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イン・ユア・アイズ



「ふいーあちぃー」

 タオルでごしごしと首元を拭いつつトレーニングセンターの休憩室の自動ドアをくぐる。汗で湿った空気をぴったり身につけてしまっているような不快感から解放されたくて、シャツをパタパタ伸ばして風を取り込む。一見、誰も居ないと思っていた休憩室には一人先客が居た。輝かんばかりの親しげな笑顔に苦笑を返す。

「やあ、ワイルド君!」
「一人か?スカイハイ」
「ああ。今日はタイミングが悪かったようだね」
「一人休憩室に居る私……寂しかった……ってな感じか?良かったなあ、俺が来て」
「ああ!大歓迎だよワイルド君!何か飲むかい?」

 現存する好青年という文字全てが現実世界で動いたら、恐らくみんなキース・グッドマンになるに違いない。茶化していることにも一切気づいた様子の無い爽やかな笑顔に、虎徹は思わず目を細めそうになった。目に見えない何かが眩しい。

「お前って……ホンットやり辛いな……」
「えっ、それは一体……」
「いやいや、こっちの話だから。それよりそれ、一口くれ」
「あ、ああ……」

 キースは虎徹の言葉を気にしつつも、素直に手の内のボトルを差し出してきた。キンキンに冷えたビール、などもちろんこの男のボトルに入っているわけもない。しかし乾ききった喉ならぬるいスポーツドリンクでもそれに匹敵する。

「っあー!生き返るぜ!」
「それは良かった!適度な休憩と水分補給が無ければ、効率的なトレーニングとは言えないからね。少し休んだら、また市民のためにトレーニング!そしてトレーニングだ!」
「うんうんそうそう、休憩は大事だ。そして大事だよな?だからしっかり休めるよう協力してくれるか。スカイハイ」

 ボトルを返却するついでに逞しい肩をポンポンと叩いた。不思議そうな表情を引き摺りつつも、キースは虎徹に笑顔を返している。

「ああ、もちろん!」
「いい返事だな!じゃあ頼んだぞ!」

 了承を得た瞬間に虎徹がキースの座るソファの後方にしゃがみ込むのと、休憩室のドアがスライドするのとはほぼ同時だった。間一髪、危ないところだ。ソファの背もたれに寄りかかりほっと息を吐く。

「虎徹さん、……居ないんですか」

 おかしいな、と続く不審げな呟きは虎徹が予想した通りの男の声だった。どこか鼻にかかった印象のある甘い声質が今や女子供に大人気、の虎徹の相棒である。

「スカイハイさん、虎徹さんを見ませんでしたか?さっきまでトレーニングルームに居たんですが……」

 さっき協力するって言っただろ、頼むぞー……!ソファ越しに念を送った。しかし全く通じている気はしない。キースは嘘がつけない性格だ。今更ながら助力を請う人間を誤ったような気もする。

「……何かあったのかい?」
「いえ、社の方から経理についての呼び出しがかかっていて。多分、賠償金関係の話だと思うんですが」
「……なるほど」

 思ったよりもキースの声に動揺はない様子だったが、バーナビーがあっさり事情を明かしてしまったせいで声に呆れが混じっている。名が先か体が先か、正真正銘のグッドマンにそんな声を出されると些細なことでも胸が痛もうというものだ。いや、逃げてるわけじゃねえぞ、と心の中だけで言い訳を始めたところでソファ越しに追撃される。

「相棒の君がここに居るんだ、あのワイルド君が逃げたり隠れたりするはずもないさ!」
「そう、だといいんですけど」
「ついでに少し休んで行ってはどうだろう。もしかするとここに彼が現れるかもしれない」
「……では、少しだけ」

 シューズがキュッキュと床を踏む音が近くなった。ズキズキと痛む良心を抱えたまま背もたれに貼りつく。キースにはきっと他意は無いのだろう。しかしそれは虎徹にとってあまりにも効果的な意趣返しだ。全く休憩できている気がしない。

「お疲れ様。そしてご苦労様だ」
「ありがとうございます。スカイハイさんも」

 バーナビーの声は随分柔らかい。デビューしたばかりの頃とは比較する気にもならない声だ。音だけ聞いているとそれが如実に分かる気がする。近況を和やかに報告しあう会話を図らずも盗み聞く体勢になってしまいつつ、虎徹は体の力を抜いて胡坐に頬杖をついた。つい口角に笑みが滲む。もしかすると相手に拠るものもあるかもしれない、と最近気づくようになった。しかしそれをアントニオやネイサンに遅いだの鈍いだの散々に言われたのは未だに不可解で不本意である。

「ワイルド君は相変わらずなんだね」
「全くです。少し目を離すとすぐに居なくなって。……困ったり、苦しんでいたりしている人のところに駆けつけているんです」

 後頭部の髪をガシガシと掻き分けた。バーナビーの態度は以前よりずっと軟化しているが、互いに互いをどう思っているか面と向かって聞く機会はなかなかない。もちろん取材でそういう質問が組まれることは多々あるが、ファンを意識せずなんの飾りもないその言葉に妙に照れる。そして益々出難くなった。悪い、虎徹は無音で両手を合わせる。

「なるほど。だから君はいつもワイルド君を探しているのか……」
「え?」
「そういう彼を、一番に見つけたいんだろう?」

 とうとう我慢できず、そろそろと背もたれの向こうに視線を飛ばした。目を丸めるバーナビーはそれを覗き込むキースの顔を凝視しているが、後方の虎徹は目に入っていないようだ。おお、案外気づかねえもんだな。

「た……ただ、目が離せないだけですよ。僕の予想や常識なんて全く通用しない人ですからね。見てないとヒヤヒヤするんです。まるで自分のことを顧みていませんし」
「では、私は?」

 今度は虎徹までバーナビーと共に目を丸めてしまった。キースの言葉はしばしば唐突だ。バーナビーは辛抱強く続きを待っていたのだろう。だがキースが何も言葉を加えようとしていないことを悟り、迷うように口を開いた。

「……スカイハイさんが、何ですか?貴方は見ていてヒヤヒヤすることなんてありません。むしろ安心しています。この人なら見ていないところでもやってくれていると……」

 キースの両手が伸びて、バーナビーの顔の輪郭を覆った。それだけで部屋には三者三様の沈黙が降りる。バーナビーの首はキースの真正面に丁寧な手つきで固定された。

「あの……スカイハイさん?」
「でもね、バーナビー君」

 真摯な声だ。キースの声に誠実さが含まれていない時はほぼ無いに等しいが、いつも以上の濃度で真剣味が含まれているように思える。虎徹の角度からではその表情までは覗えない。

「でも……君に見ていられたら、私は嬉しいんだよ」

 バーナビーはぽかんと、間抜けな顔でキースを見ているだけだ。シュテルンビルトに溢れるバーナビーのファンがこれを見ればどう思うやらだ。しかし虎徹も人のことは言えなかった。早々に頭を引っ込めて聞かないフリを徹するべきだったのか。今更体は動かない。いつまでこの膠着状態が続くのか、そう思った時だ。

「それに、私を見ていればきっと、新たな発見があるはずさ!」

 キースの声がいつもの調子に戻った。その途端、怪訝げに視線を彷徨わせたバーナビーと目が合ってしまった。思わず身を引いたがもう遅いことは分かりきっている。愛想笑いを浮かべつつ、両手を挙げてゆっくりと立ち上がった。じっとりとしたバーナビーの視線と、嬉しげなキースの視線から逃れるように目を逸らす。謀ったな、スカイハイ。

「ご協力感謝します、スカイハイさん」
「どういたしまして!そして感謝は無用さ!スカイハイは正義のヒーローだからね!」
「おい!俺だって正義の壊し屋だぞ!」
「今は賠償金処理から逃れようとしているただの壊し屋でしょう」

 ひとつ大きなため息を吐き出してバーナビーが首を横に振った。行きますよ、とのお言葉に渋々頷く。キースとそれぞれ別れの挨拶を交わしつつ休憩室を出た。キースはいつもと何ら変わりない爽やかな笑顔だった。

「手続きが面倒なのは分かります。貴方に悪気が無いことももちろん分かっていますが……」
「分かってるよ。悪い悪い、ちょっと休憩してただけだって」

 確かに事務仕事はあまり好きではないが、ほんの遊び心のつもりだったのだ。それがなんだか妙なものを目にすることになってしまった。スタスタと足を運ぶバーナビーをのらりくらりと追いながら、キースの言葉を反芻してみる。

「なあ……あれって……どういう意味なんだろうな」

 ピクリ、バーナビーの肩がわずかに動いたのが分かった。あの言葉の正面に居たのは、その表情を見ていたのはバーナビーだけだ。虎徹以上に気になっているのは当然だろう。廊下を歩む速度が少し遅くなる。

「彼が冗談や嘘であんなことを言う人ではないことは確かです」
「まあそりゃあ、アイツだしなあ……」
「ただ……」
「ただ?」
「フェアじゃない」

 短く断ち切られた言葉と硬い声質におや、と思った。足を早めて顔を覗き込むが、バーナビーはそれから逃れるようにへの字口で眼鏡のブリッジを押し上げている。

「拗ねてんの?」
「何言ってるんですか。大体、突然すぎるんですよ。あの会話の流れで……おかしいでしょう。僕はそういうつもりじゃ、」
「ああー……照れてんのか」
「照れてません!」

 どちらのことも虎徹はまあそこそこ知っていて、どちらも悪くない人間だと思っている。どう転んでも悪くはないかと、それ以上からかうのはやめにしてやった。今なら面倒なデスクワークも少しは捗る気がする。

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