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幸福の匙加減 (パラレル)



「先に言っておきますけど」
「うん?」
「僕は3時には寝ますよ。あなたみたいに無茶なことはできません。そこが限界です」
「いや……君はもう寝たほうがいいと思うんだが……明日もあるし……。私に付き合うことは……」
「御託は結構」

 反論を一切受け付けず眼鏡を指で押し上げる。キースの不眠症の実態を探るまで早朝まで起きており、その夜もその解決法を探るのに付き合おうとした昨晩の二の舞は避けたい。いつの間にか眠ってしまったらしく、部屋から飛び出したところに「起こさないよう運ぶのにヒヤヒヤしたよ!」だなんて嬉しげに言われて最悪の目覚めだった。そのまま家からも飛び出したかった。虎徹だけでなくキースにまでもとは、不覚の極みだ。いつか二人を同時かつスマートに担ぎ上げるような男になってやる、と思考がどうでもいいところに飛びかけた。眼鏡をもう一度押し上げ、ごまかすような咳で軌道修正を図る。そもそも二人を担ぎ上げなければならないってどんな状況なんだ。

「昨日は少し眠れたよ。君のおかげかな!」
「……皮肉のつもりですか?」
「えっ」
「……スムーズな睡眠導入のためにはリラックスが必要です」
「コテツ君の家はとても落ち着くね!」
「ただのリラックスじゃありません。脳に刺激を与えないこと、これが重要なんです」
「うーん、なるほど」

 腕を組み、感心した様子で頷いているキースの手元にはカップがある。もちろん中身はミルク……ではなくブラックコーヒーだ。更にテーブルには小説が積まれてある。恒例の時代小説、シリーズ中ほどの3冊だ。バシン、テーブルを叩くとカップがカタンと小さく動いた。

「なるほどじゃありません!コーヒー片手に時代小説なんか読みふけって、貴方寝る気なんてないでしょう!」
「最初は暇つぶしのつもりだったんだが……これが面白い。実にエキサイティングだ!」

 真面目にやってください、と言いかけてやめた。目を爛々と輝かせて小説の面白さを不器用に力説しているこの人は、ふざけてなどいないのだ。ただ方向性を完全に誤っている。第三者の視点からそれに気づくことのできているバーナビーが冷静にならなければ。放っておいてもこの人ならなんとかなりそうだと納得しかけるのをやめて、深呼吸をする。人間はいつまでも起きていられるわけじゃない。それはキース自身も言っていたことだ。

「クラシックのCDをいくつか……眠れそうなものを用意しました」

 図書館で穏やかな曲目が多いものをいくつか借りた。テーブルにそれを置き、キースの手元から小説を取り上げる。これは昼読んでくださいと言えば、昼には色々やることがあるよと不満げに返された。虎徹のだらしない汚し癖に掃除が追いついていなかったこの家は、今では逆にキースの仕事ぶりに虎徹の悪癖が完敗している。

「ミルクも入れますよ。念には念を。僕は中途半端なことが大嫌いなんだ」

 やるからにはとことん、と言うのはバーナビーにはよく分かる心情だ。だが根本的なところでキースとバーナビーは全く違う気がする。カップを持ち上げた。もったいないが、今日もコーヒーには下水の藻屑となってもらうほか無いだろう。小さなパンにミルクを入れて火を入れる。リビングからバーナビー君、と感慨深げに名を呼ばれた。何か口にされる前に自分の口を動かす。

「アニマルセラピーも効果があるかもしれません。と言っても、四六時中ジョンと一緒の貴方に今更どれほどの効果があるか……ジョン!僕じゃなくてあっちに!」

 話に名前が出てきただけで呼ばれたと思ったのか、ジョンが駆け寄って来た。キッチンには入らない言いつけもあって、大人しくキースへ方向転換したのでホッとする。ミルクが温まるのを待ってカップに注いだ。ダイニングテーブルを横切り、リビングのテーブルに二つのカップを置く。

「そもそもそこは寝る場所じゃないでしょう。眠れないから暇を潰していたはずが、貴方は本末転倒しているんです」

 虎徹自慢のコンポにCDを飲み込ませて、近所迷惑にならない程度の音量に絞る。照明も暗めにして、キースをジョンごとソファに引っぱる。ついでに準備しておいたブランケットを押し付けた。これで完璧だ。その隣に腰掛け、授業で読んでいる本を広げた。

「僕は本を読んでいますから」
「君だけずるい!そしてずるいぞ!」
「なに馬鹿なこと言ってるんですか。貴方は寝るんです。寝るまで起きていますからね、3時までですが」

 ここまでやったのだ。キースの眠気だってジョンのように駆け足で帰ってくるに違いない。そうすればバーナビーももう何も気にしなくていい。自分のすべきことに集中すればいいだけだ。一ヶ月前のように。くだらないことに意識や時間を割かず、たったひとつの目的だけを見ていられる。ちらりと目の端で様子を覗ったはずが、キースとばっちり目が合った。

「……目を開けたまま眠るつもりですか?」
「バーナビー君」
「何ですか。集中したいので、黙っていてください」

 ジムノペディの第一番がゆったりと床を這っている。キースの青い目は正直の色だ。バーナビーとは全く違うように思えた。橙の淡い照明の下でも、昼間の太陽の下でも、その色はきっと変わらないのだろう。薄暗い朝の洗面台で、鏡から見返して来る緑とは違う。次にどんな言葉が来るのか予想できて、直視していたくない。

「バーナビー君」
「何ですか!」
「ありがとう」

 キースの、うっかりするとふざけているんじゃないかと疑ってしまう、うるさいくらいの一直線はそこには無かった。悪夢からバーナビーを起こした時のような柔らかく落ち着いた声だ。それが余計に真心を感じさせて、バーナビーは妙な焦燥に襲われた。本を一度閉じる。

「……違いますから」
「うん?」
「違うんです、僕は誰かのことを助けたり、面倒を見たりする暇は無いんです。僕にはやらなければならないことがあって……だから違います。感謝なんてやめてください」

 あれは悪夢じゃない。重要な手がかりだ。だからこの人が、虎徹や楓がバーナビーに向ける全ては余計な世話だ。ただバーナビーが目指す方向の脇にいるから、巻き込まないように手を伸ばしている。それだけのことだ。それだけのことでなければいけない。そんなバーナビーの葛藤などもちろん知らぬ顔で、キースは微笑む。ブランケットを手に立ち上がった。

「そうか。じゃあ私は君のカップに砂糖を入れよう」

 返事はしない。してもしなくても、キースの行動に変わりはないのだろうから。あちこちに散らばってしまった気分をなんとか集中させ、もう一度本を開く。砂糖の入ったほのかに甘いミルクに時々口を付けた。隣に確かな体温と気配を感じる。今日こそきっと眠れるだろう。そうだといい――

「悪い夢は見なかったかな」

 寝返りを打とうとして違和感を感じ、重たい瞼を上げた。うっすらとした早朝の陽光が照らす天井はキースの笑顔だ。寝起きの頭でそれをぽかんと凝視し数十秒、キースの膝から飛び起きた。

「あれ!?僕、どうして……!?」
「本を読みながら眠ってしまったみたいだね。最近のハイスクールは難しいんだね……借りていたら、私も少し眠ってしまったよ」

 呑気にキースが掲げたのはバーナビーが読んでいた本だ。開かれているページはバーナビーの読んでいた序盤を遥かに通り越している。ここまで読んで一体どのくらい寝たと言うのだろうか。しばらく船を漕いでいたからヒヤヒヤしたけど、膝でキャッチできてよかったよ!そしてよかった!あまり寝心地は良くなかっただろうけどははは……ってはははじゃないんですよ!

「違うんですよ!だから!」
「えっ?」

 バーナビーは震え、頭を抱えた。怒りとも恥ずかしさとも言えるなんとも言えない感情の荒波を、鎮める作業で必死だった。

「すみません。ちょっとお伺いしたいんですが」

 特に用事の無い放課後は、街に出て情報収集をする。インターネットの普及は情報へのアクセスを容易にさせた。しかしそれと同時に、不都合な情報を煙に巻くことまでも容易になってしまったのだと思う。バーナビーが本当に求め、欲する情報はどこにも無い。ならば、結局は捏造も撹乱もできない人の記憶を頼るほか無い。

「そうですか……。ありがとうございます」

 何も知らない、という返答を最早機械的に受け取る。それ以外の言葉を掴むことができたことは未だに無い。例外は無視や予期せぬ罵倒だけだ。それでも、できることの全てを怠りたくはなかった。バーナビーが油断した隙を、犯人はすり抜けているのかもしれない。

「お兄さん。人探しかい?」
「はい。このマークについて何か知りませんか。これに関わりのある人物を探しています」

 思考に沈みかけたバーナビーに声をかけたのは露天商の男だった。小汚い格好をして座り込んでいるが瞳に暗い色は無い。期待はせず手の紙切れを男に突きつけた。唯一の手がかりである蛇と剣の紋章がそこには描かれている。男はしばらくそれを興味深げに眺めていたが、不意に唇を歪めて嬉しげに笑った。

「どうだい?何かひとつ。いいモノばかりだよ」

 これも慣れた展開だ。バーナビーはひとつ息を吐き出し、もう踵を返してしまおうかと逡巡する。男の反応から言って、何も知らないと考えるのが妥当だ。だがふと、ボロ布に広げられた物が目についた。

「これは」
「アロマキャンドルさ。ただのアロマキャンドルじゃない、香りも格別だし、何よりリラックス効果があってよく眠れるよ」
「……おいくらですか」
「15シュテルンドル」
「ちょっと高くありませんか?どうせ何も知らないんでしょう」
「そう思うならそれでいいさ」
「……10」
「14!」
「10」
「うーん……12!」

 こうして意識して何かに金を遣ったのは久々だ。突然死で有耶無耶になっていた両親の遺産をマーベリックが整理してくれたため、虎徹に負担を随分軽減できるようになったと思う。しかしこれまでとこれ以降の生活費として差し出そうとした金を虎徹は頑なに受け取ろうとはしなかった。普段は根負けすることの多い虎徹に、バーナビーは初めて折れた。バーナビーが唯一本当に遣いたいという用途に、金は役に立たないものだった。少し憂鬱な気持ちで淡いブラウンのキャンドルを手に取る。

「毎度」
「で?」
「え?」
「このマークについてですよ!」
「ごめんねえ、知らないよ」

 はあ、大きなため息がこぼれる。幼い頃はこういう手合いによく引っかかっては落胆したが、今では落ち込むことすらしなくなった。

「……これは?」
「アロマキャンドルですよ。見れば分かるでしょう」

 今日はココアを入れたのだと嬉しげに解説しているその手前にキャンドルを置いた。信憑性の限りなく低い露天商の言葉は伝えないでおく。しかし、そんな余計な解説など一切無くとも、キースは両目を少年のように輝かせていた。さり気なく距離を取る。

「いいのかい?」
「僕たちは不本意にも共同でひとつの問題に取り組んでいるんです。それを解決するために最善を尽くすのは……」
「ありがとう、そしてありがとう!」
「だから……!」

 案の定抱きつかんばかりの勢いだったので全力で避ける。キースはしばらく不満げな顔をしていたが、すぐに関心をキャンドルに戻した。使い切った紅茶缶のフタとライターをいそいそとキッチンから持ち出す。

「早速使ってみよう!」

 虎徹にも時々思うが、これが十は歳の離れた人のする顔だろうか。初めて理科の実験に取り掛かる子どものような浮ついた空気に最早言葉も出ない。これでは逆効果かもしれないな、そう思いつつ、キースがライターを灯したのに合わせて照明を落とした。オイルを吸い上げた芯がゆらゆら、炎を宿す。

「あ……」

 炎がキャンドルに移った。芯にこびりついた蝋によって、不安定に炎が揺れる。ちかちかと踊る炎と、焦げ臭い匂い。香りは別格だなんて嘘ばかりじゃないか。これではただの異臭だ――まるで火事の時のような。体が動かない。膝から力が抜ける。吐き気と眩暈に襲われて口元を押さえた。視界が勝手に歪む。

「バーナビー君!」

 パッと明かりがついて、閉じつつあった気道が解放された。二酸化炭素の塊を吐き出す。見開いた目が乾く。背をさする手を意識する内に、次第に呼吸が普段のリズムを取り戻した。呆然と床に座り込む。

「折角だけど、これはまた今度使わせてもらうよ」

 バーナビーが落ち着いたのを確認し、キースはキャンドルの火を消した。焦げ臭い匂いの満ちたリビングの窓が開かれる。冷たい風が部屋に流れ込み空気を変えた。視線を合わせてしゃがみ込むキースをやっと正面から捉える。眉は下がり、その中央には皺が寄っている。

「すまない」
「いえ……」

 今度ばかりは、キースには何の非もない。だがだとしたら何に非があるのだろう。やはりバーナビーなのだろうか。あの日、あの時、何もできず、犯人の顔すら思い出せないバーナビーに。

「バーナビー君、頼みがあるんだ」

 座り込んだままのバーナビーをキースが助け起こして立たせる。いつかの夜を思い出した。火元と戸締り、暖房の電源を確認し、照明を絞り、キースはバーナビーの腕を引いてリビングを出た。向かった先はキースの部屋だ。狭い部屋に似合わない大型のベッドは、虎徹の親友のお古を譲られた物だといつかに聞いた。

「一緒に寝よう!」
「……は?」
「昨日、君の寝顔を見ていたらいつの間にか眠ってしまっていたからね!」
「……すみませんね、すぐに眠ってしまって」

 言葉に棘を含んでも気づいた様子は無いし、そもそもこの人は皮肉という言葉をきっと知らないのだ。暗がりでもよく分かる期待の瞳に、全てが馬鹿らしくなる。そして今更、自分が晒した醜態に後悔が押し寄せた。

「小さい子どもでもないんですから……」
「最善を尽くしてくれるんだろう?」

 飽くまでキースのためだから頼まれてくれと言いたいらしい。しかしそれが本心でないことはいくら何でも明確だ。このまま部屋を出て行こうかとも思ったが、話の通じない相手とこんな時間に押し問答などしたくない。仕方なくベッドに潜り込み、開き直って目を閉じる。子どものように頭を撫でられているのはもう無視だ。寝てしまおう。

「おやすみ、そしておやすみ!バーナビー君!」
「……はい、おやすみなさい」

「楓ちゃん、忘れ物は無いですか?」
「うん!じゃあ、行って来るね!キース!」
「行ってらっしゃい!そして気をつけて!」
「お父さん起きたら嘘つきー!って怒っておいてよ!」
「ああ、でも仕事で疲れてるんだろう。手加減しておくよ」

 楓は週末、スケートを習いに行っている。用事が無い限りその送迎はバーナビーの役目だが、虎徹が休日の場合は虎徹が行く、ということになっている。しかし迎えはともかく、朝の時点でそれが実行されたことはかつて一度も無い。大抵前日に酔い潰れている虎徹は起き出すことができないのだった。本当に仕方ない人だ、楓と頷き合いながら歩く。いつもはここで楓の積年の不満が炸裂するのだが、今日は違った。髪をまとめるリボンを気にしながら話題を変える。

「なんだか最近、キース、顔色良くなった気がする」
「良くなかったですか、顔色」
「うん。やっぱり体調悪そうだった。……隠してたみたいだけど」

 もっとゆっくりすればいいのに、いつもとは違った理由で楓は頬を膨らます。面識の浅いバーナビーでも彼の異変に気づいたくらいだ。長い時間を共に過ごした楓をごまかせるわけもなかったか。虎徹だけじゃなく、大人は仕方のない人ばかりだ。キースに付き合わされるという格好で同じベッドで眠るようになってから、キースの睡眠時間は順調に伸びつつあるらしい。人の体温が落ち着く、ということなのだろうか。これで楓も余計なことに気を回さずに済むようになるだろう。

「ありがとう」

 ついドキリとしてしまった。バーナビーもキースも虎徹や楓より遅くに眠り、早くに起きている。虎徹が深夜や早朝に帰って来ることもあるが、バーナビーがキースと共闘していることは知らないはずだ。そんなバーナビーに気づいた様子は無いが、楓はよく分からないけどと前置きをした。

「お父さんが、バニーさんのおかげだと思うって言ってたから」

 違う。キースに対して言うように、妙な誤解をさせないうちに否定してしまおうと思う。だが何故だかスムーズに言葉が出てこない。苦悩するバーナビーをどう思ったのか、様子を覗うように楓が顔を見上げてくる。

「キースってなんだかお兄ちゃんみたいで……小さい頃はずっと一緒に居たし。だから、助けてくれてありがとう」
「僕は、……僕は特に何もしていませんよ」
「キースにもお礼を言わないとね。バニーさんも、その……私たちの大事な、キャッ!」

 苦しい言い訳を聞いているのかいないのか、何か言葉を続けようとした楓が隣から消えた。それも唐突に。通りがかった路地裏から突然手が伸びてきて、楓を暗がりに引きずり込んだのだ。一瞬、混乱で行動が遅れた。そんな自分に舌打ちを漏らしつつ後を追う。

「楓ちゃん!」

 抵抗も虚しくずるずると引き摺られていく楓を必死に追う。室外機などの障害物が邪魔をしてなかなか追いつけない。この狭い路地では能力を発動してもそう変わらないだろう。歯がゆい。苛立ちの募る追いかけっこの終着点は、ビル郡に囲まれた手狭な更地だ。十数人の男たちがバーナビーを待ち構えている。

「少しでも変な動きしたら、こいつがどうなるか分かってるな?」
「やだ!離してよ!」
「静かにしてろ!」

 後ろ手に抵抗を押さえ込まれた楓は痛そうに顔を歪めた。楓を人質に取った男の手にはナイフが光る。これではバーナビーも迂闊に手を出せない。こういう時こそ冷静さが必要だ。周囲を見渡し、その顔を確かめていく。いくつはすぐに思い当たった。中央で腕を組む男の鼻柱にガーゼが貼られているのを見て確信する。朝の散歩で出くわした男たちだ。

「……復讐のつもりですか」
「別に、ちょっと慰謝料をもらおうってだけだぜ?」

 先日は夜の酔いを引き摺っている様子だったが、今は隙無くギラギラと目を輝かせている。ダウンタウンを根城にして、日銭を暴力で稼いでいるような奴らだろう。しかも性質が悪いのは、バーナビーがNEXTと知り、対抗する手段を持ち出す程度の悪知恵を有することだ。

「僕が謝って有り金ひっくり返して黙って殴られていれば満足ですか?」
「よく分かってるじゃねえか。さすがヒーローアカデミーの秀才だな」
「そのためにわざわざ僕のことを嗅ぎ回って、仲間をかき集めてこんなところで待ち伏せしていたわけだ」
「何が言いてえんだ?」
「安い復讐だ」

 刺激しすぎると楓に危害が及ぶが、折れるつもりが毛頭無いことは相手にも伝わっているだろう。しかしできれば時間を稼ぎ、機を見たい。バーナビーの能力は5分間のみだ。タイミングを誤ることはできない。加えて、楓の腕のリングが発光しているのをバーナビーは見逃さなかった。さすがは虎徹の娘と言うべきか、肝が据わっている。いつの間に操作したのか、あれは万一の際に虎徹へ緊急信号が送られるPDAだ。虎徹が気づいて駆けつけて来れば心強い。

「しかもレディを盾にしてだなんて。恥ずかしくないんですか」
「てっめ……っ」

 鼻にガーゼを当てた男はリーダー格だ。バーナビーの挑発には乗らなかった。しかしどの世界にも血気盛んで思慮の浅い人間は居るもので、下っ端らしい男が飛び出してきた。重心を移動させて間一髪で拳を避ける。

「今のは変な動きじゃないでしょう。当たらなかっただけですから」

 相手が下っ端ということもあって、バーナビーの行動は他の奴らの興を買うことに成功したらしい。追撃も同じようにかわすが、そのままかわし続けるのには限界があるだろう。今は相手が一人だからこそ捌いていられる。しかし武器を持つ者もいる複数を相手に時間を稼ぐのは容易ではない。とにかくまずは楓をどうにかしなければ。一発ぐらいは殴らせて隙を作るか――と意を決したところで、黒い塊が風のようにバーナビーの目前を吹き抜けていった。

「なんだ!?お前!」
「キース!」

 楓の叫びで、下っ端の手首を掴むその背がキースだと初めて理解する。しかし理解はできても納得ができない。いつも彼と共にある、昼下がりの陽光のような呆れるほど呑気な雰囲気が微塵も感じられない。バーナビーに殴りかかろうとしていた男の腕は、いくらもがいてもピクリとも動いていない。

「あー、この前のいかれた日和野郎、」

 ガーゼの男の言葉は不自然に途切れた。バーナビーも口を開いたまま間抜けな沈黙を吐き出していた。キースが下っ端の腕を引き寄せ、その鳩尾に膝を打ち込んで伸したからだ。確かに体格はいいと思っていた。だが、暴力とはかけ離れたところにしか居ることのできない人間なのだろうと信じ込んでいた。それは全く反対の立場であるバーナビーとガーゼの男の唯一の共通点だったらしい。

「トモエ君の残したカエデ君と……コテツ君を元気にしてくれたバーナビー君。それがどれだけ大事か……君たちには分からないのかい……」
「は、はあ?」
「こ、このガキがどうなっても……!」
「分からないのか!」

 空気が震えるほどの大声に、男たち、そしてバーナビーでさえも完全に圧倒されている。その隙にキースは楓を拘束している男に肉薄し、手刀でナイフを落として楓を引き寄せ、足を払った上で襟元を支点に肩で男を背負い投げた。楓の小さな悲鳴で我に返ったらしい男たちがキースに向かう。バーナビーのことなど忘れてしまっているようだ。慌てて能力を発動させキースに近づこうとすると、ぶわりと風がバーナビーの前髪を持ち上げた。弾かれるようにキースから離れた楓を受け止める。能力を発動しているせいで一瞬では分からなかったが、風はキースから巻き起こっていた。キースの目がいつもとは全く違った光を鋭く宿している。瞬く間に風の威力は強くなった。ジャケットの裾がバタバタと揺れている。

「何だ……コイツ……!」
「コイツもNEXTなのか……!?」

 説明を求めるような視線が集まってくるが、バーナビーだってそんな話は一度も聞かなかった。ただ楓を吹き飛ばさぬよう、盾になるだけで精一杯だ。ハリケーンの渦中かと疑うような風圧が縦横無尽に空き地を駆け回っている。隣り合うビルの窓ガラスが割れ、塗装や木材、破片飛び交う。最早男たちの安否など分からない。ただひたすら楓のみに集中する。

「キース!」

 聞き慣れた声に顔を上げた。その途端、目前に飛び込んで来そうになったガラスの破片をなんとか避ける。虎徹だ。能力を発動させている。声も出せない様子の楓が、父の声を聞いてバーナビーに掴まる腕の力を強くした。

「キース……!クソッ……風で声が……!」
「虎徹さん!」
「二人とも無事だな!悪いバニー、楓は頼むぞ!」
「任せてください!」

 体勢を危うく崩しつつも、百倍の力で虎徹はキースに近づく。それをなんとか目端で追った。油断するとバーナビーも体勢を崩してしまう。

「キース!もういい!楓もバニーも吹っ飛んじまうだろ!」
「あ……」

 そこには、先ほどまでの別人のようなキースは居なかった。怒りも威圧も無い。迷子になった子供のように、途方に暮れた目で虎徹を振り返っている。泳がせた目をバーナビーに向け、顔を歪めて後ずさるが、風の威力は少しも弱くならない。

「コテツ君、風が……カエデ君と、バーナビー君は……風が」
「落ち着け!できるから!深呼吸しろ!手に持ってるものをゆっくり床に置くイメージだ!覚えてるだろ!?」
「ダメだ……!」
「クソ……ッ、分かった……!行くぞ!」

 勢いをつけて虎徹が無防備なキースに飛び掛る。低い位置からキースの鳩尾を狙った拳が深くキースに衝撃を与えると同時に、風がぴたりと止んだ。巻き上げられていた物がばたばたと雨のように降ってくる。気を失ったキースと、楓を抱えるバーナビーを虎徹はまとめて抱え込み、空き地を後にした。能力の切れたバーナビーは、ぐったりした楓をただ呆然と抱えているしかなかった。

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