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Fill △ up! (BAE)



 「コントロールできない外部要因」は、今日も絶え間なく降り注いで傘を無遠慮に叩く。車を先に返して歩くと決めたのは妙な感傷じゃない──誰にともなく胸の内が言い訳じみている気がして心が不穏に波立つ。最近、寝つきが悪い。朝のジョギングに出られていないせいに違いないので、少し体を動かすことにしただけだ。やけに重い足を億劫に思いながらただ機械的に前に進む。傘の上で跳ねる雨粒も、走り去る車が跳ね上げる水溜まりも、嘲るような水音が耳に障る。部屋の中では静寂を生む雨が外ではうるさい。

 そう言えばあの日、アレンはどう雨の音を聞いていたのだろう。

 アレンを見つけたあの日も雨が降っていた。日が落ちた後に雨のカーテンまで重く引かれた暗い街の中、どうしてあんな濡れ鼠を目に止めたのか今でも分からない。ただその日から夏準の日常は明らかに「速さ」が変わった。アンが加わってからは更に加速して飛ぶような速さになった。時計なんか少し見ない内に12時を軽々超えた。夏準のスタイルではちょっと受け入れがたい物も含め、自分でない気配とその習慣とが常に部屋を満たしていた。笑ったり呆れたり驚いたり、日々は灰色の連続とは全く違うものに塗り替わった。

 分かっている。意固地になったのも、言うべきでない言葉を言ったのも、どちらも夏準だ。

 ──もういい

 アレンを知ってからずっとその内側に立ってきたせいで忘れがちだが、アレンの顔立ちは元々怜悧だ。心を許した相手ほど豊かになる表情が消えると、当人にそんな気が無くとも冷たい印象がより強くなる。つまらなそうな無感情な瞳が、ただ夏準を見上げていた。

 足が勝手に止まる。胃の奥に錘でも沈められたかのように体が重い。なんとか首を巡らせ、目についたガードレールの縁に腰を少し預けた。じっとり服が湿る感覚が不快なのに動けない。

「オイ、大丈夫か? なんかさっきから具合悪そうだけど」

 履き古された、赤と黒の派手なデザインのスニーカー。目線と傘を上げると、黄金色の瞳の強い輝きが飛び込んできた。眉が跳ねあがり、目がぎゅっと丸くなる。大げさな表情の変化だ。

「ってヨンパチ!?」
「えー? なんでなんで? 何してるのぉ?」

 紗月を押し出すようにして無遠慮に顔を覗き込んでくるのは、これもまた派手なピンクのビニール傘をクルクル回している玲央だった。飛んでくる水飛沫と甘ったるい視線を避けるように身を反らす。どうせ居るのだろうと思って更に目線を上げれば、後ろからのんびりと北斎が近づいて来ている。今日は保護者同伴ではないらしい。どちらにせよ騒々しいことに変わりはないが、これから奪われるであろう余計な気力が多少でも少なく見積もれるなら何よりだ。

「……ボクは撮影の帰りです」
「あっ、BAEもインタビュー?」
「俺たちも……そう。さっきまでみんなで」
「これでますます玲央くんモテモテになっちゃうよー!」
「オイ、お前らはどこの雑誌だよ。べ、別に興味はねーけど、けどよ……アンも居るんだよな!?」

 いつもは空気よりも当たり前にその辺り漂っているBAEの名を今日はうまく飲み下せない。眉根が寄ろうとするのを留めつつ、努めて冷静に口を開く。

「いいえ、ボクはモデルのほうの撮影です」
「モデルぅ?」
「あー、そう言えばヨンパチってモデルもやってるんだっけ? かわいさは玲央くんのほうがずーっと上なのに~」
「なんでお前なんかがアンを差しおいて……!」

 やはりと言うか何と言うか。少しもまとまりを見せない話に頭が重くなってきた。深く吐いたため息にできる限りの剣呑を織り交ぜる。凡愚な相手にそれがどれほど伝わるかは期待していないが。

「とにかく、その帰りで。今は車を待っているだけですからお気になさらず」
「こんなとこでか? もー少しあるだろ。場所」
「もし良かったら、一緒に……」

 何のつもりか伸びてきた北斎の腕を押し留め、不快に歪みそうになる表情を無理やり笑みに換える。

「Paradox liveでの結果、何も見えてなかったんですか? 勝者に施す余裕があるなんて身の程を知っているとは到底思えません。その愚鈍さが次の負けをまたもたらさないといいですね」

 三者三様、すぐにはピンと来ていないのか呆気に取られたように瞬きをしている顔の間抜けさだけは笑えた。遠慮せずに小さく笑みを零せば、案の定紗月から火が着く。

「なっ……テメ、こっちは心配して……!」
「うわこわ~い。余裕ないのってそっちじゃないのぉ? たまたま擦れ違ったくらいでシュートメみたいにチクチク絡んできてさーあ、一生思春期ヤンキーの紗月ちゃんでもやらないよ~?」
「そっ、そーだ! ……って、玲央! それ俺のこともディスってんだろ!」
「は~? こんなのがディス~? 僕紗月ちゃんにはいつもホントのことしか言ってないけど~?」
「はァァ?」
「ケンカは、ダメ」

 後は飽きるのを待つだけだと無視を決め込んでいたが、盛り上がる二人の首根っこを北斎が早々に摑まえてしまった。二人の頭を同時に撫でつつ腰を少し落とし、感情の読めないガラス玉のような瞳が近くなる。

「大丈夫?」
「ええ。だからそう言っていますよね? さっきから。いい加減しつこいですよ」
「じゃあ、一緒に……行こう」
「……は?」
「夕飯は鍋だから。みんなで食べるとおいしいよ」

 しかし非常に不本意なことに、次は間抜けな顔を夏準が晒すことになってしまった。あまりにも想定の外にある提案に咄嗟の言葉を失う。さすがというべきか、普段からそのような突拍子の無さに慣れているのだろう紗月と玲央の方が反応が早かった。

「はあ!? 北斎何言ってんだよ!?」
「ちょっとまだムカつくけど、僕は別にいーよ! その代わり、買い出しに協力してもらうから♡」
「付き合いきれない」

 このままではうまくやり過ごすどころか何だかんだ巻き込まれそうだ。有無を言わせずに立ち去るのが正解だろう。腰を上げたが、その瞬間に決定的失敗に気がついた。

 足元から雨が逆流してくるような不快な感覚。眼底が鈍く痛み視界が白くなる。足元から地面を抜き去られた感覚がする。頭が支えられない。平衡が保てない。

「あぶない」

 受け止められてしまった。誰に。もちろん目前に立つ北斎にだろう。すぐに離れて平静を装うべきだと分かっているのに、目を閉じた暗闇の中で意識がさざ波のように揺れ気分が悪い。アレンの驚愕の表情が波間に見えて顔をしかめた。よりによってあんなところを見せたくなかった。

「やっぱり……大丈夫じゃなさそう。行こう」
「うわっ、잠깐만……っ!」
「チッ……仕方ねーな。病人ならほっとくワケにもいかねーよ」
「あの? 降ろして、頂けますか」
「ま、そーだよね。アニキもそう言うだろーし。トクベツに許してあげる!」
「だから……!」

 手慣れた様子で背中に背負われ、一応抵抗はしたものの眩暈がひどい。ひとまず収まるのを待つべきか……そう思うのも束の間、そこで意識は途切れた。

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