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幸福の匙加減 (パラレル)



※ バーナビー15くらい、キース25くらいのパラレル兎+空
※ 続編を書き下ろして2012-08-19に本を出しました。(続編未再掲)

 バーナビーはこの家で最も早くに起きる。

 重い頭を片手で押さえながらむくりとベッドから起き上がり、乱れた髪を片手で適当に撫でつけつつ、もう片方の手を伸ばして眼鏡を探す。シーツからもそもそ抜け出し、まだ薄暗い廊下へフラフラ出た。ひやりとした夜の名残の空気にわずかに身を縮め、洗面台に向かう。眼鏡を一旦外して顔に冷水を浴びせ、それを何度か繰り返して顔を上げると、鏡の向こうの少年が無表情で見返していた。影のかかった緑色が光を通さないガラス玉のようだ。タオルでその視線を遮る。

 元々朝はあまり得意ではない。
 だが、本来ここに居るべきでないバーナビーが惰眠を貪るわけにはいかないと思う。

 簡単に身支度を済ませてキッチンに足を踏み入れようとして、漂う芳香に眉根を寄せた。――そうだ、一ヶ月ほど前からバーナビーの起床はこの家で二番目になってしまっているのだ。些細なことではあるが、やはり悔しい。この家に来てからずっと貫いてきたスタイルの一つだったのに。

「おや、バーナビー君。おはよう!そしておはよう!早いね、君は実に早起きだ!」
「……おはようございます」

 早朝からキッチンに立ち、眠気など微塵も感じさせない笑顔で早起きだの言われても、素直に受け取れない。しかしこの相手にバーナビーのそんな機微など伝わるはずもないのだ。相手――キースは、顔をしかめるバーナビーに一切気づかず視線をフライパンに戻した。ハムと卵の目玉がじゅうじゅうと芳香を立ち昇らせている。

「丁度良かった、これは君に譲ろう!」
「結構です。自分でやりますから」
「はい!」

 慣れた手際で皿に目玉焼きを載せ、笑顔で突き出してくるキースについため息を零しそうになった。少しは話を聞いてほしいものだ。年上だというのにまるで子供じゃないか。眼鏡を中指で押し上げる。

「サニーサイドアップは好みではありません」
「そ、そうかい……。それは残念だ。では私が頂くよ!」

 焼き方に信条など持っているはずもないが、他にいい断り文句が思いつかなかった。悪意ある何かを仕掛けられているわけではないから余計にやりづらい。むしろキースは善意の塊みたいな男だ。一瞬眉尻を下げてみせたものの、何事も無かったようにオーブンからスライスしたフランスパンの2片を取り出した。キッチンを出てダイニングテーブルへ向かう。と、それに合わせるようにして毛並みの良い立派な風体のゴールデンリトリバーがキースの足元に近寄ってきた。

「ジョン、おはよう!君も実に早起きだ!」

 皿を持つキースに飛び掛ることもなく、吼えもせず、ジョンは大人しく尻尾を振っている――いくら言い聞かせようとしても飛びついてじゃれついてくる僕の時とは大違いじゃないか。聞いた話では子犬だったジョンを拾ったのもしつけたのもキースだと言うから、仕方の無い話だとは思う。が、やっぱりどこか悔しい。なんとも言えぬ気持ちをどこへも持っていけず、テーブルへ遣る瀬無い視線を送ると、皿を持ち上げて黄身に口を付けようとしているみっともない姿と目が合った。

「……何してるんですか」
「わ、私は黄身が好きでね!」
「行儀が悪いです」
「そうだね……」

 はあ、無意識に大きなため息が肺から押し出されてしまった。

「おはよーお……」
「カエデ君おはよう!」

 それから少し間を置いて、窓から朝陽が燦々と入り始めた頃、この家で最年少の楓が起き出してくる。眠たげに目元をこすりつつ、あくびを漏らしながらダイニングに入って来たが、爽やかな朝の挨拶に大きな瞳をぱちぱち見開いた。これもここ一ヶ月の恒例だ。眠気などどこかに吹っ飛ばしてキースに駆け寄っていく。

「キース!もう体は大丈夫?」
「うん、大丈夫さ。ありがとう、そしてありがとう!」
「ほんとにー?キースの大丈夫は半分くらい大丈夫じゃないってお父さんが言ってたよ?」
「えっ」
「私もそんな気がするんだよね。すぐ無理するんだもん!」
「えっ」

 元気良くジョンと共に家を飛び出して行き、隣町の手前まで行ってしまった、などと聞いてもいないのにぺらぺら話していたので、バーナビーからすれば無駄な心配である。キース自身もそう思うのか困ったような苦笑だ。しかし一ヶ月前、弱りきった姿でこの家に転がり込んできた姿が未だに鮮明なのだろう、楓は納得いかないらしかった。見かねたバーナビーは椅子を引き、手の皿をテーブルに置いた。

「楓さん、遅刻しますよ」
「あっ、ありがとう、バーナビーさん」
「礼ならあちらに。僕は準備してあったものを出しただけです」

 そろそろ楓が起き出す頃だろうとキースが準備したものをバーナビーは持ってきただけだ。こんなもの、幼子の手伝いにもならない。隠せない不機嫌を悟られぬよう、大股でリビングを出る。

「じゃあ、僕は虎徹さんを起こしてきます」

 この家の主は、キースが居ても居なくてもこの家で最も起きるのが遅い。
 廊下を進み、ドアノブをそっと回すと、未だ窓に下りたブラインドが光を何本もの線にして部屋を照らしていた。まずはそれを音に配慮せずガシャガシャと巻き上げる。スライスされていた光が四角になってベッドを照らした。もぞもぞとシーツが動く。これくらいでこの家の主――虎徹が反応を見せるのは珍しい。いつもは大概何をしても起きないのだが。

 鏑木虎徹とその娘楓は実の親子だ。楓が幼い頃に母親は亡くなっているらしいが、父と娘でそれなりにうまく暮らしている。バーナビーはそんな鏑木家に引き取られた居候だ。状況としては養子が近いかもしれないが、縁組をしたわけではない。半ば強引にこの家に引きずられたこともあり、今からすると恥ずかしいくらい当初は反発したが、今では感謝している。孤児院を飛び出し、拠点も金も無いくせに両親の仇を探し出そうなんて無謀な話だ。それに何より、虎徹も楓も、バーナビーにはもったいないくらい優しい。

「んー?おお……バニーか……。おはよーさん」

 黒髪がだらしなく寝乱れているが虎徹にしてはあっさり起床したものだ。それに面食らっていると、大口のあくびを閉じた虎徹が怪訝げに顔を近づけてきた。

「バニー?」
「……おはようございます」
「何かあったか?」
「ありませんよ」

 肩にシーツを引っ掛けたまま、しばらく虎徹はバーナビーの顔を観察していたが、寝起きの眠たげな目を半円にしてぐしゃぐしゃと髪を撫ぜてくる。せっかく時間をかけて整えているのに。

「そっか?」
「子ども扱いはよしてください」
「そりゃー悪かった」

 もう一度大あくびを漏らして、のそのそと部屋を出て行く。バーナビーは付いて行くでもなくそれを見送った。パタリと閉じたドアの向こうから、楓とキースが虎徹に話しかけているのが聞こえる。静かな部屋でそれを聞く。だがずっとそうしているわけにもいかないから、ベッドのシーツを簡単に整えて部屋を出た。リビングに戻って時計を確認する。そろそろ家を出た方がいい。

「楓さん、行きましょう」
「うん!じゃあ行ってくるね!お父さんは遅刻しないように!キースはまだ無理しちゃダメだよ!」
「かえでぇ、気をつけるんだぞー。パパ頑張るからねー!」
「その喋り方やめてってば!」
「行ってらっしゃい!そして行ってらっしゃい!」

 父親の悪ふざけのような口調を一蹴して、キースに笑顔で手を振り返してから、楓はリュックを背負った。楓はキースによく懐いている。バーナビーがこの家にやって来る一年ほど前まで、キースはバーナビーのように鏑木家に居候していたのだ。物心つく前から「キース」という呼び名を聞いていたから、自分もつい使ってしまう、照れ交じりにそう語っているのを聞いた。
 玄関を出て通りに出る。ブロンズステージは治安があまり良くないので、ハイスクールへ向かう途中、楓をエレメンタリースクールへ送り届けるのはバーナビーの役目だ。どこか浮ついて忙しない朝の喧騒を早足で横切っていく。楓が小走りにそれに並んだ。

「あの……バーナビーさん」
「何ですか?」

 楓は視線をちらちらとバーナビーに向けたり逸らしたり、それを繰り返していた。だがやがて意を決したようにリュックのストラップを握る。

「えっとね……髪、グシャグシャ……!」

 そう言えば先ほど虎徹にぐしゃぐしゃにされたままだった。一体何を言われるかと身構えていたので、若干脱力して髪を手櫛で梳く。楓はそれをじっと見上げていた。目を合わせる。

「バーナビーさんって、私たちの家に来てくれて、一年になるんだよね」
「そうですね」
「私、年下だし……楓とか、そういう呼び方でいいよ」

 一瞬、何と答えるか迷った。だが、不審に思われるほど時間はかけない。口元と目元の筋肉を柔らかく動かした。恐らく、完璧な笑顔になっているはずだ。

「いえ。レディの名前をそう気安く呼ぶのは良くないでしょう」
「あ、えっと、そっか、えへ……」

 顔を真っ赤にさせた楓はごまかすようにパタパタと手を動かしている。だがそれは次第になんとも言えない表情になり、最終的にそれをなんとか隠そうとするような笑みになった。

「さびしいこと、言うんだね」

 送ってくれてありがと、行ってらっしゃい!楓が駆け出す。エレメンタルスクールはすぐそこだった。バーナビーは楓が校舎に消えるまでその場に突っ立っていたが、いつまでもそうしていると遅刻する。考えることを放棄して通学に専念した。キースが鏑木家にやってきて、やっと落ち着いたバーナビーの生活ペースはまた乱れてきている。

「おかえり!バーナビー君!」

 帰ってくるなり聞きたくない声だったが、一ヶ月前過労でこの家に転がり込んできたキースは今働いていない。虎徹に安静ついでにハウスキーパーを命じられているため、帰宅して真っ先にその声を聞くのは仕方の無いことだ。リビングに入るとキッチンから独特の匂いがした。カレーだ。一年の内随分腕の上がったバーナビーの夕飯担当も、ここ一ヶ月はお役御免になっていた。

「カエデ君をね!迎えに行ったんだけど……友達の家に泊まるというからね!一旦家に戻ってその友達の家まで送ったんだ!」

 いつも以上に声が大きいのは洗い物をしているからだろう。この家には食器洗い機が無い。返事をしないバーナビーの代わりに、キースの足元のジョンが尻尾を振っている。キッチンの小さな四角い窓は夕方の色をしていた。キースの金色の髪もわずかにその色で染まっている。何故だか直視したくなかった。

「そうしたらなんと、その家の奥さんが手作りのお菓子をくれたんだ!私は言ったよ、ありがとう、そしてありがとう……!とね!」

 テーブルの上でラップをかけられているパウンドケーキはその品なのだろう。形は多少いびつだが、こんがりといい色で焼きあがっている。明日は休日なので、友人と泊まろうという話になったのは特別おかしな話でもない。しかしバーナビーには今朝の言葉が思い返された。楓は気まずく思ってしまったのではないだろうか。夕日に照らされるパウンドケーキをぼうっと見つめる。昔、サマンサが作ってくれたものと似ている。

「おや、電話かな」
「僕が出ます」
「頼むよ!」

 コール音をボタンひとつで止めハローと呼びかけると、目の前に緊張した面持ちが現れた。虎徹だ。ぐったり肩から力を抜いて、バニーかと呟いている。楓が出ることを恐れていたのだろう。そこでピンと来る。

「……飲み会ですか」
『うおっ、さっすがバニー、よく分かったな!そうなんだよ、付き合いでどーしてもってさあ!』
「今日は楓さんは友人の家に泊まるそうです」
『ホントか!えっ、それ男じゃないんだよな!?』
「当たり前でしょう」

 正確にキースに確かめたわけではないが、楓はまだそんな年ではない。キースの口ぶりから言っても、虎徹の心配が見当外れなのは明白だ。呆れて返すが、虎徹は大事なとこだぞと真剣な相好を崩さない。

「僕は虎徹さんが何時に帰って来ようが気にしませんから」
『っだ!そんな言い方ねーだろ!』

 じゃあ一体どんな言い方をすればいいというのか。気にしないから好きなだけ飲んで来ればいいと言っているのに。互いに視線だけで不満を交し合っていたが、虎徹がふと表情を改めた。

『キースはどうしてる?平気そうか?』

 ちらりとキッチンに視線を送る。キースはバーナビーを気にすることなく黙々とシンクの掃除に移っている。洗い物を終えてしまったのだろう。大雑把そうに見えて案外凝り性なのはこの一ヶ月でバーナビーにも分かった。

「心配する方が難しいでしょう。あんなの」
『だから心配なんだろって、あー……バニーはキース苦手だもんな』

 虎徹にとっては何気ない一言だったのだと思う。しかし、バーナビーにとっては不慮の一撃だった。誰にも触れさせまいとしてうまく隠していたはずのもが失敗していた。そんな気がして胸の辺りがカッと熱くなる。

「そんなんじゃない!」

 叫んでからすぐ、しまったと思った。画面の向こうの虎徹は呆然とした様子だし、キッチンのキースも目を見開いてバーナビーを振り返っている。取り繕うように首を小さく振った。

「あ、いえ……今のは……」
『苦手かもしんねえけど、悪い奴じゃないから。なるべく早く帰ってくる』
「別に大丈夫です。余計な心配ですから」
『さびしいこと言うなよ』

 じゃあな、考えすぎるな、最後まできっちりお節介を貫き通して虎徹が通話を切る。何故楓も虎徹も同じような言葉で、同じような目でバーナビーを無意識に苛むのだろう。胸の辺りには靄のようなつっかえが残っている。しかしそれを無視して、不安げなキースと目を合わせた。

「コテツ君かい?」
「……飲み会で。遅くなるそうです」
「そうか。大変だね」

 いつものことだ。今日は小言を漏らす楓が居ないだけで。愛娘と約束した「なるべく早く」が早朝なのだから、バーナビーへのお節介の「なるべく早く」はそれ以降と見て然るべきだろう。勉強や、密かな調べ物が捗る。しかしバーナビーはすんなりと部屋には戻れなかった。

「少し早めだけど、食べるかい?昼から作っていたんだ!きっと美味しいよ!」
「……いえ、食欲が……今は、ありません。後で頂きます」
「じゃあ私も……」
「お先にどうぞ。僕はいつになるか分かりませんから」

 食欲が無い、と言おうとして面倒なことになりそうだったので方向を変えた。体調が悪いのかなどと騒がれても困る。ただ単にキースと二人きりでの食事だなんて避けたかっただけの口実だ。何も言わないキースに今度こそ部屋を出ようとする。

「私は……君に何か……してしまっただろうか?」

 返事はしなかった。答えられなかったからだ。キースは何もしていない。
 ただ、バーナビーが一年かけて必死で作り上げた『この家に居る意味』を、一切の悪意無く一晩で奪い去ってしまっただけだ。

 クリスマスの楽しい小旅行を終えて、それを自慢するつもりで、短い手足をできるだけ動かして廊下を駆けた。明るい光の漏れるドアを目指す。両親の好きなオペラの曲がかかっていた。間違いなく部屋に居る。ずっと前からの約束が無しになって、一緒に行けなかったことなんてもう怒ってない。今日の楽しかった全てを話して、笑顔で抱き上げられたら、きっと一緒に行った気分になれるから。

 ――やめろ!開けるな!そのドアを開けたら全部終わってしまう!
 ――いいや、開けるんだ。開けて、ちゃんと確かめるんだ、今日こそ。

 二つの同じ声が頭に鳴り響いているのに、幼い自分はそれにまるで気づかない。無邪気な笑顔のまま部屋を覗き込む。熱風がぶわりと押し寄せた。白い炎がちかちか目の前で踊る。床には倒れているふたつの影。バーナビーは初め、それが何か分からなかった。ちかちか、踊る火の中で立っているのは一人だけ。それがゆっくりとバーナビーを振り返る――そうだ、もう少しだ。こいつが誰か分かれば、それさえ分かれば、

 もうこんな夢は見ない。

「バーナビー君!!」

 ハッと目を見開いた。視界いっぱいに必死の形相が映っている。薄暗い部屋だというのに眼鏡無しでもその輪郭がハッキリ分かるくらいだ。混乱した。一体どういうことだろう。犯人はキースだったのか。そんな馬鹿な。

「すまない、勝手に部屋に……君があんまりうなされているようだったから……」

 瞬きを数度繰り返してやっと状況を理解する。この男がバーナビーをあの夢から無理やり引き剥がしたのだ。もう少しで顔を確かめることができたのに。バーナビーだってあんな夢、見たくて見ているわけではないのに。何も知らないくせに。善意のつもりで。バーナビーを揺り動かしていた腕を力に任せて握り、起き上がる。

「どうして……」
「バーナビー君?」
「どうして!何故起こしたんだ!もう少し!もう少しだったのに!!」

 怒りで鼻の芯から頭の奥がじんと痛んだ、気がした。自分が何を言っているのか分からないうちから勝手に口が動いてキースを責め立てる。しかし、キースは戸惑うような表情のまま何も言わなかった。黙ってバーナビーの言葉を聞いている。ふと、ひょっとして自分の言葉なんて本当はどこにもなくて、何もキースには届いていないのではないかと不安になった。そうすると途端に何を言えばいいのか分からない。息継ぎさえ忘れて勝手に動いていた口も今や閉じてしまった。はあ、はあ、自分の荒い呼吸だけが暗い部屋に響く。

「落ち着いたかい?」

 キースの声も言葉も目も、いつまで経っても柔らかく穏やかなものだった。それを信じられない、気味の悪い気持ちで見つめる。しかしキースはそれに構わず、バーナビーの腕を引いた。痛くはないが強い力だ。抵抗も忘れてそのまま床に立ち上がる。

「おいで」

 廊下はまだ夜の空気でひやりとしていた。首筋が冷たい。寝汗をかいたのだろう。引っぱられるままに辿り着いたダイニングテーブルに座らされ、ついでにタオルを押し付けられた。部屋は廊下と違って暖かい。そう言えば電気も暖房もついたままだった。テーブルには伏せられた本がある。キースは起きていたのだろうか。時計を見上げると、まだ4時前だった。キースはキッチンに立ってコンロをいじっている。

「少し待ってくれ。少しね」

 明るい部屋に居ると、バーナビーはいよいよ自分が馬鹿のように感じられた。しかもあの夢は起こされたって起こされなくったってどうせ一緒なのだ。いつも犯人の顔は見えない。何から何まで全部、ただのバーナビーの八つ当たりだ。認めたくなくて、必死で気づかないフリをしていたのに、冷静になると理解せざるを得なかった。

「すみません、でした」
「いきなり起こされて驚いたんだろう?私こそすまない」
「違うんです。僕は、八つ当たりしていたんだ」

 キースがこちらを振り返ったのを、正面から受け止める。それが謝罪に必要な態度だとバーナビーは思うからだ。しかし、口を開いてもそれ以上の言葉が出てこない。声にならない声がいくつか、空気になって喉を空回った。キースが何か言おうとする。だめだ、ここで何か優しい言葉のひとつでもかけられたら、全部うやむやになってしまう。

「僕は、ここに居るべきじゃないんだ」
「……どうして」
「ここには、虎徹さんや楓さんがいる」
「君は彼らをとても大切にしているね。彼らもそうだよ」

 そんなことは分かっているし、そんな言葉何度も聞いた。しかしバーナビーはただ殊勝な気持だけでこんなことを言っているわけではない。楓に悪いからとか、あまり給料のいい方じゃない虎徹に迷惑がかかるからとか、もちろん考えないわけじゃないが、それ以上にバーナビーは怖いのだ。何の理由もなくこの場所に居てもいいのだと思ってしまうことが。

「僕はあの夢をもう見なくなるんじゃないかって、そう思って……そんなの許されるわけないんだ。誰が忘れても、僕だけはあれを忘れちゃいけない」

 何の事情も知らないキースにはバーナビーが何を言っているか少しも分からないだろう。だが話し始めると止まらなかった。じわりと視界が歪んで慌てて目元にタオルを当てた。虎徹と楓は、冷たく暗く苦しいところにバーナビーが長く居ることを許してくれない。肝心なところに踏み込まないように気をつけながら、でも結局はお節介だ。しかしバーナビーがそれに安らぎを覚える一瞬も、降り積もれば長い時間になって、その間両親を殺した奴もバーナビーと同じような安らぎを覚えているのかもしれない。そんなの許されない。許さない。タオルを握り締めた。

「ホットミルクだよ」

 コトリ、テーブルにカップを置く音がする。いつの間にか声はキッチンからでなく、すぐ真横から聞こえていた。顔を上げると、眼鏡の無いぼやけて滲んだ酷い視界におぼろげな笑みが映る。感覚的に、まるで昼間のようだと思った。カップに手をつけず、亡羊とキースを見つめるだけのバーナビーに痺れを切らし、キースはカップを持ち上げた。手渡されるかと思ったが、キースはそれに自分で口をつけてしまった。

「うん、このままでも充分美味しい。実に美味しい」

 キースがうんうんと頷く。それからまた微笑んで、テーブルの砂糖を引き寄せた。カップがバーナビーの手元に戻される。

「でもね、砂糖を足すともっと美味しくなるだろう?」

 蜂蜜やシロップを入れてもいいね、のんびりとした声で提案しながら、シュガーポットの蓋を取り、銀のスプーンを掬い上げる。さらさら、白い砂糖が流れた。

「砂糖を入れるのも、入れないのも、どれくらい入れるのかだって、君が決めていいんだよ」

 でも今日は私が決めよう、どこか愉快げにキースはカップにスプーンを傾ける。一回、二回。入念に掻き混ぜてカンカン、カップの淵でスプーンのミルクが払われる。カップがそっと押し出された。

「足した分だけ、幸せな夢が見られるよ」

 もう一度ベッドに戻って、夢を見た。両親に懸命にクリスマスの出来事を語って聞かせる。両親は笑って聞いてくれる。撫でてくれる。パウンドケーキを切り分けて、お手伝いしてねと渡された。父さんの分、母さんの分、それから自分の分。そして虎徹さんの分、楓さんの分。それから――穏やかに微笑む彼にも皿を渡した。

 両親が殺される記憶を何度夢でなぞっても泣くことなんてなかったのに、目覚めたバーナビーは泣いていた。少し湿ったシーツが頬に触れる。窓の外はうっすら白んでいたが、バーナビーはもう一度目を閉じた。

「おはよう……ございます」
「あれえ!?バニー寝てたのか?」

 朝陽のいっぱい差し込んだ明るいリビングに入ると、虎徹がテーブルに座ろうとしているところだった。タイを乱暴に緩めている。たった今帰ってきたところなのだ。その物音で目覚めたので間違いない。ふう、小さく息を吐き、バーナビーを凝視する虎徹を呆れて見つめ返す。

「僕は朝が苦手なんです。こんな日もあります。それより、僕と約束したのに結局こんな時間に帰ってきたんですか。楓ちゃんが居ないからって、気が緩みすぎですよ」

 緊張しなかったかと言うと嘘になる。特に、楓ちゃんはつかえそうになった。でもうまく言えたはずだ。なんでもない素振りで虎徹の隣の椅子に座る。すると、ぴったりと視線だけをバーナビーの挙動にくっつけて黙り込んでいた虎徹が、バーナビーの肩を急にガッと掴んだ。

「そっか!そっかーそっかあ……よしよし!よーしよーし!」
「な、なんですか……!」

 好きなだけ頭を撫で返されて抵抗する。が、よっぽど感極まっているのか虎徹はそんなバーナビーに気づいてもいない様子だ。諦めて好きにさせていると、ジョンが膝元に前足を乗せてきた。自分もしてくれということらしい。反面教師で軽く撫でてやる。

「おはよう、バーナビー君。焼き過ぎてしまったんだ。代わりに食べてくれるかい?」

 目の前にカタンと皿が置かれた。そこにはしっかりターンオーバーの目玉焼きが乗っている。虎徹の前には既に皿が置いてあるし、目の前の人の食事はとうに済んでいるだろう。見上げると、輪郭が日光に溶けそうな笑顔がそこにあった。くだらない嘘を思い出して少し胸が痛む。

「……はい」
「良かった!そして助かった!」

 虎徹の前にカップを置いたキースは、もう片方の手に自分のカップを持ったままその正面に座った。透かさず手を伸ばす。不思議そうに首を傾げるその眼前でシュガーポットを引き寄せた。

「貸してください、カップ。僕が砂糖、入れますから」

 キースが先ほどの虎徹のような顔をする。楓もきっと、面と向かってさっきの呼び名を使えば、同じ顔をするんだろう。想像するだけで少し愉快だ。バーナビーがやらなければならない、忘れてはいけないことは決して変わらない。けれど、コーヒーをほんの少し甘くすることは悪いことではない、と思いたい。ありがとう、キースは微笑んだ。

「そしてありがとう!だけど私はコーヒーはブラックなんだ!気持ちだけ受け取っておくよ!」

 がく、隣の虎徹が何を思ってか肩を落とした。そこまでの反応をしないまでも、バーナビーは何も分かっていない様子のその笑顔をじっとりと睨み上げる。やっぱりこの人、苦手だ。

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