだけ忘れないようにメモしておくだけにしようか…とペンを走らせていた。
どれくらいそうしていただろうか。少なくとも真っ白だったページは音符とメモで真っ黒になっている。そこでようやく、アレンは違和感に気が付いた。テーブルの端に乗せていた左手に何かが重なっている。そう言えばいつからか右手だけ使って作業していた。不便が無いので気が付いていなかった。
目を落とすと、長い指。羽を模したメタルの指輪がその先に絡みついている。アレンの手の甲を包むでもなく、ただほんの少しの体温が乗せられていた。夏準だ。え? 夏準か? ようやく回路が繋がって慌てて顔を上げた。
「夏準……!?」
「なんですか?」
「なんですか、って……」
夏準のほうは特に動揺した様子もない。アレンが何に慌てているのかも分からないようなキョトンとした表情だった。その反応の違いにまた混乱する。いや、これ、変だよな? 1対1だとうっかり流されそうだ。アレンの目が夏準の顔と手を往復しているのを見て、夏準は焦らすようにゆっくり、「ああ」と声を上げた。
「気づいたんですか」
「気づくだろ。普通」
「気づかない時もありましたよ? 相変わらずのHIPHOPバカぶりで。ああ……それとも」
なんだか衝撃の事実が語られている気がする。ひょっとしてこれが初めてのことではないのだろうか。夏準はやはり少しも悪びれていない。それどころか指先が動き、少しだけ手の甲がきゅっと包まれる。中性的で、幼くも大人びても見える不思議で端正な顔立ちが覗き込むように傾けられた。
「気づかないフリ、だったんですか?」
何も心当たりは無いはずなのに、フリースタイルで急所に刃を当てられた時のようだった。心臓がごとりとヤバイ類の音を立てたのがハッキリ聞こえた。咄嗟に何も返せないでいるアレンを夏準は目を細めた笑みで追撃する。
「意外ですね。アレンがそういう、駆け引きができるような人間だなんて知りませんでした」
「か、かけひきって……」
「アレン」
なんとか流れを自分の手元に戻したくて上げた声が、柔らかい声ひとつで止められた。柔らかいというか、咎めるような響きなのに甘いというか。完全に吞まれている。
「アレン」
今度は少し困ったような、初めて少しだけ悪びれて見える声と笑み。祈るように名前を呼ばれている。握られた左手が持ち上げられ、白い頬に寄せられた。触れた感覚で体が小さく揺れてしまって、手のひらに夏準の笑った吐息がかかった。
「手を、離さないでくださいね」
当たり前だろ。だから何回でも言うけどさ──答えは決まっているはずなのに、喉はやはり開かない。多分、心の奥底が「そうじゃない」と思っていて納得していない。もっといいメロディーが、リリックが、もっとシンプルにたった一言が返せるはずと知っている。もどかしさに苦しむアレンをどう見たのか、夏準はやっぱり涼しい顔で笑うだけだ。
「離すと、途方もない大魚を逃すことになりますよ」
手のひらの端に唇が少し触れ、それから夏準はあっさり立ち上がってしまった。「今度こそ飲んでくださいよ」、ほとんど減っていないコーヒーカップが持ち去られて行く。空気がすっかりいつも通りに戻っていて、まざまざ残る手の中の感触を呆然と見つめるアレンだけが取り残されていた。
これ、やっぱりバレてるよな。で、完っ全に遊ばれてる。
「……そっちこそ、ちゃんと握らせててくれよ」
悪態を吐くように囁き、左手を額に当てた。深い深いため息を吐き出すことしかできない。