文字数: 59,898

幸福の匙加減 (パラレル)



 一週間も経てば頬の傷はすっかり塞がった。跡は残ったが、それもいずれ消えるだろう。それはバーナビーの表面上の話に過ぎないが。キースが帰ってくるとはしゃぐ楓が、夕飯を作りたいと言うので寝不足で気だるい体を引き摺って手伝った。具合が悪いのかと何度か問われたが、嬉しくて眠れなくてと笑顔で答えると楓は納得したようだ。反吐が出るような嘘だったけれど、それを信じる純粋な少女に罪は無い。

「おーい!本日の主役のお帰りだぞー!」
「お父さんだ!」

 お帰り、跳ねるように楓が玄関へ駆けていく。程なくリビングに虎徹とキースが入ってきた。あれから一度もあの部屋を訪れてはいない。一週間ぶりに見た顔は、露骨にバーナビーと視線を合わそうとしないのがよく分かった。楓に腕を引かれてテーブルに座ったキースは、あれこれと料理の説明を受けている。

「すごいなこれ、全部作ったのか!」
「バニーさんと一緒に作ったの、ね!バニーさん……?」

 あれはフルーツをたくさん使ったサラダで、これは味付けに成功したスープ、それからキースの好きなカレーは……笑顔で振り返った楓が見たのはどんな表情だったのだろう。ここには鏡が無いので分からない。

「もう戻ってこないと思っていましたよ。帰りたくなかったんじゃないですか」

 キースがやっと――しかしゆっくりとバーナビーに視線を合わせる。言葉に悩んでいるようで、しばらくは口が小さく動いているだけだった。やがて意を決したように息が吸い込まれる。

「バーナビー君、君に謝りたかったんだ……」
「意味が分かりませんね。一体何に対して謝るつもりですか?それが分からなければ謝罪とは言えませんよ」
「おい、バーナビー……」

 咎めるような虎徹の声もまるで心に響かない。だがこれ以上突っ立っているわけにもいかないだろう。キースの対角線の椅子に腰を下ろした。一転して不安げな表情を浮かべている楓には悪いが、目端だけで注意深くキースを観察する。能天気でズレているだけの迷走だなんて、自分の言葉だというのにもうまるで信憑性が無い。どこからどこまでが嘘なのかは分からない。能力が制御できないのもブラフかもしれない。きっと何かを隠しているはずだ。寝不足は嬉しかったからだなんて理由ではなく、調査にのめり込んでいたためだった。

 ぎこちなく始まったその日の晩餐のように、機械油が切れてしまったかのような日常が、それでもゆっくりと繰り返され始めた。バーナビーは虎徹や楓とキースとの会話を聞き漏らしの無いよう拾い集めることに徹した。自分自身は彼とほとんど会話を交わさない。キースもバーナビーに声をかけることをためらっている節があるようだった。騙し果せていたと思っていたバーナビーが疑念の視線を向けていることに警戒しているのかもしれない。

 家の中の空気は良いとは言えない状況だろうが構っていられない。虎徹は最近早くに帰ってくるよう努めていて、そのおかげで随分雰囲気が緩和されてもいる。バーナビーが敢えて何かをする必要は無いだろう。何度か虎徹と部屋で話をしたが、核心には触れなかった。ようやく何かが掴めそうなのだ、油断したくない。

「10年前……」

 パソコンの画面を前に暗がりの中で呟く。そこにはできる限り手を尽くし集めた情報が表示されている。しかしどうにも空白が多い。それがバーナビーの疑念を一層深めた。バーナビーが4歳の頃、キースは14歳前後だ。今のバーナビーと同じ年頃で、両親の事件と何か関わりがあるだろうか。夢の中で見たスカイブルーは冷たかった。あれからあの夢を何度か見たが、顔が見えたのはあの一度だけだ。キースの手にはあの蛇の紋章は無い。しかし消すことが不可能なわけでもない。

「もう一度あの夢を見ないと……」

 椅子を回し、オペラのCDを片手に何かに操られるかのようにふらふらと部屋を出る。暗いリビングに人の居た気配は無かった。最近キースがリビングに居るところを見ない。遅くまで起きていたことも何か理由があったのだろうか。例えば、組織との連絡のためだとか。そうだとすればバーナビーの存在はさぞ邪魔だっただろう。同じベッドに入って眠ってまでいたのだ。忌々しく思っていただろうか。それとも、馬鹿な奴だとあざ笑っていたのだろうか。

 ――ありがとう。

 夢とは違い、記憶の中で見るキースの目は、絞った照明の中でも正直の色をしている。違う、騙されてるんだ、搾り出すように呟き、CDをコンポに飲み込ませる。読み込みに小さな音を立て、ほどなくして大好きだった大嫌いな曲が流れ始めた。本当は耳を塞ぎたい。足を止めたい。あのドアを開きたくない。だが、暗闇の中でひたすら空ぶっていた手が、これでやっと光を掴むのだ。それは決して希望の光では無いけれど。ソファに目を閉じて記憶の海に沈む。クリスマスの楽しい小旅行とマーベリックに別れを告げて、両親の元へとひたすら駆ける。もう二度と会えないことなんて知っているのに。ちかちかと踊る白い炎と、二つの影、それから男――甘い色の金髪と、それが縁取る特徴のある彫りの深い顔、それから澄んだ青い目。

 どうして。

「バーナビー君!」

 夢の中と寸分違わない顔立ちが眼前に広がっていた。思わず逃げるように身を引くと、ソファーの背もたれに頭が当たる。その反応にキースも驚いたらしい。申し訳無さそうに眉根を寄せた。

「あ、すまない……眠れなくて……ミルクでも飲もうと思ったんだ。そうしたら君が、泣いていたようだから」

 いつもと何も違わないキースが恐る恐るバーナビーの頬に触れるのを、言葉を忘れてしまったかのように呆然と見ていた。目元を拭われて初めて泣いていたのだと知る。同時に、体中の感情と言葉が一気に頭に集中してカッと熱を発した。キースの手を強く弾いてソファーに座ったまま身を起こす。

「茶番はやめてください」

 キースは目を丸くして己の手とバーナビーを見比べている。その動転した様子に苛立ちが募った。まだシラを切るつもりなのだろうか。脳に蓄積した情報を高速で編み上げる。裏切られた怒りと、やっと掴めた糸口に対する期待がバーナビーを興奮させた。

「あの時、手を出さなかったのは何故ですか」
「あの時……?」
「朝の散歩の途中で奴らに絡まれた時です」

 突然何の話だと思ったのだろう。しかしバーナビーが視線を逸らさず、逃げることを許していないことも分かったはずだ。キースは戸惑いつつも口を開く。

「……彼らも人間だ。得体の知れない敵じゃない。大したことはないだろうと思ったから」
「大したことはない?殴られてもということですか」
「うん。腕と胴体の間に遊びがあっただろう?それから重心のかけ方も悪くて、利き腕に偏り過ぎていた。あれでは一発当たってもその後には隙だらけになる」
「……あなたは一体、何者なんですか」

 ご丁寧にも腕を上げ男の動きをなぞるようにして説明するキースを睨みつけた。バーナビーの10年間の執念を体感しているだろうキースは、未だ何も知らないような顔をしている。

「何者……というのは、どういう意味かな」
「軍が極秘にマークしているNEXTに風使いがいると聞きました。これに……見覚えがありますね」

 言葉を失っているキースに、持ち歩いている紙を押し付けた。描かれているのは蛇と剣の紋章だ。それを目にするなりキースの表情が変わる。これは、と呟いたきり、バーナビーを凝視して押し黙ってしまった。やっぱり何かある。もどかしくなって身を乗り出した。

「貴方は何を知っているんですか」
「バーナビー君、」
「答えてください!」
「私は何も……」
「答えろ!」

 白いシャツの襟元を引き寄せて一寸の隙も与えないように詰め寄る。中腰のキースは驚きの表情を、いつか見たあいまいな表情に変化させた。それは顔が情けなく歪むのをこらえる顔だったのだ。眉尻が下がり泣きそうにしかめられた表情にそれを悟った。

「君は……君はどうして、そのマークについて調べているんだい」
「これが、唯一の手がかりだからだ。両親を殺した犯人の」

 少し怯みかけていたが、もう騙されないと言い聞かせて言葉を押し出す。

「私はその犯人と関係がある人間、もしくはそのものだって思われているってことかな」

 穏やかな夜に聞くジムノペディのような静かな声だ。バーナビーをじっと見つめる瞳はひたすら青い。そこには想像した嘲笑も焦燥も無かった。なんだか既に全ての答えが判明してしまったような気がして手を離しそうになる。だがキースは襟首のバーナビーの両手にそっと触れた。

「私は若い頃3年ほど陸軍に居たんだ。所属も認識番号もまだ空で言えるから確かめてもらって構わない」

 アーツもそこで習得したんだよ、と言葉通りに所属や階級、認識番号がすらすらと読み上げられる。そこに嘘の気配を読み取ることは非常に困難だ。

「このマークは、軍ではタブーになっている。私のような下位の兵ではそれ以上のことは何も知らない」

 キースの手が離れて床に落ちていた紙を拾ったので、バーナビーはキースの襟元から両手を離してしまった。キースはしゃがみ込んだまま目を伏せている。視線は合わない。

「紛争地帯に派遣された時に私ははじめて能力に目覚めたんだ。今回のように暴走して、多くの人を傷つけた。何故だか私は牢獄に入ることを免れてしまったけれど、未だに力を操れていないから、軍に危険人物としてマークされていてもおかしくはないね」

 ひょっとしたら私の記録は抹消されているかもしれない、けど当時の隊長や隊員の名前は全部覚えているよ。そう呼んで親しんでいたのだろう愛称を並べる声は震えている。

「……私は君に、嘘はつかないよ。つきたくないんだ。私の情けない悩みに君が気づいてくれたから」

 ゆっくりと上げられた顔についている二つの瞳は、やはり正直の色しか湛えていなかった。その目に映っている自分がひどく愚鈍なものに思われてバーナビーは顔を歪める。キースと同じように。

「でも、君が私を信用できないのは当然かもしれないね。私も……もう私のことを信じることができないよ」

 本当にすまない、キースは床に膝をつきバーナビーの頬の傷に触れた。その手のあまりの優しさに苦しくなる。先ほどまで指先にまで熱く通っていた興奮がすっかり冷えて、まるで氷のようだ。手から砂が零れるような感覚が恐ろしいのに、それをどう止めればいいのか分からない。言葉が出なかった。

「だからね、色々掛け合ってくれたコテツ君には申し訳ないけど、私は早いうちにここを出ようと思っていたんだ」
「どうして、どこへ……!」
「もし君が疑わしいと思っても、私の所在はすぐ研究所で把握できるようになっている。安心してほしい」

 しばらくは自宅謹慎だったけど、それも終わったから。キースはぎこちない笑みを浮かべた。最近虎徹が早く家に帰ってきていたのはそのためもあったのだろう。何よりバーナビーの異様な態度が気になっていたに違いないが。

「君をまた怒らせるかもしれないが、私はやはり、ここに居るべきではないんだ」

 立ち上がったキースに慌てた。バーナビーの勘違いがキースを傷つけたはずだ。両親を奪った奴のように彼の見えない心臓を撃ち抜いてしまったのだ。その犯人を捕まえるために生きているだけで、そんなことがしたかったわけじゃない。どんなことをしてでもキースを止めなければならない。キースがバーナビーに理由をくれたように。

「待ってくだ……さ、」

 キースを追って立ち上がろうとした。腕を掴んで止めてまずは謝ろうと思った。しかしキースは歩き出す前に床へ膝をつき、不自然なほどゆっくりとその場に倒れた。まるで糸の切れた操り人形のようだった。何が起きたのか分からず立ち尽くしていると、リビングのドアがバタンと開いた。

「キース!」
「虎徹さん……!?」
「おい!おい、しっかりしろ!おい!脈はあるな……!バニー見ててくれ!救急車呼ぶから!」

 虎徹によって仰向けに寝かされたキースの顔は青い。目の下にはうっすら隈が見える。表情や言動はひとつでも逃すまいと思っていたのに、顔色の良し悪しなんて全く見ていなかった。バーナビーを起こした時、キースは眠れないと言っていた。それはいつからの話なのだろう。キースが悩んだ挙句に極端な荒治療に挑んでいたことに知っていたのはバーナビーだけだ。しっかり考えてみれば、事件以前はきちんと摂っていた食事の量も減っていた気がする。

 今足元には、夢の外にある事実しかない。ただ呆然とそうやって後悔していることしかできなかった。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。