ビクリと肩が揺れ、その衝撃に驚いて目が覚めた。けれど一体自分が何に驚いたのか分からない。変な夢見ちゃった? 何がなんだか分からないまま眠い目をこすりつつ身を起こしたところで、体が硬直した。唸り声のように低い声がドアの向こうから聞こえてきている。これに意識より先に体が反応したんだと分かった。バクバク、心臓のビートがリズムを乱して不規則に刻まれていく。知らず息を潜めていた。ここはあの家じゃない。ママはここに居ないし、パパが出て行って何年経ったと思ってるんだ。一応隠しているつもりらしい低い声で罵り合う二人はもう居ない。アンの心の奥深くに居着いているだけ。
「Okay!」
小さく気合を入れてベッドから抜け出した。ドアの前で立ち止まり、小さく息を吸い、それから開ける。
「アレン? 夏準?」
恐る恐る開いたドアの向こう、リビングはひんやり冷たい。気が滅入るような雨が今日も降り続いていて、指先に触れる空気を重くしている。ダイニングテーブルの前に立っているアレンが不意を突かれたようにこちらを見た。そのアレンに腕を掴まれていた夏準は、心底煩わしそうに腕を振ってそれを振り払う。小さなため息。しかし振り返ってこちらに向けられた顔は「いつもの夏準」だ。
「……何してんの?」
「おはようございます、アン」
「えっ、うん、おはよ……」
いつも通りのスカした笑みなのに、なんだか落ち着かない。普段は夏準と二人がかりで叩き起こすアレンがばっちり目覚めて夏準に強い視線を送っている。全部がちょっとずついつもと違う感じがした。
「夏準! 終わってないだろ、話」
「いいえ、そもそも話の体を成していませんでした。続ける価値もない」
「なっ」
「人の話を聞く気も、信じる気も無いのに、何を言えと言うんですか?」
「違う、そうじゃなくて! 俺はただ」
「『そうじゃなくて』? また否定ですか?」
「は、夏準」
アンもアレンも、多分夏準自身でも、よくない流れだとすぐに悟っていたと思う。フリースタイルでディスり合いになったらアレンはもう夏準には歯が立たないし、夏準は相手に一番深く刺さる刃を選ぶことのできる男だった。
「否定しているんですか? アナタが、ボクを」
アンから夏準の顔は見えない。けれどアレンの表情が歪んだのはよく見えた。本当に包丁でも突き立てられたんじゃないかと思ったくらいだ。間に合わなかった。とにかく、これ以上はダメだ。まずは止めてそれぞれ話を聞かないと。リビングに大股で踏み込もうとしたが、それより先にアレンが俯いた。「分かった」、感情を無理やり押し殺すような低い声。
「もういい」
雨の音がやけに耳に付く。アレンも夏準も口を閉ざしたし、アンも踏み込むのをためらってしまっていた。とにかくこの空気を変えたい、そう思うのに、そう足掻けば足掻くほど状況が悪くなる過去の記憶が足元で蛇のようにとぐろを巻く。
は、小さく息を吐いたのはまた夏準だ。
「アン」
「へっ!?」
「……なんですかその間抜けな返事」
言葉の通り、夏準はこれ以上話を続ける気は無いらしい。くるり、と体を翻す。呆れたような、皮肉げなような、小憎たらしい笑みを浮かべて、また薄い殻一枚挟まれる。
「すみませんが、詳しく聞かないでください。くだらないことですから。アレンも」
アレンに対してだけ少しトーンが下がった。余計な事は話すなという露骨な圧だったが、アレンもアレンで何も答えない。口元をぐっと引き締めているだけだ。
「それでは、ボクはお先に。잘 있어요」
「って、夏準! 今日講義一緒じゃ……」
アンの言葉なんかまるで聞こえていないし、雨で湿った空気なんて重くもないらしい。颯爽と夏準は廊下に消えていき、程なく外へ出て行ったことがドアの音で分かった。後に残っているのは雨の音とアレン、それからアンだけ。
「何があったの?」
「いや……」
「また何かやらかした? でもそれにしては、めちゃくちゃ怒ってたよね」
実のところアレンが夏準にお小言を喰らっているところなんて日常茶飯事だが、今日のは明らかに度が過ぎている。皮肉や呆れで茶化す余裕すら感じない鋭い言葉。
「嫌だな、なんか。この空気」
「……ごめん」
「謝るってことはやっぱ、アレンが悪い感じ?」
「そう……なんだと思う」
アレンにしては随分割り切れない返事だった。けれどそれ以上何か切り出す様子も見えない。こうしている間にも刻一刻と時間は雨に塗り潰されていっているのだ。すっかり蚊帳の外にされたことに腹が立ってきたが、ここに突っ立っていても何も変わらないことだけは分かっている。
「とにかく! 今は準備しよ! 燕財閥サマのおクルマは使えないんだし!」
学校に行けばどこかでは摑まえられるだろう、そういう目論見もあってアレンの背中をぐいぐい押し出したわけだが──
「休み……ですか?」
「ああ。モデルの仕事が立て込んでいるらしくてね。彼は優秀で真面目な学生だし、事情も理解できるからね。私の講義はレポートで免除することにしたよ」
聞いてなかったかい、西門の言葉に他意があるわけないのに心に突き刺さるフレーズだった。一緒に取っているのもそうでないものも、どの講義でも夏準が捕まらない。どうも今日一日丸々学校を休んでいるようだ。Paradox liveが終わってから段々スケジュール調整が難しくなったとぼやいていたのは見ている。でも一日一日の互いのスケジュールなんて細かく知っているわけもない。その日の朝、ドタバタ朝食を食べながら、ふざけ合いながらルーズに共有するくらいのもので。
「だけど……少し心配だね」
西門が声を上げた。いつも通りに過ごせなかった朝のことを思い出し、言葉が続かなくなったアンを気遣うような優しい目と声の色。やっぱり西門センセーって最高にcoolでsick。
「君たちは今や色々なクラブやイベントに引っ張りだこだろう。学校と、モデルと。三足の草鞋を履いている状態だからね。いくら燕くんと言ったって彼にも足は二本しか無いだろう?」
「そんなこと言ったら先生だってそうじゃないですか! TCWだけじゃなくて、教授にバーのオーナー! そんなことできるのセンセーだけですよぉ!」
「ハハハ……ありがとう。でも私はどれも無理のない範囲でやれているからね。周りに随分助けてもらって」
「だから」
それまで押し黙っていたアレンが不意に声を上げた。アンにはわずかな苛立ちがそこに混じっているのが分かる。普段より更に輪をかけて上の空だったアレンが今日一日必死に押し込めていた感情に違いない。
「だから……」
「アレン?」
しかし、やっぱりそれ以上を話そうとしないのだ。夏準に言われた「詳しく話すな」が案外効いているのかもしれない。夏準に対して、アレンは時々そういうところがある。出会いが出会いだから、夏準の芯にあるものをうっかりでも踏み荒らされたくないと思っている。
「そう言えば」、押し黙る二人に西門はやはり優しい声をかけてくれた。そこに呆れや苛立ちはまるで見えない。大人からすればきっとくだらない、取るに足りないようなことも等身大で寄り添ってくれる優しさだ。
「話の腰を折るようで申し訳ないが、朱雀野くん。君もParadox liveに関する欠席に対していくつかレポートが出されているって聞いたよ。それが提出されていないって話もね」
「え゛っ、あっ!」
「えー!? アレン、まだ出してなかったの!?」
「あ、いやそれは……その……」
光と同じくらい闇も集めたParadox liveの一件で、幻影ライブに対して集まった注目は決していいものばかりではない。学校という閉じられた常識の中ではむしろ厳しい目の方が断然多い。西門は同じ幻影ラッパーとして矢面に立ってくれているので、周囲から色々三人の話をぶつけられてしまうのだろう。すっかり頭が上がらない。それでも眉尻を下げたアンを安心させるように笑いかけてくれるのだから尚更だ。
「朱雀野くんも二足の草鞋。大変なことは分かっているよ。良ければちょっと見てあげよう」
アレンに向けられたのも変わらず優しい笑顔。なのに、何故だろうか。絶対に逃がさないという言葉が頭に流れ込んでくるのは。