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Fill △ up! (BAE)



「アレーン? いい加減起きたら? 朝ごはんできてるってよ~」

 どれだけノックしようが名前を呼ぼうが物音ひとつしないので、痺れを切らしいつものように遠慮なくドアを開け──かくして、アンは事件現場に遭遇することとなった。

「アレン!?」

 名前を呼ぶ声が裏返ってしまう。取る物も取り敢えず、床の上でジャケットを抱えたまま伸びているアレンに駆け寄って膝をつく。

「Jeez! ちょっと、何してるんだよ、床で寝たの!?」
「アン……?」
「うわっ! ひっどい顔!」

 肩に手を当てて横向きの体を仰向けにすると、パンパンに腫れた目が薄く開き、端が切れて血が乾いている唇から掠れた声がわずかに漏れた。呆れるべきか心配すべきか、ひとまず返事があったことには安心した。

「もーしっかりしてよ! さすがに今回キツかったのは分かるけど! 死んでるかと思ったじゃん!」
「体……動かねえ」
「えー!? まさか……変なことになってないよね!?」

 思いっきりスウェットを引き上げて腕やら腹やら確認するが、特におかしなところは無さそうだ。もうひとつ小さな安心を積み上げつつ、しかし、普段なら憮然と抵抗してくるところ、されるがままぼんやりアンを見上げているアレンは明らかに様子がおかしい。

「夏準! 夏準!! はーじゅーん!?」
「なんですか。騒々しいですね」

 口ではあれこれ言いつつ、騒ぐアンを気にしていたのだろう。夏準の返事は早かった。開いたままのドアから顔を覗かせ、床に寝転ぶアレンを見つけるなり不審そうに眉根を寄せる。何から始めればいいやら、力ないアレンの手を持ち上げブンブン振って異常事態をとにかく伝達しようとする。

「アレンの電池切れてる!」
「ああ、もうそんな時季ですか」
「そんな風物詩みたいに言わないでよ!」
「アンこそ。アレンはスマホじゃないんですよ。かわいそうです」

 アンが今までの人生で聞いてきた内、最も心の伴わない「かわいそう」だったが、いつも通り落ち着いている夏準に助けられアンも少しだけ落ち着くことができた。ふう、ひとつ息を吐いた夏準はマイペースにアレンに歩み寄り、アンの隣にしゃがみ込んだ。

「調子がいいとか言って、このところ立て続けに曲を作ってましたからね。その末に昨日のステージ……まあ、限界が来てもおかしくないでしょう」

 閉ざされたカーテンから漏れる朝日だけの薄暗い部屋、依然アレンは光のない瞳をぼうっとアンと夏準に向けている。アレン、夏準が名前を呼ぶと、夏準、と弱く答えは返ってくる。呆れたようにまたひとつ息を吐き、夏準は長い指をアレンの額に当てた。

「意識はありますね。熱も……無さそうです」
「浸食も無さそう!」
「メタルとの親和性もありますから、それは」

 意気込んで報告するが、夏準に不本意そうな顔をさせてしまった。夏準の気持ちを考えればしょうがないことだったと理解している……とはいえ、あんなになるまで隠していたことに思うところが無かったわけがない。いつもの仕返しでにっこり微笑むと、さすがの夏準も苦笑で観念してくれた。

「もう少し休みますか? それとも何か食べられそうですか?」

 アレンの腕が少し動いたが、パタリと力なく床にまた落ちていった。額から離れる夏準の手を掴もうとしたように見える。アレン? 夏準が名前を呼ぶと、苦しそうに眉根が寄った。

「……無いんだ、音……寝てたくない」

 なんとか振り絞るような囁き。何を伝えたいのか掴み切れない焦れったさに、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。困って夏準を見れば、夏準も探るような視線をアンに送っている。

「アンはそちらを」
「うん。ほらアレン! 起きるよー!」

 腕を持ち上げ肩に回させて両脇から体を支える。昨晩会場から引きずって帰った時はあんなに活力に溢れていたのに、今は全体重が肩にかかってきて重い。ソファまでなんとか歩かせて、力なく背もたれに寄りかかっている体をブランケットに包む。日光を浴びたおかげかアレンの表情が少し柔らかくなったように見えてほっとする。

「丁度良かったですね。胃にやさしいものをと思って、朝は雑炊にしておきましたから」
「さっすが夏準! 最高! VVS you’re the finest!」
「当然です」

 アンも、きっと夏準も、アレンと同じく全力を出し切った反動をかなり受けた。いつもよりかなり遅い朝を、それでも普段通りに始めてくれる夏準がありがたくて心からの賛辞を送る。配膳くらい手伝うかとソファから立ち上がろうとして──引き戻された。目を瞬きながら視線を落とす。袖の先をアレンが弱く掴んでいた。

「アレン?」
「頼む。何か……喋っててくれ」

 普段はどんなに騒がしい場所だって突き抜けて行く声が、今は朝の光にぼんやり溶けて滲んでいる。困惑するアンに届く言葉が見つけられないのか、もどかしそうに眉根が寄った。

「ダメなんだ。今日、俺」
「それは……誰がどう見てもそうだね」
「だから、二人がなんか……とにかく、音作っててくれないと頭おかしくなりそうで」

 そう言いながらも、言葉の通りアレンは苦しそうにうつむいていき、両手で頭を抱えるように顔を覆った。自由になった袖をやるせない気持ちになりながら見つめる。表情を無理やり笑顔に変えてアレンの隣に戻った。

「いいの? CANDYのNo.1は安くないよ~? 店中のボトル全部空けさせちゃうかも?」

 茶化しているのに、アレンは指の隙間からただ「うん」とだけ声を漏らした。

 すごいんだよこの前さあ──店で起こったこと。大学で見聞きしたこと。SWANKの関係で知り合った人の話。無軌道に話を繋げていると、夏準が盆を持って話に加わってきた。出された雑炊はいつもとはまた少し違った素朴な味付けだ。人から教わったレシピらしい。これまでにない夏準のそんな繋がりが何故だか嬉しくなってしまった。上機嫌に食べていると、そんなに気に入ったんですか妬けますね、と普段の料理を褒めちぎって夏準のバイブスも上げてやらなくてはならなくなった──まあどれも本当に美味しいからお世辞は要らないんだけど。

「アン」
「えっ? あっ、oops」

 夏準が話を遮ってアレンに注意を向けたので慌てて視線を追いかけると、アレンの手にあった椀が今にも滑り落ちそうになっているところだった。間一髪でキャッチする。アレンはすっかり体の力を抜きソファの背もたれに液体みたいに溶けかかって目を閉じていた。深い呼吸の度に肩がゆっくり上下する。

「……寝ちゃった」
「今回は一際ですね」
「元々かなりキツイみたいだもんね」

 実のところ、大舞台の次の日にアレンが力尽きてダウンするのは今回が初めてではない。幻影ライブ抜きにしても、アレンは作詞作曲のことになるとまるで見境が無くなり、曲が詰めに近づけば近づく程無茶をする。今回はそれが最大級に祟っているのだろう。

「アンの今日の予定は?」
「今日は休み! 大学もサボリ! さすがに疲れたもん!」
「高らかに宣言することでもありませんけど。それなら、アレンのことは見ていられそうですね」
「え? 夏準、なんかあるの?」

 椀をテキパキ盆に集めた夏準は、立ち上がってエプロンを取り腕にそれを引っかけた。

「モデルのほうで一件。表紙の撮影です」
「昨日の今日だよ?」
「万全とは言い難い状態ですからボクも避けたかったんですけどね。これまでもかなり待たせているので」
「それってさあ……その、大丈夫?」

 咄嗟に浮かんだのは以前、健康と美容をそのまま人間にしました、みたいな生活をしている夏準が体調を崩してしまった時のことだった。自分の弱いところを外に出したがらない夏準は、きっとその話をあまり持ち出されたくはないだろう。分かっているが言わずにいられず、なんだかぼんやりした聞き方になってしまった。

「あれはもういいんです」

 「あれ」。夏準はアンが何を心配しているのかすぐに察してしまったらしいのに、愉快そうに目を細めている。そしてフロウに乗せるように軽やかに、「アナタたちのせいだと分かりましたから」と続けた。目を丸くするアンが面白いのか笑みは更に深くなる。

「……僕たち?」
「ええ。ボクにはどうにもならないような人たちですし。諦めました」
「えっ!? それどういうこと!? なんかやっちゃってたってこと?」
「はい、毎日毎日。でも別に、いいですよ。そのままで」

 明らかに何か責めているような言い方なのに、夏準の笑みには全く悪い感情を感じない。むしろいつもよりずっと親しげで、優しい笑みに見える。これでディスをかまされているんだとしたら裏表どころの話じゃない。もう何も信じられなくなりそうだ。混乱するアンを夏準はやっぱり楽しそうに見ている。クスクス笑いながらソファから離れていった。

「えー!? このまま行くの? モヤモヤするなあ」
「안녕、철부지들。いい子で待っててくださいね」

 聞き覚えのない言葉の響きだが、絶対に何かからかうようなことを言っている。むっと頬を膨らませて見せるのも一切構わず、微笑みの貴公子は優雅に手を振ってリビングを出てしまった。

 すっかり静かになったリビングで、髪の先をいじりながら夏準の言葉の意味を考えていたが──

「アン」

 唸り声で名前を呼ばれた。アレンの目は閉じたままで、しかめ面をソファの背もたれに擦りつけている。どうやら音の無くなったリビングが気に入らないらしい。

「もー、一人で話せって?」

 皺の寄った眉間をつっついてみたが目が開かない。しょうがないので好きな曲を適当に口ずさむ。別にBAEの曲を歌おうと思ったわけでもないのに、どれもこれもアレンと一緒に作ってきた曲ばかりだ。

 穏やかに戻った寝顔と寝息に苦笑し、組んだ膝の上で頬杖をつく。覗き込んだ顔色はかなり良くなっているようだ。瞼の腫れも引いてきている。

「これじゃホントに赤ちゃんだね、アレン」

 口ではそうやってからかってみるけれど、赤ちゃんにしては頼もしすぎるリーダーだ。BAEの曲に込められた言葉、音の一つ一つですらいつもアンと夏準への信頼と肯定に満ちていて、だからアンたちは迷わずに前へ進める。後ろを振り返ることを恐れずにいられる。

「お疲れさま」

 何故だか分からないが目元に込み上げてきたものを拭って、肩に引っかかった状態のブランケットをかけ直してやった。さて、何をしようか。できるだけリビングでできることがいいだろう。テレビでも見るか、雑誌でも読むか。

 そこでふと、夜明け前に屋上に上がった時のことを思い出した。うっかりそのまま眠ったら、幸せな、でも苦しさを胸の奥に押し込めた夢を見そうで、怖くて眠りに落ち切ることができなかった。口寂しさに火を点けていない煙草をくわえて、夜明けの瞬間をただぼうっと待っていた──そう言えば煙草の箱、ちゃんと持って帰ってきてたっけ? 花壇の縁に置いたままにしてしまった気がする。

 そっと立ち上がってもアレンの穏やかな寝息が変わらないことを確認し、まずポケットを確認、無い。部屋に戻って置いていそうなところを見てみるが、やっぱり無い。清く正しい喫煙者のアンとしては、隠れ煙草を疑われるような真似は避けたいところだ。屋上は公共スペースなので夏準に迷惑がかかってしまう可能性もある。というか、別に何か言われたわけではないけれど、なんとなく家の周辺の夏準が嫌がりそうなところでは吸わないようにしているのに、それを自分に対して破った感じがして落ち着かない。

 リビングを気にしつつ早足で部屋を出て屋上に向かう。春の強い風に髪の毛を好きなように弄ばれながら視線を巡らせ、昼間の光でてらてら光るピンクの箱を見つけて脱力した。もう煙草やめようかな……トボトボ部屋に戻り、まずリビングを確認し──ソファに人影がないことに気が付く。ブランケットがラグの上に放り捨てられていた。

「ん、あれ? アレン? アレーン?」

 時間にしてほんの十分くらい。ちょっと目を離した隙にアレンの姿は跡形も無く消えていた。

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