「あのなあ」
フーッ、吐き出された息が白い煙になって勢いよく滑り、消えていく。開店前のバー4/7、雨音が少しだけ優しい色に変わる店内、アレンとアンは神林の冷たい視線に愛想笑いを返すしかない。カウンターの上にはテキストとノートパソコン。隣には自分の研究とは異なる分野のテキストと課題内容に興味津々の西門。
「ここはガキの溜まり場でも学習塾でもねーんだよ」
「まあまあ、匋平。ここのところの雨で寂しい夜が続いていただろう?」
「出たよ、先生の悪いクセ」
口ではあれこれ言いつつ神林はコーヒーを淹れてくれるようだ。テキパキと豆をミルにかける姿を見て、夏準のことをまた考えた。いつもなら──家事分担という大きな犠牲を払って、お小言もらったりどやされたりちょっかいかけられたりしながら二人のおかげで何とかギリギリレポートが出せているのに。そう言えば最近、三人だけの時間がほとんど無かったなと気づく。
「で? 今度は何のトラブルだ。チーム混合イベントはうまく動き出しそうなんだろ」
「トラブルと決まったわけじゃないだろう、匋平……」
「アンタが連れてきたんだ。どーせメンド臭ぇモン抱えてるに決まってんだろ」
「めんど、くさい……」
「言葉の綾だ、そこに引っかかんな。ってか何聞いてんだよ。仕事してろ!」
「は、はい……!」
「アハハー? シッキ―、マスターにメンドクサイって言われちゃったのぉ? あーなんてカワイソーなんだ……!」
「うぅ」
「四季の何百倍もメンド臭ぇ奴がよく言うぜ。リュウ、お前もキリキリ働け!」
神林はコーヒーをアレンとアン、西門の前に置くなりカウンターを出てリュウを叱り始めた。しかし上がる悲鳴はどこまでも楽しげだ。我慢しきれなかったらしい、四季の控えめな笑い声がコーヒーの湯気と芳香に交じり合う。隣のアンも椅子をくるりと回して笑った。
「ここのみんなはいつも仲いいですね、ホントに」
「ハハハ、もちろん一緒に長く居れば意見がぶつかることもあるよ。だが、その度乗り越えてきた。君たちもそうだろう?」
アンへ向けられていた琥珀色の瞳がゆっくりとこちらへ向けられて気まずくなる。話すことを強制されるのではなく、話したいことを見透かされている。そんな目だ。
「何がそんなに朱雀野くんを難しく考えさせているんだい?」
一文字ですら打ち出されていない真っ白の画面に見切りを付け、ノートパソコンを折り畳む。肘を付きこちらを心配そうに見つめているアンと目を合わせた。
「夏準が、朝。体調悪そうにしてたんだ」
「え!?」
「突然しゃがみ込んで。そんなこと普通無かったろ? だから俺もちょっと……動揺してた」
夏準はとにかく自分の弱いところが外に出ることを嫌う。だから、そうさせないための努力を決して惜しまないし、怠らなければ必ず成果が出ることへの失敗を自分に決して許していない。体調管理はその最たるものだ。寝食を忘れてHIPHOPにのめり込んではお小言とお皮肉に炙られ続けたアレンだからこそそれをよく知っている。その夏準が、目の前で。
「メタルの浸食じゃないかとか、また何か隠してるんじゃないかとか、色々。確かに一方的に聞いたとは思ってる」
話もロクに聞かず、無理やり右腕の色に変わりないことを確かめた。浸食されている様子が無かったことをアンに教えてやると、前のめりになっていた体から少し力が抜ける。でも浸食じゃなかったら一体なんなんだ。夏準の努力じゃどうしようもできない病気や怪我? そこに居なかったアンだってこんなに心配しているんだから、アレンだって当然そうだった。きっと心の奥に、それぐらいのことをしても許されるだろうという気持ちがあった。しかし結果はそうではなかった。
「俺……それがくだらないって、悪かったって……まだ、思えてないんだよ。またあんなことがあったら。それで、今度は……助け、られなかったら」
「アレン」
朝に折れることができなかったし、今も引き下がれないのはそのせいだ。アレンが夏準を心配するのも助けるのも、言葉にするのがもどかしいくらい当たり前のことだろう。それを分かっていてほしかった。アレンの音楽は夏準が拾い上げ、繋げ、アンで形になったものだ。これまで作ってきた曲で、かけてきた言葉で、それが伝わっていないのが悔しい。
「二人が居るから俺は俺で居られる。俺を証明できる。そうじゃなくなるかもなんて、怖いに決まってる」
柔らかい雨音だけになった店内の空気がくすり、と揺れた。そこに明らかに嘲る色を感じ、アレンはがばりと体を捻った。先ほどから妙に静かになったリュウだろうと思っていたが、店の奥のドアから顔を覗かせていたのは思いもしない人物だ。
「……ナユタ?」
「いつから……」
「ずっと居たよ。まあ、2階にだけど。今日は珂波汰がアンタと曲のアレンジ詰めるって言うからさ。つまんねー気分になりそうで、四季のとこに避難してた」
そこで夜の約束を思い出してあっと声を上げると、って忘れてるのかよ、と呆れ切った表情の那由汰の肩が下がる。
「で、なんかどっかで聞いたような話してるから笑えてきたってだけ」
店内に入ってきた那由汰は、モップを持ったまま棒立ちになっている四季の隣、テーブルに腰掛けた。神林にヘッドロックをかけられているが全く効いている様子のないリュウをちらりと見て笑う。静かだと思えば、スマホを熱心にいじっていたようだ。これじゃない、あれじゃない、とブツブツ呟きが聞こえるが何を探しているのやら。
「俺と珂波汰はさ、アンタらなんかよりずっと一緒に居る。欲しい物も嫌いな物も全部同じ。それでも起きるよ。ケンカっぽいやつ。大体珂波汰は自分が兄貴だし俺のためなら何でも間違ってないって思ってるんだよな。俺は俺で珂波汰のこと考えてるのに」
こちらを見る那由汰の顔にまた馬鹿にするような笑みが浮かぶ。何故突然そんな話をされるのか分かっていないアレンに対するものだろう。実際分かっていないので文句も言えない。
「だから俺は、俺が悪いってとこだけ謝ることにしてる、って話。どうせ明日も、その先も、ずっと珂波汰と一緒だし。それでいいんだよ」
くすり、今度笑ったのはアンだった。那由汰の言葉をまだ口の中で転がして味も分かっていないアレンにも同じような目を向けてくる。
「なに、仕返し?」
「違う違う、なんかいいなって思って。cozmezのそういうところ」
「あっそ」
そっぽを向いた那由汰をひとしきりからかうように笑って、アンはまた椅子を少し回した。アレンに向き合って名前を呼び、とりあえず返事をするだけのアレンに眉を下げて笑う。
「僕さあ、やっぱりちょっと妬けちゃうよ。それからちょっと、安心した」
「安心?」
「うん、まあ、夏準のことは全然まだ心配だけど」
鮮やかに彩られた爪の先がテーブルの上に置かれたスマホを弾く。開かれているメッセージアプリの画面を上下するが何も変わらない。夏準と連絡を取ろうとしているようだが返事は来ていないらしい。
「二人が相手を傷つけるためのケンカしたんじゃなくて良かったって。夏準は多分、アレンに甘えてたんだね」
「あ、あまえ……? 夏準が……?」
「そ!」
「天国と地獄」みたいな言葉の組み合わせだなと咄嗟に思ってしまった。口に出さなかったが顔に出てしまったかもしれない。アンがケタケタ笑っている。
「前言ってたじゃん、自分で。リュウが夏準怒らせた時。あんなに怒った顔見たことないのが悔しかったって」
ぽん、とアンが肩を叩く。すると喉のあたりで詰まっていた那由汰の言葉がすとんと体の中に落ちた気がする。呆然としていたので、突然店内に響き渡った大声に体が揺れた。
「あー!」
「なんだ、いきなり。うるっせぇな」
「キノコくん見っけ~!!」
「リュ、リュウくん……キノコくんって、ひょっとしてヨンパチさんのこと……?」
「ほら! ほーらー!!」
「えっ? 何これ」
アン、西門と順に顔を見合わせた。椅子から立ち上がったところに神林の腕からぬるりと抜け出したリュウが駆け寄ってくる。差し出された画面を見るなり、アレンの顔は真っ青になった。