また音が途切れている。
目を開けようとして、眩しさに顔をくしゃりと歪めた。呻きながら体を起こし、目元を擦って無理やり視界を開かせる。ブランケットがするりと肩から落ちる以外の音がしない。春先の暖かな昼光が惜しみなく満ちるリビングには物音ひとつ無い。
「アン? 夏準?」
ついさっきまで二人の声を心地良く聞いていたはずなのに。ざわつく胸を押さえつけるようにスウェットを握り込む。どこかに出かけたんだろう、自分の内の冷静な部分がそう納得しているはずなのに心が落ち着かない。静かすぎるのだ。いつも頭の中を巡っているメロディーやリリックがぱったり止んでいる。何も湧き出てこない。それがひどく恐ろしいことのように感じる。
「……だめだ、ここ」
とにかく何か、音を。何でもいいからこの静寂を埋めなければどうにかなってしまう。どすどす裸足でフローリングに足音を作り、家中の扉を開ける。どこにも誰も居ない。何の音もしない。半分悪夢を見ているような気分だった。ここが現実かどうかはっきり分からない。むしろこれまでが、二人が夢だったとしたら──そんなわけないと分かっているのに擦り切れた心が今にも散り散りに砕けそうだ。何もかも振り払うようにサンダルに足を突っ込んだ。そのままふらふら家を出る。平日の昼下がり、誰ともすれ違わない。エレベーターやエントランスのドアの作動音が静寂を強調する。
とにかく、何でもいい、音のあるほうへ。まるでゾンビみたいな覚束ない足取りにすれ違う人びとが不審そうな目を送ってくるが、自分の存在が感じられてむしろ少し安心する。大通りの車の音、人びとの雑踏、会話、店から漏れ出る音楽、アナウンス。やっと息をつけるけれど、それだけだ。この音じゃない。これだけじゃ満たされない。
気づけば随分歩いていたらしく駅前に来ていた。ふと目についたのは広場の隅、軒下に置かれたアップライトピアノだ。あれなら。スプレーやステッカーが浴びせかけられた姿に行儀の良さは感じない。そこにむしろ親しみが湧いた。覗き込む鍵盤は綺麗なもので、ひとつ、ふたつ、みっつ、弾く音に狂いはない。誰かが愛着を持って面倒を見ているらしかった。ガタガタする椅子に腰掛ける。
しかし指を下ろそうとした途端、次に何をすればいいのか分からなくなった。呆然と白黒二色を見つめる。やっぱり無い。音が。何もかも。「空の容れ物」になっている。
「弾かないの?」
どれくらいそうやってぼうっとしていただろうか。ふと、親しげな声とともに影が落ちてきたので驚いて顔を上げる。無邪気な輝きに満ちた瞳が不思議そうにアレンの顔を覗き込んでいた。
「弾けないの? オレが弾いてあげよっか?」
「1Nm8の、シックス?」
「そうだよ!」
印象的な八重歯が満面の笑みへ更に無邪気さを加えているようだった。ちらりとその後ろへ目を向ければ、やはり全体的に白い男たちの姿が見えた。表情が大きく変わらない二人だが、意外な遭遇に向こうも驚いているように見える。
「そっちは……あっ分かった! 赤くてでっかい鳥だ!」
「MC SUZAKUだ、ロクタ。朱雀野アレン、BAEのリーダー」
「そうそう! そんな感じ! さすがイツキ兄!」
ロクタが嬉しげに手を打ち合わせたものの、イツキは特に思うこともないのかクールな無表情だ。そんな二人を微笑ましげに見つめつつ、京がロクタの隣に並び、同じようにアレンを覗き込んできた。
「大丈夫かい?」
一瞬、何について問われているか分からなかった。答えを見つけられず呆然と京を見上げてしまう。京はそんなアレンに苛立つこともなく、答えを静かに待っているようだった。それに少しだけ救われる。
「……大丈夫……じゃ、ないかもしれない」
「え? どうしたの? お腹痛い?」
「いや、それは大丈夫」
「良かった~! オレもね、どれだけ食べてもお腹痛くなったことないんだ!」
「……そっか」
「何の話だ」
肩から力が抜けた。パフォーマンスを見ていても分かるが、この三人は、相手を簡単に踏み入れさせない何かを持ちつつ、それでいて相手を害するような気持ちを一切感じさせない。大柄な割に子供みたいなロクタに愛らしさすら感じ、アレンもつい笑みになった。
「シックスは何か弾けるのか?」
「うん! 好きな曲があるんだ! ここ通ったらいっつも弾いてるよ!」
「じゃあ、聞かせてもらっていいか? お前の言う通り、俺、今……弾けないみたいで」
「いーよ!」
椅子を譲ってやると、壊すのではと心配になるくらいの勢いでロクタが腰を下ろす。そして満面の笑みで「京ちゃん!」と呼びかけた。京はきょとんと驚いた表情を浮かべたが、すぐにそれを笑顔に変え、ロクタの隣に浅く腰掛ける。
聞いたことのない曲だったが、すっと耳に馴染む音階だった。ロマン派風だが、音が行きたいところにそのまま置かれていくような素朴さがあって1Nm8らしい。二人の音が寄り添っていくにつれ感情が揺さぶられ、そこに心が燃え残っていることを思い出させてくれた気がした。
儚く曲が終わる。余韻に浸っていると、いつの間にか集まっていた人だかりからわっと歓声が湧いた。アレンも慌てて拍手を送る。隣に立つイツキを振り返れば、思いのほか穏やかな表情が返ってきた。
「どう? どうだった!?」
「うん。すごく良かった。綺麗で……自由だった」
「でしょ!? 京ちゃんはね、何弾いてもすっごく上手なんだ!」
「スザクは僕たち二人を褒めてくれたんだよ、ロクタ。この曲は二人で弾く曲だから」
ロクタは無邪気に飛び上がって喜んでいる。アレンもつられて笑みになってしまった。すると、ロクタに向かっていた京の苦笑がアレンにも向けられた。苦みというか、憂いの色が深くなった気がして困惑する。
「良かったら、一緒に来るかい」
「京?」
イツキが戸惑うように声を上げたので京は一度そちらを見た。それだけで二人には通じるところがあったようで、すぐに京の視線が戻ってくる。
「君の音には嘘が無い。いつもまっすぐで、全力で。それが響かないのは、僕ですら、少し寂しい」
風に木の葉が揺れる音に似た、静かな声。「なのに」なのか「だから」なのか、人の心に染み入る力がある。何も返せないでいるアレンを笑みで受け止め、京はイツキとロクタと目を合わせる。
「いいかな、イツキ。ロクタ」
「さんせー! 一緒に行こ行こ~!」
「俺は……京とロクタがそう言うなら。異論は無い」
言うが早いか、ロクタがアレンの手首をぎゅっと握り込んだ。引っ張られるまま歩き出す。
「一緒にって……? どこ行くんだ?」
「えっとー……どこだっけ?」
「おいおい」
慌てて振り返ると、少しだけ呆れの滲んだイツキの隣で、京はやはりほのかな笑みを浮かべている。ステージでは無機質な印象を覚えていたが、イツキやロクタに向ける目は随分優しい。アレンはそのおこぼれを受けているらしかった。
「もっと音を素直に感じられるところ。ここは、音が多すぎるから」