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Soak in the sweetener



 耳に心地良い音がする。好きな音に好きなだけ浸かれる暮らし。その中でも気に入っている音のひとつ。

「アレン」

 刺々しい言葉が常にびっくりするくらい滑らかに送り出されるくせに、声だけは柔らかくて甘い。どんな曲のどんなヴァースでもあっという間に自分のものにして聴くやつの耳を簡単に占領してしまう。今のアレンのように。

「起きてください、いい加減」

 いつもより手加減されて軽く揺すられる。それに観念して目を開けた。こちらを覗き込む目が思うよりもずっと笑みで緩んでいて、つられたアレンの口角もゆるゆるになる。

「……おはよ」
「おはようという時間でもありませんけど」

 勝手に開けられたらしいカーテンからは茜色の光が洩れている。曲を完成させたのがちょうど夏準がジョギングに出ていく時間だったので、そんなことよりと部屋に引きずり込んで……その後の記憶がない。

「……寝てた……」
「ええ、寝かせてあげました。曲に免じて」

 揺するために肩に触れていた手が離れ額に移った。ぐしゃぐしゃに崩れているだろう前髪を長い指が梳いてくれる。その感触がくすぐったくてまた緩い笑みが漏れた。夏準は呆れたように息を吐く。

「何か食べますか? 一応バスタブにお湯も張っておきましたけど」

 いつから始まったかよく覚えていないけれど、これは渾身の曲を完成させた後にだけ聞ける恒例の選択肢だ。くすぐったさが体の中にも生まれて、それから逃れるように夏準の手を掴む。

「夏準」
「なんですか?」
「や、なんとなく」

 手を掴んで軽く引きつつ、ベッドにもう片方の手をついてのっそりと体を起こした。その勢いのまま夏準の胸板に額を激突させる。眠さを振り払うように額を擦りつけると、宥めるようにまた肩が叩かれた。

「……寝ぼけてますねえ」
「そーだな、頭動いてない」
「でしょうね」

 笑みの気配を感じて顔を上げ、思った通りの表情が待ち構えていることを確認する。夏準の瞳の色をした何かが体の中に急速に満ちていくような気分。ふわふわ浮き上がるようにベッドから立ち上がった。

「風呂がいい。いつものやつ」
「またですか?」

 夏準の声は呆れているようにも楽しそうにも聞こえる。もうここは好きに解釈させてもらうことにして、手を掴んだまま部屋を出た。リビングを見渡すがアンが居ない。どうせもうひとつ呆れ顔にむかえられるのだろうと思っていたのに。アンならどうせ今日も徹夜で練習だからとか言って食材を買い足しに行きましたよ、声一つ出していないのに察されてしまった。曲の感想を知りたかったがしょうがない。

 無重力の宇宙飛行士より覚束ない足取りでテーブルの足を蹴ったりしつつリビングを抜けたところでするりと手が抜き去られてしまった。両肩をぽんと押し出され洗面所に押し出される。

 いつもの通り、投げやりに服を脱いで浴室に入り、数分ぼんやりシャワーを浴びる。少し目が覚めてきたところで体をのそのそ洗って、ちょうどいい温度に保たれている湯舟にどっぷり浸かる。はああ、思わず大きなため息が腹の底から出た。あともうひとつあればまさにパラダイスだ。

 はじゅーん、はーじゅーん、一度では絶対に反応されないので、何度も夏準の名前を呼び続ける必要がある。これは夏準を召喚するのに必要な呪文なので特に苦は無い。アンが居ればうるさいから早く、ともう少し早めに登場してくれるのだが。いかにも渋々、というアピールを欠かさずに、しかししっかり袖を捲った夏準が浴室の戸をスライドさせる。

「懲りないですね、本当に」

 それを許しているのは夏準なのでしょうがない。バスタブの縁に腕を組んで頭を差し出すと、程なくして弱い水圧でシャワーが流され始めた。俯いた視線の先で骨ばった素足に水が絡まっては伝い流れていく。

 既にびしょ濡れでくったりしている髪の毛に温かいシャワーが当てられる。それが止まると長い指がくしゅくしゅと髪をかき分けシャンプーを泡立たせていく。これが本当に、ものすごく気持ちがいい。

「夏準って……ホントに何でもできるな」
「ボクにこんなことさせるのはアナタぐらいのものですよ」

 シャンプーの泡と、トリートメントと、優しい温度のシャワー。心地良い指の感触と共に流されていく呆れた声を、ふやけた耳で聞きとろけた頭で理解し、また緩く笑う。少し顔の向きを変えた。夏準の笑みを見上げる。

「俺だけか?」

 多分、もう一度答えが聞きたいだけだとバレている。夏準は何も言わずにいたずらっぽい笑みを傾けるだけだ。最後の仕上げで水圧が強くなって目に水滴が入った。痛い。

 目を瞬いたり擦ったりしている内にシャワーが止まった。視線の先でパッパッと指先から水が払われる。終わりましたよ、前髪がまた額に撫でつけられる。心から感謝とリスペクトを感じるし、これでさぞ満足しただろうと言いたげな笑みにそんなわけないだろという気持ちもする。手を伸ばし、濡れるのも構わず夏準のシャツの脇腹あたりを摘まんだ。

「入ってけばいいのに」

 ぴくりと眉毛が動く。ほんの小さな動きでも自分が夏準に寄越したものだと思うと、洗髪と同じくらい気持ちがいい。ふっと小さく笑ったが、それが気に入らなかったのか額に手の甲が軽くぺしりと押し付けられた。

「馬鹿言わないでください」
「いて」
「そういうことは、寝ぼけていない時に言うものです」

 思わず首を動かしてしまったアレンを夏準は満足そうに笑っている。今日もやっぱり口では一歩届かずらしい。そろそろ胃も動いてくるでしょう、その言葉に操られるように腹が鳴った。それを鼻で笑って夏準は浴室を出ていく。

「……起きてるけどな、もう」

 まあ、与えられた選択肢を使ったんじゃつまらない。今はこの距離が楽しくもあった。とりあえず腹ごしらえをして、それからまた選択肢にない、次のことを考えよう。

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